第62回 碓氷峠の招魂碑 明治時代の鉄道工事
碓氷峠は群馬県と長野県の県境にある標高956mの峠で、信濃川水系と利根川水系を分ける中央分水嶺でもある。江戸時代ここは中山道の三大難所のひとつであった。直江津線の未成区間横川・軽井沢間施工中の明治25(1892)年3月、この招魂碑が建てられた。現在は「うすいの歴史を残す会」が建立した碓氷路交通殉難者の鎮魂碑とともに、旧中山道際の信越本線と国道18号線が見渡せる場所にある。
碓氷路交通殉難者の鎮魂碑(左)と招魂碑(右)クリックすると拡大します
東海道線か中山道線かの選択
明治政府は、鉄道幹線の建設構想を進めるに際し、東海道か中山道かの選択を迫られていた。どちらも政治的に重要な幹線であり、江戸と京都・大阪を結ぶ流通の経路でもある。
東海道線の敷設は、箱根の険を越え、富士川、安倍川、大井川、天竜川などの大河を橋梁で渡らねばならない。しかし、これらの地域は土地も平坦でほとんどが海に面している。鉄道がなくても馬や船を利用することで、交通・運輸の便は保つことができる。一方で中山道線は、内陸にあって海運の便がないため、鉄道を敷設することで沿線の交通は便利になる。路線は木曽付近の山が険しい程度で、箱根の険に比べれば大したことはないと思われた。大きな川も3本程度なので、東海道線より工事は簡単である。また、陸軍も軍略的見解では、沿岸を走る東海道線は有事の際に艦砲射撃により容易に敵に破壊占領される可能性があるということで、中山道線を推していた。
中山道線については明治4(1871)年に鉄道寮(→鉄道局→鉄道庁→鉄道局→鉄道作業局→帝国鉄道庁→鉄道院→鉄道省→運輸通信省→日本国有鉄道)の役人が、明治7(1874)年と8年にはお雇い外国人R・V・ボイルが現地踏査し、中山道線を建設することを推薦している。しかし、西南戦争など明治9(1876)~10(1877)年の内戦により政府は鉄道建設資金の支出が難しくなってしまい、その決定は明治16(1883)年まで待たねばならなかった。
明治16(1883)年8月、鉄道局長・井上勝の何度かの進言ののち、政府は中山道線の建設を内定し、測量を進めることと建設方法についての報告を求めた。中山道線は東は高崎まで、西は大垣までそれぞれ既設の路線を利用することで間の高崎・大垣間を結び、幹線とすることができる。軍首脳部は強力な軍備拡張を志向していたため、欧州各国の軍事輸送の実態などをもとに鉄道の軍事的機能について関心を深め、中山道線は軍事上必要と考えた。
明治16(1883)年11月、中山道東部線高崎・上田間の測量を開始する。明治17(1884)年10月高崎・横川間28.8km着工、高崎・松井田間、松井田・横川間の2工区に分け、そのほとんどを鹿島が施工した。翌年10月に開業する。
また、中山道西部線は、明治17(1884)年5月に大垣・加納(現・岐阜)間で着工、翌年9月には加納・名古屋間も着工する。線路は美濃平野の北部を横断し、揖斐川、長良川を越えて加納に至る。そこから南方へ直角に曲がり木曽川を渡って濃尾平野の中央を縦走し、一宮を経て名古屋に至る。平坦な耕地を通るため土工は築堤が主で、名古屋・武豊間の半田線37kmが明治19(1886)年3月に開通し、同年6月名古屋・木曽川間約47kmが開通、翌年1月には木曽川・大垣間19.4kmも開通した。大きな工事として残っていた揖斐川、長良川、木曽川の3橋梁は、揖斐川と長良川の橋梁が明治20(1887)年1月に、木曽川橋梁が同年6月に竣工。これで大垣・武豊間約84kmは全通した。
資材輸送用の直江津線
この名古屋・高崎間を結ぶ中山道線内陸部の資材輸送用に作られたのが直江津線であった。直江津線は、「直江津より高田平野を走り、険峻なる妙高、黒姫等の諸山峙立する信越国境山脈の東部を貫き、善光寺平に出で、それより千曲川に沿うて軽井沢に至る」(『日本鉄道請負業史明治篇』p85)路線である。
