第31回
今に生きる明治期の鉄道工事―京都鉄道が嵯峨野観光鉄道となるまで―

嵯峨野観光鉄道は、京都嵐山と亀岡を往復する小さなトロッコ列車である。景勝地・保津川渓谷を望むわずか8.8kmに年間90万人の観光客が訪れる。路線には8つのトンネルと51の橋脚がある。これらのトンネルと橋脚はすべて明治32(1899)年に鹿島が施工したもので、現在でもそのまま使われている。

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外国人技師主導の鉄道工事

明治時代、土木の花形は鉄道工事だった。明治5(1872)年、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通し、明治10(1877)年には京都・大阪間の鉄道も開通する。しかし最初のうちは試行錯誤の連続だった。鉄道局長・井上勝(*1)が退任していた5カ月の間に発注されたこの京阪線は、役所が直接作業員を集めて工事をさせれば公費を減らせると言う考えから極端な直轄工事としたために工事が遅れた。(*2)その失敗から井上は「実力あり信用ある請負業者を切実に要求し、請負業者を指導擁護鞭撻することの必要を痛感」(*3)していた。また、敷設を指導する外国人技術者の問題もあった。彼らには高給を支払わねばならず、通訳を介しての指示は労働効率も悪かった。水田地帯を残す設計を提案した日本側に外国人技師は「米食は未開民族の蛮風で、世界の一等国民に米食をする国は一カ国もない。日本国民も米食を廃止し、先進国に倣ってパン食に改めるべき」と耳を貸さなかったという。井上勝が断行した日本人だけで行った鉄道工事が大津線(京都・大津間)だった。大津線は西南戦争で着手が遅れながらも明治13年に開通する。この後、鉄道建設は次々と日本人の手で行われていく。

*1 いのうえ まさる 1843-1910 長州藩士の三男に生まれ、文久3(1863)年密航してロンドン大学に学び明治元(1868)年帰国、翌明治2(1869)年10月造幣頭兼鉱山正、明治10(1877)年工務省鉄道局長、明治26(1893)年3月、鉄道国有論が反対され辞任、明治29(1896)年9月汽車製造合資会社を設立し、社長に就任、明治43(1910)年鉄道事業視察中ロンドンにて客死。「日本鉄道の父」として東京駅に銅像がある。
*2 極端な直轄工事としたため、素人の人足たちは、親方もなく、外国人技師の言うことも聞かない。難工事箇所がないにもかかわらず、短い距離(32km)に長い工期(3年8カ月)となった。(新橋横浜間は29kmを2年6カ月)
*3 鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治編』P31 (1967年)

井上勝 井上勝 クリックすると拡大します

鹿島岩蔵 鹿島岩蔵 クリックすると拡大します

鹿島方から鹿島組へ

優秀な鉄道請負業者となる人材を探していた井上に見出されたのが、毛利公爵邸西洋館(*4)を建築中の鹿島岩蔵である。井上は、長州藩の出身だったため、元藩主毛利元昭の要請により、公務の余暇に洋館の普請を監督に来ていた。そこで岩蔵の働きぶりに目を留め、鉄道請負に転進することを勧める。

明治13年3月、岩蔵は大工・鹿島方を改め、鉄道請負・鹿島組を興す。同年4月敦賀線(長浜・敦賀間)のうち、柳ケ瀬トンネル(1,352m)前後の約8kmの施工を開始する。5本の短いトンネル(*5)があり、渓流に沿って走る線路には橋梁も多く、築堤は高さ約9m、切り取りも深く工事は困難だった。慣れない仕事に鹿島組は損失を計上するが、誠実に仕事をした点を買われ、政府から2万円(*6)の補助金を下付される。

そのほか長浜・大垣間(明治17年5月開通)、幌内手宮間(北海道。明治15年11月開通)、日本鉄道会社線上野・青森間(明治20年12月全通)などの鉄道が各地で続々と施工され、鹿島も全国で工事を行った。鉄道は「船につなぐ輸送手段」として海・川・湖にある港と、鉱山や山林などのある内陸部を結ぶために計画されることが多かった。また、官製ばかりでなく、全国各地で地域の名士、有志たちによってたくさんの鉄道会社が起こされ、建設が盛んになっていった。

