第35回 北海道大学巌鷲寮

北海道大学の敷地内にその昔、巌鷲寮(がんじゅりょう)という学生寮があった。昭和初期の話である。岩手県出身者のために建てられたこの寮と、鹿島建設の間には深いかかわりがあった。

岩手県出身者の寮をつくる

札幌農学校は明治9(1876)年に設立され、大正7(1918)年、北海道帝国大学という日本で5番目の帝国大学(*1)となる。

その北海道帝国大学の初代総長・佐藤昌介(*2)の所へ、岩手県出身の予科生(*3)が「県人寮が欲しい」と直訴に来たのは、大正8(1919)年秋のことであった。恵迪寮(*4)の人数は限られ、下宿屋も一長一短。既に他県の県人寮はいくつかあったが、岩手県人寮はなかった。同じ地方出身者で和やかな寮生活が営まれる県人寮が欲しい。今後ますますその必要性が増すと考えた彼等は、岩手県花巻出身の佐藤総長に直訴に来たのである。

佐藤は学生たちに同郷の葛西勝彌(*5)を紹介する。3年間の欧米留学から戻ったばかりの家畜衛生学・細菌学助教授の葛西は当初、この話には乗り気ではなかった。国際的な広い視野で物事を見るべき時代に、同じ県人同士固まるのはよくないと考えたのだ。しかし彼等の熱意に押され、農学部植物学教授の栃内吉彦(*6)と共に募金活動に乗り出す。東京生まれの栃内も県人寮建設には懐疑的だったが、佐藤、葛西、栃内は親戚同士のため、栃内は叔父である葛西、葛西は伯父の兄(戸籍上は姉の夫の兄)である佐藤からの依頼を断れなかったことも背景にあったようだ。

北大構内の佐藤昌介像 北大構内の佐藤昌介像

葛西勝彌 葛西勝彌

栃内吉彦 栃内吉彦

*1 東京帝国大学、京都帝国大学、東北帝国大学(北海道帝国大学は当初、ここの農科大学に組み込まれた)、九州帝国大学、北海道帝国大学の順に設立。
*2 さとうしょうすけ 1856-1939 岩手県出身 盛岡藩校の作人館に学ぶ。東京英語学校(のちの旧制一高)から札幌農学校に学び、一期生となる。日本初の農学士の学位を持ち、アメリカに留学。後に札幌農学校校長、北海道帝国大学初代総長。
*3 現在の大学の教養課程に相当。学部入学のための前段階となる旧制高等学校に準じる課程。
*4 けいてきりょう 札幌農学校開校とともに設置された寄宿舎。明治40(1907)年に恵迪寮と命名。
*5 かさいかつや 1885-1949 岩手県出身 農学博士。鹿島組組長・鹿島精一の母(葛西すえ)の姉(出淵ちう)の第八子。佐藤昌介は勝彌の姉(佐藤機知子)の夫(佐藤昌次)の兄にあたる。15歳の時葛西家に入籍。東京帝国大学農科大学獣医学科卒業、同大学院で牛学を専攻。東北帝国大学、北里研究所、東京帝国大学を経て米英仏へ留学。北海道帝国大学教授、奉天獣疫研究所所長、北里研究所理事。
*6 とちないよしひこ 1893-1976 東京都出身 農学博士。葛西勝彌の甥(父方の祖母が栃内安子といい、葛西すえ、出淵ちうの姉)東北帝国大学農科大学農学科卒業、米英独へ留学、北海道帝国大学教授、農学部付属植物園長、農林省北海道農業試験場長などを務めた。

