第59回 阿里山鉄道―台湾の檜材を日本に

台湾の中南部に位置する阿里山森林鉄道は、阿里山の森林経営に伴う木材搬出のために明治後期に作られた。嘉義・阿里山間65.6km(竣工時)、高低差2,186mの路線である。今では世界三大山岳鉄道の一つとして知られ、豊かな自然と固有種に育まれた熱帯、亜熱帯、温帯の三種類の森林生態を見ることができる稀有な存在となっている。明治後期に鹿島と鹿島にいた新見七之丞(大倉土木組の代人。鹿島の明治の三部長の一人で明治35年に独立)が施工している。

阿里山鉄道阿里山鉄道クリックすると拡大します

台湾の鉄道建設

台湾では、清国時代の明治20(1887)年~26(1893)年に北部の貿易拠点港・基隆から台北経由で北西部の新竹までの約100kmが鉄路で結ばれた。しかし、木造の橋はたびたび豪雨で流され、保線も不十分だった。明治28(1895)年、日清戦争に敗北した清国は、下関(馬関)条約に基づいて台湾を割譲。日本が統治することとなり、翌年には台湾総督府が置かれる。明治32(1899)年、台湾総督府は鉄道局生え抜きの技術者・長谷川謹介を技師長として招き入れる。長谷川は「競争入札は工事費を低くすることだけを目標としているため弊害不利益が起きる、気候風土の異なる台湾に鉄道を建設するには一切の弊害を廃し、随意契約によって信用と技術のある請負業者を選んで特命施工させるしかない」と考えた。鹿島は、長谷川に随伴して渡台する。

台湾統治上、防衛上喫緊の課題の一つが南北縦貫鉄道の建設であった。長谷川は北部線(既成線改良区間約100kmを含む基隆・葫蘆墩(現・豊原)間174km)、南部線(高雄・濁水間154km)、中部線(濁水渓北岸・葫蘆墩間72km)の3区間に分け、部下を精選した。請負業者は鹿島、大倉、久米、吉田、澤井、志岐、佐藤の7業者として工事を割り当てる。延長400kmにわたる縦貫鉄道は明治32(1899)年から10年計画で着手したが、長谷川技師長の工事発注方式と鹿島らの努力により、予定を1年短縮して明治41(1908)年4月全線竣工した。10月に行われた全通式で鹿島は、秩序が整わない中で、請負業者として常に指導的立場で奮闘したと賞状を賜わった。

台湾縦貫鉄道台湾縦貫鉄道クリックすると拡大します

阿里山の台湾檜を台湾の産業に

阿里山は、東アジア最高峰の新高山(現・玉山。3,952m)とその西側に位置する15の山々の総称で、縦貫鉄道嘉義駅の東約40kmの一帯のことを指す。総督府は、阿里山の大檜林を森林鉄道を敷設して直轄事業とし、財源として得ることを計画する。しかしこの計画は、諸般の事情により財源の確保ができなくなり、頓挫してしまう。明治37(1904)年に勃発した日露戦争が、政府の財政の余裕をなくしていたのであった。総督府は明治39(1906)年2月、大阪の合名会社藤田組(現・DOWAホールディングス)にその経営を委ね、伐採と鉄道敷設を許可した。

総督府の建設方針では、木材搬出の鉄道を嘉義・阿里山間65.6kmに軌間762mm(在来線は1,067mm)で敷くもので、嘉義・竹崎間14.4kmは最急勾配50分の1(20‰)、最小曲線半径15鎖(302m)、竹崎・阿里山間51.2kmは最急勾配20分の1(50‰)、最小曲線半径2鎖半(50m)、72の橋梁と71の隧道支保工は木造、後日阿里山の木材で永久に更新するというものだった。藤田組もこの方針に沿って進めることとする。