*4 東京の高輪にあった毛利公爵敷地内の西洋館。外国貴賓を接待するための迎賓館として作られた。現在の品川プリンスホテル付近。
*5 刀根山トンネル(197.5m)、小刀根トンネル(57m)、曽々木トンネル(54.9m)など
*6 現在の金額で9,350万円ぐらいと思われる。日銀の企業物価戦前指数は明治34年からしか公表されていないため、消費者物価指数を参考にした。ちなみに請負金額は敦賀線全線26哩(マイル。=41.84km)で150余万円(約70億円)。

京都鉄道の敷設

京都鉄道の発端は、明治20(1887)年3月のことである。滋賀県、三重県、京都府の財界人らが発起人となって関西鉄道会社を創立し、大津・四日市間など4線(*7)の敷設を申請した。しかし2カ月前に大阪鉄道が申請した路線と重複する部分があったため、政府は両社に協議をさせる。その結果、京都・宮津間の敷設は見送られた。舞鶴町民は幹線敷設運動をはじめ、沿線の人々も鉄道期成同盟会を組織するなど、鉄道誘致熱は盛り上がっていった。。

明治26(1893)年7月、田中源太郎、浜岡光哲、中村栄助ら150名が発起人となり、資本金600万円で、京都鉄道会社を設立する。京都駅から綾部舞鶴を経て宮津までと、綾部から分岐して福知山経由和田山まで総計165kmの免許を申請する。政府は翌年鉄道会議で福知山までの免許状を下付した。しかし、折悪しく日清戦争(*8)が始まり軍事費膨張のために多額の事業投資は節約され、着工は1年延期される。

*7 大津・四日市、四日市・熱田、伏見・大阪、京都・宮津の4路線
*8 明治27(1894)年7月から翌年3月までの朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争。日本が勝利し、下関条約で清は朝鮮の独立を認め、遼東半島、台湾などが日本の領土となった。

会津小鉄子分の工事妨害

明治29(1896)年4月、工事は京都から開始され、翌30(1897)年11月、嵯峨までの10kmが開通する。平坦な土地で施工はスムーズだった。しかし、嵯峨から先、亀岡までの工事には京都の侠客『いろは』こと山本角次郎が乗り出してくる。

『いろは』は、維新前後に京都で名を馳せた侠客・会津小鉄(*9)の子分だった。会津小鉄は直系の子分だけでも京都を中心に滋賀、大阪、神戸に2,000人、配下も加えると1万人は下らない大親分だった。『いろは』は子分の一人にすぎないが、幕末期の小鉄一家四天王のひとりに「いろは幸太郎」という人物がおり、その系統の子分かもしれない。

『いろは』は自分の縄張りで挨拶のない者は縄張りを荒らす者だと言う理由で、子分たちに命じて暴行、金銭の要求をするなどその振る舞いは傍若無人だった。

『いろは』の工事妨害により、この区間の施工業者は吉山組、有馬組、稲葉組、大阪土木会社と次々と変更された。京都鉄道側はとうとう根負けして二条駅付近の工事を彼等に施工させてみることもしたが、きちんとした施工はもちろん望むべくもなく、工事は滞ってしまっていた。

*9 あいづ こてつ 1845-1885 大阪に生まれ、文久2(1862)年会津藩主松平容保の知遇を受け元締めとなる。新撰組の陰の協力者として活躍。蛤御門の変、鳥羽伏見の戦いにも参戦した。明治25年ごろの博徒番付表では東西128名の勧進元14名のうちの一人に名を連ねる。

