特集:創業170年記念
鹿島紀行特集 |
終戦直後の当社の経営を支えたのは,駐留軍の発注工事と塩田工事だった。戦後の塩不足,特に工業塩の不足は深刻で,政府は国策として製塩事業を奨励したのだった。 この頃の製塩はほとんどが入浜式で,増産には大規模な塩田開発が必要になる。鹿島守之助社長(当時)は,古くから製塩の盛んな播州赤穂に近い兵庫県半田村(現・たつの市揖保川町)の出身で,その辺の事情に明るかった。 塩田研究所をつくり,1946(昭和21)年1月に播州塩業を子会社として発足させる一方,高松に四国出張所を設けて塩田工事の受注と施工に乗り出した。三井物産西条飛行場塩田化工事,赤穂西浜塩業組合の塩田・工場などの工事を次々に受注し,繁忙を極めた。その年5月の内部資料によると,受注工事量の77%を駐留軍と塩田の工事で賄ったという。 塩田ブームは1949年に外国塩の輸入が再開されるまで続いた。播州塩業は創立後4年で解散した。 |
愛知県吉良町の白浜吉田塩田は県内最古の塩田である。1564年,白浜に塩田が開削されて発展し,江戸期以来の伝統的な入浜式製塩が行われていた。 1953年に当社に入社し,名古屋市熱田区の橋梁工事に従事していた小島好巳さんは,同年9月の台風13号で壊滅的な被害を受けた白浜吉田塩田の改良復旧工事を命じられた。対象の塩田は,吉良町と一色町に跨る愛知塩業組合管下の白浜,本浜,実録(みろく)浜など95.28haである。 小島さんが目にした塩田は惨憺たるものだった。「排水路は水没して一面水浸し。塩水の濃縮度に応じて蓄積する鹹水(かんすい)槽が放置されるなど,荒れ放題でした」。泥と水との闘いが始まった。基盤造成には沖合で採取した海底粘土を使った。排水路を整備し,塩田の水抜きをするが,超軟弱地盤に機械が使えない。「湿地専用キャタピラを装着したブルドーザの重量にも耐えなかったのです」。 当初は人海戦術だった。しかし効率は上がらない。工期確保のため機械作りが始まった。遊園地の子供自動車をモデルにした自走ローラー,鍋トロ台車にエンジンを搭載した軽量機関車などを,試行錯誤で考案した。粘土盤整形のための鉋鍬も導入した。塩田に勾配をつけ,送水樋を設け,鹹水槽を設置する。流下式塩田化への造成工事と製塩工場建設は,1957年春に完成した。 |
「土木屋はアイデアが出ないと務まりません。現場では作業に最適な工具や機械を自ら考え,作り出すのです。土木の原点を学び,実践できた現場でした」。小島さんは,粘土相手の2年間をそう振り返るのである。1990年に退職。いまは京都府八幡市に住む。 |
|
■ 第1話 恵比島駅 ■ 第2話 登呂遺跡 ■ 第3話 明善と岩蔵 ■ 第4話 鹿島精一記念展望台 ■ 第5話 赤穂と吉良 |