特集:鹿島本社ビル&鹿島赤坂別館が竣工

新しい本社ビルの完成に寄せて 最高相談役 鹿島昭一
最高相談役 鹿島昭一 このたび,新本社ビルと新赤坂別館が竣工し,分散していた本社機能の集約・再配置が行われました。旧本社ビルは第一棟が昭和43(1968)年,第二棟が昭和46(1971)年の竣工ですから早くも40年近い年月が経過しています。
 この間,日本経済の消長と共に我社の業容は拡大し,また,都心部の景観も著しく変貌しました。第一棟が完成した当時,三井霞が関ビルとの間には遮る高層建築は無く,今とは全く違った眺望でありました。

 顧みますと,160年を超える我社の歴史の中で,事業の拡大に伴い,本社事務所は次のように変遷してきました。
 創業の頃の江戸中橋正木町(現 中央区京橋)から,洋館建築への進出に伴い横浜に本拠を移し,明治13(1880)年,鉄道土木への転進に際しては京橋区木挽町(現 中央区銀座)に戻ります。関東大震災後,区画整理により南大工町(現 中央区八重洲)に用地を取得し,昭和4(1929)年,同地に本社ビルが建設されました。現在の八重洲ブックセンターの場所です。
 昭和22(1947)年,社名を「鹿島建設株式会社」と改め近代的な企業組織へ移行し,本社機構の拡大と共に社員も増加していきます。昭和30年代半ばには都内十数か所に分散したこともありました。
 こうした状況下,本社ビル建設の機運が高まり,昭和43(1968)年,赤坂見附の地に旧本社第一棟を建設し移転しました。当時,高度経済成長の進展により,経済合理性を伴った近代的なオフィスビルの需要が高まり,この市場ニーズを念頭において設計が進められました。
 スキップストップエレベータの採用,各階に設けたコミュニケーション用の小ラウンジ,ヴァーチカルコンベアによる文書搬送などは,当時として新しいオフィス空間の試みと言えます。
 第二棟は,暫く様子を見て建設する計画でしたが,社員増加は著しく,直ちに工事に着手して3年後の昭和46(1971)年に竣工します。その後,約20年を経た1989年には,日大三高跡地に本社第二ビルとしてKIビルが建設されました。

 今般,旧本社ビル・旧赤坂別館の老朽化と,それぞれの隣地で新たな業務用ビル建設の環境が整ったことを契機として,本社機能の集約と再配置が計画されました。
 計画に際しては,今日の経営課題である,少人数で効率的な管理機構の構築,部門間の相乗効果の発揮,環境変化に迅速に対応できる柔軟性,ムダを排した経営全般にわたる効率性が考慮されています。
 オフィス空間の設計においては,パーソナルコンピュータ中心のワークスタイルへの変貌が重視されました。このため,各フロアは極力間仕切りを廃してオープンな空間とすると共に,個々の執務机はパーティションで仕切り独立性を高めています。
 また,スペース利用の柔軟性と効率性の観点から,規格を統一し,モジュール化した家具レイアウトと電子化によるペーパーストックレスの推進が採用されました。併せて,セキュリティシステムや免震技術による安全性の向上と,各種の省エネルギーシステムを活用した環境負荷の低減が図られています。
 新本社ビルには管理部門と営業本部が入居し,新赤坂別館には土木・建築の技術部門と分散していた海外,開発,環境,エンジニアリング部門を集約しました。新赤坂別館とKIビルはブリッジで結ばれ,両ビルに結集した技術部門と事業部門は,集積の効果により,一層の組織横断的な総合力発揮が期待されます。

 旧本社ビル跡地は,経営基盤の安定に資するよう有効に計画していきたいと考えています。今回の本社機能の集約・再配置が役員・社員の皆さんの創造性と業務の効率性を高め,もって我社のさらなる発展に繋がることを願ってやみません。

 新しい本社ビルの完成に寄せて
 コンセプト―次世代ワークプレイスの追求
 適用されている環境設備の新技術
 こうして行われた大規模な移転
 本社の変遷