第36回 鹿島組広島出張所 ―戦後の混乱と支店の誕生―

中国支店の倉庫に「株式会社鹿島組広島出張所」という看板が残っていた。広島出張所が誕生したのは昭和21(1946)年のことである。この看板がどういう経緯で今まで支店に残っていたのかは不明だが、そこには支店誕生の萌芽と苦難の創成期の物語があった。

海軍兵学校江田島工事

鹿島組広島出張所の前身は呉出張所である。
昭和16(1941)年、海軍兵学校江田島工事のため、呉に「詰所」が開設される。呉市元町68番地。13名の社員がいた。

江田島は、広島市から直線距離で15kmほどの場所にある瀬戸内海の島の一つで、呉鎮守府(*1)に向かい合っていた。海軍兵学校とは大日本帝国海軍の海軍士官養成所のことで、明治21(1888)年に東京・築地から移転して以来、終戦まで江田島にあった。戦前は「江田島」といえばこの海軍兵学校を意味していた。現在も海上自衛隊の基地がある。鹿島では明治時代から海軍関係の工事を多く施工しており、海軍の鹿島、陸軍の清水といわれていた。

昭和17(1942)年の暮れにこの「詰所」が「呉出張所」となった。呉出張所は呉市堺川通3-9に移転し、同じ呉に江田島作業所ができた。江田島作業所は、江田島の海軍兵学校内という住所であるから海軍兵学校のための作業所である。

呉出張所は、大阪支店管下の出張所の一つだった。当時国内には大阪支店と札幌支店があるのみで、他に京城、台湾にも支店があった。大阪支店の営業範囲は現在の関西支店、中国支店、四国支店、九州支店のエリアと、愛知県、静岡県までと広範なものだった。(*2)

江田島作業所の工事は最初のうちは順調だった。第三生徒館、第四生徒館、砲術講堂、海軍第二兵学校大原校舎、倉庫などの工事が次々と発注されている。これらの一部は現在でも海上自衛隊の施設として使用されている。

しかし、戦況の変化と共に発注は変更に次ぐ変更となった。昭和19(1944)年の半ばごろからは、新しい工事も少なくなり、現場はほとんど開店休業のありさまだったという。昭和20(1945)年8月には、工事量のあまりの少なさに作業員宿舎の間引きが行われた。

その宿舎間引きのための確認作業中、広島に原爆が落とされた。この時の様子を、当時江田島作業所にいた佐々木捷吉(職員・建築)は「松葉菱の形をしたスパークのような光と大きな複数の破裂音に、近隣の住民が次々と、慌てて防空壕へ逃げ込んでいく姿が見えた。無人の宿舎の中でぱちぱちと何かのはぜる音がして、開けてみると爆弾の音に刺激されたのか、大量のノミが飛び跳ねていた」と後に語っている。確認作業を終えて事務所に戻るが、その後は特に仕事もなく、事務所にいた数人と日がな一日、朝の爆弾の話で終わったという。ある者は熱線爆弾と言い、ある者は軍艦の爆発と言い、またある者は火薬庫の爆発だと言い、もちろん結論が出ることはなかった。

広島県と、広島市、呉市、江田島の位置関係 広島県と、広島市、呉市、江田島の位置関係 クリックすると拡大します

第3生徒館 第3生徒館 クリックすると拡大します

第4生徒館 第4生徒館 クリックすると拡大します

校舎 校舎 クリックすると拡大します

生徒食堂 生徒食堂 クリックすると拡大します

海軍兵学校庁舎 海軍兵学校庁舎 クリックすると拡大します

講堂 講堂 クリックすると拡大します

*1 くれちんじゅふ 大日本帝国海軍の5海軍区(横須賀、呉、佐世保、舞鶴、旅順口)のひとつで、海軍の拠点となった。
*2 大阪支店にはほかに網干出張所(兵庫県)、福岡出張所、和歌山出張所、豊橋出張所(愛知県)、静岡出張所があり、支店直轄作業所も含め、数多くの作業所がその傘下にあった。