竹崎・阿里山間は、地図上の直線距離は25kmだが、高低差1,800m。そのため線路は螺旋状、馬蹄形、スイッチバックとさまざまな形で紆余旋回し、距離を51.2kmに延長して目的地に到達する。嘉義の北東約26kmに位置する独立山(303m)では、3回のループで進む。沿線の地形は険悪で、山高く谷深く、至る所に断崖があった。総督府鉄道部の測量班は縄梯子を下げ、木の根や岩角に摑まって進み、測量をする。延長51.2kmに対し、測量にかかった期間1年、総延長200km近くに及ぶ。

鹿島はそれより以前、濁水渓上流左岸の大密林で檜材を伐採し、販売していた。川を流して二水駅まで搬出。そこから鉄道で各方面に運搬し、販売するのである。しかしこの阿里山の木材事業が始まるとたちまち太刀打ちできなくなると考え、正確な時期は不明であるが、濁水渓の檜材の権利を早々に藤田組に譲渡した。経理台帳の明治40(1907)年の利益欄に、「台湾山林」の利益が56,453円とある。台湾山林という名前はほかには出てこないので、これが譲渡益なのかもしれない。時代背景や当時の生活を考えると現代の金額に換算するのは難しいが日銀の企業物価指数(戦前基準指数)を基に計算すると1,024万5,505円となる。明治期の鹿島の登記簿謄本の営業種目には、「土木建築橋梁工事請負業」に次いで「山林材木及び材木供給」があり、東京深川の鹿島本邸には、阿里山の檜で造られた立派な長屋門があった。台湾檜の良い宣伝材料になっていたようである。また、青森で製材所を経営しており、台湾縦貫鉄道の施工では、台湾総督府の命により線路の枕木用木材を船で台湾まで運搬していた。

鹿島組登記簿謄本(部分)鹿島組登記簿謄本(部分)クリックすると拡大します

深川鹿島邸長屋門深川鹿島邸長屋門クリックすると拡大します

藤田組の阿里山鉄道

藤田組は明治39(1906)年5月、嘉義に出張所を作り、所長に藤田組創始者藤田伝三郎の長男で副社長の藤田平太郎(1869-1940)を置いた。同時に台湾総督府鉄道部から菅野忠五郎(*1)を招聘して鉄道建設を委任する。工事は同年7月に開始された。軽便鉄道全線を10工区に分け、特命随意契約により吉田組、大倉土木組(のちの大倉組、現・大成建設)、鹿島組が施工する。

鹿島組は第4工区紅南坑・梨園寮間約3.2kmを施工、工事は明治40(1907)年3月に着工した。工区中には隧道が4か所あり、最長の第18号隧道(545m)は牛稠渓と清水渓の分水嶺を貫通する。雨季に入っていたため、土砂に埋没してしまい、工事はなかなか進まなかった。掘削作業は雨季が終わった9月末から開始される。18号、19号の隧道は良質の砂岩で、支保工がなくても掘削を進めることができたが、ほかの2本の隧道は、軟弱な地質で支保工が必要であった。そのため日本の防腐松材の支保工を使用したという。また、橋梁も2か所あった。

*1 かんのちゅうごろう 1871-1951 岩手県出身。1888年日本鉄道会社入社、1899年長谷川謹介について台湾総督府へ。各出張所長を歴任。1920年鹿島入社 1930年取締役、1939年退任。土木工業協会の調査役として『日本鉄道請負業史』の編纂にあたり、1944年に明治篇をまとめあげた。また1949-52には『鹿島組史料』を執筆、完成させた。

菅野忠五郎(1923年撮影)菅野忠五郎(1923年撮影)クリックすると拡大します

突然の工事中止。収入予想4割減、工事費予想6割増・・・

工事途中で藤田組は阿里山の森林経営に不安を感じる。施工と並行して阿里山の樹木調査と線路測量を行っていた藤田組だったが、この調査から阿里山の檜林は、台湾総督府の予想の6割程度しかないことがわかったのだ。逆に、鉄道建設費は台湾総督府の概算見積もりより6割の増額が必要と考えられた。

