特集:創業170年記念 鹿島紀行特集
第2話 登呂遺跡 〜弥生期の土木の音が聞こえる〜
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 鹿島組の鹿島精一会長と小野威大阪支店長の写真が,静岡市立登呂博物館に残っている。「昭和17年秋,石田の田圃にて起工式」とキャプションがあった。
      
 起工式が行われたのは,静岡市南部の水田地帯に計画された「住友金属工業静岡プロペラ工場」である。ところが基礎工事を始めた1943(昭和18)年,深さ1mほどの土中からたくさんの土器や木製の農機具などが出てきた。水田跡と思われる杭列も見つかった。
 「鹿島組現場請負の小長井鋼太郎氏が,当時中田国民学校の校長に出土品を持参した」と,考古学者の安本博氏は後に『登呂遺跡の発見と昭和18年度発掘の大要』に書いている。小長井はそれが何か判然としないままに保管したらしい。これを知った小野支店長(後に当社副社長)も土器類に関心を持った。
 小野支店長の長男で,戸板女子短期大学元学長の小野一成さんによると,「父は考古学の本を買い込んで,みかん箱に出土品を集めて悦にいっていた」という。小野さん自身も当時疎開で静岡にいた。「形のよい土器も現場事務所の戸棚にたくさん並んでいた。中学1年の時でしたが,そんな記憶もあります」。
      
終戦直後の遺構発掘調査。当時旧制中学の学生が多数参加した(登呂博物館提供) やがて安本氏により,弥生後期の農耕集落の遺跡であることが判明する。これが「登呂遺跡」である。文部省や東京の大学などから多くの学者が訪れ,全国的な注目を集めることになった。
 学術的な発掘調査が工場建設と平行して行われ,さらに多くの木製品を発掘した。しかし本土空襲の激化とともに,工場建設は中断する。小野支店長らが集めた出土品も,1945年の静岡大空襲の直撃で散逸したが,約1mの盛土の下になった遺跡は戦中戦後の破壊と混迷から免れた。
プロペラ工場起工式に臨む鹿島精一会長(中央)と小野威大阪支店長(右から2人目)(登呂博物館提供)
 1947年になって,本格的な発掘が始まる。木鍬や鋤などの農耕器具や田下駄や琴,丸木舟など出土品は多彩だった。これらは,1955年に遺跡の奥に建造された静岡考古館(1972年開館の静岡市立登呂博物館の前身)に収められた。弥生時代の住居や水田も復元された。
      
 登呂遺跡は,1999年から5年計画で,半世紀ぶりに遺構発掘調査が行われ,新たな遺構発見で弥生後期の農耕遺跡を再びアピールした。36年間登呂遺跡に関わってきた登呂博物館嘱託の中野宥さんは「住居内部で火を燃やした可能性があること,粘土を交互に叩きしめて住居内の防湿効果を高めるなど,快適な住環境を求める工夫もしていたのです」という。
 今回の遺構発掘に際しては,戦中戦後の発掘に携わった当時旧制中学の19人がボランティアとして参加した。「見渡す限り田んぼが広がっていて,たいへん見通しがよかった」「毎日何かが出てきて,新しい発見があった」「学徒動員でプロペラ工場へ行き,同じ場所で遺跡の発掘に携わった」。静岡市教育委員会の発掘調査ニュース(2001年1月9日発行)に,参加者のこんな話も載っている。鉛筆や消しゴム,竹べらや仁丹など,半世紀前の発掘の際の“忘れ物”も出土したという。
 現在は,再発掘調査の結果を受けた登呂遺跡全体の再整備事業が行われている。登呂博物館も建替えのため休館中だ。登呂遺跡は2011年3月までに復元を終え,博物館は2010年秋を目処に,参加体験型のミュージアムとしてリニューアルオープンする。
       
 弥生期の集落としては,その後奈良県の唐古・鍵遺跡,福岡県の板付遺跡,佐賀県の吉野ヶ里遺跡などが見つかった。しかし中野さんは「登呂は他の遺跡とは違う」との思いが強い。弥生の暮らしと稲作の様子を初めて明らかにした遺跡として,国の特別史跡の指定を受けただけではない。登呂遺跡は「敗戦のダメージの中で,日本人に新しい文化・歴史観を共有させる原点になった」との自負がある。
 一方,「登呂の弥生人のコメにかける執念が遺跡から伝わってくる」というのは,静岡市文化財課の大村和男さんだ。「海岸に近い扇状地にある登呂の農耕は,条件的には恵まれたものでなかった。矢板を打ち,土留めをして軟弱な地盤を開墾し,畦や水路を設けた。遺構から土木作業の苦労のほどが分かるのです」。
      
 起工式に望む2人の足元に,登呂の遺構は眠っていた。そして小長井は出土した土器を中田国民学校に保管した。それが結果として登呂遺跡発見に結びついたのだった。鹿
登呂遺跡遺構・復元住居
登呂遺跡遺構・復元された祭殿 登呂遺跡遺構・水路と水田 新設された復元家屋の中では,火おこしのパフォーマンスも

 第1話 恵比島駅
 第2話 登呂遺跡

 第3話 明善と岩蔵
 第4話 鹿島精一記念展望台
 第5話 赤穂と吉良