寮建設寄付金集めに奔走

大正13(1924)年12月3日、岩手県学生寄宿舎設立相談会が作られる。佐藤を顧間、葛西勝彌を建設委員長、栃内を幹事長に据え、翌年8月から寄付募集を開始した。その範囲は岩手県を含めた旧南部藩(*7)、北海道在住岩手県関係者、樺太や東京にも及んだという。しかしこの頃は、緊縮財政による不況で失業者が増加していた時代。特に昭和2(1927)年3月には時の大蔵大臣片岡直温の失言(*8)で昭和の金融恐慌が始まる。まとまった寄付などとても集まる状態ではなかった。「共鳴し、賛成してくれる人には金がなく、実力のある人は財布の口を締めるに懸命で、目前の名利の対象とならない育英事業の寄付などにはそっぽを向く傾向があるようだった」(*9)と栃内は嘆いた。

最終的に地元盛岡に行って大がかりな募金活動を行う。盛岡銀行頭取の金田一国士の口利きもあって、寄付申込者数249名、寄付申込総額は25,430円(約4000万円相当)に上った。建設予算は当初28,500円(約4500万円相当)だったから、着手金としては十分足りると思われた。しかし前述のような金融恐慌の中、金田一は失脚し、あてにしていた大口の出資が見込めなくなるなどして、最終的に受領できた寄付金は10,400円50銭(約1650万円相当)、申込総額の4割程度に留まることとなる。

*7 現在の岩手、青森、秋田の3県にまたがっていた。1817年からは盛岡藩と呼ばれた。
*8 片岡大臣は、3月14日衆議院予算委員会で渡辺銀行の破綻を告げた。大臣に渡ったメモは誤報だったが、銀行に不安を感じていた人々は市中銀行に殺到。3月中に13行が閉鎖した。
*9 栃内吉彦「勝彌さんを憶う」葛西勝彌博士追憶集刊行会『葛西勝彌博士追憶集』(1951年)

従兄弟、親子、兄弟・・・勝彌と精一

一方、建設委員長となった葛西勝彌は、巌鷲寮施工の便宜を図ってもらおうと鹿島組組長・鹿島精一を訪ねる。大正の終わりごろではないかと思われる。

葛西勝彌は鹿島精一の10歳年下の従弟で、旧姓を出淵と言った。鹿島家の養嗣子となることが決まった精一の養子として勝彌が葛西家に迎えられる。二人は血縁では従兄弟、戸籍では親子関係になるが、実際には10歳しか年が違わないため「第三者には兄弟として紹介しあうのが習わしであった」(*10)。

勝彌は明治31(1898)年夏に上京し、深川の鹿島邸等に寄宿して中学時代を過ごす。その後旧制第二高等学校に入学するが、「大学及び大学院時代の五カ年余りを通じて故人(注・精一のこと)への無心がますます頻繁になり、額も増すようになるにつれ、時には嫌な顔もされ、また叱られもし」(*11)ながらも、学究時代、洋行と次々に精一に無心を続ける。

精一は、子供時代を貧しく過ごし、鹿島組の経営者としても非常に苦しい時代を歩んできたため、平素は質素な生活を好んだ。現場に出ると落ちている釘を拾い、家では自分で不要な電灯を消して歩いたと言う。しかし筋道の通った金の出費を惜しむことはしなかった。その延長線上に巌鷲寮の建設がある。勝彌にとってはこれも「無心」のひとつだったのか、彼が精一を偲ぶ文章の中に、巌鷲寮のことは一言も書かれていない。

*10 P262葛西勝彌「亡き兄をしのぶ」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
*11 P267葛西勝彌「亡き兄をしのぶ」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)

最新設備完備の巌鷲寮

大正15(1926)年3月、大学敷地内、南西の端の道路の突き当たりに寮建設予定地の標識が建てられる。名前は故郷の名山・岩手山の別名巌鷲山から「巌鷲寮」と名付けられた。昭和2(1927)年5月、岩手県出身で北大営繕課勤務の小原庄六と建設設計の相談が行われ、8月には地鎮祭が挙行、鹿島組の施工が始まった。鹿島にとっても北海道内初の本格的な建築物である。