終戦と共に

昭和20(1945)年8月15日、終戦。どこの現場でも皆、放心状態となり、「鹿島組もこれでおしまいか」と落胆した社員も多かった。数日後「全員現在地で待機せよ」との通達が来た。将来のことは何一つ指示されていない。この通達は、終戦翌日の8月16日付「戦後対策に関する件」という通達である。敗戦で工事は一瞬にして全て中止となり、在外資産の喪失、軍事保障費打ち切りによる経理的打撃は計り知れないものがあった。鹿島守之助社長はかなり早い時期から機械類をはじめとする在外資産を日本へ戻すよう指示をしていたが、日本国内でも空襲が相次ぐ中、海外の方が安全という考え方もあり、守之助に台湾や満洲へ疎開を勧める幹部社員もいたほどである。結局明治32(1899)年以来目覚ましい活躍を続けて来た海外工事のすべての資産を失った。この時まだ、巨大なインフレが襲い掛かることは想定されていない。「将来のことが指示されていない」と指示される側は嘆くが、指示する側も発注者側も含めて、敗戦によって世の中がどうなっていくのか皆目見当もつかなかった。

「戦後対策に関する件」の通達 「戦後対策に関する件」の通達 クリックすると拡大します

引き揚げ者の居場所

終戦時海外に残された日本人は約660万人。そのうち約500万人が昭和21(1946)年中に帰国したといわれる。鹿島では、昭和21(1946)年には未帰還者129名、未復員者230名。昭和23(1948)年になってからでさえまだ、未復員者は144名を数えた。終戦までかなりの比重の海外工事が行われていたため、復員者と引揚者が戻ってくることによって社員数が膨れ上がった。昭和21(1946)年初めには社員3000人のうち1000人以上が復員者・引揚者だった。彼等は台湾、朝鮮、満州をはじめ、昭南営業所(シンガポール)を中心に東南アジア各国、南洋州とその周辺などさまざまな地域から日本へ戻って来た。

鹿島守之助社長は、すべての社員の首を切らないことを宣言した。しかし当時の鹿島にあったのは軍工事の整理と細々とした補修工事だけ。駐留軍工事はもう少し先の話で、インフレの加速は鹿島組の存続すら危うくしていた。昭和20(1945)年9月6日付の通達で守之助社長は、「復員社員は原則として公用徴収前の部署に復帰」するよう伝える。「働く意志と能力をもったものは解雇しない」方針を打ち出し、特に大陸からの復員社員は一人も辞めさせないことを明示した。

そして彼等の仕事を確保し、営業網を拡大すべく各地に拠点を設けることになる。台湾から戻った者は台湾支店長だった藤村久四郎と共に仙台出張所に赴く。仙台出張所は昭和21(1946)年7月に営業所に、昭和22(1947)年3月に支店に昇格、藤村が初代支店長となった。満州鹿島組出身者は名古屋支店に集まった。初代支店長を務めた松井真吾は、満州鹿島組の常務で実質的な経営責任者であった。また、満州鹿島組にいた村井佐八に九州支店の創設と引揚社員の受け入れが命じられ、村井は朝鮮、満州、シンガポールからの引揚社員を呼び寄せて支店開設の準備にかかった。昭和21(1946)年1月、名古屋支店、九州支店が創設される。

広島出張所を「作る」

大阪支店江田島作業所が終戦で自然消滅してから半年くらいたったころ、広島出張所開設の指令があり、江田島作業所で待機していた10名ほどの社員が広島に乗り込んだ。昭和21(1946)年3月のことである。

彼等は民家を借りて仮事務所とし、広島市段原日出町2113-2に新しい事務所を建設する。江田島の作業所を解体した古材を使い、新しいのは事務所の窓と扉だけだった。そのほかの建具はあり合わせのもので間に合わせた。釘、建具の金物、セメントなどは、自分たちの少ない給料から資金を出し合って購入した。大工だけは職人を雇ったが、あとは土工事も屋根工事も電気工事も自分たちで行った。建設中と建設後しばらくは、この古材の割れ目から出てくる南京虫(トコジラミ)に悩まされたという。

