鹿島は、1840年の創業から現在に至るまで、人々が安全・安心で快適に暮らすことができる社会を目指し、建設事業を通して産業・経済の発展に貢献してきた。それは、鹿島の苦闘と改革、発展の歴史。業界の先頭を切って新たな領域に挑戦してきた鹿島には、社員の中に脈々と流れる積極果敢な「進取の精神」が根付いている。伝統と、未来を志向して果敢に挑戦して来た歴史を受け継ぎ、環境が変化しても、新たな時代を切り拓いてきた鹿島。その歴史を振り返る。

江戸

創業者鹿島岩吉

1840

創業者鹿島岩吉は、1816年に武蔵国入間郡小手指村上新井(埼玉)の庄屋の家で生まれた。大工の棟梁として江戸中橋正木町(現・中央区京橋)に店を構えたのは1840年。独立に際し、大名屋敷に近く便利なこの地を選んだと伝えられている。その後岩吉が出入り大工となった桑名藩主松平越中守の上屋敷は、楓川(現・首都高速道路)にかかる越中橋(現・久安橋)を渡った所。その向こうには八丁堀組屋敷が広がっていた。

1850

横浜港開港の図

1858年日米修好通商条約締結後、1年足らずでの開港を迫られた当時の江戸幕府は、大急ぎで貿易港としての横浜をつくりあげる。領事館・商館・住宅など横浜は突貫工事が進んでいた。もともと101戸の漁村であった横浜には、土着の出入り職人もなく、賃金相場は高騰し 、江戸の職人がこぞって進出した。鹿島岩吉も建設ラッシュに沸く開港場の横浜に進出し、鹿島の今日に至る発展の基礎を築いていった。

洋館の鹿島

このころ東アジアで勢力を広げていた英国商社ジャーディン・マセソン商会は、日本の生糸が安く良質なことを知り、横浜へ進出。当時の外国商人の多くが船を事務所にしていたなか、1859年末に2階建ての商館をいち早く建てている。これこそ鹿島が建設した横浜初の外国商館、英一番館である。つづいてアメリカ一番館と呼ばれたウォルシュ・ホール商会の建物も施工し、鹿島の仕事ぶりは、横浜や神戸の居留地に拠点を構えようとする外国商人たちに「洋館の鹿島」として知れ渡っていった。

明治

蓬莱社(のち十五銀行本店)

1870

明治の文明開化とともに、西洋館建築技法を身につけた鹿島岩吉は、その信用と人脈で新政府の重鎮であった旧長州藩関係の商社・蓬莱社(のち十五銀行本店)を建設。品川に毛利邸洋館、日本最初の洋紙製造工場である煉瓦造の抄紙会社工場、さらには「洋館の鹿島」の技術を見込んだ東京・工部省の推薦により施工した岡山県庁舎など、各地で新しい建築を手掛けていったのである。

矢嶽隧道(宮崎県)

1880

欧米諸国と並ぶ国づくりに乗り出した明治政府は、鉄道網の整備を積極化する。1872年には、新橋−横浜間に日本初の鉄道が開通し、鹿島は資材を納入。1880年、鹿島岩蔵は鹿島組を創立し、鉄道請負業に乗り出した。はじめて取り組んだ敦賀線は、日本海から京都、大阪へとつながる当時の最重要路線。そして現在の東北本線や中央線、横川−軽井沢間の碓氷線など、数多くの工事に施工した。

阿里山森林鉄道(台湾)

1900

1898年には、日本の建設会社としてはじめての海外工事となった朝鮮半島初の鉄道工事を施工。日本初の鉄道敷設から僅か26年後のこの出来事は、朝鮮半島の利権を争う諸外国の鼻を明かし、日本のプレゼンス向上に大きな役割を果たす。その後も、台湾、満州にも積極的に進出し、主要路線を敷設した。明治時代に鉄道工事を請け負った業者は130ほどあったが、現在残っているのは、9社にすぎず、その中で鹿島はもっとも古い歴史を持っている。

大正

大峯ダム

1920

明治後期から急増していった電力需要に対し、各地で水力発電所やダムの建設が開始された。鹿島は、宇治川電気の志津川発電所工事において、隧道と開削水路を1909年に着工。つづいて施工した大峯ダムは、日本初のコンクリートダムとして1924年に完成した。鹿島はその後も、上椎葉ダムや、鳴子ダム、宮ヶ瀬ダム、川治ダム、湯西川ダムといった数多くのダムを施工し、「ダムの鹿島」として、今日も業界をリードし続けている。

昭和

丹那トンネル

1930

世紀の難工事といわれた東海道本線・丹那トンネルは、複雑な地質や大量の湧水など困難を極めたが、着工から16年もの歳月をかけ、1934年に完成。東海道本線の輸送能力は飛躍的に増大した。

