東京・日本橋は,川面からの視点でデザインされている。
そんな一説があるほど,水辺から見た風景はかつて,まちの顔であった。
橋はそのシンボルにほかならない。
環境への意識が高まるなか,水をめぐる景観の大切さに私たちはあらためて気づいている。
この連載では,世界各地で橋がつくってきたまちなみ,“橋なみ”をめぐっていきたい。
民族の誇り
中国西南部の山岳地域に侗(トン)族という少数民族が住む。そこには,かつてわが国にもあったと思えるようなひなびた山村が点在する。そんな集落の近くに「風雨橋」と呼ばれる壮麗な屋根付きの橋が数多く架けられている。これらの橋は集落への玄関口として集落のシンボルであり,民族の誇りともなっている。
風雨橋のなかで,規模,デザインともに,最も優れたものは程陽橋(チェンヤンチャオ)(永済橋〔ヨンジィチャオ〕ともいう)であろう。橋長は約78m。橋脚と橋台の上に5つの多層屋根の亭(あずまや)があり,その間は1層屋根の橋廊で結ばれている。亭のデザインはそれぞれ異なっていて,中央のものは3層の屋根が重ねられ,その頂部には六角錐形の屋根がそびえている。
侗族の居住地は広西チワン族自治区の北部から貴州省,湖南省にまたがる広い地域に及ぶ。ここで紹介する橋は,広西チワン族自治区の三江侗族自治県のものに限られるが,そこだけでも100橋を超える風雨橋があるとされる。その主要なものは,主に3つの谷に沿って分布する集落周辺に架けられている。
信仰の対象
風雨橋には侗族の人々の信仰心が息づいている。橋の上に道教の神や祖先神などが祀られているところが多い。そして風雨橋は祖先の霊魂が通るところと考えられており,祖先神が橋を通ってやってきて子孫に転生(てんしょう)する,集落の子孫繁栄を約束する場であるとされる。
その建設に何らかのかたちで参加することが,現世および来世の利益(りやく)を授かるものとされ,橋を架け替えるときにはこぞってお金,材料,労力を提供して奉仕をする。
風雨橋の位置は風水に則って選ばれているという。川に沿って流れ去る財(たから)(気,風水)をせきとめ,集落内に残す役割をもつとされる。そのため風雨橋はほとんどが集落より下流側に架けられている。
風雨橋の形
大きな風雨橋はどれもよく似た構造をもつ。スパンは15~25mほどで,重い屋形を支える主桁には径30~40cmほどの丸太が2段ほど配置され,それを橋脚,橋台上から張り出された2~3段の部材が下から支えている。大きな亭はその支え材を安定させる重しの役割も果たしているように見える。
橋脚,橋台は,切石積で丁寧に仕上げられており,川中の橋脚は上下流を尖らせた扁平な六角形断面になっている。
内側の幅は4mほど,亭部では両側へ1~2mほど広くなっており,神を祀る祭壇が設えられているところもある。たいていの橋では高い高欄に沿って長いベンチがつくり付けられている。
亭や廊部の屋根は貫と短い柱をかみ合わせて次々と組み上げられており,斜め材は見られない。天井はなく,瓦が垂木の上に直接乗せられている様子が見える。
花橋
風雨橋は,屋根があることで木材の寿命が長くなり,渡る人々を風雨から守ってくれるという効用は当然であるが,村人に交流の場を提供している。納涼,休息や遊びの場となっており,老若男女が集い,昔を語り,今を論じる。「花橋」とも呼ばれるが,若い男女の語らいの場という粋な意味も含まれている。そして村への賓客があるときは,盛装した女性が歓迎の歌を歌い,酒をふるまって出迎える。
侗族の村には鼓楼と呼ばれる多層の塔が建てられている。屋根のデザインは方形,六角錐型や八角錐型などが多彩に組み合わされている。楼の上には大きな太鼓が置かれ,異常事態を村人に知らせる望楼の役割をもっていた。
その前には石敷きの広場があり,そこでは冠婚葬祭に村人が集い,盛大な宴が催される。傍らに演劇の舞台のようなつくりの建物もあり,村は豊かな共用空間をもっている。風雨橋もまた,侗族の人々にとっての共用空間の一つである。