第58回 新安積疏水 穀倉地帯を作る

福島県郡山市は福島県を代表する商工業都市で、東北地方第二の規模を持つ商都だが、江戸時代は荒れた原野が広がる宿場町にすぎなかった。明治期、日本三大疏水の一つ安積疏水開削事業によって猪苗代湖の水が引かれ、一大穀倉地帯となる。昭和に入り人口増加と食糧不足解消のため、新たな開発計画が始まった。戦争によって中断された計画は、戦後の食糧難を救うべく、変更を経て新安積疏水として作られる。新安積疏水を施工したのが鹿島である。

猪苗代湖の水を引く

明治時代以前、郡山市のあたりは水利が悪く農作物を育てることができないどころか、水をめぐる争いが絶えないほどの不毛の地だった。25km西には、満々と水を湛える猪苗代湖がある。面積103㎢、日本で4番目に大きな湖の水は西の会津側にしか出て行かない。湖の東には奥羽山脈の南端がかかり、猪苗代湖の恩恵に浴すことはできなかった。

そこで考えられたのが、猪苗代湖の水を郡山の荒れ地に引いて穀倉地帯を作ることであった。士族授産の目的もあった。計画自体は、明治3(1870)年頃から民間有志の間で議論されていたが、内務卿大久保利通に話を通したのは元米沢藩士で福島県典事(課長職)中条政恒である。彼は安積郡大槻原(現・郡山市大槻町原ノ町)の開墾を明治8(1875)年に竣工させている。また、明治9(1876)年6月、明治天皇の東北巡幸で訪れた大久保利通に、猪苗代湖の水を東の安積平野に引いて田畑の旱魃を防ぎ、新田を作ることで士族に産業を与えることができる疏水計画を説いた。

内務卿として士族たちの処遇について心を砕いていた大久保は、明治11(1878)年3月に太政大臣三条実美に「一般殖産及び華士族授産の議に付伺い」を建議した。仙台湾の野蒜港から北上川、阿武隈川、那珂港、大谷川運河、北浦、利根川、印旛沼、東京へと連絡する一大運輸網と、阿武隈川、安積疏水、猪苗代湖、阿賀野川、新潟の太平洋・日本海を結ぶ構想の国土計画であった。しかし大久保は2か月後の5月14日に暗殺されてしまう。
代わって内務卿となった伊藤博文は、彼の志を継いで安積疏水の計画を松方正義に担当させた。

低水土木技術に優れたオランダ人に学ぶ

オランダは、国土の1/4がポルダーと呼ばれる海面より低い干拓地である。13世紀頃から遠浅の海を干上がらせて干拓地を作り、国土を広げてきた。明治初期、そのオランダからお雇い外国人として招聘されたのが、10人のオランダ人技術者たちであった。彼らは河川、港湾、浚渫、干拓、灌漑の土木技術分野で特に秀でていた。明治5(1872)年2月、最初に招かれたのが長工師(=技師長)ファン・ドールン(C.J.VanDoorn1837-1906)と二等工師イ・ア・リンド(I.H.Lindow1847- ? )の二人である。

ファン・ドールンは、明治政府の殖産興業・富国強兵に基づく「低水工事」の指揮を執った。低水工事とは、河川の改修で主に利水のために行う工事で、具体的には河岸工事や河床の浚渫などをいう。しかし明治時代には主に舟運や灌漑用水の確保を目的に行う工事で、この分野ではオランダが世界最高水準の技術を持つと考えられていた。

ファン・ドールンは、東京・霞が関の内務省で主要大河川の改修と水源の砂防工事の立案をゆだねられる。来日2か月目には利根川の全流を踏査。当時の日本には水位観測の科学的方法も記録もなかったため、下総の境町(現・茨城県境町)に量水標(河川の岸にある水位を測る設備。垂直に立てた支柱に目盛りが振られている)を設置した。量水標は7月には淀川にも設けられ、日本の治水事業に初めて水理学的、量的記録方式が導入される。

