第46回 もうひとつの豊島公会堂
2016年4月から東京都豊島区の豊島公会堂の解体工事が始まる。この公会堂は昭和27(1952)年に区民らからの寄付で建てられた2代目の公会堂である。最初の豊島公会堂は昭和13(1938)年に鹿島が施工した。
最初の豊島公会堂(1938年竣工)クリックすると拡大します
武蔵野のおもかげ
東京は明治元(1868)年に日本の首都となり、東京府に大区小区制という行政区画による数字の区を置いていたが、明治11(1878)年、現在の千代田区、中央区、港区、新宿区の一部、文京区、台東区、墨田区の一部、江東区の一部(今の都心部及び下町)に15区を置いた。そして15区に隣接する旧宿場町と農村地帯に、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の6郡を置く。これらは現在の東京23区の範囲とほぼ同じである。明治22(1889)年、15区を東京市とする。関東大震災後、周辺部は人口が増加し、都市化が進んでいき、昭和7(1932)年、郡部が新たな20区となって東京市に編入される。
この新たな20区のうちの一つが豊島区で、北豊島郡巣鴨町、西巣鴨町、長崎町、高田町の4町から成っていた。もともとこのあたりは室町後期から戦国時代にかけて「草分け百姓」と言われた人々が土着、開発したもので、江戸時代には後に豊島区となる地域の人口は3,000人前後であったと推察されている。大名の下屋敷や幕府の薬園、鷹方組屋敷、犬飼小屋などがあったが、ほとんどは農地で、江戸市中へ出荷する野菜を栽培していた。また、駒込では多くの植木が作られ、特につつじ、さつきの栽培は有名で、江戸時代の半ばには一大園芸都市をなしていた。日本を代表する桜の品種「ソメイヨシノ」発祥の地としても名高い。巣鴨は菊づくりで知られ、江戸市中から菊見の客が訪れてにぎわった。
明治に入り、都心部ではさまざまな改革が進められるが、郡部には武蔵野の原野が広がり、農家が散在する江戸末期と変わらない光景が続いていた。
鉄道の開通が繁栄の転機に
これを変える転機となったのが鉄道の開通である。明治18(1885)年3月、日本鉄道の品川線(品川・赤羽間)が開通した。品川線は、横浜港に陸揚げされた鉄路建設資材を東北方面へ輸送し、群馬県などの産地から生糸を横浜港へ輸送するために、東海道本線と東北本線をつなぐ目的で建設されたもので、今の山手線の品川・池袋間と埼京線の池袋・赤羽間にあたる。この品川線の施工は、当時「老舗」と言われた鹿島組と「新進」と言われた杉井組が請け負った。
鹿島組の工事代人だった星野鏡三郎は、最新の輸入機械ドコービル(*1)を用いて工事を行った。ドコービルの使用によって切り通し工事で出た土砂を築堤の構築に利用することが容易になり「好成績を収め、鉄道当局の称賛を博した」(*2)。当時は、老舗の鹿島が新しい工法で工事を行い、新進の杉井が昔ながらの工法で工事を行っていると常に比較されていたようである。
現在の新宿駅のあたりには茶屋が一軒あるだけで、建設費をこれだけ投じても乗客が何人来るのだろうかと危ぶまれたそうである。品川線にはこの新宿駅のほか、目黒駅、渋谷駅、目白駅、板橋駅の5駅と日本鉄道線に接続する赤羽駅があった。現在では豊島区の中心地であり一大ターミナルとなっている池袋付近だが、当時は人口の少ない農村地帯で、ここに駅を置く必要はないと考えられた。駅が置かれた渋谷ですら、開業初日の乗降客は誰もいなかったという。品川線は最初の頃は1日4便。もともと貨物用として作られた路線だから無理のないことだが、誰ひとり乗っていない時もあった。
しかし人口は徐々に増えていき、より利便性を求めて土浦線(明治28・1895年開業。現・常磐線)との接続のために、田端へ向かう路線が計画される。当初、雑司ケ谷を通る案が出たが、できたばかりの巣鴨拘置所にぶつかるため却下され、次に出た目白駅から分岐する案が、地形の問題や住民の反対運動などもあって却下となり、最終的に北豊島郡巣鴨村大字池袋の池袋信号所(明治35・1902年設置)に分岐の駅が置かれることになった。明治36(1903)年に開業し、豊島線と呼ばれる。この路線も鹿島の施工である。池袋・田端間に大塚・巣鴨・池袋の3駅が新たに設置された。
