第24回 姫路城昭和の大修理―素屋根工事

国宝・姫路城は、1993年に法隆寺地域の仏教建造物と共に日本初の世界文化遺産として登録された。この美しい城を守ろうとする人々の努力によって、築城から400年経った今もその堂々とした姿を見せている姫路城であるが、昭和初期には大雨によって石垣が崩れ、城の大天守は傾きかけ、見る影もなかったのである。今から50年ほど前に行われた姫路城の昭和の大修理に鹿島が携わったことを知っている、あるいは覚えている人はどのくらいいるだろうか。

400年前に築城

鎌倉時代末期の元弘3(1333)年、播磨の豪族・赤松則村が砦を築いたことがその起源と言われる姫路城に、城らしきものが築かれたのは正平元(1346)年のことであった。築城したのは則村の次男・貞則。初代姫路城主といわれる所以である。その後福岡黒田氏の祖・小寺重隆が天文24(1555)年から永禄4(1561)年の間に築いたのが本格的姫路城郭の誕生といわれる。

慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で活躍した池田輝政は東三河の吉田15万石から播磨52万石に抜擢され、姫路入りする。そして翌慶長6(1601)年から慶長14(1609)年にかけて姫路城を大規模に改築したのである。城作りは川の流れを変えることから始まった。その後3つの小さな村を移設して城下町を作り、内堀・中堀・外堀を螺旋形に作って内郭・中郭・外郭の区画(*1)を明確にする。今に残る連立式天守ができたのもこの時代である。

しかし輝政は病に倒れ慶長18(1613)年に死去、跡を継いだ長男利隆が3年後に没した時、その子光政はまだ8歳であった。そのため幕府は姫路城主の任を果たすことができないと判断し、鳥取城へ移す。あとに来たのは徳川四天王の一人本多忠政(15万石)。元和3(1617)年、姫路入りした忠政は西の丸を作り、三の丸に自らの住む本城、息子夫婦の住む武蔵野御殿を建て(*2)、長局(*3)、化粧櫓(*4)を整え、向御屋敷、西御屋敷、東御屋敷(*5)を建設し、現代に残る姫路城は完成した。

*1 内郭には城の諸設備、城主の館、倉庫など。中郭には主要な家臣の居宅。外郭には商工業に従事する町民と下級士族の居宅が設けられた。
*2 伏見城を壊した際に幕府が諸大名に分賜した用材や建具が多く使われたために、菱ノ丸、武蔵野御殿とも豪華絢爛となったといわれる。
*3 長さが300mもあり、百間廊下とも呼ばれた。御殿を囲むように作られており、忠刻(忠政の子)の嫁・千姫(家康の孫)の侍女が住んでいた。
*4 けしょうやぐら 千姫と忠刻のくつろぐ場所。千姫が徳川家から貰った10万石の化粧料で建てたと言われる。重要文化財。
*5 すべて藩主休息の場所。

姫路城姫路城

次々と入れ替わる藩主と江戸時代の補修

江戸幕府は姫路城を西国への重要な要衝と考えており、親藩及び譜代大名が歴代藩主を務めた。池田光政の例のように幼少の藩主が城主となった場合などにはすぐに国替えを行い、藩主を入れ替えている。そのため初代池田家が17年、二代本多家が22年城主を務めたあと、奥平松平家(8年)、榊原松平家(20年)、越前松平家(14年)、本多家(23年)、榊原家(37年)、越前松平家(8年)とめまぐるしく入れ替わり、寛延2(1749)年、前橋城主酒井忠恭が入城して10代119年に及ぶ支配の後、江戸時代の幕を閉じた。

そういった中での最初の補修は、築城から50年近くたった明暦2(1656)年、大天守を支える東西の心柱(*6)の地階部分が腐りかけたため、腐った部分をくりぬいて新しい木材を入れて補強した。寛保3(1793)年にはゆがみが大きくなった大天守1、2階に筋交いと支柱を加える補強を行い、寛延2(1749)年、宝暦9(1759)年、安永2(1773)年の洪水で被害を受けて大規模な修繕工事が行われた記録が残っている。ほかにも屋根の葺き替え、補修工事は何度も行われ、台風や大雨の後には石垣、門、橋などの修理を行っている。これらの補修・修理はすべてその都度幕府に伺いを出し、許しを得てから行っていた。
しかし、すべての建物を維持するのは難しく、二ノ丸の一部、西ノ丸の一部などは崩壊してそのままになっていたところもあったという。