昭和2(1927)年11月13日工事完了。翌日から寮生第一号の藤村久四郎(*12)を筆頭に入寮が始まった。23日の開寮式では小原庄六と鹿島組に感謝状が贈呈され、初代理事長には葛西勝彌が選出された。その夜、栃内は葛西と「暖房の蒸気で沸かした寮の初風呂に入った。(中略)過ぎ越し方をかえりみて、私(=栃内)は涙ぐましい気持ちになった。」(*13)

完成した巌鷲寮は敷地面積1,322m²、木造、地上2階地下1階、延べ538.8m²。寮室20室、応接室、客室(和室)、食堂、浴室、台所、洗濯室があった。一人一部屋は当時珍しく、11月17日付の「夕刊岩手日報」には「洋風づくり」で「書斎20室寝台付き」と紹介されている。「炊事も風呂も電化施設」(*14)であり、水洗トイレ、スチーム式暖房設備といった最新設備も整えられていた。日本で水洗トイレが普及し始めたのは昭和40年代に入ってからであり、昭和10(1935)年度でさえ水洗トイレ設置済み戸数は2.2%(*15)であった。トイレひとつ取っても当時いかに先進的な寮だったかが分かる。

鷲が両翼を広げた形、あるいは大空を飛ぶ飛行機をかたどった形の寮の前庭には薔薇が咲き、後ろの小川に傾斜するように芝生が植えられ、大輪のアゼリアが咲き誇っていた。エルム(ハルニレ)の大木の先には大学の林檎園も見える。学生たちにとって、岩手県の人々にとって、巌鷲寮は誇りだった。

*12 ふじむらきゅうしろう 1903-1978 岩手県出身。北海道帝国大学土木科卒業後、鹿島組入社。青森電灯八甲田発電所、留萌鉄道、留萌港湾、台湾電力日月潭発電所などの工事に従事、台湾支店長、初代仙台支店長、初代土木企画部長、常務取締役、ケミカルグラウト副社長等を歴任。
*13 P125 栃内吉彦「勝彌さんを憶う」葛西勝彌博士追憶集刊行会『葛西勝彌博士追憶集』(1951年)
*14 P8 巌鷲寮「巌鷲寮五十年史」『巌鷲寮創立五十周年記念誌 上篇』(1983年)
*15 P140 総務庁統計局『日本長期統計総覧』(1985年)

寮生第一号・藤村久四郎

盛岡出身の藤村久四郎は盛岡中学卒業後北大予科に入学し、大正13(1924)年4月、土木工学科一期生となる。巌鷲寮建設の寄付金集めには学生たちも駆り出され、藤村も寮建設のために奔走したひとりだった。

昭和2(1927)年7月、東京市橋梁課での夏休み実習のため上京した藤村は、木挽町(現・中央区銀座7丁目)の鹿島組本店に鹿島精一を訪ねた。精一は藤村の専門や教授の話を聞き、自分の経歴などを話し、藤村の卒論の助けになるようにと橋を見せて廻り、昼食までご馳走してくれたそうである。

当時建設会社は「請負」と呼ばれ、藤村のように大学で土木を学んだ者は官庁や電力、鉄道会社に勤めるか大学に残るのが一般的で、建設会社に就職する者は皆無に近かった。東京で精一の人柄と見識に触れて大学に戻った藤村は、その数ヶ月後、鉄道工学の教授の講義にも触発され、鹿島への就職を決める。教授に「大いにその方面において研究活躍いたしたいので、アメリカの良い本でもあったらその際に教えて下さい」(*16)と意気込んで入社したが、「学士様も区別はしない」と豪語する所長のもと、最初に命じられたのはセメントの空き袋を数えること。その次は橋に出ている釘を打ち込み、馬が足を痛めないようにすることで、「理想と期待に胸を膨らませて行ったおしゃれで身ぎれいな藤村さんがどんなにがっかりされたか、目に見えるよう」(*17)だった。

*16 P167 藤村久四郎「初めてお会いした時」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
*17 P18 鹿島卯女「藤村久四郎さんを偲ぶ」『追想 藤村久四郎』(1979年)

