特集:鹿島の160年

建築分野へ積極進出〜「超高層の鹿島」へ

●明治・大正から昭和初期の建築
 明治期における建築工事は,土木工事に付随した停車場・発電施設にとどまっていたが,大正から昭和初期にかけて一般建築も施工するようになった。古河合名足尾銅山,中央大学校舎等があげられる。1923(大正12)年関東大震災では,本社や保有倉庫等も焼失し当社の被害は甚大であった。災害復興の応急復旧工事も各方面で特命を受け,建築分野は特に繁忙を極めた。昭和に入ると,上野駅本屋や渋谷の東横百貨店の他,事務所・工場・学校建築なども徐々に特命工事を受けるようになった。戦時統制経済下では軍需産業の工場建設・軍直轄工事などに従事し,さらに朝鮮・満州・東南アジアにも進出した。



関東大震災直後の東京


●廃虚からの再出発とビル建設ブームの到来
 1945(昭和20)年敗戦とともに当社は莫大な在外資産1208万円(当時の資本金が1200万円)を失う。また未取下金が3660万円も計上された。経営上異常事態に陥りつつ,駐留軍工事と戦災復旧工事で急場をしのいだ。
 1950(昭和25)年,朝鮮戦争が勃発すると国内は好景気となり,多くの国内企業に「資金的蓄積」がもたらされる。当時戦災により一般事務所の極度な不足があったため,ビル建設ブームが起こった。当社は東邦生命福岡ビル,霞が関の合同庁舎等の建設に関わった。1950年代後半に入ると,大型ビルや大型工場の建設が始める。なかでも日比谷三井ビルは当社が建築分野へ本格進出する足掛かりになった大型ビルで,外部デザインにはステンレスとアルミが基調に使われ,軟弱地盤を克服して地下工事が行なわれた。

足尾銅山製煉所煙突 1915(大正4)年竣工
鉄骨鉄筋コンクリート造煙筒,煙塵室,煙道送風機装置を建設


中央大学校舎 1918(大正7)年竣工
煉瓦造および木造校舎であった


上野駅 1934(昭和9)年竣工
多数の乗降客と大量貨物の出入に留意し施工される。明治期の旧駅に代わり,立体的通路を配し清楚で近代的感覚の豊かな建物は好評であった


東横百貨店
1933(昭和8)年〜1934(昭和9)年,山手線渋谷駅わきに渋谷川をまたいで建築され,当時東京新名所とされる


日立製作所清水工場
1943(昭和18)年着工,陸海軍航空機の部品製造工場で,第一特鋼鋳物工場,化学機械工場等を施工


東邦生命福岡ビル
1933(昭和8)年〜1934(昭和9)年,地下2階地上8階,延べ25,120m2,地下水処理に新工法を用いた



●超高層のあけぼの
  1963(昭和38)年東京五輪工事が活発化する頃,当社は年間受注高世界一になる。この年「柔構造理論」の武藤清東大教授を副社長に迎える。当時の耐震技術と施工技術の粋を結集し,1965(昭和40)年日本初の超高層ビル「霞が関ビル」を着工。1968(昭和43)年地震国日本には不可能とされた地上36階の超高層ビルを完成させた。当社はこの後に続く超高層ビル建設ラッシュに先鞭をつけ,「超高層の鹿島」を築き上げた。

霞が関ビル 1965(昭和40)年〜1968(昭和43)年
地下3階地上36階,延べ153,223m2 戦後日本の経済復興を象徴する金字塔であった。



霞が関合同庁舎 1950(昭和25)年〜1957(昭和32)年
地下1階地上8階,延べ52,800m2,戦後初の官庁庁舎の大規模建設工事であった


日比谷三井ビル 1957(昭和32)年〜1960(昭和35)年
地下5階地上9階,延べ90,891m2で,当時マンモスビルの先駆を告げるものであった


駒沢体育館 1965(昭和40)年〜1968(昭和43)年
延べ7,923m2,東京五輪のレスリング会場で,八角形の屋根と円形のサンクンガーデンが特徴的である。




年表
創業期「洋館建築の鹿島」として
「鉄道の鹿島」から「土木の鹿島」への雄飛
|建築分野への積極進出〜「超高層ビルの鹿島」へ〜
躍進の時代「スーパーゼネコン」への道
国際化への対応〜「世界の鹿島」へ
バブル景気,未曾有の不況,そして21世紀へと
コラム集