鹿島岩蔵、乗り出す

困り果てた京都鉄道会社の重役・浜岡光哲(*10)は、旧知の鹿島岩蔵にこの工事を引き受けてもらえないかと懇願する。義侠心あふれる岩蔵はこれを引き受け、腹心で鹿島の三部長の一人、池田亀吉(*11)を代人として出す。池田は『いろは』の勢力の強さと横暴さを知り、この工事は成功の見込みがないからやめるべきだと岩蔵に進言する。岩蔵が、「せめて現地へ赴き見積もりだけでも出してくれたら、後の工事は新見(*12)にやらせるから」と言っても、普段は従順な池田だったが、この時ばかりは首を縦に振らなかった。そのため岩蔵は、新見七之丞を現地へ行かせる。新見は、「鹿島の新見か、新見の鹿島か」といわれ、各地の鉄道工事で鹿島組の代人として活躍した人物で、折衝が巧みで業界代人中でも傑出した存在だった。現地を見た新見は、鉄道会社が提示した工事費64万円を、「安すぎる、あと20万円は上乗せしてもらわないと、引き受けることはできない」と岩蔵に報告する。新見は『いろは』とのトラブルを見越し、引き受けられない理由として工事金額が安いということにしたかったようである。『いろは』の横暴ぶりは、当時全国で鉄道を施工していた鹿島にとってさえ、それほど厄介なことであった。

岩蔵は、ついに鹿島の三部長最後の一人、星野鏡三郎(*13)を遣わす。彼は鹿島組から独立して星野組を立て、篠ノ井線の工事を始めた直後だったが、『いろは』こと山本角次郎に諄々と事を説き、ある時は恫喝し、ようやく説得に成功する。

星野は万一の場合を考え、鹿島組配下の中でも一番の気骨と腕っ節を持つ前田健次郎を下請け人頭として同行、巡査経験のある人材を広く募集し、現場の警備にあたらせた。『いろは』との交渉はすべて前田が引き受け、工事中悶着を起こすことは一度もなかった。また、鹿島組は『いろは』にトンネルの煉瓦の石積みの一部を請け負わせ、彼等はこれをまじめに努めたという。

*10 はまおか こうてつ 1853-1936 明治の実業家。明治12(1879)年商報会社を設立、後に京都新報を発刊し、京都政財界の中心的存在となる。京都織物会社、京都商工銀行、関西鉄道など諸会社の設立に関与、役員をつとめ、京都商工会議所の会長に就任。府会議員、市会議員、衆議院議員も歴任した。明治31(1898)年6月から京都鉄道の社長となる。
*11 いけだ かめきち 生没年不詳 深川の水揚げ人足出身。鹿島岩蔵に才能を認められて鹿島の手代に引き抜かれる。人物を見込まれて岩蔵夫人たけの妹、千代と結婚。独立せず生涯鹿島組を支えた。
*12 にいみ しちのじょう 1854-1919 愛知県に生まれ、明治維新前後に鹿島方の小僧となる。27歳で鹿島初の鉄道工事・柳ケ瀬線の代人となり、日本各地の鉄道工事で鹿島組の代人として活躍する。明治35(1902)年鹿島岩蔵に有明干拓事業を勧められ、新見商店を開き、生涯を有明干拓にささげた。
*13 ほしの きょうざぶろう 1859-1932 姫路藩士の三男として江戸に生まれる。維新後鹿島岩吉に見出され、11歳で鹿島方の丁稚となる。独学で代人としての地位を築いた。明治30(1897)年に独立、星野組を、さらに鉄道工業会社を創立。大正12(1923)年に教育の重要性を説き明星学苑の前身の学校を興す。

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明治期からの景勝地・保津川渓谷を護る

嵯峨・亀岡間は直線距離で約5km。丹波の山懐に深い峡谷がえぐられる保津川の激流に沿った断崖沿いの工区だった。保津峡はもともと慶長11(1606)年に角倉了以(*14)によって丹波の産物を京都へ運ぶために作られた水路である。彼は蛇行する激流を高瀬舟で木材運搬ができるように作り替えた。明治28(1895)年にはすでに観光客用の遊覧船による川下りが始まっている。その保津川沿いの工区である。役所は、この風光明媚の地を棄損するような伐採は許さず、土砂を川に落下させたり放流したりすることを禁じた。その他施工に制限や拘束が加えられた。

