第3回 丹那トンネル

昭和9年3月10日、丹那トンネルのすべての畳築(じょうちく)(*1)が完了した。着工から16年の歳月が流れていた。たび重なる事故と犠牲者(*2)は断層、湧水、温泉余土(*3)が原因だった。大正から昭和にかけての国家事業となった大工事、東海道線丹那トンネルの足跡を追ってみる。

丹那隧道計画

明治43年、熱海・三島間隧道建設計画が始まる。大正6年、鉄道省はこの工事を鉄道工業と鹿島組に発注(*4)。全長7,804m。計画は工期7年、工事費770万円。当時「第一次世界大戦で諸物価が急騰し、工事は赤字が続いていた。12月の忘年会の時、鉄道省から鹿島組に丹那隧道工事が特命となった知らせが届いた。7年間の大工事に一同期せずして万歳を叫んだ。之まで萎縮していた顔がどれも之も晴れやかになり活気が漲った。こんなに華やかになった忘年会はまたとないであろう。」(*5)と社をあげて喜んだ。

入坑時の様子。つばの広いヘルメットとゴム製の雨合羽、長いゴム長靴という重装備が湧水の多さを物語る入坑時の様子。つばの広いヘルメットとゴム製の雨合羽、長いゴム長靴という重装備が湧水の多さを物語る

三島口担当が決定したその日、組長鹿島精一と現場代理人桜井金作は視察に赴く。当時の現場歩きは草履脚絆がけである。終日歩き回って修善寺の旅館に泊まろうとしたら断られ「二人で顔を見合わせて苦笑した」(*6)。桜井は当時50歳。丹那の所長を10年勤め、「役所とは異なる事情がありますが、其の忍耐強い勤続の功績は大に感謝すべき」(*7)と賞賛された。

計画図計画図

桜井金作 丹那時代の仕込杖をいつも持っていたという(写真は晩年。桜井氏の孫、前嶋瑞枝氏提供)。桜井金作 丹那時代の仕込杖をいつも持っていたという(写真は晩年。桜井氏の孫、前嶋瑞枝氏提供)。慶応2(1866)年静岡県由比町生まれ。明治27年3月入社。各地で鉄道施工に携わった後、丹那トンネル所長となる。鹿島組が株式会社となった昭和5年取締役に就任。昭和8年監査役、昭和10年退任。桜井栄転後は工事係・栗田政治が所長となった

馬や牛でのズリ出しと水との闘い

大正7年7月5日西口工事開始。機械設備も電気もなく、一年後の鑿岩機(さくがんき)導入までは手掘。カンテラを持って入坑し、掘削で出たズリを出すには馬が使われた。馬は暗所を嫌がり時に驚き暴れた。後に丹波牛(*8)を使う。坑内では排泄物に滑り、臭いに悩む状態が大正10年夏の電化まで続く。

掘削は8時間労働3交替。難所は4交替、湧水箇所は6交替で進む。至る所で高圧の湧水に悩まされる。松丸太土留をへし折り、レールで囲んだ鉄管も、コンクリート詰鉄管も曲がる。雨合羽と膝まで届くゴム長靴で、膝上までの水が滝状に降る中での作業。「カンテラの灯を頼りに働いているが、その危険と困難は言語に絶するばかり」(*9)。本坑工事を一年中止し、水抜坑を昼夜兼行で掘削、20m弱の断層突破に4年8か月かかる。「アメリカで出たトンネルの本を見ると必ず丹那の記事が数頁載っている。非常に厄介な面倒なトンネル」(*10)とその難工事ぶりは世界に知れ渡っていた。

西口7,080呎(2,158m)からの工事中最大の湧水(大正14年5月8日)。天竜川より激しい水勢といわれた西口7,080呎(2,158m)からの工事中最大の湧水(大正14年5月8日)。天竜川より激しい水勢といわれた