藤田組の藤田伝三郎は、当時三井の益田孝と双璧をなす数字に強い人物だったといわれている。この調査結果を見て藤田は、台湾各地で阿里山より楽に伐採して搬出できる森林経営が行われたら、早晩経営困難に陥ると考える。藤田組は台湾総督府の了解を得て、森林経営を中止し、放棄することにした。明治41(1908)年1月のことである。着工から一年半が経っていた。

鹿島は事業中止までに工区内の工事の9割を終えていた。名目上は「中止」だが、実際は廃棄に等しいものであった。鹿島ら施工業者は突然の言い渡しに、工事を再開する場合の防護などの措置もできず、築堤切取の仕上げもできず、隧道内の仮支保工も不十分で、すべてが中止を申し渡された当日の施工状態のまま放置せざるを得なかった。各社には、完工坪数に契約単価を掛けた清算金が支払われた。

工事の再開。「犠牲的請負」

放棄から2年後の明治43(1910)年4月、台湾総督府の直営事業として阿里山鉄道の工事を再開することが決まる。総督府鉄道部技師菅野忠五郎を嘉義出張所長とし、鉄道課長を兼任させた。しかし、突然施工が止められ、そのまま2年間放置された現場は、亜熱帯特有の湿度と豪雨により築堤切取が崩壊し、隧道の仮支保工は腐って落盤している個所も多く、坑道は閉塞して潰され、全滅状態の隧道もあった。このような状態では、とても競争入札を行って工事を再開することはできない。しかも、台湾総督府が帝国議会に提出した予算は、藤田組時代の建設予算の支払い残額を目安とした額であった。そのような「窮屈な建設予算」(『日本鉄道請負業史明治篇』p474)では普通の方法ではとても完成することができない。そのためには台湾総督府は工事の施工方法、予算の運用、請負者の選定に新たな時間と費用を費やすことになってしまう。そこで総督府鉄道課長の菅野忠五郎は、藤田組時代の請負契約者に特命随意契約によって施工させるのが得策と考えた。台湾から撤退していた吉田組を除いた鹿島と大倉の特命で、半成工事を4年前の単価で無条件に完成させることを求めた。両社とも徳義上継続施工の義務を感じていたため「犠牲的請負」(『日本鉄道請負業史明治篇』473頁)により、総督府の要求を快諾する。

鹿島の代人(=所長)は永淵清介(*2)、大倉の代人は新見商店の新見七之丞(*3)である。新見は鹿島の明治の三部長の一人であった。「鹿島の新見」か、「新見の鹿島」かと言われたほどの辣腕を揮った人物である。明治35(1902)年に独立して新見商店を立ち上げ、土建業のほかに有明海干拓、愛野村新田開発などを行った。大倉土木組の下請けの仕事もしていた。そしてこの工事は、代人とはいえその実大倉の名義を借りた実質的な請負人であった。

*2 ながぶちせいすけ 1869-1943 佐賀県出身。小学校代用教員を経て1895年攻玉社土木科卒業、鹿島入社。各地の現場を回り1910年台湾出張所主任。1923年鹿島精一と欧米視察、1930年取締役、1935年退任。
*3 しんみしちのじょう 1854-1919 愛知県出身。10代前半で鹿島組の小僧となり、1880年鹿島初の鉄道工事で代人となる。1902年鹿島岩蔵の命で独立して新見商店を立ち上げ、大倉土木組の請負のほかに、有明海干拓、愛野村新田開発などを行った。

永淵清介(台湾総督府鉄道部宣蘭建設事務所前にて)永淵清介(台湾総督府鉄道部宣蘭建設事務所前にて)クリックすると拡大します

新見七之丞新見七之丞クリックすると拡大します

時間との闘い、豪雨との闘い、岩石との闘い

今回の鹿島の請負区間は、5,6工区吉田組の残工事、7,10工区の新規工事だった。第5工区梨園寮・風吹欧間8.8kmは吉田組によって土工は9割がた、隧道は7割がた終わっていた。しかし工事が中止されている間に破損個所が発生し、隧道の支保工は腐朽し、崩壊した個所も少なからずあった。第5工区の工事は明治43(1910)年7月着手、翌年3月に完成する。しかし、明治44(1911)年8月には暴風雨により一昼夜に1,035mmの雨が降り、起点38km付近右の山(高さ180m)が崩れ、土石流となって線路を埋めた。第28号隧道とその前後の土工工事部分は全崩壊して跡形もなくなってしまう。古老曰く60年来の豪雨であった。この損害復旧には乾季に地形に沿って仮線を敷設する必要がある。とりあえず列車を通し、地層が安定強固になるのを待った。