それらの制限に加え、日清戦争が終わって第二次鉄道起業ブームが始まっていた。資材の価格は高騰する。資材価格高騰を恐れた京都鉄道会社は、近場での資材調達を鹿島組に求めた。鹿島組は工事資材運搬のために嵐山口の3km上流から亀岡まで軽便線を敷設する。川岸には、磨き丸太を棕櫚の縄で結んだ仮設桟橋を設置。軽便線の費用は鹿島組が負担し、桟橋の費用は京都鉄道会社が負担した。遊覧客の多い嵐山付近の風致を害さぬよう、桟橋は上流3kmに設置された。川沿いの護岸を石垣にするために、亀岡近くの花崗岩を軽便線と船で搬送し、足りない分は嵐山方面から曳船で持ってきた。枕木は丹波奥地の山林から切り出し、京都鉄道会社の直営煉瓦工場も亀岡に作られた。

*14 すみのくら りょうい 1554-1614 京都・嵯峨出身の豪商。朱印船貿易で莫大な富を得た。慶長11(1606)年、保津川開削の願書を政府に出し、船運の権利を得る。私財での整備は6カ月で竣工。この後水運の利益収入で巨額の富を得た。 ほかにも大堰川、富士川、天竜川等の開削を行ったが、特に高瀬川の開発が有名。

断崖と渓谷沿いに線路を

嵯峨・亀岡間のほとんどは断崖、川、山である。断崖には水面から40フィート(約12m)の高さに線路をかけた。勾配1/100で亀岡まで登る。トンネルは8カ所あり、形は穹窿(きゅうりゅう。馬蹄形)で直径はすべて15フィート(約4.6m)に統一されていた。また、景観地区であることを意識したのか、すべてフランス積み(*15)である。最長の朝日隧道は1,637フィート(=約500m)あった。

橋梁は小規模のものがほとんどだが、全部で51カ所に上る。最長の保津川橋梁は、径間280フィート(85.34m)という長尺で、当時の標準1スパン200フィート(61m)をはるかに越えていた。急流に橋台を設置することを避けて、峡間を跨ぐ方式を取ったため、橋脚がない一連の鋼桁構造になったと考えられる。

難工事にもかかわらず、明治30(1897)年4月に着工した工事は、予定工期より7カ月も早い明治32(1899)年8月に竣工する。鹿島組の信用はますます高まった。当初64万円(現在の価値で約9億円)だった請負金額は100万円近く(現在の価値で約14億円)にまで増加していたが、工事利益は6万円(現在の価値で9,000万円)にも上った。

*15 煉瓦の長手と小口を交互に積む方式をフランス積み、長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式をイギリス積みといった。フランス積みは明治20年代から30年代の土木構造物に多くみられたが、明治30年代以降途絶えてしまう。京都鉄道でフランス積みが用いられているのはこの区間だけである。

断崖と渓谷沿いに線路を クリックすると拡大します

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国鉄の買収から山陰本線へ

明治32(1899)年8月15日、京都・園部間6駅32kmは開通した。旅客も年間100万人を突破し、上々の滑り出しであったが、園部以西は資金不足から着工できずにいた。原因は複線化や駅の拡大といった将来を見越して、土地を多めに買収したことにあると言うのだから、皮肉な話である。

京都鉄道は、明治40(1907)年8月1日の鉄道国有法によって国に買収される。逓信大臣あて陳情書で「創業から陸海軍当該官憲の内諭もあり、国家的観念に駆られ嵐峡の峻険や大堰の激流にかかわらず万難を排して工事を遂行したため巨額の建設費がかかり、嵯峨・亀岡間は1哩(1.6km)335,000余円(現在の価値で約5億円)を要しました。鉄道国有法では買収価格が建設費に達しない時は建設実費以内で協定することとありますが、このように費用のかかった鉄道であり特別の詮議をお願いしたい」(*16)と懇願するが受け入れられず、明治41(1908)年2月、約334万円(現在の価値で約50億円)で政府に買収された。

時代はながれ、昭和58(1983)年1月、輸送力増強策の一環として、京都から園部までを複線化し、将来の電化に対応するための工事が開始された。嵯峨・亀岡間をショートカットする2本のトンネルと2本の橋梁を新たに建設する。鹿島はこの保津峡工区を、90年の時の流れを経てまた担当することになったが、景勝地の美観を損ねてはいけないことは明治期以上。山の反対側の国道から山頂まで工事用道路2.7kmを建設して資機材搬出入用の基地を作り、そこから310m下の現場までロープウェイで運ぶ。昭和62(1987)年4月の国鉄の分割民営化をまたぎ、JR西日本の管轄となっていた平成元(1989)年3月、新たな線を列車が走り抜けた。90年の間輸送を支えてきた明治期のトンネルと橋の寿命は尽きたかに思えた。

