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特集 鉄道に見る,鹿島の風景 ~鉄道開業150年を迎えて~

今から遡ること150年,
1872(明治5)年10月14日に新橋~横浜間での鉄道の開業式が行われ,
翌日には旅客列車の運行が開始された。
全国で整備された鉄道は旅客輸送や物流の中心となり,
わが国の近代化は鉄道とともに発展していった。
当社は,鉄道の勃興期である明治時代から鉄道に関わってきた。
明治期に鉄道建設事業の請負を行った130社余りの業者のうち,
今でも残っているのはたったの9社に過ぎず,中でも当社は最古を誇る。
今回の特集では,鉄道開業150年の機に,
「鉄道の鹿島」と称されるようになった所以に触れ,
当社が手掛けた歴史的な土木構造物の現在から
今まさに進行中のプロジェクトまでを時代とともに紹介する。

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「鉄道の鹿島」と称された所以

鉄道事業は,明治政府が日本と欧米列強との国力の差を実感し,富国強兵政策のもと歩みだしたのが始まりと言う。その中で,1872(明治5)年に日本で最初に開通した鉄道路線である新橋~横浜間の線路撒布用の砂利を納入したのが,鹿島にとって鉄道との最初の接点となる。「鉄道の鹿島」と称される最初の一歩だったと言えるだろう。

のちに鹿島組初代組長となる鹿島岩蔵は大工(技術者)ではなかったが,請負業者としての優れた才覚を発揮し,1870(明治3)年から1872年にかけて,木挽(こびき)町(現在の東京都中央区内)の蓬莱社,高輪の毛利公爵邸西洋館の2つの大きな洋館建設工事を手掛けた。この高輪毛利邸の工事の監督として毛利家に依頼されていたのが日本の鉄道の父として知られている初代鉄道頭の井上勝だった。この監督者と請負者としての出会いが,鹿島岩蔵の大きな転機となった。井上勝は鹿島岩吉・岩蔵父子の働きぶりに目を留め,自分の関係している鉄道事業の将来性を説き,鉄道請負業者への転向を熱心に説いた。鹿島岩蔵は建築の注文が重なっていること,鉄道工事が建築工事に比して規模が大きく,多額の資金を必要とすることから容易には転向の決断はできなかった。しかし,大阪船場の富豪・平瀬露香に出会い後援を求めるなど,8年もの歳月を経て1880(明治13)年,鹿島組は誕生とともに鉄道請負業者へ転進し,今日の当社の礎を築くことになった。

鹿島の鉄道工事は日本海から京都,大阪を結ぶ重要路線である敦賀(つるが)線(現・北陸本線)の工事から始まる。「二足の草鞋(わらじ)を履くな」との井上鉄道頭の言葉通り,建築の仕事はきっぱりと止め,「洋館の鹿島」から「鉄道の鹿島」として歩んでいった。

その後,現在の東北本線や中央線,碓氷(うすい)線(横川〜軽井沢間)など全国各地の鉄道工事を手掛け,朝鮮半島では日本で初めて海外工事に携わり,満州・台湾へも進出していく。また,国内ではトンネル工事を手掛ける機会が増え,鹿児島本線の矢嶽(やたけ)隧道(現・矢岳第一トンネル)の開通により1909(明治42)年に,青森から鹿児島までの鉄道路線が結ばれたほか,世紀の難工事とも言われる東海道本線・丹那トンネルを16年もの歳月をかけて,1934(昭和9)年に完成させ,ますます「鉄道の鹿島」の名を馳せることとなった。

図版:矢嶽隧道(現・矢岳第一トンネル) 1909年

矢嶽隧道(現・矢岳第一トンネル) 1909年

図版:日本鉄道会社第一区線,烏川橋梁架替工事 1912年

日本鉄道会社第一区線,烏川橋梁架替工事 1912年

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図版:台湾・阿里山鉄道 1913年

台湾・阿里山鉄道 1913年

図版:碓氷線第25号隧道の施工中の水彩画

碓氷線第25号隧道の施工中の水彩画

図版:東海道新幹線・新丹那トンネル 1964年

東海道新幹線・新丹那トンネル 1964年

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