貫通

「突然左下の壁面が震え出しムクムクと盛り上がってくるかと見るまに、(鑿岩機の)細い鑿先がグット顔を出しました。期せずして万歳の声が起こりました。早速鑿を抜き其の後に2吋(インチ)鉄管を差し込みますともうお互いに話ができます。」(*11)鉄道省の石川技師が鉄管を通して話す。「こちらは底設盤から2呎(フィート)の所に鉄管が入っている。あなたの方はどの部分に出ているか」(*12)。鉄管を通じて熱海から三島口へ風が吹きぬけた。昭和8年6月17日。着工から15年の歳月が流れていた。8月25日本坑貫通。西から進んだ社長鹿島精一は、東口の鉄道工業社長菅原恒覧と固い握手を交わす。

西口8,000呎(2,438m)付近の水抜坑西口8,000呎(2,438m)付近の水抜坑

桜井は「感想?そんなものはないね、強いて言えばよくやってきたなァという一言に尽きる。これも組長のお陰、今更手柄話でもないよ。随分議論も戦わしたし強情も張ってきたさ、それでも出来上がればいい。苦労はお察しに任せるばかりだね。日本でもこの位のものは出来るという自信がついただけでもいい。米国から技師をという話もあったが今日から見れば夢の様、ただ尊き殉職者に対して僕は死ぬまで冥福を祈るばかりさ」(*13)と淡々と語った。

12月1日、一番列車がトンネルを通過、走行時間は50分短縮された。湧水に悩まされた丹那トンネルの水抜坑総延長は48,000呎(フィート)(14,545m)に及ぶ。鹿島組が建立した慰霊碑は今も西口脇に、鉄道省が建立した慰霊碑は今も東口上にあり、毎日通過する130本余りの旅客列車や貨物列車を見守っている。

水抜坑図水抜坑図

*1 巻き立てのこと。丹那の畳築は煉瓦、コンクリートブロック、場所打ちコンクリートと変遷し、隧道畳築の歴史を物語る。
*2 大正10年4月1日熱海口4,416呎(1,338m)大崩壊生埋事故。16名死亡、17名生埋。蓑の藁を食べて飢えをしのぎ182時間後救出。西口から駆けつけた鹿島組も救出作業を行った。大正13年2月10日西口4,950呎(1,500m)湧水を伴う土砂3,786m3が迂回坑を埋没し、坑奥16名溺死。2月28日全員搬出まで、鹿島精一組長以下組員は脚絆の紐を解くことなく救出作業を続けた。他に関東大震災(大正12年)、北伊豆地震(昭和5年)にも遭遇。犠牲者を悼み、鹿島組は西口脇に慰霊碑を建立。現在は地元有志が毎月第二日曜日の清掃奉仕と9月に慰霊祭を行う。東口上の丹那神社には全犠牲者67名の慰霊碑があり、熱海市が毎年4月に慰霊祭を行う。
*3 温泉熱で変質した溶岩や岩塊。空気に触れると数倍に膨れる。
*4 帷子哲郎(大正15年3月入社、昭和49年3月退職)によると鉄道工事を一番多く手がけた所に特命発注した理由は「機械化の進んでいる」所。その基準は「軽便軌條の保有量」だった。
*5 根岸善吉(明治39年4月入社、昭和22年退職)
*6 鹿島守之助「丹那隧道と先代」日本国有鉄道新橋工事事務所『丹那とんねる』(昭和29年)
*7 鉄道省熱海建設事務所「丹那トンネルの話」(昭和9年)
*8 食用として名高い丹波牛だが、元は京都の車牛。鎌倉時代の「国牛十図」でも「腰や背が丸々として頑健」と紹介。おとなしく、粘り強く、力が強いので農耕牛として飼われていた。
*9 清水啓次郎『魔のトンネル丹那征服まで』(昭和8年)
*10 石川九五「隧道のスピード」日本国有鉄道新橋工事事務所『丹那とんねる』(昭和29年)
*11 鉄道省熱海建設事務所『丹那トンネルの話』(昭和9年)
*12 入社2か月半の西川義雄(昭和8年4月入社、昭和37年退職)はその場で聞いていた。
*13 鹿島組月報昭和8年11月号

(2007年2月19日公開)

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