松方から猪苗代湖の疏水工事の設計を命じられたドールンは、明治11(1878)年11月には郡山に一泊し、有志たちの作成した図面を読んで計画の大要をつかんだ。それから数日間かけて現地を踏査する。翌明治12(1879)年1月5日、ドールンは詳細な計画書「水ヲ猪苗代湖ヨリ引キ以テ福島県ノ稲田ニ灌クニ供スル溝渠ノ計画」を、土木局長石井省一郎に提出した。この計画書には灌漑の所要水量、猪苗代湖の水位測定法、堰の設計理論などが述べられていた。特筆すべきは「湖水の自然水位に変化を来すことがあっては会津へ流れる日橋川方面などの既得水利権を侵すことになるとして慎重な計画をしている」(『お雇い外国人⑮』p161)ことであった。また、猪苗代湖には量水標が設けられたが、水位の変化を観測することができたため、大正4(1915)年に猪苗代湖の水力発電事業を行うことになった時に役に立ったという。

安積疏水の完成

政府は、ドールンの計画に基づき明治12(1879)年10月に安積疏水の工事の起工式を行った。延べ85万人の作業員が動員され、1番から13番までの本流延長4,070間(7,400m)の隧道37か所、築堤4,216坪余(1万3,940㎡)、掘割9万5,642坪(31万6,200㎡)を施工。安積疏水は明治15(1882)年に竣工する。

この完成により新田4,000町歩余(3万9,670 ha)、古田3,800町歩(3万7,690 ha)に灌漑ができるようになった。事業費総額40万7,100円は現在の価値で約500億円といわれる。全国から士民400余戸が移住した。新政府の樹立に最後まで抵抗した東北諸藩の民心を鎮撫する大きな効果があった。原野は穀倉地帯へと変わっていく。明治初期に3万石(4,500t)だった米の生産量は、大正12(1923)年には12万石(1万8,000t)まで増加している。また灌漑以外にも、発電、飲料、工業用水として郡山の発展の原動力となった。

安積疏水はファン・ドールンが測量設計を行い、完成したというのが通説であるが、これは「一般的に多くの事実誤認と歪曲がある」と福島県立博物館調査報告第15集「安積開拓と安積疏水総合調査報告書」にはある。実際にはその測量設計は99%まで当時の日本人技術者によって行われていた(同書p7)。当時の日本人の技術はすでに高いレベルにまで及んでいたのである。外国で学んだ者もいたが、和算による測量学も疏水事業の根幹に流れていた。ファン・ドールンは郡山に短期間滞在し、すでに出来上がっていた設計を基に現地を視察していたに過ぎなかったそうである。測量設計を誰が行ったとしても、お雇い外国人であるドールンのお墨付きが事業を推進する力となったといえる。

鹿島は、この安積疏水が作られていた時期に洋館工事から鉄道請負業に転進している。このあたりには地域的な関連も特になく、最初の安積疏水の建設には何のかかわりもなかった。唯一の接点は、のちに鹿島の水準器を譲り受けた福島県の役人であり和算家の伊藤直紀が、安積疏水建設に携わった一人であったということである。(鹿島の軌跡第48回「明治期の水準器」参照)

明治15(1882)年8月、安積疏水は近代日本直轄の農業水利事業第一号として完成した。後に那須疏水(1885年)、琵琶湖疏水(第一疏水1885-1890年)と共に日本三大疏水のひとつとなる。

新安積疏水計画

完成から数十年たち、明治期にできた安積疏水は老朽化によって崩れやすくなり、漏水は下流での水不足を招いた。下流部まで到達するのに12時間もかかる個所もあった。また、夏には草が茂り転落事故も起こっていた。定期的に水路の修理工事をしていたが、水不足も事故も相変わらずだった。また、安積疏水の南側にはその恩恵にあずかることができなかった村々があり、未墾地は数千haに及んでいたが、標高230~380mという丘陵地のため、灌漑を通すのは容易なことではなかった。