*1 | ドコービル社製の軽便鉄道用運搬車をいう。石川島平野造船所(現IHI)の創業者平野富二が輸入業者となり、鉱山などに売り込んでいた。もともとはフランス人のポール・ドコービル(1846-1922)が興したフランスの会社の名前 |
---|---|
*2 | 鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史 明治編』(1967年)P60 |
明治36(1903)年鉄道路線図
青枠はのちに豊島区となった区域クリックすると拡大します
初期のドコービル
(荒川知水資料館)クリックすると拡大します
池袋モンパルナス
鉄道の発達とともに移住してくる人々も多くなり、明治42(1909)年には池袋駅西口に東京府の豊島師範学校が開校した。ほかに学習院(明治29・1896年)、立教大学(大正7・1918年)、大正大学(大正15・1926年)などの学校が都心から移転してくる。次第に学生の街としての姿を整えていく一方で、池袋駅は新たなターミナル駅へと変貌していく。大正3(1914)年に東上鉄道(現・東武東上線)が、翌年には武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が池袋を起点に開通した。郡部に新たに住宅を求める市民が大量に流入し、大正12(1923)年の関東大震災によってますます本格的な市街地化が進む。
後に「トキワ荘」(*3)や舞台芸術学院(*4)などができる素地となったと言われる「アトリエ村」(*5)ができたのが昭和初期の頃である。戦前までは芸術家やダンサー、俳優などがこのあたりに多く住み「池袋モンパルナス」と呼ばれる一帯になっていた。現在では東京芸術劇場が師範学校跡地に建設され、新たな芸術と文化の街のシンボルとなっている。
一方池袋駅東口は、現在の東池袋に伸びるグリーン大通りの左右に、戦前まで雑木林があった。3万5千坪ほどの雑木林はもともと旗本の中西家が数百年にわたり所有していたため、「中西の森」と呼ばれていた。所有者は相対替え(あいたいがえ)などで変わっていき、幕末には半分は松浦氏、半分は鷹方組屋敷となっていたが、「中西の森」と呼ばれ続けた。明治に入り、東武鉄道社長・根津嘉一郎が所有し、根津山と呼ばれるようになる。昭和12(1937)年に護国寺に抜ける道路が根津山を分断し、市電も走るようになるが昭和20年代初めまでは武蔵野の風情を保った静かな林だった。
*3 | 若い漫画家たちが住んでいた木造アパート。彼らが有名になっていったことから漫画家の聖地とされる。1953年竣工1982年解体。手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、水野英子などが住んでいた。 |
---|---|
*4 | 1948年創立。俳優、声優、歌手、ダンサー、演出家、劇作家など、数多くの芸術家を輩出している。 |
*5 | 昭和初期から戦前まで絵や彫刻を勉強する独身学生向けのアトリエ付き貸家が多かったことから名づけられた地域。 |
各地に広がる公会堂建設
公会堂とは、英語のPublic Hall に由来するもので、集会や会議などをする場所の事である。それまで日本に昔からあった集会所や町会所のもう少し規模の大きいものと考えることができる。各地で集会場、町会所の建て替えなどの際にそれらが「公会堂」という名前に変わっていく、あるいは新しい地域が生まれ、そこに新たに公会堂を作ることになるなどによって各地に作られていった。公会堂は「都市の象徴であり、近代化の象徴としての意味が付与された」(*6)建物であったが、「地方都市に多く建設され、実体として広がっていたにもかかわらず、学校や公民館・図書館・博物館などの公的教育施設や、さらには映画館や劇場といった民間施設などに比べても、これまで注目されてこなかった」(*7)。
