特集:関東大震災を知る

study2 3度揺れた首都・東京
双子地震と3度の大揺れ
 冒頭で紹介したように,関東地震の際に東京では3度の大きな揺れがあったという証言は数多い。しかし大正末期の当時は,地震発生のメカニズムは分かっていなかった。いわゆるプレートテクトニクス理論が確立され,震源が地下で動く断層であることが確認されるのは,1965(昭和40)年ごろのことである。
 これまでの当社の研究による結論からいえば,3度の揺れのうち,最初が本震,あとの2回は余震である。そして本震は,ふたつの大きな断層の滑りが短時間に連続した「双子地震」であった。
 本震の双子地震とは,最初の大きな断層の滑りが神奈川県の小田原の直下で発生し,約10〜15秒後に三浦半島の直下で2度目の大きな滑りが起こったと考えられる。ふたつの滑りによる揺れの差を感じたのは震源の近くで被災した人々だけだ。最初の滑りの真上にあたる小田原ではいきなり上下動をともなう激震に見舞われ,2度目の滑り地点に近い藤沢の小学校では,やや緩い揺れがしばらく続いたのちに,校舎が瞬く間に倒れるほどの激しい上下動をともなう揺れが襲ったという。
 一方,震源から離れた東京では,双子地震の本震を30〜60秒にわたる“一度目の揺れ”として感じたことになる。そのあとに2回の余震の揺れを感じたため,都合“3度の揺れ”を感じる結果となったのだ。1回目の余震の揺れが,本震以上だったとする体験談もあるほどだ。ところが,地震計の針が本震ですぐに振り切れて余震を記録できなかったものが多く,3度の揺れが解析されない原因となってきた。
 今回の研究で全国の記録を調査した結果,岐阜測候所の上下動の地震計が,図1に示すように,本震と2回の余震を区別して完全に記録していることが判明した。この記録とさまざまな資料や体験談を分析し,2回の余震の震源を推定したのが図3である。
 震源の規模を示すM(マグニチュード)でいえば,長さ130kmもの巨大な断層面でM8クラスの本震が双子地震で起こり,その3分後にM7クラスの大余震,さらに1分半後にM7クラスの大余震が再び発生したことになる。その度に関東各地は強い揺れに見舞われ,断続的に5分間の激震が襲った──これが関東地震の揺れの正体であった。
関東地震の本震と余震の記録
兵庫県南部地震(阪神大震災)の震度分布
関東地震の震度分布および本震と余震の震源
広大な激震域と大余震群
 火災だけでなく,多くの人々が家屋の下敷きとなって亡くなった関東地震。大きな建物被害を出した原因は,建物の耐震化が進んでいなかったこともあるが,震度7の激震域があまりにも広範囲に及んだことにもよる。
 巨大な断層面が滑った関東地震では,激しい揺れに見舞われる地域を拡大した。図2に示したように,兵庫県南部地震の震度7の範囲と比べると,その差は面積にして10倍以上だ。兵庫県南部地震では,震度7に見舞われた地域からわずか20km足らずしか離れていない大阪で,地震発生直後からほぼ平常どおりの生活が続行でき,被災地の救援活動を大きく助けている。
 一方,関東地震における震度7の地域は,本震の震央となった小田原から鎌倉にかけての相模平野一円,さらに房総半島南部へと広がっている。こうした被災地の広大さが救援活動の障害となり,被害を一層拡大したと考えられるのである。
 さらに,余震の規模も関東地震は特筆に価する。本震直後にふたつの大きな余震が発生したのはさきほど紹介したとおりだが,その後の余震活動も活発であった。今回の研究の結果,合計6回に及ぶM7クラスの余震があったことが判明している(表1)。どれも兵庫県南部地震の本震のM7.3に匹敵する規模だ。
 関東地震のようなM8クラスの大地震では,M7クラスの余震の発生はそれほどめずらしいことではない。しかし図4に示すように,関東地震は大規模な余震の数という点でも群を抜いている。
 こうした特徴は,関東地震を引き起こす地球規模でのメカニズムに支配されている。その構造が変わらないかぎり,将来ふたたび関東地方で大地震が発生すれば,大規模な余震活動が再来することも十分に考えられる。大地震のあとには“揺り返し”に注意しろ──関東地震はとくに余震に注意が必要な地震だったのである。
関東地震におけるマグニチュード7以上の余震とその影響
マグニチュード8クラスの歴代の地震における余震活動の比較
体験談が語る双子地震と3度の揺れ



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