福島県では昭和17(1942)年に農林省に実地調査報告の申請を提出し、農林省では県と合同で調査を開始、その施行を農地開発営団へと通知する。これが新安積開発事業である。安積疏水とは別に新たに猪苗代湖からの取水口を月形村大字浜路(現・郡山市湖南町浜路)に設け、約5kmの隧道を掘って多田野村地内の逢瀬川上流に放出し、山麓に沿って隧道と水路で導水と配水を行い、2000町歩(約2万ha)を開墾する。開発予定区域は、現在は郡山市に含まれる多田野、仁井田、豊田、永盛、三和、穂積の6村だった。

昭和18(1943)年12月13日、新安積疏水開墾事業の起工式が行われ、翌日から「演習参加」という名目で千葉工兵隊一個中隊によって多田野村隧道掘削が開始される。彼らは猛吹雪の中、資材を背負って凍結した斜面を登り、伐採をし、工事を進めた。しかし戦局が不利になるに連れ、金属類は、軍需転用されるようになっていく。工事資材も頻繁に転用され、隧道で地下水が湧き出てもそれをふさぐための資材はなく、作業は進まず、労働力の不足がそれに輪をかけた。

昭和20(1945)年6月、軍需省は新安積疏水開墾事業施設のすべてを郡山市の軍需工場の防護工事に転用することを命じた。これにより、新安積疏水事業は中止となってしまう。7月には福島県から安積疏水水利組合に中止の通達が送られた。開始から一年半たっていたが、工事は導水幹線工事のうち隧道が取水口から200mと、多田野から200m、そのほか20 ~ 30mの3か所の掘削が行われた程度だった。

終戦を迎えて

昭和20(1945)年8月15日終戦。食糧事情は戦時中にも増して深刻な事態となっていくことが目に見えていた。政府は「緊急開拓事業」の実現による食糧増産策を決定する。新安積開拓事業はこのひとつに選定される。発注者は福島県から農地開発営団委託事業へと変更され、5年間連続の事業費も決まった。戦後の混乱の時期に これだけの大工事を発足させた推進力は、安積疏水組合の努力であったといわれる。

戦後復興のため設立された農地開発営団は、事業再開に際して福島県に協議を申し込み、今まで計画された導水路について再検討する。従来のルートでは難工事となり、工期も長引くことが予想される。そのため従前案を排し、旧疏水幹線の上流部をそのまま利用することとした。路線の延長により資材は増えるが、同時に多数の地点から並行して施工できるため竣工が早まり、早期の生産効果が期待できる。これにより、現在の須賀川市北部にあたる岩瀬郡白江村、白方村、西袋村、稲田村、桙衝村なども開発区域に含まれることになる。安積疏水の山手沿いの高地帯に第二幹線を設け、新田を作る新安積疏水計画がここに誕生した。直径2m断面約10㎡のトンネル式水路24本は、最長2,000m、最短450m、計18kmに及ぶ。

戦後の混乱の中で

終戦とともにほとんどの施工中工事が中止となった。満州、朝鮮、台湾など外地での工事で使っていた建設機械は持ってくることもできず手放さざるを得なかった。75%もの工事が中止となり、実質手持ち工事量は3,500万円余。そのような中、鹿島守之助社長は「全員雇傭制度確立」の通達を昭和20(1945)年12月18日に発し、外地から戻った社員も含め、他社のように社員整理を行わない旨を発表する。とはいっても社会がどう変化するかわからないため、むやみに工事を取ることはできない。地方の社員たちは幹部以外自宅待機が多かった。あるいは出社しても、社員や家族の食糧を求めてあちこちに買い出しに出向いたり、会社の裏で農作物を作ったりしていたようである。(鹿島の軌跡第5回「戦災の中で」、第36回「広島出張所」参照)

