第12回 バルーチャン発電所

昭和29年12月、ビルマ(現ミャンマー)(*1)とタイの国境近くの山奥で水力発電所の工事が始まった。それは、敗戦後長く占領下に置かれていた日本が行う初めての海外工事であった。熱帯、高温多湿、人跡未踏の密林で始まった工事には様々な苦労がつきまとう。ビルマ最大の発電所、バルーチャン発電所工事施工の苦労を追う。

それはハプニングから始まった

ビルマは1886年から62年間英領インドに編入、1948年に独立して新しい国づくりを始めていた。1953年10月、日本工営社長・久保田豊は旅程の途中偶然ビルマに立ち寄り、土曜の午後にたまたまいた(*2)土木工業省次官に会う機会を得る。次官は久保田が電力に強いと知ると発電所建設の資料に意見を求めた。現地調査と設計の後、1954年4月にビルマ政府と商業ベースでの契約書に調印。技術指導を鹿島が行うこととなった。日本の建設業にとって戦後初となる海外工事である。鹿島は直ちに13名の調査団を現地へ送りこんだ。

建設予定地全景建設予定地全景

昭和29年3月中旬、鹿島調査団長・吉田赴(本店土木部設計課長)は「私共が乗り込めば直ぐ仕事にかかれるように手配してあるとのことでしたが、あまりにも事実に相違しています。」(*3)と社長に報告している。当時外国人の手がけた建設工事はほとんど失敗していた。機械、設営用具、食糧が首都ラングーンから届くのに3週間もかかる。酷暑期で5月上旬までは日陰でも40℃近くになり湿度も高い。社員は胃痛や下痢で3人も寝込んだ。流れる汗が文字や図面を濡らす。塩と埃にまみれ、塩辛い川で水浴して下着を日に3、4回替えても汗だくになる。

地図:ビルマ(現ミャンマー)

発電所基礎掘削開始状況発電所基礎掘削開始状況

工事用道路、発電所基礎などのために伐採が開始される工事用道路、発電所基礎などのために伐採が開始される

野生の象、虎、猿、鹿、蛇・・・・

昭和29年11月のビルマ電力庁下命通知書交付を受け、12月8日、所長・木戸喜平が日本を発つ。18日には第1陣26名が2班に分かれて出発、翌年早々4名が渡航した。

ラングーンからトラックを連ねて三日三晩。現場は一面密林に覆われていた。大蛇、象、虎が出没する。朝は野猿が叫び、夜は鹿の声が聞こえる。密林を切り拓かねば道も資材置き場も現場事務所もできない。ブルドーザを谷底の敷地まで1,000m程の急傾斜を下ろすことになった。アメリカ製の1千万円の新品。ウィンチ、発動機未着の中、カグラサン(*4)を巻きつけた旧式方法で2台のブルドーザを下ろす。契約未調印で不安の中、仮設作業は続いた。調印は昭和30年9月28日、賠償契約切り替え承認は31年3月29日のことだった。

発電所基礎掘削用ブルドーザを鉄管路急斜面から下ろす発電所基礎掘削用ブルドーザを鉄管路急斜面から下ろす

自家製の豆腐・納豆

建屋基礎支持層は石灰岩でところどころ空洞があり、位置を変更せざるを得ないことがわかる。現場近くに潜む反政府軍が作業員に紛れ込む可能性もあり、火薬は日本人が取り扱うように政府から言われる。社員にとっては「直接火薬を手渡したのは初めて」(*5)の経験だった。

庶務係・森本一は、食堂設備や食事内容改善のため食堂管理を買って出た。週2回氷詰の航空便でラングーンから魚を送らせたが、数回で航空会社から魚臭いと断られる。本社からの味噌・醤油で日本食風の献立を作り、豆腐・納豆は自家製造した。

宿舎には南国の強い直射日光が差し込むため、バナナの木を窓辺に植えて木陰を作った。デザートに食べたパパイヤの種も窓の下に植えた。

施行中の発電所建屋内部施行中の発電所建屋内部

野積になったセメントの山・・・

昭和33年8月、取締役土木部長代理・小林八二郎が到着した。セメントは倉庫に満杯、野積は2万トンもある。一雨でセメントは硬化する。「危険この上ない、無謀も甚だしい。怒りさえ感じる。しかし乾季中は一滴の降雨もないと全員は断言する。」(*6)小林は驚きながらも昼夜兼行でのコンクリート打設を指示、乾季中に使い切るよう作業員を鼓舞する。掘削期と違い、日に日に目に見えて構築されていく現場に全員が活気を蘇らせる。野積も貯蔵庫も空にして政府を慌てさせた。

工事は最盛期には鹿島198名、現地就労者3,400人に達し、延べ従事者は日本人15万8,000人、ビルマ側253万人に及ぶ。22ヵ月の予定だった工事は5年以上かかった。

現場事務所前で現場事務所前で

竣工式は昭和35年3月31日午後6時半からラングーン変電所で行われた。祝辞の後、バルーチャン発電所からの初の送電が変電所建物、式場周辺、沿道の並木のイルミネーションを一斉に輝かせ、日本の花火が夜空を彩った。

対岸から発電所建屋、鉄管路、調圧水槽を望む対岸から発電所建屋、鉄管路、調圧水槽を望む

ビルマ政府はバルーチャン発電所工事の功績を表彰(*7)したが、これはビルマでは初めてのことであった。バルーチャン発電所はその後6号機まで増設、円借款による改修が行われ、現在でもビルマ国内24%の電力を供給している。

工場概要

バルーチャン発電所(発電能力84,000kW)

場所:ビルマ連邦カヤ州ロイコー/発注者:ビルマ連邦/設計:日本工営/規模:取水堰(堤長72m、6門)、取水路(延長3,270m)、調整池(292m×110m)、低圧コンクリート導管路(790m、内径3.8m)調圧水槽(62m、径7.6m)、低圧鉄管路(1,090m、径2.74m)、鉄管路(970m、径2.74~2.20m)、発電所(2,850m²)(掘削土砂40万m³、岩石22万m³、コンクリート量78,000m³) 工期:昭和29年12月~昭和35年3月

*1 1989年ミャンマー軍事政権はBURMAをはじめとした英語名称を変更、国名をMYANMARとしたが、今回はそれ以前の話のため、旧名称を使用
*2 小長谷綽「土曜の午后のハプニング」追悼久保田豊編集委員会『追悼久保田豊』(日本工営)1987年
*3 吉田赴「ビルマ通信」『鹿島建設社報』昭和29年5月21日
*4 古くから引き家等重いものを運ぶのに利用された万力
*5 児玉実男「座談会バルチャン発電所建設を終わって」『鹿島建設月報』1960年6月P8
*6 小林八二郎『五十年の歩み』昭和50年(雨季は5月中旬から10月末であり、内容には矛盾が見られるが、詳細不明)
*7 表彰は日本工営社長・久保田豊、ラングーン事務所長・物井辰雄、鹿島建設社長・鹿島守之助、元バルーチャン出張所・川合友重(2代目。初代木戸と昭和31年12月に交替)と、日本工営、日綿実業、日立製作所、東京芝浦電気、三菱電機、富士電機、日本鋼管、鹿島建設の8社が受賞

(2007年2月19日公開)

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