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支援活動

新学期を迎える小学生に物資支援

当社東北支店有志が,被災した小学生を支援しようと,ランドセルや身の回り品などの物資提供を行った。

この支援活動は,新学期を迎えるにあたり,着の身着のままで避難した子供たちに使ってもらおうと仙台市PTA協議会が計画した。協議会は,仙台市内の小中学校PTAに協力を依頼。中学校のPTA会長を務める当社社員が,東北支店管理部を通じて支店管下に支援を呼びかけた。有志はランドセル20個をはじめ,靴や衣類,文房具など段ボール箱31個分を仙台市宮城野区にある協議会の保管所まで届けた。

また,当社では,日本土木工業協会(当時)を通じて3万食を超える食糧や日用品,資機材などを被災地に提供した。

このほか,行政に支援の申入れを行い,各自治体に救援物資の提供も行っている。

写真:ランドセルなど段ボール箱31個分が提供された

ランドセルなど段ボール箱31個分が提供された

写真:避難所に運び込んだ救援物資。自衛隊員が荷降ろしを行う

避難所に運び込んだ救援物資。自衛隊員が荷降ろしを行う

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健康管理を支援

健康管理は二次災害を防ぐために欠かせない。震災発生後,東北支店の社員は劇的に変化した環境の下で業務を行ってきた。疲労も蓄積している。この状況を憂いて健康相談を行ったのが,当社産業医の永田幹男健康管理センター所長。社員用連絡バスに乗り,東北支店を訪問した。

この健康相談は,疲労蓄積がピークに達する発災からおよそ2週間後の3月23日から3日間行われた。永田所長は,身体の不調や不安を訴えて相談に訪れる社員に丁寧に症状の説明を行った後,血圧の測定や薬の投与など必要な処置を施した。「緊張状態では疲労を自覚できないことが多い」と永田所長。自覚がない場合でも適度に休養を取るよう社員に促した。

震災対応の長期化が予想されており,健康管理がより重要になってくる。当社では,今後も健康相談を行っていく。

写真:持参した医薬品など

持参した医薬品など

写真:永田所長が丁寧に処置を行う

永田所長が丁寧に処置を行う

建設業界の総力を挙げて

建設業界は総力を挙げて,支援・復旧活動に取り組んでいる。発災直後からその中心を担ったのが日本土木工業協会(当時)。全国の会員139社をとりまとめ,支援活動を行ってきた。なかでも,赤沼支店長が支部長を務める東北支部は,災害協定に基づき積極的な支援活動を展開した。この災害協定は,2007年に国土交通省東北地方整備局や東北6県,仙台市と結ばれている。

東北支部は発災した11日,震災対策本部を仮に設置し,支部会員63社と連絡が取れるようになった17日に会合を開いて「東北支部震災対策本部」を立ち上げた。対策本部では幹事会社などから派遣された11名が常駐して行政からの要請などに対応した。当社も,対策本部長代行の横山正信東北支店副支店長など4名が参加し,支援活動を続けてきた。

対策本部は,ブルーシートやテント,仮設トイレなどの資機材や食糧などの物資支援を中心に活動し,被災者の生活を支えた。横山対策本部長代行は「被災した方々のことを考え,即時対応することが肝心だ。東北支部の会員各社が一致団結し,本部・各支部と連携して支援活動を行った」と述べ,業界が一丸となって対応したことを強調した。

日本土木工業協会は,4月1日に日本建設業団体連合会,建築業協会と合併。新たに誕生した日本建設業連合会として活動を開始している。現在,被災地への物資供給が落ち着いてきたため,いったん対策本部の規模を縮小し,今後の本格復旧に備えている。

写真:対策本部長代行を務めた横山副支店長

対策本部長代行を務めた横山副支店長

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写真:3月17日に行われた会合で,対策本部が正式に立ち上げられた

3月17日に行われた会合で,対策本部が正式に立ち上げられた

写真:対策本部の様子。11名が常駐して対応した

対策本部の様子。11名が常駐して対応した

写真:被災地に設置された仮設トイレ。公共工事委員長を務める当社の村田専務も現地入りしている

被災地に設置された仮設トイレ。公共工事委員長を務める当社の村田専務も現地入りしている

石巻を訪ねて

宮城県石巻市は人口約17万人の水産都市。
津波で沿岸部の大部分が浸水し,
甚大な被害を受けた。
当社は,石巻で多くの施工実績がある。
発災から1週間が過ぎた3月19日,広報室員として,
記録写真を収めるために現地入りした。
ここには私の家族が住んでいる。
(広報室 吉田雄二)

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仙台と石巻を結ぶ主要ルートの三陸縦貫自動車道は震災で封鎖され,海沿いの国道45号線は冠水の可能性があった。内陸部を迂回するルートをとり,1時間ほど車を走らせた。

光景が一変したのは,石巻市に入ってから10分ほどしたころ。非日常的な世界が視界に入ってきた。道路に横たわった丸太が車線の片側をふさぎ,信号は灯っていない。歩道には,がれきと泥が溢れ,車が折り重なっている。津波の泥水をかぶったためか,景色全体が茶色く感じられた。

徐行しながら道を選び,まずは実家に到着した。庭は泥にまみれているが,家の外観は変わらないようにみえる。家の片づけをしていた父が手を止めていう。「来たのか」。

土足のまま家に入ると,中は泥だらけで土っぽい臭いが漂う。発災から1週間が過ぎても,断水と停電が続き,この数日は最低気温氷点下の日が続いていた。

数年前から禁煙していた父は,再び煙草をはじめていた。煙草を取り出しながら,ベランダに出て海側を指差す。「向こうは全部やられた」。そして,発災を振り返る。

地震が起きた直後,父は倒れた家具を片づけていたという。最初は水が流れてきた程度だった。必要最低限のものを携えて2階にあがり,ベランダから外をみる。少しずつ高くなる水位は塀の高さまで達し,家の前の小さな通りを車が流されていった。1ヵ所ガラスを破られ,戸締りをしていた家の中にも水が流れ込んで,1階は完全に水に浸かった。

水は夜になっても引かなかった。ベランダから外を眺め続ける。いつもの生活音はしないが,助けを呼ぶ声が響いていた。一晩中,あたりを懐中電灯で照らし,頑張れ,頑張れと叫び続けた。父がつぶやく。「それしかできなかった」。

1kmほど離れた標高60mのなだらかな丘・日和山から街を見下ろした。眼下の海岸線に近いところは,ほぼ壊滅。地震と津波に加え,車のガソリンに引火した大火事にも見舞われた。

「ここにはもう木造住宅は難しいだろうな」と父がいう。抜本的な津波対策が講じられなければ,助かった人も戻ってこないかもしれない。「高台を開発するか,高層の鉄筋コンクリートか」。カメラの望遠レンズをのぞき込み,被害の様子を確認しながらいった。「お前の勤める会社が頑張ってくれるんだろう。頑張ってもらわないと困る」。

日和山から帰宅し,市内をまわって様子を写真に収めた。多くの人たちとすれ違う。重そうに給水したポリタンクを運ぶ人や元気に跳ねる子供,空き地に県外ナンバーの車を駐車し,日用品を配るボランティアの姿もみえた。あまりに大きな震災の被害。再建・復興への道のりは長く険しいだろう。それでも,現地では人々が動きはじめていた。全国から届く支援と,ひたむきに歩む人たち。その姿を見て思った。「きっと大丈夫」。これからも,できる限りの支援を続けていきたい。

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