この時期の土木建設業の営業対象は、戦争と災害で荒廃した国土復興事業と進駐軍のための施設工事程度。満州、朝鮮、台湾などの「外地」も失い、施工量は激減する。多くの建設会社の昭和20(1945)年の施工実績は8月15日を境に半減していた。建設需要は起きたものの、主流は大手業者ではなく「にわか請負業者」と呼ばれる中小業者で、「有力業者の採算に合わないような小規模工事を巡って、企業許可令の廃止に伴い再び独立した零細業者、復員軍人の一群などが各種工事に流入した。新規業者が戦前からの有力業者を出し抜いて数億円の工事を獲得したというニュースが伝えられたのもこの頃であった。『昨日のキャンデー屋、今日は土建屋』という言葉も巷に流れた」(『日本土木建設業史』P392)そうである。

昭和20(1945)年12月に各紙に出した広告昭和20(1945)年12月に各紙に出した広告クリックすると拡大します

突然の工事指名と混乱の続く中での施工

昭和20(1945)年の米作は、平年の三分の二という大凶作で、食糧危機も深刻だった。インフレは爆発的に進行し、食糧危機による食料品価格の暴騰がこれに拍車をかけた。戦後の混乱は、資材、食糧、資金だけではなかった。工事半ばで職業安定法が成立したため、従来の配下制度が根本的に禁止された。また、労働基準法の制定によって労働基準局、労働監督署が発足した。今までとは違った形での強力な指導が行われるなど、大きな社会的変革は、工事の進捗にも影響をもたらした。

そのような社会の混乱と新しい時代の基礎が作られていく中、鹿島は突然「新安積疏水工事」の指名を受ける。現場説明を受けて入札したのが昭和21(1946)年8月初めだった。その結果、鹿島は第二、第三工区を担当することが決まった。第一工区は鉄道工業、第四工区は間組の施工に決まる。3社は協力会を作って最後まで緊密な協調体制を保持することとした。鹿島は、工区の中央部にあたる多田野村堀口に「鹿島組新安積出張所」を開設した。工事は、水路隧道延べ8km、沈砂池などであった。

日本の土木工事は古くは役務として強制的に調達された人力を主体とし、鋤、鍬、もっこなどの道具と牛馬の力を利用していた。明治以降、大正末期までには西洋の水準近くまで成長を遂げるが、戦前までは地下鉄工事やダム工事など一部の大型土木工事以外では目立った機械化は行われなかった。また、戦時体制下では新しい建設機械は開発されず、進化せずに時代は進む。戦後、特別調達庁を通じて発注された進駐軍基地建設工事は、施工期間が短いものが多く、その発注には「米英特有の設計、趣向が加味されており」(『日本の土木技術』P325)、当時日本で使っていた性能のあまりよくない小型機械(ウインチ、ミキサー、ポンプ、クラッシャー、機関車)だけで期日までに施工できるものではなかった。そのため進駐軍によって持ち込まれた大型重機による機械化施工が急速に進む。しかし一方でこの新安積疏水工事のような一般土木工事には重機が持ち込まれることは少なくまた、それらを動かすための燃料も豊富ではなかった。どういう手法で工事が行われたかについて書かれているものがほとんどなく、さすがに手掘りではなく削岩機は使われていたであろうが、その実態はわからない。掘られた土砂は、牛や馬でどこかへ運ばれたのであろうか。昭和23(1948)年1月5日付の読売新聞に「新安積疏水 山もくり抜く難工事 荊の道をゆく緊急開拓」という記事があり、そこに「懸命の工事が昼夜兼行で続けられている」と書かれているのが見つけられた程度である。

戦争中と違い作業員が不足することはなかったが、食糧、衣料などの生活物資や工事資材の不足は大変深刻であった。鉄道、自動車などの輸送もままならず、加えて資金不足が新たな重大問題となる。インフレによることもあったが、一番の原因は農地開発営団が昭和 22 ( 1947)年9月に閉鎖機関に指定されたことである。切替のために2か月の間資金が全く回って来なくなった。予算が遅れても、工事は続けなければならない。つなぎ資金は地元銀行の融資に頼るしかない。知事や仙台農地事務局長の保証と三社それぞれ代表取締役の個人保証を付けて請負業者が借りるのである。県の熱意、銀行、日本銀行福島支店の厚意によって融資は実現した。

