特集:鹿島の160年 「鉄道の鹿島」から「土木の鹿島」への雄飛
●軽井沢では貸別荘を経営 1880年代後半からは,信越本線の建設が始まる。当社は,1891(明治24)年から,横川−軽井沢間のトンネル工事などに従事した。これがきっかけとなり,組長の岩蔵は,亀屋旅館(現在の万平ホテル)の主人佐藤万平氏と知り合い,彼の勧めにより軽井沢に土地を購入した。岩蔵は,ここに自らの別荘や西洋人向けの家具調度付きの別荘を6戸建て,サイドビジネスとして貸別荘経営を始める。この時,岩蔵は広大な敷地に植林を行った。今ではこの時に植えられた樹木もすっかり成長して森になっている。これが「鹿島の森」である。 ●鉄道から拡大してきた土木工事 1900年代に入ると電力需要が急増,全国各地の水力発電所の建設工事にも従事し始める。1930年代には,土木工事もそれまでの鉄道や水力発電に加え,築港,上下水道,河川,道路など分野は大きく拡大した。第2次世界大戦終戦直後,建設工事の中心は荒廃した国土の復興や進駐した連合軍の基地建設などであった。しかし,1950年代になると国土の総合開発,都市の整備などが全国で始まる。その大きな柱が水力発電を中心とした電源開発で,当社は各地で巨大ダムの建設を担当した。
●東京五輪に照準合わせたインフラ整備 戦後復興の総決算といわれたのが1964(昭和39)年の東京オリンピックであった。オリンピック開催に合わせて開業した東海道新幹線の建設において当社は,新丹那トンネルや富士川橋梁の建設工事などの難工事を担当した。「鉄道の鹿島」さらには「土木の鹿島」として日本の国土開発に大きく貢献したのである。
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