昭和24(1949)年に社会教育法が制定される以前の「公会堂」は、教育施設ではなく単なるハコだったが、日本発祥の施設である「公民館」は、地域住民の学習拠点であり交流の場とされている。文部科学省の資料によるとその英語名はCommunity Learning Centers である。戦後、公会堂が公民館に置き換えられたところも多い。しかし、公会堂それ自体が社会教育施設の中に位置づけられることはなかった。
一番有名な公会堂は大正7(1918)年に竣工した大阪市中央公会堂であろう。「義侠の相場師」といわれた株式仲買人岩本栄之助の寄付によって建てられた建物は、現在では国指定重要文化財になっている。延床面積9,886.56㎡、大集会室1,161席、中集会室500席、小集会室150席のほか特別室や各種会議室を兼ね備えており、オペラやコンサート、講演会などに利用されている。また、北海道には札幌区公会堂(豊平館、明治13・1880年)、小樽区公会堂(明治44・1911年)、函館区公会堂(明治43・1910年)、釧路公会堂(明治44・1911年)など明治時代に作られた公会堂が現存している。
*6 | 新藤浩伸『公会堂と民衆の近代』(2014年)P21 |
---|---|
*7 | 新藤浩伸『公会堂と民衆の近代』(2014年)P11 |
区議会議長原定良
当時東京市にあった公会堂は、国内最大規模の日比谷公会堂(昭和4・1929年10月竣工。鉄筋コンクリート造、地上4階、総坪数4,883坪・16,140㎡、客席数2740席。建設費275万4,000円は現在の価値で約18億8,400万円)、本所公会堂(大正15・1926年竣工。鉄筋コンクリート造、地上4階、集会室924席。建設費35万円は現在の価値で約2億9,800万円)などで、建設費の大部分は安田善次郎などの篤志家の寄付によるものであった。このような「民設公営」という形が戦前の公民館の建設経緯としては比較的多かった。豊島区公会堂も「民設公営」の公会堂である。立憲民政党の政治家・原定良が建設して豊島区に寄贈している。
原定良は、明治20(1887)年1月、山梨県に生まれた。明治末期には後の豊島区となる北豊島郡西巣鴨村に住んでいたようである。第一回の豊島区議会議員選挙に立候補した時の住所は豊島区西巣鴨3丁目744番地(現・豊島区西巣鴨2丁目23番地)、職業は貸地貸家業とあるが、手元にある昭和6(1936)年の長者番付には出ていないので、それほど大儲けをしていたわけではないようである。区議会議員に立候補する前には西巣鴨町会議員を2期務め、昭和7(1932)年に豊島区が誕生して以来区議会議員を務めていた。昭和10(1935)年に、区の懸案事項の一つであった豊島公会堂を建設して区に寄付することを区民に約束する。
原は、この約束によって彼の選挙地盤である山梨県人会、浴場組合、豊島区公会堂建設記念後援会の拡大を図った。そしてその勢いで昭和11(1936)年に区会議員に当選し、同年12月9日、議長選挙で区議会議長に選任された。原は、昭和15(1940)年11月までの4年のあいだ議長職につく。それまで1年ごととなっていた議長副議長の選挙をやめることによって、より安定した区会運営を図ったのだった。
2,000人収容予定が300人に
この、原が寄付した豊島公会堂を建設したのが鹿島である。
豊島区公会堂建設用地は、豊島区西巣鴨2丁目2894番地(現・豊島区東池袋2丁目51)、春日通りに面した時習小学校の敷地内にある巣鴨役場の跡地であった。原にとって公会堂建設は、まだ豊島区になる前の巣鴨町時代からの悲願である。それが、昭和11(1936)年の東京市への編入の影響で、着工が延びていたらしい。
昭和12(1937)年1月26日付の東京朝日新聞夕刊に、原へのインタビュー記事が載っている。原は、「旧町時代に小規模な公会堂建設を計画したのですが新市編入と共にしばらくそのままになっておりました。その後再度建設してはとの話がありましたので、一度計画したことですから快くお受けしたのです。予算の5万円寄付となっていますが、材料が高くて設計通りにしてもっとかかればそれだけ多く寄付する考えでいます」と答えている。
