特集:創業170年記念 鹿島紀行特集
第3話 明善と岩蔵 〜天竜川で出会った2人の侠気〜
MAP
 浜松市東部,天竜川沿いの東区安間町に,金原明善(1832−1923)の生家が残っている。明善は明治期,頻繁に氾濫を繰り返す「暴れ天竜」の治水に立ち向かい,全財産を投じて,堤防の構築と改修に一生を捧げた社会事業家である。
記念館の戸外に立つ石碑。若き日の明善の決意が刻まれている 黒塀に囲まれた生家の向かいに建つ「金原明善記念館」を訪ねると,そこに「必ず先づ家業を修め国民の本分を全うし,然る上力の及ぶだけ国家の公益に心身を尽くすこと。これ第一の報効とすべし」という明善の「家憲」を見つけた。彼の強い信念を物語るが,やがて「河を治めるは山を治めること」と悟り,上流の龍山村瀬尻(現・浜松市天竜区)に杉や桧の大規模植林を行った。それが日本三大美林のひとつとされる「天竜美林」である。
        
 明善記念館所蔵の『金原明善』(金原治山治水財団刊)の1894(明治27)年1月4日の項に,こんな記載がある。「鹿島岩蔵邸(東京・深川)に招待され,明善夫妻はかつみ・みよし・きようを同伴,丁重なるもてなしを受く」。金原家系譜を辿ると「みよし」は明善の孫にあたる。「かつみ」は明善の次女らしい。明善と岩蔵が,家族ぐるみの交際をしていたことがうかがえる。
 岩蔵(1844−1912)は,当社創業者・鹿島岩吉の息子である。1880年に鹿島組を設立。鉄道請負業に進出して「鉄道の鹿島」の名を馳せ,業容の拡大と鹿島組繁栄の基礎を築いた。
保管された書簡束から見つかった岩蔵らの手紙
金原明善 鹿島岩蔵
 岩蔵と明善の接点も,鉄道建設工事の過程にあった。東海道線横浜−名古屋間の建設工事が1886年11月に起工。鹿島組はその多くの区間を施工していた。天竜川橋梁は国直営だったが,その周辺工事を担当していた鹿島組に,天竜川の治水を中心とする地域開発協力を,明善は要請したのだった。
 『鹿島建設の歩み〜人が事業であった頃』を記した戸板女子短期大学元学長の小野一成さんは,その中で,「壮年の請負業者と一回り年上の社会事業家はこうして出会い,親交を重ねることになる。これと見込んだら算盤を度外視してでも打ち込むという,共通する侠気が2人を意気投合させた」と書いている。
         
 東海道線の建設工事は1889年に終了するが,それ以後も2人の付き合いは長く続く。
 記念館には,明善の幅広い人脈を示す膨大な書簡も保管されており,その中に「鹿島精一書簡集」とメモ書きされた古い手紙の束を見つけた。記念館の鈴木康弘さんにお願いして,そっと開いてもらう。いずれも明善宛のもので,差出人に鹿島岩蔵,鹿島組,鹿島精一の名があった。
 岩蔵はその後も,地域開発のために明善が設立した会社経営に関わるなど,全面的に明善の事業をバックアップした。その交流は鹿島組2代の組長にも及んでいたことが分かる。小野さんによると,明善は身の回りを全く飾らない人だったから,鹿島家の新参の玄関番が物乞いと間違えて叱られたこともあったという。
 明善は治山治水事業を興し,人々の生活の安定と産業復興のために,金融,運輸など幅広い事業を行った。「その一方で,彼の心意気に共感する篤志家も多かった。政治,経済,社会など各方面でたくさんの人と付き合いがあったから,東京を始め全国各地に頻繁に足を運んでいた。そうした中で鹿島家にもお世話になったのでしょう」と,鈴木さんは話してくれた。
        
 記念館の戸外に生家を背にして「木を植えて天竜の川治めんと心も固し 若き日の明善」と刻まれた石碑がある。生家と記念館の間の幅10mほどの通りが旧東海道だという。近くに「安間の一里塚」がある。旧東海道を東に800mほど行くと,天竜川の堤防に突き当たった。堤防脇に「舟橋跡」「天竜川木橋跡」の小さな標識があった。昔の旅人はこの辺りから川を渡ったのだろうか。穏やかな流れからは,かつての暴れ天竜の姿はとても想像できない。
 安間の堤防から天竜を遡ること約40km。270万本以上という杉や桧が立ち並ぶ「天竜美林」は,いまも流域の人に大切に守られている。明善が最初に植えた場所には明善神社が祀られ,周辺は永久保存林「明善の森」と名付けられ,明善の治山治水の功を未来に伝えている。鹿
金原明善記念館 記念館には明善の偉業を残す資料が展示されている。中央には明善の胸像も 明善の生家
穏やかな流れの天竜川。暴れ天竜の面影はない(浜松市安間町)

 第1話 恵比島駅
 第2話 登呂遺跡

 第3話 明善と岩蔵
 第4話 鹿島精一記念展望台
 第5話 赤穂と吉良