第30回 ふたつの最高裁判所庁舎

「最高裁判所」と聞いて私たちの頭に浮かぶのは、皇居のお堀に面し、花崗岩の直線的な外壁を持つ建物である。昭和44(1969)年、設計競技で最優秀作品となった岡田新一の設計で鹿島が施工し、昭和49(1974)年に竣工した。しかし、もうひとつの最高裁判所も鹿島が施工したことを、知る人は少ない。

新生日本の官庁集中計画

明治維新後、政府の諸官庁は、旗本や大名の屋敷の転用、徳川幕府関連の屋敷跡への新築といった方法で事務所を構えていた。それらは赤坂、永田町、大手町、丸の内、築地と点在していたため不便で事務所としては使いにくく、新築した建物も、木造の小さな西洋館といった体のものがほとんどであった。旧黒田邸を転用した外務省は、明治3(1870)年に霞が関に置かれ、最高裁判所の前身である明治8(1875)年設立の大審院(*1)は、現在の東京駅と馬場先門の中間あたりに木造洋館二階建てといった趣の庁舎を構えた。

明治19(1886)年2月、政府に臨時建築局が新設され、時の外務大臣・井上馨を中心に帝国議会議院を核として新政権にふさわしい日本の官庁街を作る「官庁集中計画」が計画された。臨時建築局の総裁は井上が務め、当時日本の建築に多大な影響を与え、工部大学校教授から工部省技師となっていたコンドル(*2)を入局させる。加えて外交戦略上ドイツから建築家を招聘することとなり、ドイツ政府はビスマルク宰相の建築顧問ヘルマン・エンデとウィルヘルム・ベックマン(*3)を推薦してきた。

同年4月、ベックマンが来日。彼は2カ月で都市計画の大筋を立て、明治20(1887)年5月には議院、司法省、裁判所の計画図を携えたエンデが来日する。エンデとベックマンの案(*4)は、「秩序、統一、威風、記念、壮大をこととしたバロック都市計画そのものであり、その本性にふさわしく、ミカドと聖代に献じられた記念碑であった。」(*5)エンデもベックマンも再三にわたる変更案を快く受け入れ、労を惜しまなかった。彼らは、計画実現のため、技師や職人18名をドイツに留学させて教育も行った。官費のほか彼らの事務所も少なからずその費用を負担していたという。エンデベックマン事務所の建築士、工事監督、煉瓦やセメントの製造などのためのドイツ人技師らを日本へ招聘もしていた。

*1 江戸時代、裁判所の役割を担ったのは町奉行所。白州に町奉行が出座し、現在の判決文に当たる申渡(もうしわたし)を読み、判決が確定していた。維新後、司法職務を定めて司法権の独立を進め、明治5(1872)年に裁判所が設置されるが、尽力した初代司法卿・江藤新平らは、明治6(1873)年秋の政変で辞任。司法制度は変転し、明治8(1875)年、司法省裁判所に変わり、終審の司法裁判所として大審院が設立される。
*2 ジョサイア・コンドル Josiah Conder 1852-1920 ロンドン出身の建築家。お雇い外国人として明治10(1877)年来日。新設の工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)唯一の教師として教鞭をとる傍ら東京帝室博物館(1882年)、鹿鳴館(1883年)、三菱一号館(1894年)などを設計、日本建築界の基礎を築く。明治21(1888)年講師を辞し、建築事務所を設立。日本人女性と結婚し、亡くなるまで日本で活躍した。彼の作品はニコライ堂、岩崎邸、綱町三井倶楽部など現存しているものも多い。
*3 Hermann Ende 1829-1907、Wilhelm Bockmann 1832-1902 ベルリンで共同の建築事務所を経営。エンデが美術を、ベックマンが構造と事務を分担し、宮殿、各種市街建築、銀行、音楽堂、住宅など150件以上の物件を設計する。エンデはベルリン高等工業学校教授も務めていた。ベックマンはドイツ建築新聞の創刊にかかわり、ドイツ建築家協会会長も務めた。
*4 日比谷を中心に霞が関から臨海地帯まで改造する壮大な計画。臨海部から2本の大通りが銀座の中央駅を通って日比谷のモニュメントを目指し、再び左右に分かれ、右は宮殿、左は議院に通じる通りとなるもので、それらの大通りに沿って官公庁が軒を連ねていた。
*5 村松貞次郎『お雇い外国人15 建築・土木』(鹿島出版会)(1976年)P34