昭和12(1937)年1月26日付東京朝日新聞夕刊クリックすると拡大します
この新聞記事の豊島公会堂建設計画では、「敷地面積300坪(991.7㎡)、鉄筋コンクリート2階建て、2,000人収容、映写室、ステージのほか、公会堂としての必要な設備を一切整えたモダンな建物」とある。原の計画ではそれが彼の寄付5万円(現在の価値で約3,550万円)で建設されるという見込みだったのであろう。紙面に載っている公会堂の側面図は、当時の日本らしいモダンデザインである。欧米のモダニズム建築と比べ、ちょっと可愛らしく、塔や縦長窓といったモダン以前の要素が残っている。
実際に作られた公会堂は、この記事の建物とはだいぶ違っている。
延床面積250坪(825.7㎡)、木造近世式準耐火構造、モルタル外装地上2階建て。1階は174.07坪(575.4㎡)、2階は75.93坪(250.3㎡)、収容人数300人。「いくらでも出します」と言っていた原だが、時代背景もあって資材の高騰は避けられず、このような仕様になったのであろう。昭和12(1937)年1月21日の大阪毎日新聞には鉄材が値上がりして各所で建築中止や取り消しになった建築物が見られ、「鉄骨鉄筋の建物から木造へと逆行するという光景が見られる」とある。
日中戦争に始まった戦時色により設計変更か
昭和12(1937)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争が勃発する。日本国内は戦時体制となり、9月には国民精神総動員運動が始まる。贅沢をやめ、勤倹貯蓄を心がけ、勤労奉仕をするなどして銃後を守るようにとのお達しである。このころの鹿島組月報には、表紙にそれらの標語が書かれたものも多い。軍事目的以外の丸鋼、セメントなどの使用が削減されるようになり、昭和13(1938)年からは鹿島でも時流に乗って毎月1日、11日、21日に「早出会」が行われるようになる。
鹿島の早出会は朝7時半までに出社して屋上に上がり、宮城(皇居)を遥拝し、ラジオ体操を行い、精神修養に資することを行う。主に役員社員の代表が講話のようなものを行った。時には宮城(皇居)まで行って戻ってきたらしい。八重洲の鹿島本社から皇居まで、直線距離では1kmほどであるが、始業前の往復は若くても疲れることのように思える。物資供給の調整が行われ軍需資材の確保が図られる。軍需関係の工事が幅を利かせるようになっていった、そういう時代の公会堂工事である。軍関係以外の大規模建築物の施工が制限されて、鉄筋コンクリート造から木造に変更になり、最終的にこのサイズになったのかもしれない。
日比谷公会堂とは比ぶべくもないが、それでも300人規模の公民館はなかなか立派な建物である。外観は、和風を加味したアールデコ調になっている。建物のプロポーションは西洋建築風であり、建物エントランスの周りの石張りにはアールデコ風とも和風とも見える雰囲気がある。特に特徴的なのが、直線的な和風の屋根である。この屋根と壁面の白さ、窓に斜めに張られた格子が建物を日本の蔵造りのようにも見せている。この時代、いわゆる帝冠様式(*8)の屋根が多い中で、この豊島公会堂の屋根は、平らですっきりとしたデザインになっている。屋根の勾配は大きいが、瓦の様子がわかる写真はない。下から見て一切屋根瓦が見えないくらい平らに収まっている。もともとの設計案に盛り込まれていた当時の日本らしいモダンデザイン、塔や縦長窓といったモダン以前の要素が、建物が木造になり、蔵のモチーフになったと思われる。
屋内は、公会堂や映画館によくある白くシンプルな作りになっている。2階席の支柱なのか、左手前に見える柱はシャープで細い。ここに当初のモダン計画案の名残りが残っているように見える。写真右手奥に見える舞台というより演台に近い、あまり奥行のない舞台が公会堂の主目的である集会場の雰囲気を醸し出している。一応プロセニアム型と言われる公会堂の典型の舞台と客席が対面した形を取っているように見える。また、客席が固定されていないことで、さまざまな用途への利用が考えられていたことがわかる。