第6工区風吹欧・奮起湖間6.4kmは、着手間もなく工事が停止されたため未着手も同然だった。隧道11か所、延長1,408m。第38号隧道(523m)は、夥しい湧水で何度も崩落陥没してしまう。鹿島が最も苦労し、悪戦苦闘した隧道である。地質は堅硬な砂岩で掘削困難な上、多量の湧水が落盤を誘発する。山高く、急峻のため資材運搬の作業員も非常な苦労を伴った。そのため明治43(1910)年7月に着工していたものの、竣工は大正元(1912)年12月の全線開通直前のことだった。

第7工区は奮起湖・哆囉嫣間2.4kmで、この区間には全線最長845mの第43号隧道と、第45隧道(523m)があった。明治43(1910)年10月に着工する。第45号隧道は特に支障なく明治44(1911)年5月に貫通、12月に竣工する。最長の第43号隧道は、その完成が全線の完成期を左右すると言われたほどで、鹿島では作業員に多額の懸賞金を出して叱咤激励し、昼夜の別なく作業に当たった。砂岩、粘板岩層が錯綜する地層で、すべてに支保工が用いられる。砂岩は堅硬で掘削が困難だった。明治45(1912)年5月にようやく竣工する。

第10工区平遮那・二万平間7.2kmの工事は明治44(1911)年8月に着工。雨季だったため土工は困難と考え、先に隧道切付に着手する。9月初めから11月下旬にかけて各隧道すべての工事を開始し、ほとんど支障もなく明治45(1912)年4月上旬にすべてを完成させた。土工は明治44(1911)年11月、乾季に入ってから着手、翌年4月下旬に大方を完成させる。しかしそれから2か月後の6月16日から20日にかけて連日の大雨に襲われ、前年に増して各所に被害が出る。二万平直下の第67号隧道は地すべりで崩壊、埋没。坑口手前には新たに150mの渓谷ができて、そこに接続する切取は崩壊していた。二万平駅の予定地は深く決壊して絶壁となり、鬱蒼としていた森林は一晩で荒廃地と化した。鹿島では直後から復旧工事を開始する。埋没した第67号隧道は開削して9インチ角の枠材で堅牢に修復し、駅は山手側に20m移動させた。復旧工事は昼夜兼行で行われたが、工事期間中60年に一度と言われた大暴風雨が二度も来襲した。竣工延長の必要があるかと憂慮されながらも、2,000人以上の作業員を使って昼夜兼行で工事に努めた結果、大正元(1912)年12月に完成する。

阿里山鉄道の線路の多くは山頂に近い部分を通過するため、山原に沿って土留め石垣を要する箇所も多かった。全長65.6km、最急勾配20分の1(50‰)、土工138万㎥、隧道71か所延長9,700m、橋梁72か所全長1,220m、駅の数25駅。鹿島が施工した隧道は45か所、延長6,272mに及んだ。大正元(1912)年12月25、26日には阿里山檜材搬出の試験運転を無事結了する。

