第43回 ワシントン日本大使館の茶室

アメリカの首都ワシントンD.C.にある駐米日本大使館に、一白亭(いっぱくてい)という茶室とその前に広がる日本庭園がある。昭和35(1960)年に鹿島が施工した茶室と庭である。日本が主権を回復してまだ9年(*1)。日本の建設会社にとって戦後初のアメリカでの工事だった。

*1 昭和26(1951)年9月8日 サンフランシスコ講和条約が調印され、日本は主権を回復する。

茶室全景 茶室全景クリックすると拡大します

もはや戦後ではない

「もはや戦後ではない」と「経済白書」の結びに名文句が記載されたのは、昭和31(1956)年7月のことである。その前年の昭和30(1955)年、日本の国民総生産(GNP)は戦前の数値を越えた。「戦後は終わった」と明るい局面を見る意味に捉えられがちだが、実はそのあとに「我々は今や異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」という文章が続く。経済企画庁は、新たな時代の幕開けを不安視していた。

しかし、高度経済成長は始まっていた。朝鮮特需(*2)を機に敗戦で遅れていた産業技術が進歩し、大量生産方式が浸透していく。日本はこの時代、産業立国となるための基盤を築いていた。昭和35(1960)年に成立した池田内閣の積極的経済政策によって、公共・民間の設備投資熱は活況を呈する。電源開発長期計画、道路、鉄道、港湾の長期整備計画、治山治水5か年計画、住宅建設計画などが次々と発表され、昭和39(1964)年に開催が決定した東京オリンピック関連工事も続々と行われるようになっていった。一方で、炭鉱などの労働組合による労働争議や、60年安保闘争が行われた年でもある。

鹿島ではこの年(昭和35・1960年)、受注高734億円と業界最高を記録、ドル換算でも世界トップテンに入るほどの勢いだった(*3)。製造業はこぞって工場を新築・増築し、ダムや発電所も次々と施工される。鹿島の建築の礎ともいえる三井不動産日比谷三井ビルが竣工したのもこの年である。日本初の高速道路となる名神高速道路山科工区(「鹿島の軌跡」第41回参照)も完成、ほかに加賀三湖干拓工事、八郎潟干拓工事、愛知用水愛知池工事など日本の農業土木にも貢献していた。20年前の昭和15(1940)年には1,000人規模だった社員数は3,800人にまで増え、毎年の採用数も昭和34(1959)年352名、昭和35(1960)年391名、昭和36(1961)年711名と増加の一途をたどっている。採用数一覧の昭和31(1956)年の備考欄に人事部が書いたメモには「景気上昇、物価安定。工事いよいよ活発となる」とある。同業他社と比べても社員数、採用数とも群を抜いていた。

*2 1950年(昭和25)に勃発した朝鮮戦争に伴って日本にもたらされた特需のこと。昭和27(1952)年までの3年間に生じた特需は10億ドル、間接特需は昭和30(1955)年までには36億ドルに達した。
*3 鹿島の受注高は翌昭和37(1962)年には、アメリカのモリソン・クヌードセン社に次いで世界第2位、翌年には世界第1位になった。

日米修好通商条約百年

昭和35(1960)年は、万延元(1860)年に日本とアメリカの間で日米修好通商条約が結ばれてから100年目にあたる。「幕府が派遣した日本最初の遣米使節、新見豊前守正興の一行が、品川湾より米船ポーハタン号に搭乗し、ホノルル、サンフランシスコ、パナマを経由して、ワシントンに到着したのは西暦1860年(万延元年)3月25日であって、今年がちょうどその百周年にあたっている。」と鹿島守之助(*4)は、『鹿島建設月報』に寄稿している(*5)。

彼は「本年1月には岸総理が新安保条約調印のため再び渡米し、ちょうど百年前に、ブキャナン大統領が海外に派遣された日本最初の外交使節を引見したと同じホワイトハウスの広間において、大統領立会という異例の儀礼の下に調印を了した。」と、その歴史的意義について述べ、新たな日米関係について「紆余曲折に富んだ日米修好100年の歩みを顧みて、われわれは日米国交の今後の百年がさらに真のパートナーシップで貫かれることを衷心より念願するものである。」と結んでいる。