*8 | 鉄筋コンクリート造の近代的な建物の頂部に城郭風の瓦屋根を載せた昭和初期に流行った和洋折衷の建築様式。国立博物館、九段会館などが現存する |
---|
鹿島建設が受注
鹿島組月報には、豊島区公会堂工事を特命で原定良から受注したとある。鹿島に、彼と同じ山梨県の出身者がいたのだろうか。設計施工のようにも見えるが、定かではない。昭和13(1938)年当時、建築部設計係には6名が所属していた。昭和7(1932)年に上野駅や渋谷の東横百貨店などの大きな鉄筋コンクリート造の建物を作っているが、これらは施工だけである。当時の鹿島の設計施工は、日本家屋や料亭など木造の構造物を得意としていた。
鹿島組建築部第一課の豊島公会堂作業所には、建築・鈴木五六、事務・星尾駒太郎、建築・藤原文雄の3名が所属していた。豊島公会堂工事の着工は昭和13(1938)年1月13日木曜日、もちろん大安吉日である。天気は晴れ、最高気温は4度だった。3月、4月、5月と晴れよりも雨の方が多い天気だったがそれでも5月27日に無事竣工した。工事自体は、それほど難しいことではなかったのであろう、正味4か月の工事である。
原は、「竣工の上は映画会、音楽会その他種々の催しなどの区民の娯楽場となり、あるいは、演説会に諸団体の会合に区民に寄与するところが大きい」(*9)と考え、私財をなげうって公会堂を建て、区に寄贈したのであろう。しかし昭和13(1938)年10月11日にここで行われたのは、日清戦争以後の区内戦没将兵の合同慰霊祭であった。800名が参加している。11月には戦没者区民葬が行われ、以降何度も行われた。時代はどんどん戦争ムードに流され、原の夢見た映画会や音楽会よりも戦意高揚のための集会や慰霊祭や区民葬が行われることが多かった。
原は、「豊島区公会堂建設者原定良」と大書きした巨大な木塔を公会堂の傍らに建てたという。これが、一部では売名行為だと揶揄されていた。鹿島にある3枚の写真は竣工直後だったのか、原の「木塔」はどこにも見えない。原は豊島区議会議長などの経験を元に、昭和15(1940)年6月の東京府議会選挙に豊島区から立候補し、当選する。得票数は2番目に多かった。
*9 | 昭和12(1937)年1月26日付東京朝日新聞夕刊 |
---|
昭和13年5月号の鹿島組月報表紙 写真は建設中の豊島公会堂クリックすると拡大します
施工中の豊島公会堂クリックすると拡大します
空襲で焼失
昭和20(1945)年4月13日の大空襲によって、豊島区は壊滅的な被害を受ける。死者741名、負傷者2,523名、全焼家屋34,000戸、罹災者16万1,661名であった。豊島区ではこの日の空襲で、豊島区役所庁舎、豊島公会堂、豊島区長公舎、各警察署、消防署、病院などの大部分を焼失した。池袋駅を中心に7割近くが焼失したと言われる。区役所の業務は辛うじて焼失を逃れた立教中学校で行った。
豊島区の人口は昭和15(1940)年の国勢調査では31万2,209人と東京市35区中2位。荒川区に次いで人口が多かったが、昭和20(1945)年の国勢調査では9万2,192人と激減している。戦前東京市35区中人口が10万人に満たなかった区は麹町、麻布、赤坂、四ツ谷の4区だけだったが、昭和20(1945)年の調査では下町の各区や豊島区など空襲の激しかった場所は特に人口が激減し、35区中人口が10万人に満たない区は25区に及ぶ。
豊島公会堂も4月13日の空襲で焼け落ちてしまう。建設から僅か7年の命だった。跡地には再び豊島区立時習小学校が建てられ、公会堂のあったあたりには後に小学校のプールができた。(*10)
*10 | 時習小学校は2003年に豊島区立大塚台小学校と統合、大塚台小学校の場所に豊島区立朋有小学校ができた。時習小学校の跡地には2008年、帝京平成大学が移転した。 |
---|
帝京平成大学池袋キャンパス。この角に豊島公会堂があったクリックすると拡大します
時代を越えて
