第13回 木挽町の鹿島

明治13年(1880年)3月、鹿島組は横浜から東京に本店を移し、「洋館の鹿島」から「鉄道の鹿島」へと踏み出した。八重洲に移るまでの50年間、木挽町(*1)に本店があった時代の鹿島をその時代の証言者たちとたどってみよう。

木挽町9丁目

明治13年3月、新橋駅に近い京橋区木挽町9-31(現:中央区銀座8丁目)に本店を移したのは、「新橋のステーションに近く鉄道局を訪れるにも便利であった」(*2)からだと言われる。

当時の東京では、レールの上を馬が引く鉄道馬車が新橋停車場から銀座経由で日本橋まで通っていた。明治30年代には2千頭の馬が馬車を引いて走っていたという。「電気も瓦斯も一般に使用しない頃だから、銀座と云った處で薄暗いもの。築地橋から今の新富町の停留場の角までが一軒残らず芝居茶屋でそれが全部同一な造りであった。」(*3)

鹿島組は全国で着々と鉄道工事を手がけ、事業は発展を続ける。明治26年には、この木挽町9丁目の事務所が手狭になったため、木挽町6丁目に大きな商家を購入して移転した。

木挽町6丁目本店前にて(明治37年1月2日、新年祝賀会。2列目右から3人目鹿島精一副組長) 木挽町6丁目本店前にて(明治37年1月2日、新年祝賀会。2列目右から3人目鹿島精一副組長)

この商家は「間口7間半、純日本風の土蔵造りで屋根には火の見櫓があった。道路を隔てて三十間堀(*4)を背にした倉庫兼工作所が向かい合っていた。

室内は床板を張って机・椅子で事務をとり、電話もいち早く引くなどなかなか近代化されていた。工務の部屋のスペースが大きいのがいかにも建設業者らしく、商家時代の蔵は測量機械庫に使われ、俥置場(*5)が見えるのが明治的である。」(*6)

当時本店には組員30人前後と小僧10人近くがいた。道を走るのは馬車や人力車で、運搬用に堀がめぐらされ、白壁の事務所や商家が軒を連ねていたのである。電話は明治23年の日本初の電話帳「電話加入者人名表」にこそ載っていないが、その次の明治25年の「電話加入者人名表」には「鹿島岩蔵」の名前が出ているから、かなり初期から利用していたようだ。最も相手に電話がない場合が多く、連絡先は限られていた。

木挽町6丁目の商家の建物を買い取った本店。左から蔵、敷地に入る扉、二階建ての本店、塀。木挽町6丁目の商家の建物を買い取った本店。左から蔵、敷地に入る扉、二階建ての本店、塀。

平面図平面図

大正期の木挽町界隈と鹿島

明治39(1906)年3月、元の木挽町9丁目に戻る。当時は「日露戦争後で日本も高度成長の時代に入りかけていたが、請負業は戦時中に無理を強いられた工事の損失を埋めるまでには至らず、鹿島組の経営も決して好況とはいえなかった。」(*7)

谷崎潤一郎は築地精養軒ホテルの北村家に住込み、永井荷風は木挽町9丁目の借家で「断腸亭日乗」を書き始めた。

「歌舞伎座前で市電を下りて釆女橋の手前を堀割に沿うて右の方に曲がると、船宿らしい家があったり、小船が繋がれてあったりした。近所には農商務省、精養軒もあった。組の2階造りの明治洋式のあの建物は実に懐しい。受付の杉山さんは相当年配の人だつたが書生に対しても丁寧であった。障子の小窓を開けて来意を述べると優しい声で通された。組長室は隣室で夏は簾をたれてあつた。何時でも気軽に出て来られたものである。」(*8)

■:木挽町6丁目本店のあったあたり ▲:木挽町9丁目本店のあったあたり■:木挽町6丁目本店のあったあたり ▲:木挽町9丁目本店のあったあたり

震災前の木挽町本店前にて震災前の木挽町本店前にて

本店玄関前の様子(画面左のヤツデが鹿島組玄関脇のもの)本店玄関前の様子(画面左のヤツデが鹿島組玄関脇のもの)

関東大震災から昭和4年の移転まで

「事務所といってもその頃はくだけた呑気なもので、事務机上のコピー用のプレスが重い軽いから始まって持ち上げる競技が始まれば、組長さん(*9)も仲に入って自分は試みずとも声援くらいはしたもので、またある人が新しくできた玩具のスケートというハンドルに前後車の二つあるものを届けて来たのを、皆で面白がって事務所の中でガラガラ走らせたりしたものだ。これらは我が鹿島組ばかりの風景ではなく、世間一般がそんな具合に気楽なものだったのである。」(*10)