*16 日本国有鉄道「日本国有鉄道百年史 第4巻」(1972年)P449

廃線からトロッコ列車へ

しかし、JR西日本社内でこの廃線を生かす方法が検討される。トロッコ列車案は「とりあえず3年、それがだめだったら撤退」が条件だった。同年9月、スタッフわずか3名で嵯峨野観光鉄道開設準備室が発足する。準備室長・山崎敏治は鉄道事業免許の取得に奔走するが、過労から吐血して病院に運ばれる。ようやく免許を取得し、平成2(1990)年9月、嵯峨野観光鉄道株式会社が発足。JR西日本から派遣された長谷川一彦が社長を務めることになった。新会社の社長といっても従業員8名、年間乗車予測16万人である。長谷川も他の従業員も左遷された感をぬぐえなかった。

線路を列車が走らなくなってから時が過ぎ、トンネルにも橋にも崩れは見られなかったが、レールは赤さびが浮き、線路に草が生い茂っている。枕木も腐食していた。資本金2億円のうち99.5%が設備投資に消えた。長谷川が先頭に立ち、自ら線路の補修工事を行う。従業員たちもそれに倣い、山崎は梅小路機関区の後輩に助っ人を依頼した。枕木を変え、草を抜き、赤さびを取り除く。全員が一丸となって半年後の開業を目指す。開業予定は平成3(1991)年4月27日。開業前から予約が殺到したが、一部地元民の中には600円も出してわざわざトロッコ列車に乗る人がいるのだろうかという懐疑的な見方もあった。長谷川たちの心配も「開業ブームが去った後もお客さんがコンスタントに来てくれるだろうか」ということだった。

年間90万人を呼ぶ企業努力

彼らの心配をよそに、初年度の乗客は67万人を数えた。開業20年目となる現在では海外からの観光客も含めて年間90万人以上が訪れる。開業時8人の従業員は34名に。パートを入れると72名の大所帯である。乗車料金は20年間600円のままだ。開業直後から植樹した桜や紅葉は、大きく育って今では4,000本になる。開業時の「暗い中走って金を取るのか」という客の怒りは、3年がかりで700個のライトアップとなって生かされた。木々にはOBの手で鹿対策のための緑のネットが一本ずつ巻かれている。平成22年度には日本鉄道賞も受賞した。従業員一人一人のサービス精神が旺盛なのは、「笑顔はお金をかけないサービスです、心に残るお土産として持ち帰ってほしいと言う気持ちから」と、嵯峨野観光鉄道総務課長の坂口勇一氏は笑顔で教えてくれた。

嵯峨野観光鉄道は、1月と2月に営業運転を休業する。その間社員たちは200本近い枕木を交換(*17)し、さびを取りペンキを塗り、1台しかない機関車や客車のメンテナンスを行う。こういった企業努力があるからこそ、明治のトンネルや橋が今に生かされている。明治期に鹿島が作った橋や鉄道は数多くあるが、この嵯峨野観光鉄道ほど今に生き、心をこめて使って頂いているところは他にないのではないだろうか。

*17 坂の上、カーブ、トンネルの中は専門業者が行うが、平地は社員が枕木の交換をする。こういったメンテナンスを外注せず社員が行うことによって年間300~400万円の経費削減になるという。

金額の換算は、日本銀行ホームページの企業物価戦前指数を参考にしています。

<協力>
嵯峨野観光鉄道株式会社
京都府立総合資料館歴史資料課

<参考>
嵯峨野観光鉄道ホームページ
鉄道建設業協会「日本鉄道請負業史 明治編」(1967年)
日本国有鉄道「日本国有鉄道百年史」(1972年)
土木学会「土木学会誌vol.92」2007年4月号
原田弘「会津小鉄と新選組」(2004年)
今川徳三「考証幕末侠客伝」(1973年)
桜井寛「日本鉄道ローカル線紀行」(2006年)
小野一成「鹿島建設の歩み 人が事業であった頃」(1989年)

(2010年12月24日公開)

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