40分の1勾配が全線中47kmを占め、新潟県の関山から田口にかけては特に大きな土木工事が必要である。鹿島が施工した大田切・小田切工区では、わずか3.2km足らずの築堤に、土砂30万㎥が必要だった。トンネルは、大廻(120m)、戸草(145m)、坂口新田(67m)などがある。小諸から浅間山麓までは海抜900m以上。線路は勾配がある上曲がりくねって上っていく。小諸から信濃追分付近は鹿島が請け負っている。
明治18(1885)年4月、直江津・上田間の建設が決定され同年7月に着工、翌年8月直江津・関山間29km、明治21(1888)年5月関山・長野間45km、同年8月長野・上田間34km、同年12月上田・軽井沢間40kmが開通し、軽井沢・直江津間148kmが開通する。
しかしこのころには、中山道線を幹線として先に敷設する案の放棄と東海道線の建設が決まっていた。東海道線は明治3(1870)年に踏査を開始したものの、中山道線の施工が決まったため、工事はされていなかったのだが。
東海道線の建設
明治19(1888)年、鉄道局長官・井上勝は中山道線内陸部の詳細な実測を命じる。その結果、当初の見込みと違って、中山道線は地勢が峻険で施工が困難、なおかつ工事費がかかり、完成までに膨大な日数を要することがわかる。
名古屋から西は中山道線も東海道線も共通のため、東京・名古屋間を比較すると中山道線は414.4km、東海道線は383kmでその差は32km。そして建設費は中山道線が東海道線の倍、隧道の数は中山道線が数も長さも東海道線の約3倍、橋梁は東海道線が中山道線の5倍となっている。しかしながら線路の勾配は中山道線では50分の1の勾配とそれ以上の勾配が87kmも続く。東海道線では50分の1以上の勾配は21km、最急勾配は40分の1である。
また、開通後の列車所要時間は、中山道線19時間余、東海道線13時間余。建設費に比較して営業益も東海道線の方がよかった。そこで、明治19(1886)年7月13日、政府は閣議で中山道線の工事を放棄し、東海道線の建設を開始することを決定した。即時に横浜・沼津間の測量と建設工事が開始される。
| 中山道線 | 東海道線 | |
| 距離 | 414.4km | 383km |
| 建設費 | 2000万円 | 1000万円 |
| 隧道 | 48か所 17,703m |
16か所 5,633m |
| 橋梁 | 1,280m | 6,614m |
| 勾配 | 87km | 21km |
東海道線の工事は天竜川を境に東西に分け、東部線は4工区、西部線は2工区に分けて進められた。隧道と橋梁以外は請負、それもほとんどが特命であった。鹿島は天竜川より東の工区のうち沼津・石部間、神谷城・天竜川間等を施工している。東海道線は明治22(1889)年7月に竣工する。工事を東西二部制にしたために自然競争のような形となり、建設速度の新記録を作った。休暇は毎月1日と15日のみで、夜を徹して働き続けることも多かった成果である。
横川・軽井沢間66.7‰
高崎から直江津まで結ぶ直江津線のうち、最後に残った横川・軽井沢間の工事が始まったのは、明治24(1891)年3月のことだった。
碓氷峠は標高956m。中山道東線の横川駅は海抜386.5m、軽井沢駅は939m、標高差552.5m、距離は11.2kmである。ここを26のトンネルと18の橋梁を使って上る。66.7‰(パーミル。勾配の単位。1000mの距離で66.7m登る)の勾配は長く日本一だった。
26あるトンネルの長さは、32.6mの第25号トンネルから、546.2mの第6号トンネルまでさまざまで、鹿島は第1号(187m)、第2号(112.7m)、第3号(77.5m)、第4号(100.3m)、第5号(243.6m)、第6号(546.2m)、第7号(75.4m)、第25号(32.6m)、第26号(432.5m)の9本のトンネルを施工している。18の橋梁はすべて国の直轄施工で91.06mの第3橋梁が最長で、2.44mの第17橋梁が最小である。
明治24年8月30日第25号トンネル施工中を描いた水彩画 クリックすると拡大します
第6号トンネルは遊歩道となっているクリックすると拡大します