日米修好百年にあたるこの年には、日米でさまざまな催し物が計画された。皇太子ご夫妻の訪米、記念切手の発行、日本丸、海王丸の訪米、勲章の下賜、親善使節団の米国派遣、記念祝賀音楽会、晩さん会、記念ドラマ及び作曲募集、黒船祭などが行われた。

経団連、日本貿易会、日本商工会議所の財界三団体で組織された「対米貿易合同委員会」は、ワシントンの日本大使館内に純日本茶室と庭園を寄贈することとなり、鹿島がこの施工を請け負った。

*4 かじま もりのすけ(1896 -1975) 学者、経営者、政治家。法学博士。鹿島の第4代社長(1938-1957)を務めた。著書「日英外交史」「日本外交政策の史的考察」により日本学士院賞を授与されている外交史家でもある。参議院議員(1953-1971)で外務委員会委員長をつとめた。後に「日本外交史」(全33巻、別巻4巻)、「外交論選集」(全12巻、別巻2巻)を著している。
*5 鹿島守之助「日米国交百年の歩み 日米修好通商百年記念に寄せて」『鹿島建設月報』昭和35(1960)年6月号P19

はじめての木造プレハブ施工

寄贈する茶室は木造平屋建、一文字瓦葺、庇部分は銅板葺で建築面積は87.72m2。当時神奈川県大磯町の三井本家大磯別邸にあった国宝の茶室・如庵(*6)を模した三畳半の茶室と、表千家四世の如心斉が考案したと言われる花月床(上段4畳つきの8畳)を六畳の畳廊下で接続するもので、茶室設計の第一人者である江守奈比古(*7)が設計した。床の間やふすまは、桂離宮(*8)のデザインを模している。

昭和34(1959)年11月、施工を開始する。工事は東京都新宿区柏木(現・西新宿7丁目)の鹿島新宿作業所の敷地内に架設屋根(覆い)を作って行われた。建築部(当時本社機構の中にあった現業部門。現・東京建築支店)の大きな営業所の一つだった。茶室に使用する用材は、日本と比較して湿度の低いワシントンの気候を考慮して、自然木と比べて乾燥に強い合板を多用。現地では少数の職人で短期間に工事を仕上げなければならないことから、内壁は紙張り、外壁は塗装した合板、フレキシブルボード(*9)のパネル組み立て方式を採用した。また、当時はまだ新しい材料だったアクリル板なども使用した。木造のプレハブ工事というのは初めての試みだった。契約までの折衝は海外工事に詳しかった建築工務部の吉田斉一が、施工は建築部の中村政晴作業所長が中心となってあたった。

翌年1月21日、このプロジェクトに関係する財界各所に披露するための展示会が開催される。1月22日付読売新聞には、「桃山時代風の豪華な茶室が作られ、日米修好百年記念にワシントンの日本大使館に寄付されることになった」と写真付きで紹介されている。

展示会の翌日には解体工事が始まる。現地で組み立てるときのために、それぞれの部材にはナンバリングがされた。木材だけでも1番から400番までの番号が打たれたという。それらの番号を落とし込んだ図も用意した。木材、竹、瓦、畳、建具、硝子、造り付け家具、障子紙、茶道具、炭、各補助材、照明器具、庭石、石燈籠、蹲(つくばい)、塀材料などの材料はそれぞれ木枠、木箱計88梱包に格納され、2月上旬、横浜港から船便でニューヨークに発送された。梱包から現地での開封まで日本通運が請け負う。工事費は輸送費込みで2,800万円と発表された。現在の価値で約10億円である(*10)。3月5日からワシントンで本工事に着工予定だった。

*6 信長の実弟織田有楽斎(うらくさい)(1547~1621)が京都建仁寺境内に1618年頃建てた茶室。明治41(1908)年に三井邸(東京市麻布今井町)内へ、昭和17年(1942)年三井家別荘(大磯)へ移築、昭和40(1965)年名古屋鉄道に売却、昭和47(1972)年、愛知県犬山市の有楽苑に移築。昭和26(1951)年に国宝に指定されている。
*7 えもり なひこ(1902-1992) 慶応大学経済学部卒。通産大臣秘書、ニッポン放送常勤監査役、大磯ゴム工業監査役、コッス測定器社長、観世会館社長、富士エンドレスベルト社長、港商事社長などを務める。MOA美術館内の茶室など茶室設計でも知られ、数多く手がける。
*8 17世紀に八条宮初代智仁親王と二代智忠親王によって造られた。面積7万平米。日本庭園として最高の名園といわれる。(宮内庁ホームページより)京都市西京区桂にある。
*9 セメントと補強繊維を原料に高圧プレスで成形した耐衝撃性・耐水性に優れた不燃ボード
*10 国内企業物価指数接続指数(日本銀行ホームページより)をもとに計算。

