第15回 三井高井戸牧場

大正7年、三井合名は東京に住む三井家の自家用牛乳確保のため、東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)に牧場を作る。
見慣れぬ種類の牛がいる牧場と洋風の牧舎は、藁葺屋根の農家が点在する村で異彩を放っていた。
今は公団団地が広がる住宅街で牧場の面影はないが、この牧舎を建設したのが鹿島であった。

8代将軍吉宗の白牛

日本史の中に初めて牛乳の出てくるのは飛鳥時代。百済からの帰化人が孝徳天皇に酥(今の練乳のようなもの)を献上し、喜ばれたという。平安時代、牛乳や乳製品は貴族の間で食されたが、武士の時代に移ると共に官牧(牧場)は荘園に、乳牛は軍馬へと変わり、酥もすたれていってしまう。それから600年、歴史の表に牛乳が出てくることはなかった。

1728年、8代将軍吉宗はインドから3頭の白牛を輸入し、幕府直轄の嶺岡牧場(*1)に放つ。吉宗は牛乳から白牛酪(乳を煮詰めて固めた生バター状のもの)を作らせ、献上させた。房総半島の中ほどにある嶺岡から江戸まで約90kmの行程、白牛酪は腐らずに江戸まで届けられ、栄養剤、強壮剤、解熱剤として珍重された。

白牛は70数頭まで増えたが明治中期の伝染病で多くが死んでしまい、途絶えてしまう。現在国内にいる白牛は、アメリカのゼブー種を輸入した嶺岡牧場の8頭だけ(写真・酪農のさと)白牛は70数頭まで増えたが明治中期の伝染病で多くが死んでしまい、途絶えてしまう。現在国内にいる白牛は、アメリカのゼブー種を輸入した嶺岡牧場の8頭だけ(写真・酪農のさと)

明治大正から昭和初期までの牛乳は栄養補給のための高価な飲み物。瓶の大きさもドリンク剤サイズで5勺(90ml)、1合(180ml)(トモヱ牛乳博物館所蔵、写真・牛の博物館)明治大正から昭和初期までの牛乳は栄養補給のための高価な飲み物。瓶の大きさもドリンク剤サイズで5勺(90ml)、1合(180ml)(トモヱ牛乳博物館所蔵、写真・牛の博物館)

肉食と共に乳製品も疎んじられる時代は明治維新まで続く。1858年、病に伏した米国総領事ハリスの牛乳9合8勺(1.76リットル)代は1両以上、米3俵(180Kg)と同等の高価なものだった。農作業用和牛は人に乳を搾られたことなどなく、1頭から乳は僅かしか出ない上、牛乳が「薬」と考えられていたことで高値がついたのだった。

*1 嶺岡牧場は周囲68km、総面積1760ha。1614年に安房国領主里見氏の軍馬牧場を没収して、700頭の軍馬を養成していた。嶺岡牧場は現在「酪農のさと」 として広く親しまれている。

10万m²に乳牛10頭

大正3年、三井合名は東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)の茶畑と丘陵5万m²を購入、翌年5万m²を追加購入する。10万m²(東京ドーム2倍強の広さ)の牧場で、乳質の優秀なジェルシー(ジャージー)種の乳牛10頭を英国から輸入して飼育し、そこから取れる新鮮な牛乳を東京近郊に居住する三井家の人々に提供するためだった。当時牛乳は高価でまだ一般的ではなかったが、家庭教師やコックに外国人を雇うことの多い上流階級の人々にとってはごく普通の飲み物だったのかもしれない。

大正7年の暮れも押し迫ったころ、竹川渉は鹿島組建築部長の小林政吉に招かれる。高井戸に作る三井家の新設乳牛場の入札指名を受けていて、入札日が来年1月7日に迫っているので、ぜひ鹿島組に入って力を貸して欲しいと言う。今のように見積専門の部隊がいるわけではなく、見積のできる人間も限られていた。彼らは皆現場を抱えていて見積をする余裕はない。当時竹川は家の仕事の関係で勤めに出るのは無理があったのだが、再三懇願され、とうとう「三井の見積だけ」を手伝うこととなる。そして、この工事が落札される。建築工事では特命入手がほとんどだった鹿島にとって初めての入札による入手工事である。小林に口説かれ、2,3か月手伝うつもりで入社した竹川は、結局昭和27年1月に監査役を去るまで鹿島で建築の要職を勤めることになる。