新聞記者の見聞録
明治24(1891)年11月22日(日)の信濃毎日新聞には、「碓氷鉄道工事見聞録」という記事が出ている。これは出張員の手記で、実際に施工中の第25号隧道を見学して記事にしている。
見学当時、導坑は500尺(151m)ほど進んでいた。中央に板を渡して上部下部で分担して工事をしている。中に進むと掘削した土石の運搬、材料の搬入、石の片づけ、堅石の穿ち、火薬の注入、ダイナマイトの準備などが行われている。暗黒の中、手元を照らすカンテラがあるだけ。時に作業員が逃げてきて、硝煙の鼻を衝くにおいがする。堅い岩を穿つためにダイナマイトを仕込んで導火線に火をつけて破裂させる。場慣れしていない素人は一歩一歩進もうとしてもなかなか進めず、人の後ろについて行くしかない。岩石を穿つのにダイナマイトや薬を注入し導火線に灯すのだが、破裂音は耳を被う暇もなく、山谷に鳴り渡る。どんな堅石も粉砕してしまう。しかし、石片が飛んで数百m向こうまでいくこともあり、その勢いは恐るべきものである。作業員が即死したり、大怪我を負うのはだいたいはこの発破のためである。作業員は導火線に添加すると直ちにその場を離れるが、意外な場所に岩石が飛び来ることもある。また3発目不発で接近したところで発火することもある。
工事は順調に進み、明治25(1892)年12月に竣工、勾配15分の1の区間にはアプト式歯状軌条を用いて鋼製枕木に定着。翌年4月1日、運行開始。直江津線東京・直江津間は全通したのである。
「帝国鉄道協会会報9巻5号」には、正会員工学士渡邊信四郎の「碓氷嶺鉄道建築畧暦」が掲載されている。これは明治26(1893)年8月、碓氷線竣工の際に鉄道局長松本工学博士へ報告したものを転載したものである。
それによると工事区間のほとんどは雑木林で、26号隧道から軽井沢停車場までは茅や葦が生い茂る沼地であった。その整備には多額の費用を要したとある。明治24(1891)年3月に工事開始、6月上旬には軽井沢方面からも土工開始、8月には全工区での工事が開始される。明治25(1892)年11月下旬には隧道はほぼ完成し、残るは第6号橋梁だけとなっていた。12月22日には横川・軽井沢線路の連絡工事、砂利による線路を固める作業、処々の装飾を施す作業を残すのみとなる。工事は18か月で完成した。工事中明治25(1892)年4月と5月には大雨が降り続き、国道では崖が崩壊して作業員の小屋などを潰してしまった。これにより作業員と家族数名の死傷が出ている。
工事は隧道等で死傷事故があった。作業員の不注意で爆発の石片に触れた、少量の土砂に埋められたなどで、そのほか負傷したことで余病を併発した者も合わせて工事中の死者は約20名であったという。
大田切・小田切の工事
同じ直江津線に大田切・小田切の工事がある。明治19(1886)年3月に着工し、明治20(1887)年11月に竣工した。前述したように鹿島が施工した大田切・小田切工区では、わずか3.2km足らずの築堤盛土するのだが、その量30万m3とも105万m3ともいわれる。直江津線敷設工事の中で碓氷峠と並ぶ難工事で、延べ30万人がかかわった。江戸時代の参勤交代では諸侯を苦しめた難所であった。
大田切沢の開削工事は、大田切川の深い谷底を越えて線路を通すのだが、当時、橋梁は欧米から輸入する高価なものであった。そのため何度も転用して大切に使うことが多い。大田切の工事では橋梁を諦め、大田切川の川底に水抜きトンネル(7.6m×7.8m×長さ95m)を作り、その上に盛土して高さ36m、長さ80mのダムのような堰堤を作り、その上に線路を敷くこととなった。
碓氷峠のトンネルは26本あるが、そのうち最長の第6号トンネル(鹿島施工)は、高さ4.87m×幅4.57m×長さ546.2mである。大田切川の川底に作られた水抜きトンネルは7.6m×7.8m×長さ95m。碓氷峠のトンネルの倍近い断面である。