工区 区間 延長 着工・完成 藤田組 総督府
第一工区 嘉義・竹崎 14.3km 明治39年7月(完成) 吉田組
第二工区 竹崎・樟脳寮 3.2km
5.6km
明治39年11月40年4月(完成)。中止中崩壊、腐朽などで線路移動。明治43年7月~44年2月 吉田組
大倉土木組
大倉土木組
第三工区 樟脳寮・紅南坑 4.8km 工明治40年2月(スパイラル80%、隧道60%完成)、明治43年6月~44年5月 大倉土木組 大倉土木組
第四工区 紅南坑・梨園寮 3.2km 明治40年3月(90%完成)、明治43年7月~44年4月 鹿島組 大倉土木組
第五工区 梨園寮・風吹欧 8.8km 明治40年5月(土工90%、隧道70%完成)、明治43年7月~明治44年3月 吉田組 鹿島組
第六工区 風吹欧・奮起湖 6.4km 明治40年7月(未成)、明治43年7月~大正元年12月 吉田組 鹿島組
第七工区 奮起湖・哆囉嫣 2.4km 未着手、明治43年10月~45年5月 鹿島組
第八工区 哆囉嫣・十字路 5.4km 未着手、明治44年1月~12月 大倉土木組
第九工区 十字路・平遮那 2.4km 未着手、明治44年8月~11月 大倉土木組
第十工区 平遮那・二万平 7.2km 未着手、明治44年8月~明治45年4月 鹿島組

施工区分一覧(距離は、原文に「余」がついていたりして、端数もあり、合計は65.6kmにはならない)

阿里山鉄道阿里山鉄道クリックすると拡大します

阿里山鉄道の機関車阿里山鉄道の機関車クリックすると拡大します

阿里山鉄道駅舎阿里山鉄道駅舎クリックすると拡大します

鶏や豚を飼育し、野菜の種をまく

この工事で一番苦労したのは、作業員の確保である。 工事は山奥に行くほど寒くなり、マラリアも流行した。当初、作業員のほとんどは台湾人で、構内作業の斧指(支保工作業員)、大工や特殊な職種にのみ日本人を採用していた。ところが、疫病や寒気を恐れた地元作業員は居付かず、補充に苦労し、日本から多数の作業員を募集する。夏、山麓でほぼ裸で炎熱に苦しむような時でさえ、標高2,339mの山頂近くでは褞袍(ドテラ。綿入れのこと)と火鉢が必要だった。このような気温の変化に地元の人はついていけず、感冒や胃腸病も流行っていたため、鹿島では病院も作って診療させるなど、予想外の経費を要することが多かった。また、社員や作業員の食糧や日用品の搬入にも苦労した。南部の中心都市・嘉義から竹崎まではほぼ平坦で交通の便もいいが、そこから阿里山の現場までは狭隘な急坂で300mを登り、150m険路を下り、ほぼ直上に600mを登ったのちにまた直下に300mを下る。単身での登山が難しい上に、約30kgの荷物を背負って歩くのである。そのため山中の物価は山麓の数倍に上がり、多くの作業員を抱える鹿島にとって、この出費は辛いものだった。山を登るに連れて、できる限り自給自足をしようということになる。野菜の種子を取り寄せ、畑を拓いて栽培し、鶏や豚も飼育した。少しでも運搬する食糧を減らすためである。これらはすべて鹿島の代人(=所長)である永淵清介のアイデアだった。彼はまた、奮起湖に郵便局を作り、自ら郵便局長となって郵便物を取り扱い、作業員たちの利便性を図る。

大赤字を黒字に変える男

永淵は明治の中頃から大正期にかけて鹿島の歴史に大きな役割を果たした一人であり、台湾には難工事であるこの阿里山鉄道の工事のために、明治43(1910)年5月に鹿島の台湾出張所長として赴任している。

