第7回 上野駅の歴史

東京の北の玄関口、上野駅。ヨーロッパの駅を思わせる建物は、バブル時代の超高層計画を潜り抜け、リニューアルを続けながら駅の趣を残して今に至っている。上野に駅ができたのは明治16年7月のこと。その後関東大震災で全焼し、昭和初期に建設されたのが、今に残る上野駅である。

江戸城の鬼門・上野

上野の地名は江戸時代初期、伊賀上野の大名・藤堂高虎の屋敷があったことに由来する。寛永元(1624)年、江戸城鬼門を守る寛永寺(*1)が徳川将軍家の菩提寺として建立された。江戸時代は門前町として栄えたが、慶応4(1868)年4月、上野寛永寺は彰義隊の拠点となり、5月15日未明、新政府軍の総攻撃を受ける。これが「上野戦争」である。明治5年、荒廃した上野に日本初の公園(*2)が作られ、上野の核となった。

明治18年に完成した煉瓦造りの上野駅(大正時代)明治18年に完成した煉瓦造りの上野駅(大正時代)

駅ができたのは明治16年。川口以北で建設中の高崎線起点を品川、支線を上野までの計画が、平坦で短距離の上野・川口間の新線建設に変更となり、明治16年7月仮駅舎で開業、18年7月に煉瓦造りの駅舎が完成した。当時は上野・熊谷間1編成が1日2往復(*3)のみ。明治24年、青森まで26時間の線路が開通する。

そして大正12年の関東大震災で駅舎全焼。木造の仮駅舎で営業を続けた。

人と車の動線を分けた立体的デザイン

昭和5年初春、入札。当社は上野・鶯谷間の震災復興工事を施工しており、加えて鹿島組の建築工事の歴史に新たな頁を残すものとしてその入手に努めた。鉄道省にとっても近来にない大建築工事で、設計者酒見佐市(*4)ほか十数名の技術者が配置された。

この建物の最大の特色は、駅本屋の地盤の高さを利用した立体的建築にある。乗車口と降車口を上下分離し、車の平面交差を避けて広場に地下道を設け、車と人の分離を図った。1階には乗車口・列車乗降場・出札・待合・改札各広間の旅客用施設を集約、2階には駅務機能を集めて業務の効率化を図った。1万2,600m²の高架線下は小・手荷物取扱所、待合室・食堂などに利用した。宅配便のない時代の輸送手段は鉄道が主流で、新聞の輸送も鉄道便の時代である。

当時既に「大停車場の階上は、百貨店、旅館あるいは駅務以外の事務所に使用する向きが多かった」(*5)が、上野駅は駅務本位の建築に徹した。これが、時代を超えて生き残ることができた一番の理由であろう。

上野駅全景(下カラー写真参照)上野駅全景(下カラー写真参照)

たくさんの骨、刀剣、槍・・・

昭和5年3月着工。本館基礎工事は堅盤のため、杭打ちはせず6~9m掘り下げた。根掘開始間もなく白骨、刀剣、槍、鉄砲を掘り当てる。相前後して作業員の事故も相次ぐ。そこでこれら上野戦争での遺骨を集め、大供養を行った。その後事故はなくなったという。また、繁華街に近く、多数の乗降客が往来するため、当時あまり重視されていなかった安全面にも注意が払われた。

技術的な問題は少なかったが、地盤が比較的軟弱で湧水が多く防水工事に腐心し、地下鉄(昭和2年開通)との地下2階での連絡にも苦労したとのことである。

東京駅に次ぐ規模を誇る上野駅改良工事の総工費は当時の金額で270万円(*6) 。昭和7年3月に完成し、4月2、3日には盛大な落成祝賀会が行われた。そして4日の最終列車後、移転。5日から新駅舎での業務が開始された。

施工中の上野駅施工中の上野駅

落成式当日の鹿島の現場従事社員落成式当日の鹿島の現場従事社員

大勢の人で賑わう上野駅新築落成記念下谷協賛会余興場(昭和7年4月2日、3日、上野駅前広場。左下は地下鉄入口)大勢の人で賑わう上野駅新築落成記念下谷協賛会余興場(昭和7年4月2日、3日、上野駅前広場。左下は地下鉄入口)

出札広間(路線別に13個の出札窓口があった。2階は駅務スペース)現在は2階のレリーフ、天井デザインをそのまま残したレトロ館(下カラー写真参照)出札広間(路線別に13個の出札窓口があった。2階は駅務スペース)現在は2階のレリーフ、天井デザインをそのまま残したレトロ館(下カラー写真参照)

待合広間。円形は案内台、奥が改札(下カラー写真参照)待合広間。円形は案内台、奥が改札(下カラー写真参照)

心のふるさとの駅として

貫通式高架線と頭端式(行き止まり)列車線を兼ね備えた新しい駅での業務が始まる。「木造の仮駅舎時代が長かっただけに、新駅舎の設備は目を見張るものがあった。(中略)何もかも新しい設備にして高崎線の創業駅にふさわしい重厚ある駅に生まれ変わったのである。」(*7)

昭和60年、上野地下駅竣工(施工・鹿島)。新幹線の開業で多くの特急列車が姿を消し、平成3年の東北・上越新幹線の東京駅乗り入れで、上野は通勤客主体の駅に変貌した。駅務機能は集約されて1階ホーム脇に移り、改札広間、貨物と旧駅務のエリアは商業施設に生まれ変わった。2006年7月にはまた新たな施設として5,400m²のフィットネスクラブも誕生し、延べ床面積は33万5,000m²となるが、玄関の右側柱には「建物財産票 本屋1号 昭和9年」のプレートがあり、現在でもそこここに昭和初期の面影を残している。

昭和7年の竣工時には、正面玄関口の出札広間天井裏に工事関係者全員の氏名を書いた額を納めたという。工事に携わった組員たちは全国へ散り、その後の鹿島の建築工事を支えていった。

上野駅正面玄関口(現在)上野駅正面玄関口(現在)

レトロ館(左が正面玄関口)レトロ館(左が正面玄関口)

中央改札前(右が正面玄関口)中央改札前(右が正面玄関口)

高崎線と寝台特急北斗星高崎線と寝台特急北斗星

上野駅改良工事:SRC造(待合広間S造、地下RC造) 地上2階(一部3階)地下2階 延べ12,276m² 工期:昭和5年3月~昭和7年3月

*1 現在の上野公園一帯。慶応4年3月5日徳川慶喜が寛永寺に謹慎、4月11日の江戸城無血開城後、慶喜は水戸へ退隠し、彰義隊の拠点となった。現在、旧寛永寺の本坊表門が国立博物館隣に、五重塔が上野動物園内に残る。
*2 オランダ軍医ボードワン博士(1822-1885 1862年から9年間長崎医学校教師)が政府に公園作りを提言。
*3 上野発6:00熊谷着8:24、上野発13:30熊谷着15:54の2便とそれぞれの熊谷発上り。王子・浦和・上尾・鴻巣に停車。日曜日は王子滝野川に遊ぶ避暑客のために増便。現在は新幹線で34分、高崎線で64分。駅は16駅に増えた。
*4 鉄道省技師。上野駅竣工後、大阪駅本屋基礎築造工事に携わる。
*5 平井喜久松(鉄道省東京第一改良事務所長)「上野驛本屋新築工事概要」『土木建築工事画報』昭和7年3月号
*6 現在の価値への換算は難しいが米価基準で130億円位。
*7 日本国有鉄道上野駅『上野駅100年史』(昭和58年)p74

(2007年2月19日公開)

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