エンデベックマンの官庁集中計画 エンデベックマンの官庁集中計画 クリックすると拡大します

現在の中央官庁街 現在の中央官庁街 クリックすると拡大します

幻となった計画と、建設されたふたつの庁舎

計画当初は意気込んでいた明治政府だが、「日比谷ヶ原に諸官庁を集中することは砂上の楼閣に過ぎない、それよりも差し迫る初の国会のために議事堂を作ることが先である」という方向に話が流れ、明治20(1887)年9月、計画を推進していた井上は失脚。同年暮れ頃には計画の中止がエンデとベックマンに通告される。彼らは、無報酬でもいいから官庁集中計画を遂げさせて欲しいと願い出るが聞き入れられず、失意のうちに帰国する。新たに総裁に就任した山尾庸三の指示により、日比谷練兵場跡地に計画が先行していた大審院庁舎と法務省の建物のみが建設されることとなった。大審院庁舎の建設を指揮したのはエンデの薫陶を受けた妻木頼黄(*6)。エンデベックマン事務所のアドルフ・ハルトゥンクが設計し、明治20(1887)年に着工する。司法省は明治21(1888)年に着工、工事監督を河合浩蔵(*7)が務めた。

明治29(1896)年、大審院庁舎は完成する。左隣の司法省の建物(明治28年竣工)と対をなす壮麗なネオバロック建築の煉瓦造りの建物は、右隣の海軍省(コンドル設計、明治27年竣工)と並び、大きな建物の少ない霞が関界隈で異彩を放っていた。文部省、警視庁、内務省などがこの界隈に移転し、霞が関が官庁街となるのは、それから30年近くたった昭和初期に入ってからのことである。

*6 つまき よりなか 1859-1916 江戸・赤坂の旗本の家に生まれる。明治9(1876)年単身ニューヨークに遊学、明治11(1878)年工部大学校造家学科入学。明治15(1882)年渡米しコーネル大学建築学科に編入、卒業後ニューヨークのロバートソン事務所で修行して帰国。明治18(1885)年東京府土木課に勤務、明治19(1886)年内閣臨時建築局に入局し、同年10月にドイツ・シャルロッテンブルク工科大学建築学部に留学。明治21(1888)年帰国。内務省で東京裁判所、日本勧業銀行、大蔵省など官庁関連施設の建設に携わる。産業建築も数多く設計した。
*7 かわい こうぞう 1856-1934 埼玉県生まれ。明治15(1882)年工部大学校造家学科第4回卒業。明治19(1886)年臨時建設局入局、妻木とともにドイツに派遣された。内務省技師として活躍後、明治38(1905)年神戸に河合浩三建築事務所を開設。

外壁だけ残しての焼失

大正12(1923)年の関東大震災では、煉瓦造の外壁が鉄材で補強されていたおかげで大審院庁舎も司法省庁舎もほとんど被害を受けなかった。しかし、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で大審院は司法省、都庁、警視庁などとともに被災する。司法省と大審院は外壁を残すのみで内部は瓦礫の山と化した。

昭和22(1947)年5月3日、日本国憲法が施行され、司法制度が変わる。大審院は最高裁判所となった。庁舎には旧大審院の庁舎がそのまま使われることになったが、建物は被災して使用できないため復旧工事が開始される。鹿島組が施工を担当することとなった。