鉄道工事に鹿島の永淵の名前が最初に出てくるのは山手線田端・池袋間改良工事で、新見七之丞がこの工事現場主任に新進の永淵清介を当たらせた。明治44(1901)年のことである。田端駅近くの道灌山付近は隧道にする予定であったが、永淵らの主張により高さ20mほどの切割に変更された。切り取った土砂は鹿島が施工していた日本鉄道会社線隅田川駅付近の埋立に利用するなどして有効活用した。また、鹿島から独立した新見七之丞が引き受けざるを得なかった甲武鉄道(現・中央線)飯田町・鍛治町間建設工事(明治35,6年頃)では、古参の作業員にてこずり、新見が永淵を鹿島から一時仮受け、現場主任として工事を任せたことで、うまく切り抜けたという。難工事であった柏崎の現場(北越鉄道会社線。現・信越本線)でも活躍した。永淵は、土木技師でありながら、請負という仕事に対する興味が勝り、請負に対する勘がよく、人間を見つけるのがうまかった。「勘で人間を見るとか、そういうことだけで仕事をして、コンクリートをどうして練ったらいいかとか、そういうのは一つも知らないですよ、あのおじいちゃんは(笑)」(『追想渡邊喜三郎』p406)と愛情を持って親しまれていた。そしてその手腕は、阿里山鉄道工事を従業員の献身的奮闘と請負者の営利を離れた犠牲的努力の結果、すっかり黒字にしてしまったのである。こののちも、台湾ではその難工事にかかわらず、永淵のおかげで黒字工事がほとんどであったという。

阿里山森林鉄道として

阿里山鉄道は、企業者と施工者の努力が実り、予定より3か月早い大正元(1912)年12月に全線竣工する。標高2,346mに位置する塔山駅は、戦前の日本最高地点の鉄道駅で「我國鐵道最高地点海抜二三四六米」の標柱が立てられていた。阿里山の檜材は12月25日、26日に最初の搬出と試験運転を終える。「阿里山の檜」という名前はステータスとなって日本中に広がっていく。日本の神社建築などに用いる巨木も数多く搬出された。明治神宮の大鳥居、橿原神宮、靖国神社神門、三嶋大社総門、東大寺大仏殿、桃山御陵、乃木神社、筥崎八幡宮、東福寺仏殿など多くの神社や自社に阿里山の檜材が用いられた。ふもとの嘉義市は木材の売買でかつてないほど繫栄し、台湾の四大都市のひとつとなったほどである。

環境保護のために森林伐採がされなくなってから久しい。現在阿里山鉄道は、「阿里山林業鉄路」という台湾の国有鉄道の一つで、林務局の管理下にある。昭和初期からは観光地としての開発が進んでいく。現在では山頂付近に森林公園「阿里山国家森林遊楽区」が広がり、1年を通して平均気温が10℃という、台湾では人気の避暑地である。しかし2009年の水害で甚大な被害を受けて一部が不通になってしまう。全線復旧を目指していた矢先の2015年には台風によりまた被害を被った。第42号トンネルの環境影響評価(アセスメント)も終了し全線開通を目指している。

現在、嘉義駅から阿里山駅まで全長71.6km。標高差2,186mを3時間半かけて結ぶ観光列車では、車窓から熱帯、亜熱帯、温帯と移り変わる植物や景色を楽しむことができる。「阿里山五奇」といわれる鉄道、森林、雲海、ご来光、夕焼けを求めてたくさんの人が訪れる。全線開通後には、さらに世界中から多くの人が訪れることであろう。樹齢千年を超える巨木が育まれている阿里山には、明治末期に先人たちが作り上げた鉄路が今なお残り、人々を楽しませている。

阿里山行列車中興号、嘉義駅にて(1981年撮影)阿里山行列車中興号、嘉義駅にて(1981年撮影)クリックすると拡大します

阿里山駅の車庫(1981年撮影)阿里山駅の車庫(1981年撮影)クリックすると拡大します

<参考資料>
菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)
鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治篇』(1967年)
藤村久四郎『台湾の建設四十七年史』(1967年)
永渕徳『永渕清介追懐録』(1956年)
難波多津二『多津つあん一代記』(1956年)
鹿島建設社史編纂委員会『鹿島建設百三十年史』(1971年)
日本土木工業協会・電力建設業協会『日本土木建設業史』(1971年)
土木学会『日本土木史』(1965年)
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史第3巻』(1971年)
長谷川章、畑暉男「火車の走る道 TAIWAN2」『鉄道ジャーナル』1971年9月号
今尾恵介監修/原武史監修『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成―朝鮮・台湾』(新潮社、2009年)

(2023年12月28日公開)

ページTOPへ

ページの先頭へ