完成後も続いた資金集め

寮史の鹿島精一の写真には「最初の寮を建設し、不足額を帳消しにした郷土の先輩」(*18)とあるが、「建設期の裏話として、建築費の一部の何千円かの未払金を、栃内先生の懇請で、鹿島精一氏が棒引きして下さったと伝えられている。しかし、その事実の片鱗さえ伺える資料は事業報告にはもちろん、その他の資料でも見出せなかった」(*19)。つまり精一は利益を度外視して工事を請け負ったかもしれないし、多額の寄付をしたかもしれないが、不足額を帳消しにはしなかったと思われるのである。事実学生たちは寮完成後も巨額の未払金返済のために寄付金集めに奔走している。

昭和3(1928)年と昭和5(1930)年の夏休みには、東北各地で寮建設御礼と寮生活の紹介を兼ねた建設資金調達巡回映画会を開催する。映画は寮や大学の生活、北海道の開拓、スキー、水泳など十数巻あり、学生たちが司会から弁士まで務めた。娯楽の少ないこの時代、巡回映画会は大盛況だった。盛岡では昼夜3回映写したが、各回それぞれ千人近く入ったという。入場料は小中学生5銭(現在の90円前後)、大人10銭(現在の180円前後)だった。80数円(現在の13万円弱に相当)の利益は建設資金に寄付された。映画会は寄付金集めの目的の他、鹿島組に建設費支払の猶予を求めるデモンストレーションの意味もあったらしい。

昭和6(1931)年12月には、鹿島精一が来寮して午餐会が開催されている。ほかにも新渡戸稲造、金田一京助などさまざまな岩手出身の名士が訪れて、寮生たちと交流した。一方で岩手県をはじめ東北各地からの修学旅行生が見学に訪れ、その中からまた次の巌鷲寮生が生まれていった。

*18 巌鷲寮『創立五十周年記念誌 上篇』(1983年)
*19 P69 三浦四郎「巌鷲寮経理運営50年(未完)」巌鷲寮『巌鷲寮五十年記念誌 上篇』(1983年)

最新設備がネックに

しかし、時代と共に寮の建物も設備も劣化していく。昭和18(1943)年には浴室の天井が落下し、水洗トイレや風呂釜はたびたび故障した。厨房にあった大きな電気釜は、底に張りめぐらされた太いニクロム線がよく切れて、そのたびに修理に走った。

「寮にとって自慢の一つであったスチーム暖房は、戦前の石炭の豊富な時代は札幌の冬を快適に過せたうらやましい設備」(*20)だったが、戦争中の整備不足と老朽化からしばしば故障していた。遂に昭和21(1946)年冬に完全停止。以後、食堂の石炭ストーブが唯一の暖房となる。スチーム暖房が停止したため、冬には水洗トイレのパイプが凍結するようになり、昭和23(1948)年4月、トイレ全面使用禁止。寮生は「一日総出で寮の北端に丸太を組み、穴を掘り、ムシロなどで囲いをして誇り高き寮にふさわしからぬ珍妙な純和風厠を造ったが、さすがに用を足していても尻の冷えこみが厳しくて評判が悪く、たいていは大学で用を足していたようである。」(*21)

昭和24(1949)年9月のキティ台風で、暖房用ボイラーの煙突が倒壊、トタン屋根もはがれてしまう。寄付と県からの補助金で昭和28(1953)年に寮の大修理作業は一段落した。

*20 P41 川嶋昭二「巌鷲寮改修事業の頃」巌鷲寮『創立五十周年記念誌 上篇』(1983年)
*21 P42 川嶋昭二「巌鷲寮改修事業の頃」巌鷲寮『創立五十周年記念誌 上篇』(1983年)