次に、盛土量30万m3、高さ36m、長さ80mの堰堤を作る。鹿島は36年後の大正12(1923)年に京都で日本初の高堰堤(こうえんてい)コンクリートダム・宇治川電気(後の関西電力)・大峯ダムを施工したが、その高さが堤高31.2m、堤長91.3mと、ほぼこの盛土に近い。大田切では長さ66~99cm(2尺2寸~3尺3寸)の石材1万8,000個と土砂が投入された。石は直江津港から水揚げされ、列車で運んだ。
今でも沢と橋梁と堰堤とその上を走る鉄道を見ることができる。
コレラの流行
明治19(1886)年、日本ではコレラが大流行した。全国で15万人が罹患、致死率は60~70%に上り死者は10万人に達した。明治時代コレラは何度か流行したが、この年の流行が一番大きいものだった。国が示した主な予防法は、飲食物に気を配る、家の中を清潔にする、大勢で集まらない、といったものである。また、コレラは水による感染が多く、夏に活発となることから「井戸水をむやみに飲まない」「換気によって部屋を乾燥させる」「生ものや傷んだものを食べない」といった、より具体的な対策も広まっていた。
鉄道工事の現場では、作業員は同じ宿舎に寝て、同じ食事を頂くことが多く、伝染性の病はひとたび流行するとたちまち多くの作業員が罹患してしまう。大田切の現場も例外ではなかった。工事そのものの事故は多くはなかったが、たくさんの作業員がコレラで亡くなってしまう。鹿島岩蔵はたびたびこの大田切の難工事現場を訪れていたが、コレラにかかった作業員を赤倉温泉の旅館・香嶽楼に収容し、看護に務めるよう指示した。作業員たちはここで手厚い介護を受けた。
香嶽楼は、鹿島岩蔵が赤倉温泉の内湯引き込み権利を得て建てた近代的な旅館であった。明治19(1886)年10月7日に創業した。父祖からの昔ながらの温泉旅館ばかりの地に、三方ガラス張りの眺めの良い浴室、室料と食事代を分けたホテル式の営業方法で建てられたもので、外国人観光客にも人気だったという。香嶽楼は大正初期には鹿島の手を離れたが、現在も赤倉の地で営業を続けている。
鹿島岩蔵の息子・龍蔵が、明治22(1889)年頃父に連れられて家族で大田切に行った時のことを書いている。「善光寺参りから大田切の工事を見せ、赤倉の温泉に入れて、序に日本海の浪の音を聞かせてやろうと、父に連れられて家中総出で、出かける事になった。私は何所へ何を見にいくのだか悉皆夢中で或年の5月末の或朝、暗い中に起され、車に乗せられて上野駅に至り、一番汽車の午前6時発の中等車(2等)に運び込まれてしまった。午少し過頃に汽車の終点横川に着。其れから圓太郎馬車(=乗合馬車)一台借切りにして碓氷峠を越した。(中略)翌日も亦馬車、篠ノ井の出張所に立寄り、夕暮れに長野に入った。一泊して翌朝本間英一郎氏(鉄道局長野出張所長)を訪問した。折から馬上で出掛ける処であったが、彼に対して父が頗る叮嚀におじぎをするのに驚かされた。父のこうした態度を初めて見た私は、子供心に、こんな偉い人があるかと思った。善光寺参りをも済まして長野からは前年5月に開通したばかりの汽車に乗って、田口駅に下車し、赤倉へ上った。豊かな温泉に浸りながら、硝子戸越しに遥かに日本海まで見はらした時はいいなと思った。翌日は後の山で蕨取りに一日を送った。折からツツジが真っ盛りであってその白いの、紅いのが私には本当にうれしかった。しかし子供には蕨取りは向かなかった。ご自慢の大田切に行って大築堤を歩きながら、これを築いた苦心談を聞かされた。大きな山々が周囲に重なり合っているのに比べて、何だこれしきな事をと思った。(後略)」(鹿島龍蔵「深川時代の追憶」『第弐涸泉集』p.115)
岩蔵にとっては、家族に見せたい思い出の多い現場だったようである。建設会社にいると、家族に自分がかかわった構造物を見せるというのはよく聞く話であるが、鹿島岩蔵も、この大田切の大築堤を家族に見せたかったのである。それほどの工事であった。
鉄道工事犠牲者の悼み方
「近代の鉄道関係碑」(昭和55年3月、日本土木文化遺産調査会)によると、全国各地の鉄道関係の慰霊碑・供養塔・墓は130余(1979年調査時)ある。その中で明治期に建立されたものは17基あって、そのうち8基が鉄道工事従事者殉職を悼む碑である。一番古いものは、明治20(1887)年9月の信越線の供養塔、次が明治25(1892)年3月の碓氷峠招魂碑、そして明治33(1900)年2月の大田切工事碑と続く。3基とも信越線の工事である。