現在の中国支店に残っていた看板も江田島作業所の古材で作られたものと思われる。臭いをかぐとまだ木の香りが残っている。よく見ると看板の左側には不規則な釘の跡がある。看板の下の部分は真っ直ぐではなく、たぶん作業所の外壁の一部だったのではないかと推察できる。「鹿島組広島出張所」の文字は、社員のうち達筆なものが書いたのであろう。
「出張所開設のための資金は本店から送られてこなかった」と佐々木は嘆くが、本店も手一杯の時代だった。昭和21(1946)年4月、この看板を入口に飾り、大阪支店広島出張所が開設される。

看板 看板 クリックすると拡大します

板の左側に不規則に並ぶ釘の跡(1) 板の左側に不規則に並ぶ釘の跡(1) クリックすると拡大します

板の左側に不規則に並ぶ釘の跡(2) 板の左側に不規則に並ぶ釘の跡(2) クリックすると拡大します

看板の下の部分 看板の下の部分 クリックすると拡大します

日々の食事に窮する

せっかく「広島出張所」ができたが、駐留軍に占領された日本人には世情不安の気持ちが強く、工事をするにも資材がなく、資材があっても自由にならない。6月ごろから駐留軍工事を次々とこなしていくが、それも間もなく下火になっていった。

広島出張所員となった佐々木は、社員名簿で見ると出張所員10名のうち上から5番目、建築系社員の上から2番目だったが、会社の給料だけでは妻と子供2人、両親の6人が暮らせず、竹屋の職人を始めたほどだった。それでも米の飯は食べられず、妻の着物、母の着物を売ってようやく少しの粥が食べられた。このような売り食い状態は昭和27(1952)年ごろまで続いたと後に述べている。

これは、広島だけの現象ではなく、日本中の問題だった。
札幌支店でも物不足とインフレに悩まされ、社員は上下の別なく食料の確保に追われ、連日買い出しのために農作地を回った。本店からは「世情が落ち着くまでは一切工事を取らぬように」と指示を受け、社員はいるが仕事のない状態では暫時自宅待機の形を取るしかない。幹部社員だけが支店に詰めて今後の対策を検討し、時期到来を待っていた。

九州には15名ほどの常駐社員がいたが、出社と同時に社のトラックで食料の買い出しに走り回る毎日だった。食べ物は芋、団子汁、雑炊、コッペパン。博多港や佐世保港に上陸する引揚社員と家族の支援業務は、そのような状況の中で行われていた。昭和22(1947)年5月に新しい支店社屋を建設するが、建設資材は九州一円をまわって古材を探し求めた。その帰りには、背中一杯に食料を背負って来るのが常だった。

自宅待機命令や給料の遅配で、せっかく入社した国立大出の優秀な社員が次々と辞めて行った。当時の新聞には、野草の料理法などが掲載され、カエルやヘビ、トンボやセミの食べ方までが掲載されていた。東京都食糧研究所は、カタツムリ、トカゲ、イモリなども「気味悪がらないで食べてみて」と呼びかけた。随筆家・内田百は庭に舞い込んだスズメを捕えて食べたりもしたそうだから、どのぐらい窮していたかが推察できる。

この当時のインフレは本当にひどいもので、鹿島では昭和22(1947)年一年間で5回も給与改正が行われている。日銀の企業物価戦前基準指数で見ると、昭和19(1944)年に2.3だった指数が昭和26(1951)年に342.5まで上昇している。この6年間で物価は実に150倍にもなったのである。現在では海外での工事の契約をする場合、為替差損を考慮した契約条項が盛り込まれるのが普通だが、この当時のインフレは為替差損どころの騒ぎではなかった。もちろん工期は短いものが多かったが、資材不足もあり、すべての価格は高騰していった。

「広島支店」の誕生

昭和22(1947)年3月22日付で横浜営業所、仙台営業所、大阪管内広島出張所が支店に昇格。国内に7支店が置かれた。横浜はすでに国内の営業拠点としての実績を上げ、この年一年間で全社の受注高の57%を占めるに至っていた。仙台は前述のように元々あった営業所に台湾からの引揚者が加わって大きくなったものだった。営業所はほかにもあったが、唯一「出張所」から「支店」へ昇格したのが広島だった。広島出張所が誕生してから1年が経過していた。