四代目巌鷲寮を鹿島が施工するまで

昭和32(1957)年12月、二代目巌鷲寮が初代のやや北西側に建設される。市の都市計画による移転だった。延べ456.2m²。2階に2~4人部屋8室と娯楽室、1階に図書室、休養室、食堂があり鋳物の石油ストーブも置かれた。初代のような斬新さはなく至ってシンプルだった。その頃から、寮は敷地の買取を迫られていた。国立大学構内の土地は国のもので、巌鷲寮は私設寮である。敷地買取の資金はなく、毎年国に借地料を支払わなければいけなかった。

この土地問題の窮乏に尽力したのが、寮生第一号の藤村久四郎である。彼は生涯巌鷲寮生だったことを誇りに、大学卒業後も多くの図書を寮に寄贈し、繋がりを持っていた。鹿島精一の娘婿で鹿島建設社長の鹿島守之助に働きかけて350万円(現在の約1,700万円に相当)の寄付金を実現。これが敷地購入の主財源となり、県の助成金と合わせ、寮の敷地の6割を買取ることができた。

昭和44(1969)年、北海道大学生活協同組合の依頼で土地建物を交換。昭和47(1972)年北7条西18丁目(大学から徒歩20分)に移転する。これが三代目の巌鷲寮である。

その寮も、1997年頃には老朽化が激しくなり、寮撤退の議論も出た中、建て替えを決定。同年8月、鹿島を含めた4社にコンペのためのヒアリングがされた。鹿島以外は地元の建設会社である。発注者である巌鷲寮の理事長・小笠原正明北海道大学教授(当時)が、初代寮の鹿島との縁を大事にしたいと、鹿島にも声をかけてきたのだった。鹿島建設札幌支店(現・北海道支店)ではこの時初めて巌鷲寮と鹿島の関係を知った。営業部長の小西淳市が担当となる。小西は「初代巌鷲寮とのつながりと小笠原教授の思いが、工事入手のためにいい意味でのプレッシャーになった」と言う。彼は、支店の建築設計部から営業部に異動したばかりで、営業担当者として打合せながらも設計者の視点で考え、設計部と協力して「HOME」を意識した平面と外観デザインを作り上げた。コンペではこの鹿島案が採用される。

鹿島設計施工で1999年3月に完成したのが、現在の寮である。鉄筋コンクリート造、地下1階地上2階延べ570m² 、トイレ洗面所付き寮室17室、1階には食堂、談話室、浴室が備えられ、地下にはジムも完備されている。

名前は「佐藤・新渡戸記念寮」と変えられた。「巌鷲寮」と言う名前の持つ硬いイメージはいまどきの学生に敬遠されると、関係者で何度も討論の末に出した結論だった。初代北海道帝国大学総長の佐藤昌介の教育理念と、札幌農学校2期生で盛岡出身の新渡戸稲造の名前を冠することによって、後に続く若者たちの励みとしたいと言う願いが込められていた。

<参考図書>
小笠原正明『佐藤昌介伝 北大を築いた南部人』(2008年)
財団法人巌鷲寮『巌鷲の秀麗なるが如く 佐藤・新渡戸記念寮の80年』(2009年)
札幌支店60年のあゆみ編纂委員会『札幌支店60年のあゆみ』(2001年)
かたばみ興業『かたばみ興業五十年史』(1991年)
巌鷲寮『創立五十周年記念誌 下篇』(1985年)
巌鷲寮『創立五十周年記念誌 中篇』(1984年)
巌鷲寮『創立五十周年記念誌 上篇』(1983年)
北海道大学『北大百年史』(1980年)
鹿島出版会『追想 藤村久四郎』(1979年)
鹿島建設札幌支店『北海道総合開発の躍進とともに20年』(1961年)
栃内吉彦「勝彌さんを憶う」葛西勝彌博士追憶集刊行会『葛西勝彌博士追憶集』(1951年)
鹿島精一追懐録編纂委員会「鹿島精一追懐録(1950年)

金額の換算には、日本銀行ホームページの企業物価戦前基準指数を使用

(2012年5月7日公開)

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