終戦からしばらくの間、人々の生活に余裕はなかった。国鉄の主要駅前には闇市が広がる。特に駅回りのほとんどを焼失していた池袋駅では西口、東口両方に巨大な闇市が発生した。交通の便がよく、食料品の生産地から物資を運び入れやすく、進駐軍の朝霞駐屯地から、米軍の闇物資が池袋に集まったこともある。東口には青空市場が、西口には西口マーケットが形成される。当時の池袋は玄人筋の街で多くの商店、飲食店、バー、飲み屋がひしめく一大歓楽街だった。のちのちまで池袋に場末と暴力のイメージがあったのは、これら戦後の闇市の影響があると言われる。
東口の青空市場は昭和24(1949)年に区画整理によって取り壊されたが、西口マーケットは昭和37(1962)年まで残っていた。昭和30(1955)年7月1日の読売新聞の記事に「無法地帯・池袋 西口マーケット10年ぶり実態調査へ」という記事が掲載されているが、そこに原定良が登場する。記事によると原は最初に一部の土地の使用権を得る。昭和23(1948)年3月末には借地前の土地に戻して返還することになっていたのだが、実際に原の土地のほとんどは別の人のものになってしまっていた。記事では原が「あの当時は今の常識では考えられない、私は土地を譲渡していないのだが一夜のうちにほかの人が強引に建物を建ててしまい、私は単に土地管理者という名目だけで使用権を失っていた、間口4間、奥行1間の家を建てただけだ」と語っている。
昭和37(1962)年、闇市が一掃され、池袋西口公園ができ、1990年には東京芸術劇場がオープンした。
昭和30(1955)年7月1日付読売新聞クリックすると拡大します
2代目豊島公会堂から3代目へ
2代目の豊島公会堂が建てられたのは、昭和27(1952)年、11月のことである。元の公会堂のあった場所から400mほど池袋駅よりの場所だった。新しい芸術文化の殿堂は、区民3,000人を超える寄付によって造られた。玄関ホールに掲げられた寄付者の銘板には池袋に住んでいた作家・江戸川乱歩も本名で名を連ねている。この規模の建物の設計は豊島区の手に負えず、東京都からの2名の助っ人に助けられたという。施工は地元の業者が請け負った。都内でも1,000席を超える規模のホールは珍しい時代に1,300席を設け、数多くのイベントが行われた。座席数は後年の改築で802席に減ったものの、使い勝手のいいサイズの公会堂の利用は多かった。建物の老朽化のため、2016年3月、63年に亘る歴史に幕を閉じた。
3代目の豊島公会堂はこの2代目公会堂の跡地2,980㎡に、(仮称)豊島区新ホールとして2019年に誕生する。建物は延べ10,900㎡、地上8階地下1階。1,300席の新ホールでは、成人式や学校行事、区民の文化芸術活動の発表、オペラ・バレエ・ミュージカル・歌舞伎・伝統芸能・コンサート等が開催される予定である。
この新ホールの計画は、隣接する豊島区役所が2015年5月に移転したことに伴う跡地活用事業の一環であった。旧区役所敷地と現公会堂敷地を一体として民間事業者が定期借地する公募事業に東京建物、サンケイビル、鹿島建設が選ばれた。鹿島の設計施工により2017年1月に着工予定である。最初の豊島公会堂が焼失してから70年後に奇しくも鹿島が新しい豊島公会堂を作る。
2代目豊島公会堂クリックすると拡大します
完成予想パース(左からオフィス棟、新ホール棟、豊島区新区民センター)クリックすると拡大します
完成予想パース(左からオフィス棟、新ホール棟、豊島区新区民センター)クリックすると拡大します
<参考資料>
豊島区議会史編纂委員会『豊島区議会史』(昭和62年)
豊島区史編纂委員会『豊島区史 資料編4』(昭和56年)
豊島区史編纂委員会『豊島区史 通史編2』(昭和58年)
豊島区コミュニティ振興公社『豊島公会堂の40年』(1993年)
新藤浩伸『公会堂と民衆の近代』(2014年)
小野浩「日中戦争期の東京における労務者住宅問題」立教経済学研究第60巻2号(2006年)
当時の金額換算は、日本銀行ホームページの企業物価戦前基準指数から換算しています。
(2016年4月1日公開)