精鋭部隊9人でアメリカへ

昭和35(1960)年2月29日、八重洲の鹿島本社第1号会議室で、渡米する吉田栄一理事、堀川昭夫副参事の歓送会とフィリピン・マリキナダム現地調査団歓迎会を合わせた歓送迎会が催された。当時海外工事は同年3月に終了した戦後賠償工事第一号のバルーチャン発電所(ミャンマー)はじめ、ネヤマ排水トンネル(インドネシア)、ウジミナス製鉄所(ブラジル)、丸善石油製油所(シンガポール)など、土木系インフラ整備事業が多かった。この茶室工事は、規模は小さいが建築では戦後初めての海外工事であり、日本の建設会社がアメリカ本土で施工する初めての工事でもあった。

吉田栄一は、当時建築工務部次長。昭和14(1939)年に東京帝国大学建築学科を卒業、卒業制作では、優秀作品に贈られる辰野賞を受賞している。卒業後、陸軍に入隊し、終戦時は建築技官として松代大本営の築造を担当していた。鹿島の施工である。昭和21(1946)年春、鹿島に入社。八重洲ビル作業所の工務主任を皮切りに座間出張所長など現場所長を歴任し、昭和27(1952)年企画監査部第三部、建築企画課長を務めた。不動産管理部や原子力部の創設にかかわり、昭和35(1960)年、ワシントンD.C.の茶室建築を命ぜられた時は45歳。建築工務部次長、不動産管理部次長、原子力部次長という多忙ぶりだった。

吉田と共にアメリカに向かったのは、30歳の堀川昭夫(てるお)である。昭和27(1952)年東京大学工学部建築学科を卒業して鹿島に入社、霞が関合同庁舎、新橋の堤ビルなどの施工に携わってきた。昭和35(1960)年当時は赤坂作業所の現場に所属していた。彼の抜擢は現場での実務経験と、頭の回転の速さ、機転、度胸、英語力などが買われたものと思われる。

ほかに大工3名、瓦工1名、庭師(植木職人)3名、合計9名がこのプロジェクトのメンバーだった。庭師の3人は、当時すでにその名を轟かせていた造園家で東京庭苑社長の小形研三(*11)と同社の若手精鋭2名である。

*11 おがたけんぞう(1912-1988) 佐賀県唐津市出身。旧制千葉高等園芸学校卒業。飯田十基に師事。1934年東京市技師となり保健局公園課勤務。1942年応召。1946年帰国し飯田十基主催東京ガーデナーに復職。1950年東京ガーデナー社長就任。1958年2月東京庭苑株式会社設立。1961年~82年日本大学理工学部非常勤講師、1963年~69年日本造園学会理事など公職多数。1986年日本造園コンサルタント協会会長、ハワイ大学日本庭園、万博日本庭園、沖縄海洋博覧会熱帯ドリームセンター植栽、都立昭和公園内日本庭園の設計施工など作品多数。1988年、オーストラリアのブリスベン国際レジャー博覧会で日本政府出展日本庭園の設計施工監理の陣頭指揮中逝去。

いざ、ワシントンD.C.へ

昭和35(1960)年3月1日、彼ら9名は羽田からワシントンに向けて出発する。羽田は昭和27(1952)年7月にアメリカから返還され、正式名称を東京国際空港とした。返還後誘導路、エプロンの舗装などが行われ、昭和30(1955)年5月にはターミナルビルが開館する。まだモノレールなどの公共交通機関はなく、旅行会社が手配したハイヤーか、電車とバスを乗り継いで向かうのが普通だった。

羽田からワシントンD.C.までは、まずホノルルまで飛び、そこからアメリカ西海岸の空港を経由してアメリカ東海岸の空港まで飛行機を乗り継いでいった。当時、サンフランシスコ空港建家の天井は目地なし白一色の広大なもので、初めて渡米した堀川らは、強く印象に残っているという。この天井材はのちに日本でも広く使われるようになった。