その原動力となったのは、安積疏水組合の渡辺信任常設委員であったと、工事に携わった鹿島の佐藤正一事務主任は後に述べている。渡辺氏は第二次世界大戦中、原料供給のため各地の銅像が供出される中、ファン・ドールンの銅像を土中に隠して守った人物で、こののち昭和27(1952)年に初代安積疏水土地改良区理事長となり、昭和30(1955)年には那須御用邸で天皇陛下に安積疏水の現況を説明している。

インフレの急激な昂進にも悩まされる。着工当時は自由に使える新円は制限されていたため、給与のうちの超過額は封鎖預金として特別の事由がなければ解除されなかった。最初のうちは巻煙草10本入りが5円、10円の時代に、土工一日の賃金15円、鳶・大工25円、火薬一箱400円程度だったのが次第に高騰し、火薬は一挙に10倍の4,000円台になった。請負額は何度も残工事分が修正され、第一工区の応援工事などもあり、最後には設計変更などを含めて、総額は1億740万円に達した。

進駐軍工事のほかは、めぼしい工事の少なかった時代だった。鹿島守之助社長をはじめとして土木系のほとんどの役員たちが現場を視察、激励指導をした。現場では阿部周藏所長のもと、精鋭が集まりさまざまな困難に立ち向かう。約定工期は当初2年の突貫工事の予定であったが、種々の事情により延伸、昭和25(1950)年3月に竣工する。
昭和25(1950)年3月に工事は無事完成、通水を迎えた。

鹿島守之助社長の視察鹿島守之助社長の視察クリックすると拡大します

鹿島守之助社長視察時の記念撮影鹿島守之助社長視察時の記念撮影クリックすると拡大します

安積疎水神社にある三社功績碑

郡山市内にある安積疎水神社は明治12(1879)年、工事の安全と早期竣工を祈念して建てられた。安積疏水の守護神とされ、工事に携わる人々は現場に向かう際に必ず立ち寄り、その日の安全を祈願したといわれる。ここに「三社功績碑」が建っている。新安積疏水の工事を請け負った鹿島建設、鐵道工業、間組の功績を記したもので、企業者が請負業者の功績を讃えて建てた珍しい碑である。

安積疏水第二幹線は安積岩瀬両郡11町村に潅漑し、3,000町歩を開田して10万石増産を期すもので、食糧問題に貢献し日本再建に寄与するものと言える。水路は隧道2万2,112m を含む2万9,005m。稀有の大工事で「鹿島建設株式会社」「株式会社間組」「鐵道工業株式会社」の三社請負のもとに、昭和21年10月5日福島軍政部司令官臨席起工式を挙げた。然るに工事の進行と並行して資金面の障害、資材の入手難、加うるに食糧事情悪化、労働攻勢等、憂慮すべき状態頻発に、三社重役と現地幹部は悲壮な決意から全く業者的観念を超脱して、事業の完成に挺身した。偶々22年8月東北御巡幸の天皇陛下には18日、櫻橋の現場に鑑み、御有り難き御言葉を給う。関係者感奮興起して、努力清進。難工の東日沢と瀧の沢間19,000mの隧道も24年4月16日午後3時15分、彼の安積山の心髄に於て画期的貫通となり、5月29日、待望の通水を見たのである。三社の業績は義勇の精神に咲く民主々義の華として尊重すべく、農魂を振作し、増産意欲を昂揚するに足ると信ずる私は、安積疏水組合常設委員として20余年増産は増反なりと主張して、この大事業に際会し微カを呈したことに於て感慨深きものがある。茲に組合員の意を体して建碑を敢てし、三社の功績を永遠に告げるものである

昭和24年10月10日疏水記念日
安積疏水普通水利組合常設委員渡邊信任謹記

(※原文は縦書き旧字体、数字は漢数字で句読点はない。原文に忠実に記しているが、句読点を入れ、単位、旧字体漢字を修正し、読みやすくした)