同年8月23日、鹿島の霞が関出張所が東京都千代田区霞が関1-1に開設された。所長の塩原貞文は川崎出張所長を兼務していたため、実質的には次長の二階盛が施工の指揮をとった。のちに日本初の超高層ビル霞が関ビルの所長を務めることとなる人物である。早稲田大学卒業後警視庁建築課、住宅営団を経て、2カ月前に鹿島に嘱託として入り、この最高裁判所の工事が鹿島での本格的な初仕事だった。第一工務主任を松崎政男、第二工務主任を村井清一がつとめた。

復旧工事といっても、残っているのは外壁だけ。最初の設計図は関東大震災で焼失しており、手元にはない。しかも明治時代に作られたネオバロック建築の再現ではなく、「近代化」が求められ、外壁があるだけの新築工事も同然だった。

施工前の最高裁判所庁舎。昭和22(1947)年8月。全景。外壁は立派に残っているが屋根はほとんどない 施工前の最高裁判所庁舎。昭和22(1947)年8月。全景。外壁は立派に残っているが屋根はほとんどない クリックすると拡大します

2階大会議室前廊下 2階大会議室前廊下 クリックすると拡大します

中央ホール 中央ホール クリックすると拡大します

2階大法廷前廊下 2階大法廷前廊下 クリックすると拡大します

中央ホール階段 中央ホール階段 クリックすると拡大します

物不足の中で戦後最高の美術建築を作る

戦後の混乱期、物資不足の時代である。インフレで会社の資金も乏しかった。昭和23(1948)年2月、鹿島組は企画本部長名で「工事費節約に関する件」という通達を各現場に出す。経費節約と無駄の排除で諸経費2割減を求めた前回の通達に続き、工事費の1割削減を目途に「資金の欠乏切迫はまことに言語に絶するものがあり、この資金難を切り抜け、激甚なる競争に打ち勝つために、節約と計画性を持ち、実行予算の早期作成と運営に努力し、資材の仕様計画と購入計画を立て、効率的運用を図り、労務管理と労務経費の削減に注意すること」が求められた。戦後の混乱の中で建設業にも近代化の波が押し寄せていた。

しかし経費節減と予算管理を厳格にしても、物価高の速さにはなかなか追いつくことができなかった。昭和24(1949)年には、物価は5年前の60倍(*8)にもなっていた。鹿島の社員の給料も、昭和21(1946)年10月に一律3倍に、翌月には一律80円増、22(1947)年5月には臨時手当として3割増し+100円、7月には臨時手当450円と何度も見直しを迫られていた。それでも社員たちは地方でさえ畑作業をして食料を作らないと、給料だけでは食べられないほど切迫していた。そんな中での「復旧工事」であった。

造作材には大量の堅木が必要だったが、焼け野原となっている東京ではその工面が難しく、交通が不便な中で、北海道まで木材の購入のために社員が出張しなければならなかった。また、大量に使用する御影石は茨城県の稲田石を用いた。

事務系新入社員だった清水忠は「事務も建築もなく昼間は皆現場に出て材木、セメント、砂利などを馬車や荷車に載せたり、現場に担いで届けたりの肉体労働ばかりだった」と当時のことを振り返る。物のない時代だったので、現場回りで材木の切れ端などを集め回り、それも大切に使ったという。昼間は現場に出ているためデスクワークは夜、事務所に戻ってから夜中までと言うのが一般的なことだった。唯一の救いは、肉体労働なので配給米のほかに加配米がもらえたことである。そのため現場の食堂で毎回十分な食事をとることができた。

*8 日本銀行HP 「企業物価戦前基準指数」からの計算による

マッカーサー元帥の祝辞

昭和24(1949)年という年は、上野動物園に象やライオンがやって来たり、銀座のネオンが増えたりと、街も人びとも活気を取り戻しつつある年であった。湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞を受賞したのもこの年である。横浜軍事裁判では日本最後の戦犯が裁かれ、混乱の中でも新しい秩序が生まれていた。最高裁判所の復旧工事はそのシンボル的な工事のひとつでもあった。

