特集:関東大震災を知る |
study1 史上ワースト1の自然災害 |
警告されていた大火災 1923年9月1日,土曜日。前夜からの風雨が収まって陽射しも出はじめ,まもなく正午になろうとしていた。11時58分32秒。神奈川県西部から相模湾,さらには千葉県の房総半島の先端にかけての地下で断層が動きはじめた。関東地震のはじまりである。 東京中心部が揺れはじめたのは11時58分44秒ごろ。昼食時の火の使用と重なって,倒れた家屋から各地で出火し,東京と横浜は大火災に見舞われることになる。 大火災の拡大は,当日の気象状況にも原因があった。図1に示すように,能登半島近くに弱い台風があり,地震発生時刻には関東地方でも相当の強風が吹いていたのである。 東京の延焼の模様を示す資料が図2だ。地図を右上から左下に流れるのが隅田川である。黒く塗られた部分が延焼区域だが,地震発生1時間後の午後1時には隅田川の両岸に点在する程度であった。ところが時間の経過とともに火勢は拡大していき,翌日午前3時には東京の下町の大部分が炎に呑み込まれていた。 こうした火災被害については,じつは関東地震の以前から警鐘が鳴らされていた。当時,東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授と今村明恒助教授のふたりは,東京で地震が起こればあまり強い揺れでなくとも,水道管が破壊されて消火活動の大きな障害となり,大火災が発生する危険性を警告していたのである。 ふたりは長年にわたって当局に対策を迫ってきたが,具体的な対処のないままに関東地震を迎え,警告が的中する結果となった。火災が完全に鎮火したのは,地震発生から丸二日経った9月3日午前10時ごろといわれる。地震と火災をあわせた犠牲者は,旧・東京市15区だけでも6万6,000人に達した。 |
関東地震による災害の多様性 大火災による被害が伝えられることの 多かった関東地震。 しかし,火災以外にもさまざまな災害が発生し, 甚大な被害を引き起こした。 津波,山崩れ,そして地震の激しい揺れによる 建物の倒壊やインフラの損傷……。 被害の様子を当時の記録写真で追ってみたい。 ここで紹介する写真と「体験談が語る双子地震と3度の揺れ」の写真は, 伯野元彦先生(攻玉社工科短期大学学長,元・東京大学地震 研究所所長,東京大学名誉教授)のご了承を得て, 同先生著『被害から学ぶ地震工学――現象を素直に見つめて』 (鹿島出版会)から転載したものです。 |
火災だけではなかった犠牲者 大火災による空前絶後の犠牲者を出した関東地震。表1は明治以降の地震被害の「ワースト20」をまとめたものである。関東地震の犠牲者が群を抜いて多いことは一目瞭然だ。では,もし大火災が発生しなければ,被害はどの程度まで減少できたのだろうか? じつは,火災以外にもさまざまな災害が発生していた。Photo Albumの写真は,その一端を伝えるものである。 まず,地震の揺れによる建物被害は,倒れた建物が瞬く間に炎に呑み込まれたため,これまでは解明不可能と思われてきた。しかし当時の東京市の警察署では,地震発生直後,火災が広がる前に建物被害の克明な調査を素早く実施していたのである。 これらの記録も含め,被災地全域における犠牲者の死因を推定したのが表2だ。家屋の下敷きによる犠牲者は1万人以上。1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)の総犠牲者数,約5,500人(地震直後の累計)と比べただけでも,その被害の大きさが想像できるだろう。 また,関東地震による津波は,地震発生後の数分以内に陸地に到達し,伊豆半島東岸から相模湾,房総半島沿岸を襲っている。鎌倉の由比ヶ浜海岸で約100人,藤沢の江ノ島桟橋で約50人が行方不明になった記録もある。近年,津波被害でクローズアップされた日本海中部地震(1983年)や北海道南西沖地震(1993年)に匹敵する犠牲者だ。 さらに,山崩れも各地で発生し,現在の神奈川県小田原市の根府川付近を中心に約800人が命を落とした。土砂災害として明治以降最大である。 図3のように広範にわたって犠牲者を出した関東地震。その要因となったさまざまな災害は,どれも“超一級”の規模であった。大火災の陰に隠れて火災以外の災害状況はあまり知られていないが,もし台風がなく,消火設備が完備され,昼食時に発生しなくても,史上最大級の自然災害となっていたのである。 |
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