*6 しんばしら 中心となる柱。現在の姫路城の心柱は高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cm。(姫路城の建物の高さは31.5m)

鳥羽伏見の戦いから明治へ

幕末、姫路城主・酒井忠惇は老中を務めていたため、鳥羽伏見の戦いでは幕府方についた。姫路城は岡山藩と龍野藩の兵士に包囲されるが、総攻撃直前、勤皇の豪商・北風正造が官軍に私財を献上し、攻撃を免れた。明治2(1869)年の藩政奉還、明治4(1871)年の廃藩置県によって姫路城は城としての機能を失い明治6(1873)年には廃城令が出される。敷地を利用するための存城と解体する廃城に分けられ、多くの城が失われた。姫路城も競売にかけられ、23円50銭で落札(*7)される。瓦を売るのが目的であったが、解体費用がかかりすぎるとそのままになった。

現在国宝となっているほかの3城にも廃城の危機があった。松本城はやはり競売に出され、309両(*8)で落札されたが地元有志が保存のために買い戻している。同じく国宝の彦根城は、解体の危機に瀕したが明治11(1878)年10月、北陸巡幸を終えて彦根を通った明治天皇が保存の大命を下したために残存し、廃城が決定していた犬山城は明治24(1891)年の濃尾地震で天守や城門の一部が倒壊したため旧犬山藩主成瀬正肥に城が譲与され、成瀬家が再び犬山城を所有し、現在に至っている。

姫路城には明治7(1874)年に大阪鎮台姫路分営が城内に置かれることになり、周辺一帯が取り払われる。陸軍省第四局の大佐・中村重遠が保存に尽力し、明治12(1879)年、存続が決定。陸軍省の費用で補修が行われることとなる。しかし財政難の新政府から支払われた一時金は、大天守地階補強のための支柱交換に使われた程度だったという。明治15(1882)年には火事で一部を焼失し、日清戦争後は第10師団の軍用地に供されて士族屋敷も取り払われた。廃墟となった城はどんどん荒れ、屋根には雑草が生え、瓦は落ち、壁も石垣も崩れていく。築城時から少し傾いていた天守の傾きもますますひどくなっていった。この状況を憂えた市民が立ち上がり「白鷺(はくろ)城保存期成同盟」が結成される。国会への市民運動などの成果により、明治43(1910)年には国費93,000円(*9)を投じて大修理が行われることとなった。この「明治の大修理」では廃墟同然の城を整備し、天守閣の傾きの進行を食い止めるために地下から6階まで筋交を挿入した。明治44(1911)年に完成し、翌大正元(1912)年の一般公開時には、長い行列ができたという。

*7 米価換算で3万円、企業物価指数は明治34年からだが、その換算でも3万5千円程度。買い取った人の息子が昭和2(1927)年に所有権を主張して訴訟を起こし新聞沙汰になった。引き受ける弁護士もなくそのままになっていたが、後の調査で落札直後に買い取りそのものが取り消されていたことが判った。
*8 日本銀行金融研究所貨幣博物館HPによると幕末期の金1両は米価換算で3-4千円のため、123万円程度。
*9 米価換算で3億7千万円程度、企業物価指数換算では11億2600万円程度。

昭和の大修理へ

昭和3(1928)年、姫路城は史跡名勝天然記念物保存法によって史跡に指定され、昭和6(1931)年1月、国宝に指定される。法隆寺と並ぶ昭和の二大大修理と呼ばれる解体修理はここから始まった。

昭和9(1934)年6月、西の丸の櫓の一部が石垣もろとも大雨で崩壊し、崩壊した西ノ丸の解体修理を国の直営工事として開始。この工事は昭和13(1938)年に完了し、引き続き腰曲輪の櫓や渡櫓、門、土塀などの修理工事が始められた。しかし戦時下のため工事は昭和18(1943)年に中断される。空襲が激しくなった戦争末期には、真っ白な姫路城の大天守をコールタールで黒く染めたわら縄で編んだ網で隠すなどして市民が空襲から守った。