昭和35(1960)年12月、鹿島守之助会長と鹿島卯女社長、鹿島昭一副社長がアメリカ、ブラジル、アルゼンチン、ヨーロッパ諸国の視察に出た際には、午前10時に羽田を発ち、ホノルルまで6時間10分、そこから5時間でロサンゼルス、また5時間かけてニューヨーク、ワシントンD.C.まで車で2時間強という時間がかかっていた。飛行機に乗っている時間だけでも16時間余。乗り継ぎ時間も考えると丸一日以上かかっている。吉田たち一行と単純比較することはできないが、直行便がなく、運行本数は少なく、情報伝達速度の遅い時代、ワシントンD.C.まで行くのは大変なことだった。現在なら成田国際空港からワシントン・ダレス国際空港まで直行便で12.5時間、毎日6便が運航している。

日本人の海外渡航が自由化され、観光での渡航が認められるようになったのは昭和39(1964)年4月1日のことである。自由化直後のハワイ9日間のパック代金は、364,000円。大卒初任給が19,100円、平均月収が6万円の時代である。「ハワイ旅行」には「夢の」という枕詞がついた時代だった。1ドル360円の固定相場制の時代である。加えて外貨の持ち出しは一人年間500ドルまで(のちに一人一回500ドルに緩和)という制限があった。

雪のワシントンD.C.

アメリカは昭和27(1952)年に大統領に就任したアイゼンハワーが二期8年の任期の末期を迎えていた。昭和34(1959)年にはアラスカ州が49番目、ハワイ州が50番目の州として誕生した。首都ワシントンD.C.の緯度は仙台市と同じくらい。四季ははっきりしており、日本より春と秋が少し短く、夏と冬が少し長いといわれる。降雪量は比較的多い。時差はマイナス14時間。日本大使館は、2514 Massachusetts Avenueにある。ホワイトハウスの北西2.5kmほどの場所で、別名大使館通りとも呼ばれ、周りには各国の大使館が並んでいた。敷地の西側にはロック・クリーク(Rock Creek)が流れ、河岸の林は茶室には絶好の借景となっている。川の上流には7平方kmもある広大な国立公園ロック・クリーク・パークがあり、ロック・クリーク峡谷の自然を楽しむことができる。川は、桜で有名なポトマック河に注いでいる。

吉田たち一行がワシントンに着いたのは、3月2日のことだった。吉田が事前に外務省や日本大使館と交渉して手配してあった宿泊場所は、日本大使館の向かいにある日本大使館アネックス(別館)。彼らのために大使館が雇った日本人女性が毎日日本食を作ってくれた。吉田だけは、義兄がアメリカ大使館勤めでワシントン市内に自宅があったためそこに泊まっていた。

毎年雪の降るワシントンD.C.だが、この年の3月は特に寒かった。雪の早朝には、シャンシャンシャンと車のチェーンの音と、時折ぎゅーっという新聞配達の自転車の音で目覚める。昼間でも零度前後の寒さが続く寒天下での作業である。到着した3月2日に続き、9日、16日と毎週水曜日に雪が降り、そのたびに予定外の除雪を行わねばならなかった。一時は進捗の遅れが心配されたが、日本で施工した組み立て式であるために途中からは作業がはかどる。天候も16日の雪を最後にようやく春らしくなってくる。昼間の気温は5℃を越えるようになった。そして突然上棟式を挙行する計画が持ち上がる。

雪の積もった現場 雪の積もった現場クリックすると拡大します

ゲイシャがいるティーハウス?