長野駅近くに建つ「供養塔」の碑文には、「直江津線の工事で工夫の圧死者数十人、コレラ疫死者幾百人」と書かれている。もともとは善光寺にあった碑で、そこの僧侶寂順が祈りをささげたものである。この碑は信越線完成の前年に建てられている。碑の裏面には工事を請け負った吉田組ではなく、主唱者、世話人、小頭の名前が刻まれている。
碓氷峠の招魂碑には表面に「鹿島組 龍集明治二十五年春三月二日 兵庫県加古郡草谷村 魚住八十松外五百名 明業舎 願人 魚住政吉」と刻まれている。側面にも裏面にも何も書かれていない。龍集(りょうしゅう)とは星のめぐりのことで、年月につける文言である。願人は、文字のごとく願った人、その代表者のことである。あとは難しいことが書かれているわけではない。
大田切工事碑
田口駅(現・妙高高原駅)構内に建立された大田切の工事碑は、昭和29(1954)年に大田切築堤近くのJR信越本線の線路わきに移された。碑文には次のような内容が書かれている。
大田切工事碑 松本壮一郎
明治19(1886)年からの信越線工事で、大田切の険しい崖の開削に着工したのは3月であった。鉄道局長井上勝、一等技師松本壮一郎が監督、三等技師本間英一郎、古川三次郎、小山保政らの助けで翌年11月竣工。職工人夫延べ30万人余、山を34m開削し、谷底を35.8m、土量約5万立方積、渓流を排するため底下にトンネル径7.6m長94.5mの穹窿(ドーム)を作り、汽車道を開く。しかしこの難工事のため役夫79名死亡うち63名は悪疫のためたおれ、16人は土砂墜落のために没す。世人の哀悼惜くに能わざるところであり、本工事受託者鹿島岩蔵氏この工事の要とその死者の名を碑に勒し、後世に伝えんとして、文を余に徴せらる。自分はそれがとてもいいことだと思うので、ここにこのようにその概略を述べたものである。 明治33年8月8日
手塚秀輔 識
吉田愚渓 書
木村旭辰 刻
大田切工事碑クリックすると拡大します
線路わきに見える工事碑クリックすると拡大します
工事が終わってから13年後に建てられた大田切の工事碑と、工事が終わる9カ月も前に建てられた碓氷峠の招魂碑。比べてみると下記のような違いがある。
| 大田切の工事碑は、 | ||
| 1. | 発注者である鉄道局長の名前で碑文が作られている。(松本は建設当時一等技師で工事の総監督だった) | |
| 2. | どういう工事で、発注者側には誰がいたかが明記されている。 | |
| 3. | 工事犠牲者79名、うち土石墜落により16名と犠牲者の内訳がわかる。 | |
| 4. | 裏面に79名の住所氏名が明記されている。 | |
| 5. | 「鹿島組建立」は、側面にのみ記載されている。 | |
| 6. | 建立は竣工から12年9か月後である。 | |
| 7. | 碑文を考えた人、石を選んだ人、書を書いた人、石に彫った人の名前が書かれている正式な石碑(石碑としては最上級)である。 | |
| 一方で碓氷峠の招魂碑は、 | |
| 1. | 発注者である鉄道局(明治25年当時は鉄道庁)の名前はどこにもない。 |
| 2. | 工事名、工事内容はどこにも書かれていない。 |
| 3. | 「500名」について数字以外何も言及されていない。端数がないことからも、寄進者の数ではないかと推測できる。 |
| 4. | 魚住八十松、魚住政吉以外の個人名がない。 |
| 5. | 一介の請負者である「鹿島組」の名前が表面一番上に書かれている。 |
| 6. | 建立は工事開始から12か月後、竣工9か月前で、工事途中である。 |
| 7. | 碑文がなく、文字を書いた人も、彫った人も名前がない簡単な碑 |
碓氷峠招魂碑のさまざまな謎
比較してみると、さまざまなことが見えて来る。