昭和20(1945)年6月22日午前10:30、姫路城の南東約800mにある川西航空機姫路製作所が爆撃され、死者・行方不明者351名、重軽傷者350名、罹災者10,225名の被害を受けた。また7月3日深夜には、姫路城の南東を中心に半径4,000ft(1.2km)の空襲により、死者・行方不明者177名、重軽傷者160名、罹災者45,182名の被害(*10)を受けながらも、焼夷弾は市街南部と東部に集中、姫路城は奇跡的に損壊を免れた(*11)。

昭和24(1949)年9月、姫路市長を会長とする白鷺城修築期成同盟会が組織され、市民の署名運動と国会などへの陳情が行われる。文化財保護法が制定された昭和25(1950)年度から本格的修理工事が再開され、8月には文部省の外局として文化財保護委員会が設立されたため、姫路城修築事業は文部省から文化財保護委員会に引き継がれ、直轄工事として実施されることとなる。昭和25(1950)年度から30(1955)年度までに菱の門以下二の丸内の諸建物の修理を実施。いよいよ大天守を中心とする本丸の諸櫓の修理計画の実施に移る。

大天守が東南に傾斜していることは、文化・文政時代から「東傾く姫路の城は花のお江戸が恋しいか」と歌われるほど有名であったが、昭和16(1641)年京都大学教授棚橋諒博士の実測によって心柱が2本とも東南に45cm傾いていることがわかっていた。ところが昭和28(1953)年に同博士が再測した結果、傾斜は50cm以上に拡大し、今後加速度的に増加する危険があることが判明する(*12)。そのため昭和30(1955)年度後半に天守修理着手に必要な準備作業が開始された。

*10 当時姫路市の人口は107,643名。
*11 当時姫路城の中郭は陸軍師団司令部が使用し、内郭内は公園になっていた。敷地内の鷺城中学校は焼失し、兵舎の一部が損傷を受けた程度だった。通説の通り米軍が文化財である姫路城を攻撃しなかったためというわけではない。夜間飛行で当時はまだ性能のよくないレーダーのため攻撃計画地点からずれたためといわれる。
*12 傾きは予想以上で、素屋根施工中、大天守2階の北側で城から離れすぎ、南側では城にぶつかるほどになっていた。

修復前の姫路城(部分) 修復前の姫路城(部分) クリックすると拡大します

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素屋根で覆う

素屋根とは、修復や建築の際に建物を覆って保護し、完成時に取り払う仮の屋根のことをいう。
今回建設される素屋根は姫路城解体修理工事期間中大天守を覆い、8年の工期に耐えるものでなければならない。天守解体中には内部が空洞となるが、台風時にも耐えられる強度が求められる。そのため、建物解体に伴って生じる空間を水平及び垂直方向に繋ぎ合わせる内部補強を行って風速40m以上の台風にも備えることとした。

石垣下から大天守までの高さ57m。解体資材を主要工場地域である三の丸まで運ぶために200mの直線で結ぶ桟橋も必要である。文化財保護委員会では、予め設計模型を作り、東京大学理工学研究所に依頼して風圧試験を行うなどして万全を期した。

大天守素屋根構造模型 大天守素屋根構造模型 クリックすると拡大します

素屋根施工中遠景 素屋根施工中遠景 クリックすると拡大します

大天守607.5坪(2008m²)を覆う素屋根の建設には、丸太1万本以上、ボルト120tが必要で、その構造は丸太組、抱き合わせ柱複合組立。各継手ボルト及び鉄線搦み、屋根入母屋造り、風抜き屋根付、周囲庇三段、亜鉛引大波鉄板葺、帯鉄押えボルト締め。周囲側面菱金網張、帯鉄押えボルト締め付け、内部足場5段、各階足場間連絡用登桟橋付、リフト1基というものだった。