そしてそういった会社の雰囲気も建物と共に関東大震災で失ってしまう。震災後丸ノ内郵船ビルに仮移転し、大正13年、元の場所に建てた仮社屋に戻る。森に囲まれていた骨董商の別荘跡には大正15年、新橋演舞場が建てられた。

この仮社屋時代の思い出を語る人々は多い。

震災後に建てられた木挽町の仮社屋震災後に建てられた木挽町の仮社屋

本店勤務の総勢は30名足らずで、関東大震災後の建物としては田舎物の私の目から見ると木造ながら2階建ての立派なものであった。事務室の奥に宿直部屋がありその奥に食堂があったが、築地の魚河岸が近くなかなか美味しいものが食べられた。(鈴村卓)

両国の川開きには、花火見に事務所の裏の川岸から伝馬船に酒肴を積み、組長はじめ組員一同が乗り込んで出かけた。夕暮れの川風の涼しさ、大川に出て両国橋近くになると舷々相摩す有様、その頃の花火の打ち上げは連続的ではなかった。酒を一杯やって居る内に揚がると云う具合で酒呑みには都合がよかった。両国に大相撲が始まると組員交替で相撲見物に行った。(根岸善吉)

西と南は料亭で三味線が聞こえる所だった。(水原宏)

調査係の唐沢さんが各現場の証書綴りの起票を算査証査しているのが部屋中の唯一の事務的な活動。一人黙々と算盤を入れて不審のところへ赤紙を入れておられる。昼食は食堂で幹部も一般も同じお菜で済ますことはきわめて平民的に感ぜられたし、魚河岸から直接納入していたようで、季節の初物をよく食べさせて楽しいものだった。(戸田主雄)

階下に玄関脇が庶務、奥が計理、その奥に宿直室・店童(*11)部屋、隣接して食堂炊事場となっており、薄暗い感じだった。2階の表側は土木・建築で、奥に組長室・理事室があった。乗用車は組長さんだけで、食堂と道路の間が車庫となっていた。一般の者は市電が交通機関だった。土木の部屋から新橋演舞場の卵黄色の壁が一杯に見え、夕日に映えた姿を倦まず眺めた。新人の私は用事らしい用事もなく月報編集手伝いの外は、外語の本を覚束ない力で拾い読みしたり、カタログ類を漁り見て過ごした。当時出勤簿は1日1行出勤順に捺印の習しで、受付の真下さんが時間にはさっと片付ける厳格さで、毎日私が一番乗りで一番上に捺印していた。 (帷子哲郎)

木挽町9丁目の本店前にて(明治42年1月12日。前列右から二人目鹿島精一副組長、その左鹿島岩蔵組長。玄関左に電話番号の木札がある)木挽町9丁目の本店前にて(明治42年1月12日。前列右から二人目鹿島精一副組長、その左鹿島岩蔵組長。玄関左に電話番号の木札がある)

このバラックの仮住まいから抜け出して南大工町に移ったのは、昭和4年のこと。昭和5年には株式会社となり、新たな本社ビルで近代的な企業への一歩を踏み出すことになる。

*1 木挽町の語源は江戸城造営の鋸匠が住んでいたことによる。歌舞伎座を擁し万治3(1660)年には森田座が創設されるなど、早くから江戸の歓楽の地、芝居の街として繁栄していた。
*2 鹿島卯女「理事長の日記より」鹿島建設月報1968年8月号
*3 鹿島龍蔵「深川時代の追憶」鹿島組月報大正14年3月号付録
*4 銀座通りに並行して東側を走る堀で、昭和24(1949)年に埋め立てられた。
*5 人力車置き場のこと
*6 鹿島卯女「理事長の日記より」鹿島建設月報1968年8月号
*7 小野一成『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
*8 箱崎正吉「あの温情」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
*9 鹿島精一組長
*10 鹿島龍蔵「組長さんの事ども」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
*11 てんどう・・・住み込みで雑事を行う。縞の着物の「小僧」が、詰襟で夜学に通う「店童」、店(事務所)で事務補助をする「給仕」と進み、後に社員になり、重役になった者もある。

(2007年2月19日公開)

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