ジャージー種の牛ジャージー種の牛

三井牛舎牧場

当時の営業経歴書によると、「三井、牛舎牧場建築工事、木造 53,200円。大正8年3月~大正8年6月」とある。経理のメモによると大正8年と9年に分けて工事利益が計上されている。竹川が「評判も成績も良く竣工して、お手伝いの仕甲斐があったと喜び且つ安心した」(*2)のもうなずける。大正7年に建築した煉瓦造りの中央大学(第4回参照)も4か月程度で竣工しているので、工期としてはこのようなものなのであろう。しかし残念なことに、当時の写真などは三井文庫にも三井不動産(昭和16年~所有)にも当社にも一切残っていない。

京王線笹塚・調布間が開通したのは大正2年。それまでは甲州街道を新宿から調布まで定期便馬車が一日4便通っていた。京王線桜上水駅は開業しておらず(大正15年北沢車庫前として開業)、この三井牧場の最寄駅は玉川電車(現・東急世田谷線)の下高井戸駅だったため下高井戸牧場と呼ばれた。そして「品質の高い生牛乳で有名となり、三井家の誇りの一つとなっていった。」(*3)

昭和4年世田谷古地図。三井牧場の北の駅が「しゃこまえ」。東の玉川電車との分岐が「しもたかいど」駅 昭和4年世田谷古地図。三井牧場の北の駅が「しゃこまえ」。東の玉川電車との分岐が「しもたかいど」駅 クリックすると拡大します

昭和32年ごろの三井牧場(写真提供:桜上水団地管理組合)昭和32年ごろの三井牧場(写真提供:桜上水団地管理組合)

三井牧場遠景。サイロと牛舎の建物がはっきり見えるが、鹿島が大正時代に施工したものかどうかは不明。撮影年不明(写真提供:桜上水団地管理組合)三井牧場遠景。サイロと牛舎の建物がはっきり見えるが、鹿島が大正時代に施工したものかどうかは不明。撮影年不明(写真提供:桜上水団地管理組合)

茶畑、野菜畑、麦畑、桑畑、藁葺屋根が点在する村に突如として出現したオランダ風の畜舎、サイロ、見慣れない牛(当時は牛と言えば役牛)・・・・すべてが当時の人々の想像を超えていた。この地で初めて電灯を引いたのは三井牧場で「電柱と電線を持てば電気を引いてあげる」と、近隣の3軒の農家にも電灯をともした。夕方時間が来ると自然に明るくなるのを人々は不思議がったという。今では郊外とも言えない東京の住宅街の、90年前ののどかな様子がわかる。東京府下だった荏原郡一帯は、関東大震災と京王線の開通で人口が増え、地価が上がっていく。世田谷区が誕生して東京市に併合されたのは昭和7年10月のことだった。

戦後、三井牧場では乳牛を乳の多く出るホルスタイン種に改め、昭和23年10月からは牛乳を一般にも販売するようになる。搾乳から瓶詰めまでできる機械設備を備え、厚生省から衛生モデルケース指定も受けた牛乳はその品質のよさから「特別牛乳」と呼ばれ、都内の病院や外国人向けに販売された。最盛期には12万リットル/年も生産されたが、昭和37年牧場は閉鎖される。昭和39年、東京オリンピックの開催と相前後して、日本住宅公団が跡地を住宅団地として開発し、桜上水団地(*4)が誕生した。

現在の桜上水団地。建設から40年。桜とケヤキの大木に囲まれた緑豊かな分譲団地である現在の桜上水団地。建設から40年。桜とケヤキの大木に囲まれた緑豊かな分譲団地である

*2 竹川渉「感激」『鹿島精一追懐録』(昭和22年)
*3 日本経営史研究所『三井不動産四十年史』三井不動産(昭和60年)
*4 桜上水団地管理組合法人顧問の平井英一氏は、昭和40年2月に同団地に入居。分譲価格は2LK56.68m²で440万円。3LDK66.38m²は512万円。一戸建てより高かったが、競争倍率は高く、抽選に何度も落ちたという。

参考図書
世田谷区生活文化部文化課行政係『ふるさと世田谷を語る』(平成8年)
日本経営史研究所『三井不動産四十年史』三井不動産(昭和60年)

(2007年8月9日公開)

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