この復旧工事では、もともとの造形の重要要素であった屋根の原型復元こそ行われなかったが、大法廷をはじめ庁舎の内部造作の工事は,資材も人材も不足していた時代にもかかわらず全力を傾けて工事を行い、戦前の木工技術の域に迫るものとなったことを裁判所からも褒め称えられた。竣工時に配布された工事概要には「外観は昔日のそれに復し、車寄せエレベータシャフト等を増築し、内部は近代的要素を入れた全く新築同様面目を一新」と書かれている。

昭和24(1949)年11月11日、最高裁判所新庁舎1階の大ホールに国会、政府関係者、各政党、法曹界から1,200名が出席し、落成式が行われた。会場でマッカーサー元帥のメッセージが代読される。「今日の式典は日本の自由な民主政治の3つの雄大な要素の一つが成長したことを象徴するもので、新憲法がすべての人々のために人権の保護や尊厳の維持という大原則をもたらしたごとく、正義の最高の殿堂は日本人の新しい生活のためにこれらの原則に生命を与え、これを保護するものとなるであろう。この国の司法制度にとって意義深き日である」「装い新たな『法の殿堂』」には、「戦後最高級の材料と技術が惜しみなく使われている」と当時の新聞でも評されている。

この最高裁判所庁舎は、昭和49(1974)年、新しい最高裁判所庁舎が完成するまで使用された。その後取り壊され、現在は高層の東京高等裁判所合同庁舎(鹿島施工)が建てられている。隣接の司法省庁舎は昭和23(1948)年から25(1950)年にかけて大成建設の手によって改修工事が行われ、法務省本館として使用された。その後、1991年から1994年に同社により外観を創建時の姿に復元、重要文化財となっている。建物内には法務総合研究所と法務図書館があり、内部は最初に建てられた当時の唯一の室内写真をもとに復元され、見学もできる。

完成した旧最高裁判所庁舎。昭和24(1949)年11月。全景 完成した旧最高裁判所庁舎。昭和24(1949)年11月。全景 クリックすると拡大します

車寄せ 車寄せ クリックすると拡大します

応接室 応接室 クリックすると拡大します

1階廊下 1階廊下 クリックすると拡大します

中央ホール 中央ホール クリックすると拡大します

工事に従事した人々 工事に従事した人々 クリックすると拡大します

日本人の設計による最高裁判所の建設

昭和41(1966)年、皇居桜田濠に面した三宅坂の陸軍参謀本部のあった場所、国立劇場と国会図書館の間に新しい最高裁判所が作られることになった。国立劇場(*9)や国会図書館(*10)と同様、設計競技で建物のデザインを公募することとなる。

昭和40(1965)年9月から翌年8月にかけて各界有識者による最高裁判所庁舎新営審議会が開催され、その答申「(1)様式・・・過去の様式にとらわれず、現代の建築様式によって建築されるべきで、最高裁判所としての品位と重厚さを兼ね備えなくてはならない (2)設計・・・最高裁判所の庁舎が重要な記念建造物であり、その新営は国家的事業であるとの見地から、広く案を江湖に求め、現代における建築造形の最高のものを追求するのが相当であり、したがって、公開競技によるべきであると考える」に基づき、昭和44(1969)年、設計競技が行われた。「法と秩序を象徴する正義の殿堂として、この地位にふさわしい品位と重厚さを兼ね備えると共に、その機能を果たすに足りる内容を持つこと」が要求された。

