特集:鹿島の160年

「鉄道の鹿島」から「土木の鹿島」への雄飛

●日本初の鉄道工事に従事
  明治維新による文明開化は世の中を大きく変える。創業32年目の1872(明治5)年には新橋−横浜間に日本初の鉄道が開通した。この鉄道の建設工事は,政府直営で行われたが,この工事で当社は砂利などを納入した。これが「鉄道の鹿島」の最初の一歩目である。鉄道建設の気運は全国で急速に高まり,工部省鉄道頭の井上勝の勧めもあって,1880(明治13)年に当社は鉄道請負業に転進した。その後,朝鮮,台湾や満州にも進出して鉄道の敷設に当たった。


「鉄道の鹿島」の名声を一挙に高めた東海道本線丹那トンネル(静岡県田方郡)の施工。全長約7.8kmの複線トンネルの西側約半分を担当。1918(大正7)年〜1934(昭和12)年

●軽井沢では貸別荘を経営
 1880年代後半からは,信越本線の建設が始まる。当社は,1891(明治24)年から,横川−軽井沢間のトンネル工事などに従事した。これがきっかけとなり,組長の岩蔵は,亀屋旅館(現在の万平ホテル)の主人佐藤万平氏と知り合い,彼の勧めにより軽井沢に土地を購入した。岩蔵は,ここに自らの別荘や西洋人向けの家具調度付きの別荘を6戸建て,サイドビジネスとして貸別荘経営を始める。この時,岩蔵は広大な敷地に植林を行った。今ではこの時に植えられた樹木もすっかり成長して森になっている。これが「鹿島の森」である。
●鉄道から拡大してきた土木工事
   1900年代に入ると電力需要が急増,全国各地の水力発電所の建設工事にも従事し始める。1930年代には,土木工事もそれまでの鉄道や水力発電に加え,築港,上下水道,河川,道路など分野は大きく拡大した。第2次世界大戦終戦直後,建設工事の中心は荒廃した国土の復興や進駐した連合軍の基地建設などであった。しかし,1950年代になると国土の総合開発,都市の整備などが全国で始まる。その大きな柱が水力発電を中心とした電源開発で,当社は各地で巨大ダムの建設を担当した。


大峯ダム(京都府久世郡)は日本最初のコンクリート高堰堤で高さ31m,長さ91m。1920(大正9)年〜1924(大正13)年

日本初の高速道路,名神高速道路の建設では山科工区(京都市)を施工。1958(昭和33)年〜1960(昭和35)年

山王海ダム(岩手県紫波郡)堤高37m,堤頂長140mのアースダム。完成当時は東洋一の土えん堤を誇った。現在当社の手により嵩上げ工事中である。1946(昭和21)年〜1952(昭和27)年


●東京五輪に照準合わせたインフラ整備
 戦後復興の総決算といわれたのが1964(昭和39)年の東京オリンピックであった。オリンピック開催に合わせて開業した東海道新幹線の建設において当社は,新丹那トンネルや富士川橋梁の建設工事などの難工事を担当した。「鉄道の鹿島」さらには「土木の鹿島」として日本の国土開発に大きく貢献したのである。

東京モノレールも東京オリンピック開催に合わせて開業した。当社は,軌道桁の約4割,全線にわたる21箇所のコンクリート橋梁などを施工。1963(昭和38)年〜1964(昭和39)年

全長1374mの富士川橋梁(静岡県富士市,庵原郡)では19の橋脚,2つの橋台を施工。1961(昭和36)年〜1962(昭和37)年。1240mの阿賀野川橋梁(新潟県豊栄市,当社施工)を抜き日本一長い鉄道橋となる

全長約7.9kmの新丹那トンネル(静岡県田方郡)では西側の4,340mを施工。丹那トンネルでの経験が役立ち同トンネルの約4分の1の4年で完成した。1959(昭和34)年〜1963(昭和38)年

東京オリンピック開催に合わせて東京国際空港(羽田)の拡張整備工事にも従事。1958(昭和33)年〜1964(昭和39)年

京葉シーバース(千葉県沖東京湾) 大型化するタンカーを係留し製油所に原油を送るための施設の建設にも携わる。1967(昭和42)〜1968(昭和43)年




年表
創業期「洋館建築の鹿島」として
|「鉄道の鹿島」から「土木の鹿島」への雄飛
建築分野への積極進出〜「超高層ビルの鹿島」へ〜
躍進の時代「スーパーゼネコン」への道
国際化への対応〜「世界の鹿島」へ
バブル景気,未曾有の不況,そして21世紀へと
コラム集