昭和31年3月に鹿島に入社し、山陽百貨店3期工事作業所に赴任していた黒崎昇は、この素屋根の見積もり金額を出す際に、大工が木工事を行う場合、材木の費用の3倍ぐらいを見積もるということを聞き覚えていたため、材木の費用を総工事費の1/3と読み、数字を積み上げた。もちろん若手社員の出した数字がすべてではないが、黒崎の出した入札価格に近い数字が鹿島の入札価格となり、結果としてこの素屋根工事を受注することができた。

3万本以上の丸太を検収

昭和31年6月1日、素屋根工事が始まる。
鹿島の現場事務所は所長山本一政の下に技術系社員が3名。一番若手の黒崎は来る日も来る日も文部省の担当官と一緒に丸太の検収作業を行った。丸太の必要量は1万本。日本中から4寸以上のヒノキが集められる。荷馬車に積まれて彼の元に届く丸太を何日も何か月もチェックした。作業員を連れ、測量用の布テープで丸太の端から端まで真っ直ぐかどうかを確かめ、末口と元口が少しでも曲がっているもの、反っているものは返品となる。削って4寸の真っ直ぐな丸太になるもののみを厳選するため、必要量1万本に対して持ち込まれた丸太は3万本以上に上ったという。

検査を通った丸太はそのまま加工場へ持ち込まれ、墨打ちされ、のこぎりで長さ20尺(約6m)~28尺(約8.5m)までの5種類の長さに切られ、ノミで細工が施され、インクラインに乗せられる。インクラインで運ばれた丸太は、とび職の作業員たちの手によって組み立てられていく。しかしここで予想外の事態が起こる。大天守の南と北で、工事の進捗が全く違うのだ。

構造物は普通、東西南北各面を同時期に立ち上げていく。ところが姫路城素屋根の工事では、これが同じように立ち上がっていかない。北面の進捗が極端に遅れたのだ。原因は、日陰であることといつも強風が吹いていたことによる。素屋根の軒高は171尺(51.82m)。当時はまだ31mの高さ制限があった時代である(*13)。模型を作り、理論上・計算上の風向きや風の強さは計算していたが、とび職の職人たちにとって初体験の高さであり風の強さであった。おまけに6月から始まった工事であるから素屋根が組み立てられ、高くなっていく時期は冬である。日照時間は短く、一日中日が当たらず、風の強い北面と、風があっても太陽光を暖かく感じられる南面とで工事の進捗に差が出たことは、致し方ない。しかし進捗を管理する鹿島の黒崎らはそれで苦労し、作業ヤードの一番奥にある鹿島の現場事務所はいつも遅くまで明かりが灯っていたという。

昭和32(1957)年3月27日、素屋根の最上部に避雷針が2基取り付けられ、工事を終えた。

*13 31mの高さ制限が撤廃されたのは、昭和37(1962)年8月のことで、その法令改正により日本初の超高層ビル霞が関ビル(昭和41・1966年竣工)の建設が可能となった。

昭和の大修理から平成の修理へ

石塁から積み直した解体修理工事では、腐朽がはなはだしい1/3を取り替えたものの、柱、梁、床材などすべてそのまま使われた。5層6階、総重量5千tにもなる巨大木造建築物を支える2本の心柱のうち1本はそのまま使われたが、西の心柱は、芯が腐っていたために新しいものと交換することとなった。この腐朽は、築城時に木材の乾燥が不十分のため起きたもので、築城48年目(1658年)に修理をしていたが、その後も腐朽が進んでいた。昭和の大修理の大きな目的の一つがこの腐った心柱を取替えることだった。東の心柱に倣って一本通しのものとなると、長さ25m以上、礎石上で直径1mは必要である。四国、山陰、近畿、富士・・・と日本全国を探し回るが、檜の大木は見つからない。納入期限である昭和34(1959)年3月があと1か月と迫る中、ようやく木曽の国有林に適材を見つけたという朗報が入る。しかし海抜1200mの山中に聳え立つ檜の大木は、1.3mの雪に阻まれて伐採ができず、営林署の山開きを待って伐採するも、失敗して途中で折れてしまう。すぐに第2候補の選定にかかり、同じ木曽の国有林の中に逸材を見つけ、伐採許可を得る。