広島支店の初代支店長には、大阪支店長小野威常務が就任した。大阪支店長との兼務である。しかし、支店に昇格したものの駐留軍の工事はひと段落した後で、新規入手工事はほとんどなかった。もともとは江田島で海軍のみを得意先にしていた作業所である。中央官庁、地元官庁、一般企業に対して全くつながりがない。支店社員は市場開拓に奮闘したが資材は高騰し、激しい受注競争の末に工事を入手してもインフレでほとんどが赤字になってしまう。支店の経営状態は次第に悪化していった。広島は、地元と関西圏の建設会社が強い土地柄であり、新参者ともいえる鹿島は、信用のなさから資材などを発注しても納品してくれないようなこともあった。全社的に見ても資金不足で金庫の中はいつも空っぽ、給料も遅配欠配が続き、給料袋には明細書のみという事が多かった。

佐々木が同僚と山口県徳山市(現・周南市)まで見積もりに出かけた時は、旅館に泊ると出張旅費が足りなくなるため、11月の寒空に、新聞紙を敷いて新聞紙をかぶって夜を過ごしたという。その当時の社会には、大日本帝国から日本国へ頭を切り替えられない人、学生からすぐに入隊して全く社会経験のない人などが多くいた。支店も例外ではなく、彼等がどうにか新しい得意先を確保する足掛かりをつけたくて、無理に工事を取ったことも支店の赤字が膨れる原因の一つだった。昭和23(1948)年6月に支店長代理だった長井策一郎が支店長になる。

この頃は鹿島全体も苦しかった。特に昭和21(1946)年~23(1948)年までかなりの比重を占めていた駐留軍関係工事の未収金は一般工事の3倍にも及び、資金繰りに重い影を落としていた。

「広島支店」の倒産!?と再生

奮闘を続けていた広島支店だったが、昭和24(1949)年3月、再度大阪支店管下に置かれ、支店規模を縮小して再生を図ることとなる。大阪支店長の土岐達人取締役が広島支店長を兼務した。土岐は社員の整理、配置転換を図って少数精鋭とし、支店管理部門の人数を極端に減らした。経費も極度に切り詰める。昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発すると、支店業績は徐々に上向き始める。しかし、インフレがそれを阻むということの繰り返しだった。

昭和26(1951)年12月、支店次長兼支店長代理に退いていた長井が再度支店長に就任、広島支店は大阪支店から独立し、再スタートを切ることになる。しかしその一年後の昭和28(1953)年1月の社員名簿でさえ、支店管理部門はわずか8名。ほかに6出張所1連絡所に30名(*3)という陣容だった。当時札幌支店(現・北海道支店)が8出張所137名、仙台支店(現・東北支店)が2営業所17出張所173名、横浜支店が6出張所276名、名古屋支店(現・中部支店)が3出張所138名、大阪支店(現・関西支店)が1営業所5出張所257名、四国支店が5出張所111名、九州支店が11出張所263名という体制だったことを考えると、広島支店がいかに小さかったかが分かる。

神武景気、コンビナート時代の到来、高度経済成長等に助けられ、大型工事が目白押しとなって広島支店は徐々に活気づいて行った。昭和32(1957)年には支店開設10周年の記念式典が行われ、昭和35(1960)年には大阪支店管下にあった岡山県が広島支店管下となり、広島支店は支店開設以来の好成績を収める。

広島支店は2008年に中国支店と名称を変更した。現在では鳥取、島根、岡山、広島、山口の5県を営業範囲とする主要拠点の一つである。創成期の苦労を知る人はもう誰も残っていない。

*3 社員名簿に掲載されている数。当時は支店採用者などが、名簿に掲載されていなかったため、実際にはこの1.5倍くらいはいたと推測される。他支店も同様。

<参考資料>
鹿島建設社史編纂委員会『鹿島建設百三十年史』(1970年)
鹿島建設横浜支店『鹿島建設横浜支店35年の歩み』(1981年)
東北支店50年のあゆみ編纂委員会『鹿島東北支店50年のあゆみ』(1997年)
講談社『日録20世紀』(1997年)
広島支店50年史編纂事務局『鹿島広島支店50年史』(1998年)
鹿島建設九州支店『鹿島建設九州支店五〇年のあゆみ』(1998年)
「札幌支店60年のあゆみ」編纂委員会『札幌支店60年のあゆみ』(2001年)
講談社『昭和タイムス』(2001年)

(2012年9月13日公開)

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