第5回 戦災の中で

昭和20年5月25日深夜、3月10日以来3度目の大空襲が東京を襲い、八重洲にあった鹿島本社ビルも焼夷弾の直撃を受ける。 「東京は6,908トンの焼夷弾に見舞われ、新たに22.3平方マイルの市街が焼き払われた。 これで東京は焼夷弾爆撃の目標リストから消された。」(*1)戦中の鹿島を社員の手記を元に戦時時の社員の足跡をたどる。

物不足、人不足の中で

昭和11年の2.26事件後、内閣は軍備拡大を進め、日本経済は逼迫し始める。昭和12年7月の日中戦争勃発後、9月に金融統制法、昭和16年4月米配給制、9月金属回収令と資材統制の範囲は広がっていった。

建設現場では熟練した作業員が軍に動員され、作業効率が低下。資材調達に加えて労働力確保に苦労することとなる。工事も規制され、昭和16年夏には軍工事、軍需工場以外の工事はほとんどなくなった。

昭和17年、「鹿島組月報」には防護団が警戒警報で交替警戒した話題や、出征社員の便りが掲載される。観劇会や部内旅行、部対抗野球大会の記事が並び、誌面にはまだ戦争の切迫感は見られない。

昭和20年8月27日の東京。写真上に左右に広がるのが東京駅と線路。その手前に鹿島組本社ビルが焼け残っているのが見える(アメリカ公文書館蔵)昭和20年8月27日の東京。写真上に左右に広がるのが東京駅と線路。その手前に鹿島組本社ビルが焼け残っているのが見える(アメリカ公文書館蔵)

初めての戦死者

昭和17年7月号の月報に、この戦争での戦死の記事が載る。昭和14年大阪支店新卒入社、翌年入営した平松勇で、部隊長から遺族宛の戦死報告抜粋も掲載された。この年社員1,900名中362名が、翌18年には2,170名中458名が応召・応徴された。昭和17年10月1日付新卒新入社員72名中54名はそのまま入営。給料は入営中の全ての社員に支払われた。月報には「盗難防止」「現場資材擁護」「手許貸厳禁」などの通達が並び、「空襲災害とその救急法」が紹介され、戦局が徐々に悪化していくのがわかる。

戦死記事(鹿島組月報昭和17年7月号)戦死記事(鹿島組月報昭和17年7月号)

昭和18年3月、本社での事務主任会議後台湾支店に戻る島宗虎二郎乗船の高千穂丸撃沈。10月、北京営業所次長中津光蔵夫妻乗船の関釜連絡船(*2)崑崙丸が撃沈された。

当時16歳だった調査部の市川文子は、東京駅や上野駅へ出征入営社員を送りに出かけては円陣を作り、一時間ほど軍歌を歌い、最後の“海ゆかば”に涙する毎日を送る。昭和18年11月の学徒出陣では、調査部23名中5名の入営を送り「千人針や千人力(*3)を作りながら虚しい気持ちになった。」(*4)

学徒出陣。昭和18年11月13日本社ビル前にて調査部23人全員で撮影。中央、調査部長塚田十一郎の右後ろが市川。見送られた5名中、前列右から3人目、佐藤秀夫が戦死した学徒出陣。昭和18年11月13日本社ビル前にて調査部23人全員で撮影。中央、調査部長塚田十一郎の右後ろが市川。見送られた5名中、前列右から3人目、佐藤秀夫が戦死した

空襲の中現場まで30キロを自転車通勤

昭和18年、水原宏は富士鉄工所(*5)宮古工場へ転勤。昼は現場監督と来客交渉、購入品注文、夜は出面(でづら)(*6)整理と帳簿記入証書整理を一人でこなす。ゲートルのまま手提げ金庫を枕代わりにごろ寝。空襲の中、6時起床午前2時就寝の生活だった。

東武鉄道熊谷線工事の所長、吉澤長一(おさかず)は、資材が割当か闇しかなく、木材1本でも夜中にトラックで買い出し。セメントが支給されず自社の割当石炭と物々交換。せっかく集めた作業員が次々と徴兵され、現場に出るのが嫌になったという。しかし爆風で事務所のガラスが飛ばされた時も、工事は一日も休まなかった。

日本鋼管鶴見製鉄造船第二工場建設工事現場の星尾駒太郎は、通勤用列車が止まり、杉並の自宅から鶴見の現場まで約30kmを自転車で通い「お尻の皮がむけて泣きたい目にあいました」。焼け跡では、強風が電線を引っ掛けた焼けトタンをあおる。パンクしても自転車屋はない。空襲に遭って途中の作業員宅に何度か泊めてもらった。

米軍の空襲は熾烈を極めるようになり、各現場では重要書類を2部作成、1部は本社へ、1部は現場の防空壕に格納した。

相次ぐ被害、そして焼夷弾の直撃

昭和19年11月、本土空襲が激しくなり、本社機構を部署別に分散疎開(*7)。応召で若者が少なく、夜間空襲に備えた本社宿直には現場勤務者までが割り当てられた。

昭和19年2月、台湾勤務者の内地転勤が進められ、帰還船に乗った社員・家族21名撃沈。昭和20年3月10日深川工作所全滅。付近の社宅住まいの社員家族は防空壕内で全員焼死した。

昭和16年7月10日深川工作所落成式。11名の社員が常駐、昭和18年の社員名簿によると、そのうち4名の住所が工作所内になっている昭和16年7月10日深川工作所落成式。11名の社員が常駐、昭和18年の社員名簿によると、そのうち4名の住所が工作所内になっている

4月24日の空襲で社長・鹿島守之助邸全焼。重役・社員の罹災も多く、焼け跡に焼けトタンを集めて作った掘立小屋や防空壕から通勤する者もあった。

そして5月25日。鹿島ビルは外濠に面し、左右に道路もあり、被弾対策のためカマボコ型の屋根に改造してあったが、集中的に落下する焼夷弾に「社員必死の消火作業も及ばず遂に内部に火が入り、大事な書類や帳簿類および創業以来の貴重な資料を焼失してしまいました。」(*8)

昭和20年8月15日終戦。その翌日には「戦後対策に関する件」という通達が出され、復興に向けて動き出す。分散疎開していた本社が、社屋を復興して八重洲に戻れたのは昭和21年4月のことであった。

昭和20年8月16日付 軽本各通第参號「戦後対策に関する件」工事中止、復員社員を考えた新規採用見合わせ、機械資材新規購入見合わせ、インフレへの見積対応要領、損工事対策、財産保護などの項目が並ぶ昭和20年8月16日付 軽本各通第参號「戦後対策に関する件」工事中止、復員社員を考えた新規採用見合わせ、機械資材新規購入見合わせ、インフレへの見積対応要領、損工事対策、財産保護などの項目が並ぶ

*1 L.ギオワニティ/F.フリード共著『原爆投下決定』原書房(昭和42年)
*2 明治38年に就航した下関・釜山間の鉄道連絡船
*3 布に千人の男子が「力」の字を一字ずつ書いて、武運長久と無事を祈って出征兵士に贈ったもの
*4 市川文子「昭和17・18年の感傷」『鹿島婦人会誌・流れ』Vol.7(昭和44年)P14
*5 鹿島製作所の前身
*6 日雇い労働者の一日当たりの人数
*7 群馬県軽井沢町、渋谷区松濤、小石川区(現・文京区)音羽、埼玉県大里郡(現・熊谷市)妻沼などに疎開した
*8 流れ編集室「回顧 婦人会の40年」『鹿島婦人会誌・流れ』Vol.18(昭和56年)p20

(2007年2月19日公開)

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