地元のワシントン・ポスト紙に茶室工事の記事が掲載され、ワシントンD.C.の市民が日本大使館内の茶室に興味を持ったのである。

3月12日付で"Japan's Building Tea House Here" という見出しだった。ワシントン日本大使館内の茶室についての建設経緯や説明が述べられているのだが、冒頭に"Washington will have its own tea house before the August moon"(ワシントンは8月の満月の前に自分の茶屋を持つ)と書かれている。"the August Moon"とは旧暦の八月十五夜、つまり中秋の名月のこと。"The Teahouse of the August Moon"は、アメリカの作家ヴァーン・スナイダーの小説で、昭和31(1956)年に映画化された。邦題を配給会社が「八月十五夜の茶屋」と訳した。物語は、終戦直後の沖縄に派遣されたアメリカの軍人たちや通訳と村人との交流や恋愛を描く喜劇で、最後に皆で作ったお茶屋から十五夜を眺めてハッピーエンドとなる。マーロン・ブランド主演、グレン・フォード、京マチ子、根上淳などが出演している。その後舞台化されてブロードウェイで1000回以上上演された(*12)。当時のアメリカでは誰もが知っている有名なストーリーであったため、この話とかけて日本大使館に新しくできた茶室を紹介している。「八月の満月の前に'tea house'ができますよ」と。しかし物語に出てくる'tea house'は四阿(あずまや)のような場所である。当時のアメリカ人がイメージする「芸者と関係のある茶屋」と混同している。困った日本大使館関係者は、各方面へ「茶室」=Tea Ceremony Houseと訂正発表するため、上棟式を挙行することとしたのである。

*12 日本では昭和29(1954)年に沖縄で「料亭十五夜」として上演され、歌舞伎座でも水谷八重子(二代目。当時は水谷良重)主演で昭和31(1956)年に「八月十五夜の茶屋」として上演されている。

ありあわせの上棟式

記事が出た3月12日は土曜日で、上棟式は翌週の日曜日である20日に決まった。吉田は堀川らと相談し、ありあわせの品々と代用品で上棟式に臨む。昭和35(1960)年3月20日午前11:30、日米協会会長など約20人のアメリカ人と、朝海大使夫妻ら大使館関係者と日本人約40名、合わせて60名が列席。幔幕(まんまく。周囲に張り巡らせる幕。浅葱と白の幔幕が使われることが多い)の代わりに白いテーブルクロスを使用し、東京から持参した弊串(へいぐし。棟に上げる祝い柱)を立てて祭壇に見立て、お神酒、白米、塩を三方に備え、赤松鯛(本来なら真鯛)、するめ、野菜をお供えした。大使館側の希望により7人の職人には法被(はっぴ)を着せる。

上棟式は「朝海大使、島内参事官(文化情報係)、吉田の3人の玉串奉奠から始まった」と当時の「鹿島建設月報」の記事では紹介されている。神主がいたわけではなく、大使館側と相談して、現地の人にわかりやすい式次第にしたのだと推察される。玉串はネズミモチで作った。大工が棟に弊串を立て、植木職人が建物の四隅に白米、塩を盛る。簡素で厳かな上棟式は、現地の人々に非常に珍しがられた。吉田は「白米と塩を飾る由来はわかるが、なぜするめを供えるのか」と質問を受けて閉口したと語っている。するめは噛めば噛むほど味が出ることから、「幾久しくご縁が続きますように」という意味で使われているのだが、もう一つ、本来なら必要な「よろこぶ」意味に掛けられた昆布はなかったようだ。しかし、大使館では日本料理を作るのだから昆布の方がありそうなものだが、するめがなぜあったのだろう。

上棟式は成功裡に終わり、3月24日付のワシントン・ポスト紙にその模様が大きな写真入りで紹介される。しかし、見出しは "No Geishas"と小さく書かれた文字の後に、"It's a Teahouse, But Not Exactly."とあり、本文には、Traditional Japanese Ceremoniesが挙行された記事と、玉串奉奠の写真、法被を着て屋根の上にいる職人とその前に積み重なる瓦の写真が掲載されている。「まだできてないけれど、これが茶室です。芸者はいませんよ」というところだろうか。

朝海駐米大使による玉串奉奠 朝海駐米大使による玉串奉奠クリックすると拡大します

鹿島組の法被を着て 鹿島組の法被を着てクリックすると拡大します

現地の樹木を見つくろった日本庭園

約400m2ある日本庭園は、京都の龍安寺(*13)を思わせる石庭と、松江にある菅田庵(かんでんあん)(*14)の庭を模した借景園、内路地式の茶庭からなり、築地塀で囲むことになっている。庭石、石燈籠、蹲(つくばい)は日本から持ってきたが、植物は日本からの持ち込みを禁じられている。庭木には大使館敷地内に植えられているもみじ、つつじなどを利用し、そのほかは、それらしい現地の灌木を集めて植栽した。小形研三はこの後、国内海外でさまざまな庭を手掛ける。現在彼の造園観を研究し少しでも後世に残すために「小形会」という会があり、この庭園の修復工事や庭木の手入れなども行っている。

