特集:創業170年記念 鹿島紀行特集
第1話 恵比島駅 〜2度脚光を浴びた北海道の小さな駅〜
MAP  JR留萌本線恵比島駅(北海道沼田町)は,1910(明治43)年の国鉄留萌本線深川〜留萌間(50.1km)の開通に伴い開業した。いまは小さな無人駅だが,過去に二度,スポットライトを浴びた。
 最初は昭和初期の頃である。1930年10月に同駅を起点とする留萌鉄道炭鉱線が開通し,石炭と炭鉱に働く人の中継基地になったことによる。炭鉱線は,恵比島駅と昭和駅を結ぶ総延長17.6kmの路線である。これにより雨竜炭田に鉱区を持つ昭和鉱業と浅野炭鉱は,豊富な石炭(浅野雨竜炭鉱・太刀別炭鉱・昭和炭鉱)を,恵比島駅経由で留萌駅に搬送し,直接留萌港の石炭桟橋から船積みできることになった。
       
 1928年春のことである。留萌町の有力者,五十嵐徳太郎氏が鹿島組札幌出張所に菅野忠五郎を訪ねてきて,「近く恵比島駅を起点とした炭鉱鉄道と,留萌港に石炭桟橋を築造して,石炭を搬出する計画がある」という。菅野は素早く動いた。創設されたばかりの留萌鉄道の専務石井良一氏に,留萌鉄道建設の特命契約を願い出たのだ。
 程なく石井氏の内諾を得る。「請負契約は競争入札せず,鹿島組の提出見積が予算内であれば施工を委託する」というものである。わが国の請負史上画期的な契約提示だった。鹿島組は現場を精密に調査して見積書を提出。その年11月,対等の紳士協約ともいうべき契約が締結された。当時としては異例の半ば「実費精算の責任施工請負形式」による特命工事で,請負業の社会的信用という点でも業界の注目を集めた。
 土工量30万m3,橋梁,暗渠などの構造物のほか,駅舎,駅員社宅などの一切を含む工事だった。これを鹿島組はほぼ2年間で仕上げた。
 その後留萌鉄道炭鉱線は,炭鉱閉山に伴い1969年に休止。1971年に廃止された。恵比島駅は再び留萌本線の静かな駅に戻った。
        