応募総数217点。入選作5点のうち2点が鹿島の設計部の作品だった。当時設計部の企画課長・岡田新一(*11)グループ案と、職員・佐野幸夫グループ案で、岡田グループ案は最優秀作品に選ばれた。当時の設計部は部員450名、昭和17(1942)年に創設されてから30年足らずで、「建築部に属する係的な存在」(*12)から、国家が建設する三大主要建築物(*13)の一つである最高裁判所の設計コンペを勝ち取るまでになっていたのである。

鹿島にとっても誇らしく喜ばしいことだったが、日本人にとっても自国の建築家の設計によるはじめての最高裁判所として誇らしく受け止められた。岡田は、皇居の森を借景に、国会議事堂を中心とする霞が関官庁街の一方の軸を終焉させるシンボルとしてスケールを決めていった。

* 9 国立劇場 昭和38(1963)年、日本初の公開コンペで301点の中から、竹中工務店・岩本博行案が1位入選。竹中工務店の施工により昭和41(1966)年竣工。外観は、東大寺正倉院の校倉造りをモチーフとしている
*10 国立国会図書館本館庁舎 建築設計競技で前川國男案が当選。大成建設の施工により、昭和36(1961)年第一期工事完了。
*11 おかだ しんいち 1928-2014 昭和32(1957)年東京大学大学院を卒業。鹿島建設に入社。設計部に配属。その後エール大学に留学し、1963年建築芸術学部大学院修了。1969年岡田新一設計事務所設立。旧鹿島建設本社ビル(1968)、岡山市立オリエント美術館(1979)、警視庁本部庁舎(1980)など数々の作品を設計
*12 鹿島守之助「最高裁懸賞設計競技入選に寄せて」『鹿島建設月報』1969年4月号
*13 宮殿、国会議事堂、最高裁判所のことをいう。ちなみに鹿島はすべて施工(JV含む)

現代建築の粋を集めた美術建築

昭和46(1971)年6月、施工が開始される。この建物は地下2階地上5階、延べ53,923m²。7つの棟(*14)で構成され、スペースウォールと呼ばれる二重壁によって結合するこれまでに例を見ない構造である。何度も解析が繰り返された。当時、剛構造の建物で振動解析したのはこの最高裁判所庁舎が初めてだった。施工にあたって所長の岩崎忠夫は、「この建物を立派に仕上げた暁には、当社が美術建築に対する不動の地位を確立できると念願し、責任の重さを痛感する」と述べている。

外壁と内壁は、御影石貼り。なるべく白い御影石を求め、旧最高裁判所庁舎同様、茨城県の稲田石が使用された。悪い石の層にぶつかると、それを取り除くまで石を採取できない。石工事が建築工事費の20%も占め、効率的に石積みする新工法が開発された。使用した石の延べ総面積は全体で7万m²近くに及ぶ。工事は34か月という工期を守り抜き、昭和49(1974)年3月に竣工した。

法と秩序を象徴する正義の殿堂にふさわしい建物である最高裁判所新庁舎の大ホールの床下には、「最高裁判所庁舎を東京都千代田区隼町四番二号に新築するにあたり,日本国における法の支配の確立と揺るぎなき国運を冀求してここに永世不朽の礎を鎮定する。」という定礎の辞が収められている。

* 14 大法廷棟、小法廷棟、図書館棟、裁判官棟、裁判棟、司法行政北棟、司法行政西棟。これら7棟の建物の間にそれぞれ性格の違った庭が配されている。

<参考資料>
村松貞次郎「お雇い外国人15 建築・土木」(鹿島出版会)(1976年)
法務省大臣官房司法法制部「法務資料展示室だより 時をたずねて」第13号(2007年4月、第15号(2008年3月)
SD編集部「空間と象徴 最高裁判所庁舎における建築構想の展開」(鹿島出版会)(1975年)
SD編集部「<現代の建築家>岡田新一」(鹿島出版会)(1983年)
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/index.html
最高裁判所広報誌「司法の窓」第50号 最高裁判所50周年記念号(1997年)
藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫(2004年)
朝日新聞縮刷版

(2010年10月4日公開)

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