茶室の敷地は日本大使館の構内であるから、アメリカの工事と言っても一種の治外法権の場所で、工事の遂行に特に問題はなかった。しかし、茶室に使う給排水管や電気を敷地外から引き込む工事では地元の業者を頼らざるを得なかった。不案内な土地での灌木の買い付けや、引き込み工事業者の選定には、日本大使館主任庭園師で日系一世の三苫藤七(*15)が親身になって支援した。 また、月曜日から土曜日までが平日で、休みは日曜日だけ、それすらもままならない場合があるという生活の日本から、当時すでに週休二日で労働は時間単位だったアメリカに渡った彼らにとって、銀行も買い物も金曜日までに済ませなければならないアメリカでの生活に、最初のうちはとても戸惑った。特に堀川は、ウィークデーのうちに銀行へ行ってドルを下ろさないと、職人の給料を支払うことができないという責任を担っており、大変気をもんだという。

作業指示をする堀川(左)と、小形研三 作業指示をする堀川(左)と、小形研三クリックすると拡大します

*13 りょうあんじ 大雲山龍安寺 宝徳2(1450)年創建の禅寺。石庭が有名だが作者不明。作庭は室町時代と推定される。75坪の白砂の空間に、大小15個の石が配置されている。
*14 おがたけんぞう(1912-1988) 佐賀県唐津市出身。旧制千葉高等園芸学校卒業。飯田十基に師事。1934年東京市技師となり保健局公園課勤務。1942年応召。1946年帰国し飯田十基主催東京ガーデナーに復職。1950年東京ガーデナー社長就任。1958年2月東京庭苑株式会社設立。1961年~82年日本大学理工学部非常勤講師、1963年~69年日本造園学会理事など公職多数。1986年日本造園コンサルタント協会会長、ハワイ大学日本庭園、万博日本庭園、沖縄海洋博覧会熱帯ドリームセンター植栽、都立昭和公園内日本庭園の設計施工など作品多数。1988年、オーストラリアのブリスベン国際レジャー博覧会で日本政府出展日本庭園の設計施工監理の陣頭指揮中逝去。
*15 みとま とうしち(1886-?) 福岡の中農の二男として生まれる。1907年にアメリカに出発。渡米後オークランド市内で住み込み庭園師として働く。1943年オハイオ州クリーブランドにわたり、1949年1月、息子の住むワシントンD.C.に出て庭師を続ける。1952年から65年まで日本大使館の庭園師を務めた。日本人会会長も務めている。

日本ブームとともに

春になり、早朝のしっとりとした空気の中で、大使館のあるマサチューセッツ通りの街路樹のハナミズキの蕾がほころび始める。やがて、青い空を背景にハナミズキの白い花が咲き乱れ、その間をリスが枝から枝へと飛び歩くようになる。4月にはポトマック河畔で簡素な桜祭りがおこなわれる。日本から送られた桜は若々しく零れ落ちんばかりの豪華さであった。桜のトンネルの下を散策すると、月明かりの中にずっしりと花をつけた枝がその重みを跳ね返すかのように光っている。工事もようやく先が見えてきて、季節の移ろいを楽しむ余裕が出てきた。

現在では日本各地に普通にみられるホームセンターだが、当時の日本人にとってアメリカのホームセンターは、目を見張るものだった。自宅の修繕や模様替えに便利なように木製の単一材、組み立てられて規格化されたドア枠・扉をはじめ、塗料、屋根葺材、内装材、防水材などが施工の説明書を付けて販売されており、労務賃金の高いアメリカらしさを強く感じたという。

予定工期を10日ほど残し、5月4日に茶室は無事完成、一白亭(いっぱくてい)と名付けられた。日米修好百年の「百」を「一」と「白」に分けた名である。また、如庵を模した茶室には、百年前に日米修好条約を結んだ時のアメリカ合衆国第15代大統領ジェームズ・ブキャナン(1791-1861)の名前から、「舞花庵」(ぶかあん)と名付けられた。