 恵比島駅は,1999年4月から放送されたNHKの連続テレビ小説「すずらん」の舞台になったことで,もう一度脚光を浴びた。ただしドラマの駅名は「明日萌(あしもい)」。ヒロイン「萌」とローカル線駅長を務める育ての親「次郎」が,この駅でドラマの前半を演じた。
 なぜこの恵比島駅に白羽の矢がたったのか。JR東日本の広報誌「JR EAST」1999年5月号に,「すずらん」をプロデュースしたNHKの一井久司さんへのインタビュー記事が載っている。
 《北は網走から、南は函館までロケハンし、北海道のいろいろなところを見て歩きました。そこで出会ったのが、沼田町にある留萌(るもい)線の恵比島(えびしま)駅です。(略)そこにわれわれが立ったとき、不思議な予感がしたんです》
 《沼田町の町史を見せていただいたら、昭和初期の恵比島駅の写真が一枚出てきたんです。そのころは、近くに炭鉱が栄えていて、ものすごくにぎわっていました。その写真を見た後に、現在の何もない駅に立ったところ、当時の人々の行き来や、町のにぎわいが浮かんでくるような気がしたのです。過去と現在の間を流れる歳月の中に、時代の浮き沈みや人々の生きざまを見たように思いました》
 こうして恵比島駅は,実直な鉄道員気質を描くのにふさわしい舞台として選ばれた。駅のセットは,大正から昭和にかけてのかなり大きな駅を,昔の写真を参考にして作り上げたという。これを機に恵比島駅,いや明日萌駅はたくさんの観光客で溢れた。
「あしもい」と「えびしま」が併記されたホームに2両編成のディーゼルカーが着く
 2両編成のディーゼルカーがホームに着く。駅名板は「あしもい」とある。その後方の電柱に小さく「えびしま」の名前が見えた。ホームに降り立つ人も,列車に乗り込む人の姿もない。「明日萌驛」と掲げられた木造駅舎は錠で閉ざされていた。隣に建つ貨車を改造した待合室付きの小さな建物がJR留萌本線恵比島駅の駅舎である。
 ホームの駅名板も木造駅舎もロケで使われたものという。駅前に建つ「中村旅館」を始め数軒の古びた木造建築もドラマのセットだ。昭和初期にタイムスリップしたような光景が広がっていた。駅から伸びる真っ直ぐで何もない一本道と駅前の古びた木製電柱――。それもドラマの舞台の決め手になったと沼田町役場の荒川幸太広報官から聞いた。いま恵比島駅を発着する列車は1日に上下合わせて16本である。
「すずらん」のロケで使われた「明日萌驛舎」はいまも健在。右側が恵比島駅舎
「明日萌驛」の出札口。「ようこそ明日萌へ」のポスターがあった 2008年9月,恵比島駅に賑わいが戻った。「すずらん」放映10周年を記念したイベントが開催され,ドラマの出演者や地元住民,ファンらが当時を懐かしんだ(沼田町役場提供)
「駅から伸びる真っ直ぐで何もない一本道」もドラマの舞台の決め手になった
「すずらん」の撮影は多くの見物人で賑わった(沼田町役場提供)
沼田ダム近くにあるポロピリ湖記念公園 留萌鉄道炭鉱線の跡はどうなっているのか。車で辿ってみることにした。当時の地図と今の地図を照合しながら北上する。だが路線の痕跡はない。幌新駅があった付近を過ぎ,やがて沼田ダムが見えてきた。堰堤の先にポロピリ湖記念公園がある。炭鉱線の一部はダム築造により水没した。公園には炭鉱で栄えた頃の町や地図を示した説明板があった。
 ポロピリ湖畔沿いを走る。炭鉱施設を探すが,夏場に育った樹木に阻まれて見つからない。そんな時,ダム堆砂量調査の測量をしていたエヌユーコンサルタントの田中三津治さんに出会った。廃墟の場所を知っているというので,案内してもらう。
 ガードレールを越えて湖の方向に歩いていくと,鬱蒼とした樹木の奥に建物の骨組が見えてきた。手前に石炭を一時貯蔵するための漏斗状の装置(ホッパ)がある。躯体の端に蔦が絡みつき,時の経過を感じさせる。その奥にはL字型の躯体。目測だが高さ8m,長さ20m以上はある。廃墟とはいえ,なかなかの存在感だ。歴史を語る壮大な「遺跡」のようにも思えた。
 さらに行くと,2つの躯体,奥に横長の施設跡が見えた。田中さんによると,大半は数年の間に崩れてしまうでしょうという。この施設群で,各坑口から産出された石炭を集積し,炭鉱線に繋ぐ支線貨車に積み込む作業をしていたのだろう。
 町役場の荒川広報官の話では,今回見た浅野雨竜炭鉱の選炭施設よりもさらに奥に昭和炭鉱の跡地があり,当時の住宅棟や商店街などが樹木の中に朽ちながら残っているという。現在は私有地となっており,入ることはできなかった。
鬱蒼とした樹木の中に点在する炭鉱施設の躯体。壮大な歴史を語る遺跡のようにも見える
 沼田町社会福祉協議会長をしている松田眞一郎さんに会った。松田さんは終戦後の1946年,中学2年の時に中国・天津から沼田町の昭和地区へ引き揚げてきた。天津の華北交通の鉄道員だった父は,昭和炭鉱で石炭を運ぶ列車の機関士になった。
 「炭鉱線は,旅客車両に貨物車両を繋いでいました。全部の炭鉱をあわせると1万人以上の人が住んでいたから,炭鉱町から通学する学生や買い物客,行商人たちで,恵比島駅は大いに賑わった」。ドラマ「すずらん」では中村旅館だが,当時駅前には黒瀬旅館や食堂があり,繁盛していたという。
 松田さんは,深川にある昭和炭鉱の寮から近くの中学・高校へ通い,週末は炭鉱線で昭和の家に帰った。「山の中腹に建つ木造の4軒長屋でした。トンネルの中に『昭和マーケット』があって,食料品から生活用品まで18の店が軒を連ね,いつも繁盛していたのを覚えています」。
 1954年,昭和地区の昭和小学校に教師として赴任した。12学級あり,500人近い生徒がいたという。やがて炭鉱の閉鎖を迎える。別れを惜しむ会が夜毎行われるようになった。
 2003年に当時の教え子が,失われた炭鉱町を懐かしみ,「ふるさと『昭和』から頂いたもの」(佐藤龍子編)と題した冊子を発行した。「これを読めば昭和炭鉱の街の様子は全部わかります」。学校,病院,旅館や飲食店,劇場などの娯楽施設。集会所ではダンスパーティも開かれていた。炭鉱町がひとつの都市として機能していた様子がわかる。冊子の最後には「私のふるさと・昭和 いっぱーいありがとう!」と,故郷への感謝の気持ちが綴られていた。
 「私が初めて恵比島駅に降り立った時,雪の多さに驚いたものです。でもこの周辺地域はいま,雪を農作物の貯蔵や冷蔵に活用する取組みなどで,注目されるようになりました。時代は移り変わりますが,故郷を懐かしみ,愛する気持ちはみんなと同じです」という松田さん。恵比島駅に再び光を当てたドラマ「すずらん」には,エキストラで登場している。
 鹿島組の菅野忠五郎は,炭鉱線とともに,留萌港岸壁と石炭桟橋築造工事も1929年夏に特命受注した。北岸に長さ430m,南岸に290mの岸壁を施工。これに沿ってコンクリート桟橋を建設し,留萌駅から線路(北岸線・南岸線)を敷設するものだ。さらにブリッジクレーン,ポータブルコンベア,デリッククレーンなどの荷役設備を整えた。
 この工事も1932年に竣工した。菅野忠五郎編の「鹿島組史料」によると,当初契約は約30万円だったが,その後の設計変更や留萌港の岸壁用コンクリート桟橋工事などを含めると約120万円。当時北海道,東北における最大の工事だったという。
 留萌駅と留萌港を結ぶ石炭積み込み用の路線も,1941年に国鉄に買収されて留萌駅の構内側線となった。鹿
昭和炭鉱住宅街(沼田町役場提供) 閉山直前の昭和炭鉱選炭場(沼田町役場提供) 往時の炭鉱線太刀別駅(沼田町役場提供)
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 第1話 恵比島駅
 第2話 登呂遺跡

 第3話 明善と岩蔵
 第4話 鹿島精一記念展望台
 第5話 赤穂と吉良