特集:YOKOHAMA BAYSIDE STORY 〜開港150周年の「ミナト・ヨコハマ」を歩く〜
ヨコハマ・ベイサイドめぐり 【山下地区】
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 「横浜大さん橋」には,開港後の居留地時代に西波止場(イギリス波止場)があった。新しい国際港「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」(第2工区・2002年)は,観光シーズンには7万t級のクルーズ船が寄港する。
  その先にミナト・ヨコハマのシンボル「横浜ベイブリッジ」(主塔基礎など2基・1988年)の優雅な姿が見える。横浜貿易港の中核をなす大黒埠頭と本牧埠頭を結ぶ全長860mの斜張橋で,約6年半の工期で竣工した。海面からの高さは55m。中央のスパンは460mあり,超大型客船も悠々通過できる。大黒埠頭の先に「鶴見つばさ橋」(1994年)が連なる。
  大さん橋入口の開港広場に面して「シルクセンター国際貿易観光会館」(1959年)がある。その中にシルク博物館が併設されている。開港後の横浜発展の歴史を辿る時,生糸や絹織物貿易が果たした役割は大きい。問屋や外国商社が集まり,その盛況振りが国際色を一層高めた。当時の新聞は「横浜市内建物では高さ,内容とも随一」と記している。
  シルクセンターの建つ場所にあったのが,開港とともに横浜に進出した鹿島岩吉が最初に手がけた「英一番館」(1860年)である。居留地の最重要地で,横浜一の外国商館として知られた。木造石張り2階建て。洋風建築の華麗な容姿と色彩で人目を引いたという。
  岩吉は続いて隣接地に「アメリカ一番館」の建築を請け負い,さらに多くの異人館を建てた。シルク博物館入口に,「絹の女」像と養蚕ゆかりの桑の木とともに,「史跡英一番館跡」の碑が建つ。
  山下公園は,大さん橋と山下埠頭の間の約700mに開かれたシーサイドパーク。公園中央付近には居留地時代に東波止場(フランス波止場)があった。関東大震災後の復興計画で造園が始まり,被災地の焼土や瓦礫が海岸埋め立てに充てられた。現在の公園は美しく整備され,「赤い靴はいてた女の子像」など様々な記念像が点在する。「西洋理髪発祥の地」の記念碑などもある。
  公園に面して建つ「ホテルモントレ横浜」(当時「ザ・ホテルヨコハマ」)は1979年の竣工である。近くには「産業貿易センター」(1975年)や「ワークピア横浜」(1994年)などがある。公園東端の駐車場地下に設置された「山下ポンプ場」(2006年)は,関内・山下地区の雨水耐水池としての役割を担う。
  マリンタワーや氷川丸の後背地には,老舗の「萬珍樓本店」(2003年)など華やかな中華街が広がる。地下鉄みなとみらい線の終点「元町・中華街駅」に直結して,高さ約90mの威容を誇るのは,当社が開発を手掛けた25階建ての高級超高層マンション「横濱ディアタワー」(2003年)だ。

横浜港大さん橋国際客船ターミナル
ワークピア横浜
シルクセンター国際貿易観光会館
ホテルモントレ横浜
横濱ディアタワー
産業貿易センター
英一番館跡
萬珍樓本店
横浜と私・・・・・・・・・・・・中華街の老舗「萬珍樓」の復活をお手伝い
設計部のデスクで
横浜支店 建築設計部 技術長 松尾貴史
 2002年5月,横浜中華街の老舗中華料理店「萬珍樓本店」で火災が発生しました。中華街の三大樓(萬珍樓・華正樓・聘珍樓)として知られる名店の焼失は,横浜支店でもファンが多かっただけに,皆ショックを隠せない様子だったのを覚えています。一方私は,入社3年目に横浜支店建築設計部に異動して以来,敷居が高くて一度も暖簾をくぐることなく10年の月日が経っていました。萬珍樓の味と伝統ある建物をウォッチすることが出来なかったことが悔やまれました。
  火災から2ヵ月後,萬珍樓建替え計画のコンペに応募することになりました。かつての萬珍樓を経験することが出来なかった分,自分で新たな名店を創り上げてみたい!という思いで設備設計の技術提案を検討。ランニングコストが安価になるガスを熱源とした空調計画を提案しました。萬珍樓社長から伺った後日談ですが,この空調コスト提案がコンペ落札の決め手のひとつになったそうで,非常に嬉しく思いました。
  鹿島初の横浜中華街での仕事に携われたこと,中華街の名店の再建事業に関わることができたことは,私の職務経歴の中でも感慨深い仕事となりました。今でもゴールデンウィーク,盆・暮れなどの繁忙期前には店舗に行き,設備の状況などを確認し,アフターフォローをしています。
横浜と私・・・・・・・・・・・・横浜ベイブリッジは土木屋人生の原点
横浜ベイブリッジをバックに
ケミカルグラウト 東日本支社 横浜営業所 所長 平野敏則
 今年9月で,横浜ベイブリッジは開通20周年を迎えます。横浜のシンボルとなったこの美しい斜張橋を眺めるたびに,世紀の土木構造物の建設に携わることのできた喜びと,当時の仲間たちを思い出します。
  33歳の時,横浜ベイブリッジ下部工現場に設計主任として赴任しました。建設地点は支持地盤である土丹層が深く起伏に富んだ複雑な地層だったため,当時世界でも施工例のない「多柱式基礎」が採用されました。新技術へのチャレンジに,現場では勉強会・周知会を随時開催し,解らないことは社内組織の支援を仰ぎながら,チーム一丸となって知恵を出し合い工事を成功へと導きました。当時,現場は30代前〜中半の社員が中心。皆年齢が近かったということもあり結束力が強く,昼夜を問わず議論したのを思い出します。
  横浜ベイブリッジの建設は,私の土木屋人生の原点になりました。このプロジェクトで培った経験とノウハウは,鶴見つばさ橋基礎工事,東京ガス扇島工場海上工区シールド工事など,横浜支店を代表する工事へと活かすことが出来ました。
  横浜は,これからも発展を続ける街です。土木屋として,鹿島を背負っていく後輩の皆さんへ,少しでも私の経験と技術を伝えていくことができればと思っています。
 ヨコハマ・ベイサイドめぐり 【みなとみらい地区】
 ヨコハマ・ベイサイドめぐり 【山下地区】
 ヨコハマ・ベイサイドめぐり 【関内地区】
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