堀川昭夫は、工事完了後に職人たちを空港まで見送り、その足でニューヨークやロサンゼルスなどの都市建築を視察、5月18日に帰国した。彼のレポートによると、「初めて見る超高層ビル群の間を通る道路に立つと、人工の街の底を流れる風を感じることができた。外装パネル類に使用されている大胆と思われる太い目地には違和感を覚えた。市内の工事現場を覗くとその建物の種類、規模、立地条件により違いがあると思うが、George A. Fuller Companyの場合基本的な組織は、プロジェクトマネージャー、内部の責任者としての監督者(superintendent)、タイムキーパー、フィールドエンジニア、女子事務員で構成され、作業員はサブコンによる雇用者とゼネラルコントラクターに直傭された作業員がいて、いずれも労働組合(Labor Union)への所属を基本としていた。作業員は初等教育を受けた後、労働組合の主催する各実業学校に入学し、一定期間を受講してから現場の実務に就く。そしてその腕を磨きながら、逐次賃金を上げていく。そのためにはその都度テストを受ける必要があった。ゼネラルコントラクター付き作業員は月給制であった。1日の労働時間は朝8時から夕方4時までの正味7時間制で、週5日制。大業者は、労働組合加盟員のみを雇っている。視察した中型現場では、監督者がトランシーバー片手に現場を忙しく移動しながら指示していた。ニューヨークの中心街では、日中大型移動式クレーンで直接資機材を揚げたり、コンクリートをバケット打設していた。」など、アメリカの建設事情は当時の日本と違い、驚くことばかりだった。

帰国後堀川はTBS会館、下田東急ホテル、大阪建物ビル、富士フイルム東京本社ビルで工務主任を、新宿三井ビルで工事長を務め、東京堂千代田ビル、虎ノ門三井ビル別館では所長を務めた。昭和55(1980)年に建築本部(現・東京建築支店)工事部長、昭和59(1984)年に本部次長、1988年に東京支店副支店長を歴任し、1990年に鹿島のグループ会社である大興物産の常務、93年に専務となり、1995年に退職した。今も健在で東京建築支店鹿和会(OB会)の相談役を務めている。

吉田栄一は、工事の合間にマイアミまで近代建築を撮りに行ったほどの写真好きで、工事完了後、アメリカやヨーロッパの建設事業を視察して回った際にも各地で建築写真を撮りまくったという。8月15日に帰国した。帰国後は不動産管理部長、建築工務部長を歴任し、昭和44(1969)年に広島支店長に就任、昭和50(1975)年に常務取締役として東京に戻り、昭和53(1978)年11月に顧問となった。昭和46(1971)年には重要文化財永富家の歴史をまとめた限定本「永富家」(装丁:田中一光、写真:石元泰博)の編纂委員も務めている。

その後の茶室と庭園

ワシントン日本大使館の茶室と日本庭園は、週に一度一般公開されることになった。日本文化をきちんと理解してもらうため、見学者には解説をテープで流している。茶室は日本ブームに乗って土地の名物になり、見物人が列をなしたという。その年の12月にワシントン日本大使館を訪れた鹿島卯女は、この日本庭園と茶室について「公園を見下ろす高台にあり、メンテナンスもよく行き届いた美しい庭園である」と述べている(*16)。現在は一般公開はしていないが、折に触れ、使用されている。

鹿島はその後昭和39(1964)年にリトルトーキョーの再開発(「鹿島の軌跡」第39回参照)に乗り出し、日本の建設会社として本格的にアメリカに進出する。

*16 鹿島卯女「南北アメリカところどころ 海外旅行記―1―」『鹿島建設月報』1962年3月号P31

木々が茂る庭越しの茶室全景木々が茂る庭越しの茶室全景クリックすると拡大します

内路地内路地クリックすると拡大します

障子越しに見る石庭障子越しに見る石庭クリックすると拡大します

石庭石庭クリックすると拡大します

築地塀越しの一白亭。このカットはこの年のカレンダーに採用された。築地塀越しの一白亭。このカットはこの年のカレンダーに採用された。クリックすると拡大します

茶室を見学する鹿島卯女社長(1960年12月)(『鹿島建設月報』1961年3月号)茶室を見学する鹿島卯女社長(1960年12月)(『鹿島建設月報』1961年3月号)クリックすると拡大します

<参考図書>
外務省ホームページ 外交史料

(2015年2月24日公開)

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