昭和34(1959)年4月から天守の細部の組立に入っていた工事は、心柱がないため滞っていた。このままでは作業員を遊ばせることになってしまう。たまりかねた加藤得二(文化財保護委員会姫路城国宝保存工事事務所主任。施主側の現場責任者)が自ら木曽まで出向き、営林署に頼み込み、ようやく伐採に成功したのが、5月19日。樹齢数百年、高さ35m余、直径110cm、重さ約10tの檜の大木を26.4mの長さに切って、山林鉄道に載せて運び出す。2か月の準備期間を経て、心柱となるための木は、台車に載せられ、山林鉄道を利用して搬出されるが、急カーブの多い渓谷を下ろすうち、岐阜県恵那郡付知町(現・中津川市)付近の海抜700mぐらいのところで、木が台車からはずれて崖下に落ちてしまう。根元の部分は台車にくくりつけられたまま残ったために、26.4mの木は、16mのところでぽっきり折れてしまった。加藤は途方に暮れる。これからまた探すとなると半年は余計にかかってしまう。時間の余裕もない。「ずいぶん悩んだが、結局もともと2本継ぎだったのだから、今度も2本継ぎで行こう」(*14)ということになり、16m残った下方部を使用し、足りない上方部は、姫路近郊の神崎郡笠形神社境内木(12.7m、8t)の提供を受けて継ぎ足すこととなった。

搬送中に折れた心柱搬送中に折れた心柱

昭和34(1959)年8月12日、姫路貨物駅から姫路城の現場まで600mの道路は心柱を祝う市民で溢れ、兵庫県、播磨土建組合800名がそろいの法被・鉢巻姿で木遣に合わせて心柱の祝い引きを行った。
図らずも二代目の西の心柱も2本継ぎとなったが、後に、大天守の心柱が2本とも通しであった場合、作業が困難となる上、構造的にも柱を傷めることがわかり、加藤らは怪我の功名にほっと胸をなでおろしたという。

*14 加藤得二「国宝姫路城の大修理について」朝日新聞社編『国宝姫路城』(朝日新聞社)PP263-264

昭和38(1963)年10月、工事施工中に使われていた大天守1階南面の外壁中央部の開口部も、素屋根解体の最終段階で閉鎖された。天守と周辺工事がほぼ完了した後、水五門南方土塀の復旧工事を行い、本工事は完了した。大桟橋の解体撤去とそれに伴う一部土塀石垣の復旧を行い、延べ20万人、日本の文化財修理事業の中でも最大規模といわれる工事は、戦争を挟んで30年に及ぶ工事を終えた。

昭和39(1964)年6月1日工事完成式典後、城は姫路市の管理の下に置かれ、一般公開される。
1993年12月、姫路城、法隆寺、屋久島、白神山地の4箇所が日本初の世界遺産として登録された。
2009年度から5年間の予定で、平成の修理(大修理ではない)が予定されている。昭和の大修理の時のような解体はされないが、素屋根で覆われ、瓦の葺き替え(ほとんどが再利用)と漆喰塗りが行われる。今回の素屋根は鉄骨造で、内部には見学者用エレベータを設置、ガラス越しに大天守の修理の様子なども見学ができるという。

平成修理素屋根イメージ(右手前・資材搬入用足場) 平成修理素屋根イメージ(右手前・資材搬入用足場) クリックすると拡大します

素屋根断面図 素屋根断面図 クリックすると拡大します

姫路城西の丸化粧櫓と姫路城大天守の桜の風景 姫路城西の丸化粧櫓と姫路城大天守の桜の風景 クリックすると拡大します

参考図書
文化財保護委員会『国宝・重要文化財 姫路城保存修理工事報告書(本文)(附図)』(1965)
朝日新聞社編『国宝姫路城』(1964)

参考
DVD『姫路城天守修理工事記録』企画:鹿島建設、製作:日本技術映画社(現・カジマビジョン)、指導:文化財保護委員会構造物課(1965)
姫路市ホームページ

(2009年2月27日公開)

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