第16回 秩父宮ラグビー場
ここに一冊の古いアルバムがある。
表紙を開くと、THE CONSTRUCTION WORK OF RUGBY STADIUM,TOKYOと英語で書かれている。工事概要も、資材も、人員配置もすべて英語。日本が連合国の占領下にあった昭和22年、秩父宮ラグビー場が作られたときの貴重なアルバムである。
アルバム表紙
大名屋敷から練兵場へ
もともとこの青山の地には、青山常盤介忠成の屋敷があった。家康の鷹狩りに随行した忠成は、「馬に乗って一回りした範囲を屋敷地として与えよう」と言われ、馬が疲れて死ぬまで木に糸を結んで駆け回ったのは有名な話である。地名が青山となり、青山通りをはさんで北に本家、南に分家が向き合う形は、明治2年(1869年)の版籍奉還まで続いた。屋敷あとの大半は青山墓地となり、残りの草地の一部に明治19年、青山練兵場(*1)が作られた。
「赤坂区の西北隅に在りて、東は青山御所に沿ひ、西は四谷霞岳町と豊多摩郡原宿村に連なり、南は青山北町に接し、北は甲武鉄道線路」(*2)の練兵場では陸軍始観兵式や日清・日露戦争の観兵式などが行われたが、日本大博覧会会場に定められ、明治42年代々木へ移っていった。
*1 | 練兵場 軍隊を訓練する場所 日比谷練兵場(現日比谷公園)、駒場練兵場(現東大教養学部)、青山練兵場(現神宮外苑)、代々木練兵場(現代々木公園)などがあった。日比谷練兵場の周りに建物が多くなったため、ここを公園とし、代替地として青山練兵場が生まれた。 |
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*2 | 風俗画報臨時増刊『新撰東京名所図会』(明治36年) |
女子学習院
大正元年青山練兵場跡地に明治天皇の葬儀殿が置かれ、大正3年の東京大正博覧会(上野)の際には飛行場が置かれた。その後明治神宮の外苑として整備される。
女子学習院が永田町の旧華族女学校から移ってきたのは大正7年のことである。工事監督辰野金吾、施工清水組の校舎は木造2階建の本館をはじめ全15棟、増築後の総建坪数4,370坪(14,447m²)、総面積13,860坪(45,818m²)。皇族の行啓時のみに使用する行啓階段、皇族学生用車寄とお付控室、お付女中用学生幼児付添室、車夫の供待所まであったという。
しかし、昭和20年5月25日の空襲ですべて焼けてしまう。授業は目白の徳川義親侯爵邸の一部を借りて続けられた。戦後、青山の焼け跡に新校舎を建設する経済的余裕はなく、既存建物を探し回り、昭和21年3月に新宿区戸山町の旧近衛騎兵連隊跡に移転することとなった。
青山の焼け跡は、焼け野原のまま進駐軍の駐車場となる。
野球場から見た焼け跡(左下にコンクリート造だけ残っている) クリックすると拡大します
日本ラグビー協会
戦前日本ラグビー協会(現・日本ラグビーフットボール協会)が使っていた神宮競技場(現・国立競技場)は進駐軍に接収されてしまう。ラグビー専用競技場を関東に作ろうと昭和22年初め、ラグビー協会有志が集まった。新聞社勤めで車が自由に使えたOB(*3)もいて、都内に10数箇所の候補地を見つけた。その中のひとつがこの女子学習院の焼け跡であった。
作るなら方位やスタンドの位置など専門家による正確な測量をしてきちんとしたものを作ろうと入札を行い、東大ラグビー部OBの岡田秀平(*4)のいる鹿島組が落札する。
しかし、協会にはお金がなかった。落札価格は150万円。今日の1億円にも値する金額であるが、5大学(早慶明東立)OBが1週間で5万円ずつ持ち寄り、焼け残った時計やカメラなど金目のものを売りさばき、30万円を手付として鹿島組と契約を結ぶ。
*3 | 当時鹿島組横浜支店には所長用の中古車が1台あるだけだったことを考えると、その新聞社の車がいかに機動力を持っていたかがわかる。ちなみに横浜支店では駐留軍工事の資材運搬には馬を使っていた。 |
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*4 | 後に建築部工務監督となる |
鹿島組横浜作業所
工事を請け負ったのは横浜支店だった。昭和22年の鹿島組の受注工事の57%が横浜支店の手になっている。
鹿島組建築第一部長兼平塚古河出張所長の石村武雄(*5)は終戦当時、古河電工平塚工場を施工中だった。古河財閥の重役から「これからは駐留軍の制圧下で米軍工事が増えるはずだ。第8軍司令部のある横浜に事業所を設置すれば有利になる」と言われる。当時施工中の軍工事は全て中止、民間工事も軍需工場などが優先されたため、中止や状況を見守るという混沌状態にあった。新規工事入手の目途も立たず、この助言を頼りに出張所管下に「横浜作業所」を作る。戦後の不安定期を乗り切るために設立された横浜作業所は、まもなく本社建築第一部の管下で出張所となり、昭和21年4月営業所に、昭和22年3月には支店に昇格する。