1950

技術研究所

戦後間もない1949年、鹿島は建設業界初となる技術研究所を設立した。当社の技術陣に加えて、民間唯一の建設技術に関する研究機関であった「財団法人建設技術研究所」から研究員や研究施設などを継承した。建設業界初の技術研究所として今日に至るまで、当社の技術開発の中心を担い、豊かで安全な国土の建設と社会発展に寄与し続けている。

バルーチャン発電所(ミャンマー)

1950

1954年、ビルマ(現ミャンマー)とタイの国境近くの山奥で水力発電所の工事が始まった。それは、敗戦後長く占領下に置かれていた日本が行うはじめての海外工事であった。熱帯、高温多湿、人跡未踏の密林など、さまざまな苦労を乗り越え5年以上の月日をかけて施工。バルーチャン発電所はその後6号機まで増設、円借款による改修が行われ、現在でもミャンマー国内の24%の電力を供給している。

霞が関ビル

1960

日本初の超高層ビルである高さ147m、地上36階建ての霞が関ビルディングが完成したのは1968年。地震に抗するには建物自体を強固にする考えが常識だったなか、地震動を柳に風と受け流す「柔構造理論」を具現化。施工でもさまざまな創意工夫によって日本における超高層の建設技術を確立し、「超高層の鹿島」として各地に超高層ビルを建設していく。

最高裁判所

1966年、最高裁判所の建設計画がスタート。設計競技で建物のデザインが公募された。応募総数217点から当社設計部の岡田新一グループ案が最優秀賞作品に選ばれ、鹿島の喜びとともに日本人にとっても自国の建築家の設計によるはじめての最高裁判所として誇らしく受け止められた。1971年に施工が開始し、地下2階地上5階と7つの棟で構成され、スペースウォールと呼ばれる二重壁によって結合するこれまでに例を見ない構造や、外内壁の御影石貼りといった、現代建築の粋を集めた美術建築となった。

志木ニュータウン

1970

志木ニュータウンは、コンペで採用された鹿島の開発プランのもと、1971年にスタートした大規模住宅団地。用地買収・土地造成・配置計画から設計・施工・分譲販売に至るまで、その総合力が試される国内最大級のプロジェクトとなった。鉄道駅の新設を含むまちづくり全体の遂行は、鹿島にとっては新しい挑戦。この事業と寝屋川東ファミリータウンは、のちに大規模複合開発事業へ本格参入するきっかけとなった。

青函トンネル

1980

世紀の長大トンネルである青函トンネルは全長53.85km、そのうち海底部は23.3km。当社は本州方海底部の竜飛工区(13km)を担当した。1972年に本工事が始まった。作業坑での異常出水や複雑な地質、過酷な作業環境など数々の難関に立ち向かい、1985年3月本坑は貫通する。地質調査から42年、本工事着手から16年の歳月をかけて完成した青函トンネルは、新幹線と貨物線を供用しながら、北海道と本州を結ぶ重要な交通網の一翼を担っている。

平成

フアラライリゾート

1990

1996年に誕生した、フアラライ・リゾートは、ハワイ島のハイエンドな長期滞在、居住型リゾートである。“オールド・ハワイアン”をテーマとしたマスタープランの作成から、建物の色から外壁の材質、ゴルフコースの造成やインフラの整備、ホテルやコンドミニアムの企画、設計、建設も手掛けるなど、ゼネコンデベロッパーとしてリゾート全体の事業化を図り、米国最大級リゾートを生み出した。翌1997年には「サンフランシスコジャイアンツ球場」などの開発を展開。米国開発事業の拡大が進む。

グランルーフ

2000

鹿島の施工技術とデベロッパーとしてのノウハウを活かしたグラントウキョウは、1998年に鹿島が土地を購入し、2001年に鹿島を含む4社が一体となりプロジェクトをスタートさせた。国際都市TOKYOの「新たなターミナル」をつくるという使命のもと、鹿島の最大の特徴である、設計・施工能力などを併せ持つゼネコンデベロッパーとして、「技術力」「総合力」を活かし、複合的な都市開発を実現。丸の内側では東京駅丸の内駅舎保存・復原を行い、日本のシンボルをつくり上げた。

羽田空港D滑走路

2010

羽田空港D滑走路は、2010年に羽田空港の4本目の新たな滑走路として誕生した。国の事業として国内ではじめて、設計・施工一括請負方式で発注され、かつ竣工後も30年間の維持補修管理業務を請負者が実施していく。また、その構造は、従来からの埋立構造に加え、多摩川の通水性を確保するために、日本ではじめて採用された「ハイブリッド構造」。軟弱地盤を克服し、空域・海域のさまざまな制約の下、鹿島の技術力を活かして築き上げた。羽田空港は今、アジアのハブ(拠点)空港としての第一歩を踏みだしている。