NPO法人碓氷峠歴史文化遺産研究会萩原豊彦理事長から「招魂碑は鹿島が建立したのではないのではないか」というご意見をいただいた。工事碑と招魂碑の違いはあるが、招魂碑は碑の表面の一番上に「鹿島組」と隷書体で彫られている。大田切の工事碑には側面に「東京」「鹿島組建立」と彫られている。それと比較してみて招魂碑はどうであろうか。鹿島が作るときに、自分の名前を一番いい場所に入れるであろうか。鉄道局の工事を請け負っている一介の請負業者である鹿島が鉄道局への配慮もなく、自分の社名を表面最上部に入れるであろうか。そう考えると、今まで鹿島が建立したと思われていたこの招魂碑だが、碑を作ったのは、明業舎ではないかと推測できるのである。明業舎については今のところ何もわかっていないが、この明業舎が作ったからこそ、鹿島の名前を上にしたのではないか。鹿島からは建立のためのいくばくかの寄付金が差し出されたのではないか。
また、墓所の問題もある。高崎・横川駅間建設の工事で亡くなった作業員の墓は、鹿島組が施主となり、共同墓地に葬られている。工事で亡くなった人は現地で葬られる場合が多く、鹿島組はでは当時の作法に則りきちんと葬っていた。
昭和39(1964)年7月と8月に鹿島建設が現地調査した際の報告書と写真が本社資料センターに残っている。書物をあたり、地元の歴史家たちをあたり、国鉄に話を聞き、お寺や墓地を訪ね歩いた。「明治25年春に殉職者501名(魚住八十松外500名と彫られているため)とあるからには、工事終了までには1,000名を超えたと推測される」と探すものの、これ以降の碑はなく、埋葬場所も軽井沢、熊の平、横川を調査しても判明しなかった。しかし、坂本で共同墓地に「鹿島組」と彫られた墓があるのを発見する。結局、何百人も死んだという記録はなく、それほどたくさんの人の墓石をみつけることもできなかった。
碓氷峠の招魂碑は、工事中に亡くなった人の霊を弔い、これからの工事の安全を祈願した「招魂碑」である。だから工事について触れられていない。500名と彫られているが、これは単なる寄進者の人数ではないか。皆で寄進して建てたからほかの人の名前がないだけなのではないか。なぜなら、魚住八十松、魚住政吉の個人名以外、鹿島岩蔵等の名前も一切記載されていない。大田切の工事碑では犠牲者79名の住所氏名が全員分彫られている。招魂碑に500名と彫られているために鹿島の工事従事者が500名死亡したと誤解している書物やインターネットの記事を見かけるが、どこにもその事実を見つけることができなかった。一度に亡くなったのなら新聞記事に載るであろうが、何もない。この頃の各県別死因別の統計があるが、そこで群馬県や長野県が群を抜いている数字もない。コレラの死者も特別多いわけではない。工事現場で亡くなったなら男性の数が多いと思うが、男女別の死者数で特に男性が多いわけでもない。
この招魂碑の建立は工事開始から12か月後、竣工9か月前で、工事途中であるのは、これからの工事の安全祈願的な招魂碑だからではないか。いずれにしても亡くなられた方がいて、これからの安全を願って建立されたものであるのは確かである。
毎年9月招魂碑前では殉職、殉難した方々と交通事故等で亡くなられた方々の慰霊祭を行っている。
<参考資料>
鉄道史録会『史料鉄道時刻表①』(1981年)
日本土木文化遺産調査会「近代の鉄道碑」(1980年)
鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治篇』(1967年)
萩原進『碓氷峠』(1973年)
八木富男『碓氷線物語:急勾配とのたたかい』(1978年)
中村勝実『碓氷アプト鉄道』(1988年)
うすいの歴史を残す会『関所のまち・よこかわ』(1995年5月)
小林收『碓氷峠の歴史物語』(1997年)
『アプトの道』藪塚本町(1998年)
本田夏彦「嶺路の金石・・・鉄道犠牲者」「松井田町広報誌 昭和37年12月15日付」
日本国有鉄道総裁室修史課編『工部省記録 鉄道之部』(1964年)
鹿島龍蔵『第弐涸泉集』(1927年)
(2026年8月3日公開)



