しかし、金港橋(*6)の借地に建設中の事務所は昭和20年9月、駐留軍から立ち退き命令と共に、ブルドーザで壊されてしまう。あわてて西横浜の借地に平屋の事務所を建てた。周りは焼けトタンや古木材のバラックがばらばらと建っている焼け原だった。
昭和21年4月、京浜急行ガード下に2階建事務所を改造して移転、ここには昭和29年までいた。
*5 | 初代横浜支店長(昭和22年8月~昭和30年5月)、3代名古屋支店長(昭和26年12月兼務~昭和32年7月)、昭和22年3月~9月取締役、22年9月~40年12月常務取締役 |
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*6 | きんこうはし 横浜駅の東側にあり、派新田間川をまたぎ国道一号線にかかる。1926年架設 |
秩父宮殿下の視察
昭和22年10月、ラグビー場工事が開始される。椎名所長のもと土木3名、建築2名、事務4名。社報によると、実際の現場は8月ごろから開設されていたようである。工事では大型重機が活躍した。
D6ブルドーザによる土砂の移動作業 クリックすると拡大します
D8ブルドーザ。大型重機による大規模土木工事は当時まだ珍しく、こういった重機を大きく写した写真が多い クリックすると拡大します
スポーツの宮様として広く親しまれた秩父宮殿下(*7)が御殿場別邸から上京し、施工中の現場を訪れたのは昭和22年10月上旬のことであった。前月に日本ラグビー協会の総裁になっていた殿下は、工事の説明をする石村に「ラグビー協会のためであるからよろしく頼む」と仰られた。
昭和22年10月上旬、秩父宮殿下(左端)に現場の説明をする石村(右から二人目)
設計図。左下に「横浜支店新宿出張所」の文字が見える クリックすると拡大します
たった1か月の突貫で作られた「東京ラグビー競技場」は南北147m東西80m、11,196m²。土手には芝が張られ、大谷石の後部階段の端は芝で覆われた。更衣室は木造平屋2500坪(8,264m²)、木造屋根、マグネシアタイル貼、反クロスペイント仕上げ。他に切符売り場100坪(330m²)ずつ2棟、トイレ855坪(2,821m²)も同じ造りだった。観客席は中央に木製特等席、一般席には720mの木製のベンチ(2,880席分)が作られた。
土木・建築とも設計変更などがあり、工費は282万2千円となった。着工から1か月後の昭和22年11月6日に完成、11月22日にはラグビー渡来50年式典と明大OB対学生選抜、明大対東大の2試合のグラウンド開きが行われた。
昭和28年1月秩父宮逝去により、ラグビー普及の厚意に感謝して秩父宮ラグビー場に改称される。昭和37年10月には、年々値上がりする土地使用料(*8)をラグビー協会で維持するのが難しくなり、国立競技場に移管。その後昭和39年の東京オリンピックではサッカー場として使われ、昭和48年にはほぼ現在の形となる大改修が行われた。現在は、トップリーグ(全国社会人大会決勝)、トップイースト11(東日本社会人リーグ戦)、関東大学対抗戦リーグ戦などが開催されている。
ちょうど60年前、このグラウンドを作った人々の熱意は今も伝わっている。
*7 | 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)1902-1953大正天皇の第二皇子。1940年から結核を患っていた |
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*8 | 宮内庁が物納財産としたため、大蔵省管理物件になり、関東財務局の所管になったことによる |
現在の秩父宮ラグビー場での試合の様子 提供:日本ラグビーフットボール協会
現在の秩父宮ラグビー場での試合の様子 提供:日本ラグビーフットボール協会
現在の秩父宮ラグビー場での試合の様子 提供:日本ラグビーフットボール協会
1961年1月29日第1回日本協会招待NHK杯ラグビー選手権(後の日本選手権)(八幡製鉄50-13日本大学)撮影:毎日新聞社 提供:日本ラグビー・フットボール協会
参考図書
鹿島建設横浜支店『鹿島建設横浜支店35年の歩み』(昭和56年)
協力
日本ラグビーフットボール協会
(2007年8月9日公開)