安積疎水神社に並ぶ碑(奥が三社功績碑)安積疎水神社に並ぶ碑(奥が三社功績碑)クリックすると拡大します

三社功績碑三社功績碑クリックすると拡大します

海外での灌漑工事

鹿島は、朝鮮半島では明治32(1899)年4月、鉄道工事(朝鮮半島初の鉄道、漢江で初めての漢江橋梁ほか)を施工するなど昭和20(1945)年までに各地で鉄道、ダム、護岸工事、道路工事、橋梁工事などを行ってきたが、ほかの地域に比べて特に多かったのが水利組合の水路工事であった。同仁水利隧道導水路その他新設工事、慶尚南道庁固城水利堰堤その他新設工事、安寧水利堰堤その他新設工事、信川水利堰堤その他新設工事、黄海道庁翠野水利堰堤その他新設工事、河東水利堤防新設工事などがある。

また、台湾の嘉南大圳(かなんたいしゅう)は、八田與一の献身的な努力により完成した大灌漑事業である。濁水渓から台南に至る長さ92km、幅28km、1,455km2の土地を、灌漑によって一大農業用地とする開発計画であった。高さ57m長さ1,270mのアースフィルダムを築き、縦横無尽に張り巡らせた水路と汐留設備によって、台南州一帯の約15万haを農業用水の確保ができる豊かな農地とするのである。水路は延長91kmの幹線水路、7,280kmの給水路、延長5,400kmの排水路などがある。大正9(1920)年に着工、昭和5(1930)年に完成した。烏山嶺隧道、ダムを大倉が施工、水路トンネルは鹿島ほかが施工している。また、昭和48(1973)年10月には堤高130m、堤頂長400m、堤体積964万m3、発電出力5万kWの曽文水庫(曽文ダム)を施工、それまで3年輪作であった水田が2年輪作となり、新たに8万4,400haの水田が灌漑される。年間米14万t以上、砂糖 7万t以上の増産と、公共用水の増大、5万kWの発電、洪水調節などができるようになった。

昭和44(1969)年5月には、マレーシアで大灌漑工事を完成させている。西北海岸地帯の平原部に26万1,500エーカー(1,058㎢)、東京都の半分ほどの面積の土地を灌漑して米の二期作によって年間25万2,000トンを実現するものである。当時のマレーシアの年間コメ消費量の40%にあたり、それまで輸入に頼っていた米を自給自足することが目的であった。大成建設とのJVで1965年4月に着工、150人が現地に赴き、ムダダム、プズダム、ダム貯水池を結ぶサイオントンネルを施工した。

また、タンザニアでは、1989年から1991年にかけて、カプンガライスプロジェクトを成功させている。タンザニア農業食糧公社発注の工事は、広大な氾濫原に水路を作り、3,800haの水田を作るというもので、灌漑用水の入水構築物、導水路、水田の造成、アクセス道路などを施工した。水路延長は100kmを超える。

安寧水利工事(朝鮮 1945年)安寧水利工事(朝鮮 1945年)クリックすると拡大します

カプンガライス(タンザニア 1991年)カプンガライス(タンザニア 1991年)クリックすると拡大します

<参考資料>
村松貞次郎『お雇い外国人⑩建築・土木』(1976年)
箱岩英一「河川・水路・港湾の基準面について」国土地理院『国土地理院時報』2002NO.99
安積疏水百年史編さん委員会『安積疏水百年史』(1982年)
福島県立博物館調査報告第15集『安積開拓と安積疏水総合調査報告』(1986年)福島県教育委員会『安積開拓と安積疏水総合調査報告書』(1988年)
助川英樹『誰にでもわかる安積開拓の話:安積疏水百年のあゆみ』(1984年)
鹿島建設『鹿島守之助鹿島建設の経営』(1978年)
土木工業協会、電力建設業協会『日本土木建設業史』(1971年)
日本の土木技術編集委員会『土木学会創立60周年記念出版日本の土木技術近代土木発展の流れ』(1975年)
建設業を考える会『にっぽん建設業物語―近代日本建設業史』(1992年)
向井浄『絵で見るさく岩機200年の系譜』(2022年)

(2023年8月25日公開)

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