第11回 大名屋敷から洋館へ

鹿島の出自は大工であり、幕末から明治初期には「洋館の鹿島」として名を馳せた。横浜居留地の3分の2、神戸居留地の半分以上の洋館は鹿島の手になる(*1)ものという。今月は鹿島の「有史以前」といわれる、創業から「洋館の鹿島」となるまでをたどる。

大名大工として

天保11(1840)年、初代鹿島岩吉は独立して江戸中橋正木町(現在の東京都中央区京橋)に店を構えた。そして水戸徳川家、松平越中守、土井大炊守などの大名屋敷に出入りする(*2)お出入り大工となったという。

桑名藩松平越中守の上屋敷(9,301坪)は、正木町の鹿島の店から川を挟んだ向かいにあり、古河藩土井大炊守上屋敷(4,533坪)は日比谷御門内(現在の東京都千代田区丸の内・東京會舘付近)にあった。御三家の一つである水戸中納言は各所に地所を持っていたが、小石川の上屋敷(10万1,831坪。現在の東京ドーム付近)に出入りしていたのであろうか。現存する史料はなく、詳細は不明である。

ジャーディン・マセソン商会横浜店

安政5(1858)年7月の日米修好通商条約は横浜に建設ラッシュを招く。日本側諸施設の建設はいち早く進出した大工たちが独占、出遅れた鹿島は皆が敬遠していた西洋人相手の商館建設を手がけることとなる。

安政6(1859)年1月、東アジアで絶大な勢力を持っていた英国商社ジャーディン・マセソン商会は、上海支店のウィリアム・ケズウィックを長崎に派遣し、日本での貿易見通しを探らせた。彼は日本の生糸が安く良質なことを知り、同年7月横浜へ進出。他社同様船を事務所にして取引していたが、同年末、2階建て商館を建設した。これが横浜初の外国商館・英一番館である。

粗末な木造2階建ての英一番館

商取引は、香港のジャーディン・マセソン商会本店から連れてきた中国人部下に英語で指図し、中国人部下が漢字を使った筆談で日本人に伝えた。建設工事では身振り手振りの方が役立ったかもしれないが、とにかく初の外国商館工事、「英一番館の大建築工事は中々の苦心と努力とを払われた」(*3)が「工事は順調に進んで、利益も多く、是で一寸基礎ができた形であった」(*4)らしい。そして木造2階建ての「極めて粗末」(*5)な外観にもかかわらず、内部では大陳列会(下の絵)が行われ、居留地最初の商館としての栄華を極めていた。

鹿島はその後、英一番館に続いて亜米一(あめいち)と呼ばれたウォルシュ・ホール商会事務所も建てる。「気に入らぬと損をしても遣り直す」(*6)鹿島の仕事振りは、居留地に事務所を構えようとする外国商人たちに知れ渡っていく。

横浜英吉利商館繁栄の図(一慈斉芬幾・作)は明治4年出版。横浜開港直後にジャーディン・マセソン商会がはじめて輸入した珍しい海外の品々を英一番館の店内一杯に陳列している様を描いている横浜英吉利商館繁栄の図(一慈斉芬幾・作)は明治4年出版。横浜開港直後にジャーディン・マセソン商会がはじめて輸入した珍しい海外の品々を英一番館の店内一杯に陳列している様を描いている

生糸から鉄砲まで扱う英一番館

横浜在留の外国商人は最初英18名、米12名、仏3名程度であったが、元治元(1864)年には商館数は100を越える。明治初期には輸出の95%、輸入の94%を外国商館が独占した。ジャーディン・マセソン商会では生糸、菜種水油、寒天、銅、樟脳、椎茸等を扱い、ウォルシュ・ホール商会では生糸と緑茶、絹物を扱った。この2社に生糸専門のデント商会(英二番館)を加えた3社が横浜居留地の始祖と呼ばれていた。

慶応1、2 (1865、6)年には、薩長土肥の4藩や幕府が続々と鉄砲を注文し、英一番館ほか15館が彼らのために鉄砲を輸入したこともあるという。(*7)

明治8年ごろの横浜海岸通(右端の大きな建物が英一番館) 原画:C.B.バーナード 出典:ジャーディン・マセソン・アンド・カムパニー(ジャパン)リミテッド『日本に於ける百年 英一番館』(1959年)明治8年ごろの横浜海岸通(右端の大きな建物が英一番館) 原画:C.B.バーナード 出典:ジャーディン・マセソン・アンド・カムパニー(ジャパン)リミテッド『日本に於ける百年 英一番館』(1959年)

焼け落ちた最初の英一番館

慶応2(1866)年の大火で居留地の4分の1が焼け、英一番館も焼け落ちた。翌年10月に再建が計画され、20m四方の2階建てを慶応4(1868)年5月に着工し、明治2(1869)年2月に竣工した。ケンブリッジ大学所蔵の再建設計図では1階に3室、2階に2寝室を含む4室がゆったりと配されている。鹿島が建設しているのであろうが、定かではない。浮世絵や写真で見る英一番館は、この二度目に建てられた白亜の建物である。

明治3(1870)年秋、ジャーディン・マセソン商会横浜店は支店に昇格し、その後も繁栄を続けたが、関東大震災で再び全焼。昭和7年横浜を去り、神戸に拠点を移した。

現在の英一番館付近(碑が立っており、跡地はシルクセンター・シルク博物館 横浜市中区山下町)現在の英一番館付近(碑が立っており、跡地はシルクセンター・シルク博物館 横浜市中区山下町)

その後の洋館建築

「明治時代の大工たちの技量はずば抜けて優れていて、見て真似て西洋館を建てていたのではなく伝統的な今までの技を使いながら」(*8)洋館を建築しつづけた。そして亜米一のウォルシュ兄弟の推薦で、明治6年には木挽町に蓬莱社(後の十五銀行本店)、品川に毛利邸洋館、王子に煉瓦造の日本抄紙会社、岡山に洋館の県庁舎など、歴史に残る洋館建築を続けた。すべて現存していないのが残念である。

*1.*2 鹿島新吉「新卒新入社員教育会席上訓示」 『鹿島組月報』昭和17年12月号
*3 作者不詳『わが鹿島組』1938年
*4.*5 『鹿島組五十年小史』(鹿島組編輯部)1929年
*6 肥塚龍『横浜開港五十年史』(横浜商工会議所)1909年p97
*7 横浜貿易新報社『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社)1909年p301
*8 増田彰久『棟梁たちの西洋館』(中央公論新社)2004年

地図出典:「江戸東京重ね地図」(エーピーピーカンパニー)

(2007年2月19日公開)

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