第18回 二・二六事件と鹿島

二・二六事件とは、昭和11(1936)年2月26日未明、陸軍の青年将校らが1,400名余の兵を率いて「昭和維新」を起こそうと決起し、未遂に終わったクーデターである。
現在本社のある赤坂近辺がその舞台となった。
26日から29日までのたった4日間ではあるが、戒厳令が敷かれた東京での企業活動を探る。

暗い時代背景

昭和4(1929)年10月の暗黒の木曜日に端を発した世界恐慌は、日本にも深刻な影響を及ぼしていた。もともと第一次世界大戦(1914-17)後の不況が続いていた中で、対米輸出の中心だった生糸価格は暴落、他の農作物価格も下落する。昭和6(1931)年、東北6県の7月の平均気温は18.8℃と例年より3℃も低く、後に昭和初期凶作群といわれる昭和6,7,9,10年の大凶作は、東北各県での数多くの娘の身売り(*1)を招く。都市部の失業者が農村へ戻ったことも農村部の窮乏に拍車をかけた。冷害だけではなく昭和8年の三陸大津波(*2)、昭和9年の室戸台風(*3)と天災も続く。

親王誕生(昭和8年)に国民は沸いたが、昭和6年の満州事変、7年の5.15事件、8年の国際連盟脱退と社会は不穏な空気に包まれ、労働争議、小作争議が頻繁に起きていた。政党政治は終わりを告げつつあり、陸軍の発言力が強まっていく。東京は82町村が合併し、35区551万人の世界第2(*4)の大都市になった。

一方、昭和5年に株式会社となり、八重洲の新社屋へ移った鹿島組であったが、このころは関東大震災後の復興の嵐も収まり、不況の影響で工事量が少なくなっていた。昭和11年の年頭挨拶の中で社長の鹿島精一は「昨年はご承知の通りこの両三年来引き続いた軍需インフレーションのために、わが土木建築界が割合と振るわなかったのであります。建築の方は工場その他で忙しいこともありましたけれど、土木のほうはあまり忙しくない」と述べている。本社ビル4階の「朦朧(もうろう)部屋」は現場から上がった社員で超満員だった。ここは現場が終わり次の現場に行くまでの間の待機社員のいる場所で、いると思ったらいなくなり、また別の社員が出没するという朦朧とした様子から名づけられたものらしく、本当は○○室という名があったのだろうが、朦朧部屋という通称しか残っていない。朦朧車夫、朦朧会社、朦朧自動車など朦朧○○という言葉は明治末期からの流行語だった。皆この部屋で見積り作成の手伝いに借り出されたり、勉強をしたりして過ごし、次の現場への赴任を待っていた。

*1 例えば青森県では14歳の娘が5年契約450円で売られても、親の手元には150円しか入らなかった。
*2 昭和8年3月3日宮城県金華山沖250kmの海底でM8.1の地震が発生し、30分後に高さ28.7mの津波が三陸地方を襲う。死者行方不明者3,064人、流失家屋4,034戸、倒壊家屋1,817戸。5日は吹雪と大時化、8日には寒波が追い討ちをかけた。
*3 昭和9年9月21日高知県室戸岬北に世界気象観測史上最低の911.9hpで上陸。台風による電線切断で気象電報が送れず、無警戒の関西地方を直撃した。大阪港で風速60mを観測。時速13kmで逆流した海水が大阪城にまで達した。死者行方不明者3,246名、負傷者15,000名。これを機に今の注意報に当たる気象特報ができ、防災に力が入れられる。
*4 当時世界一はニューヨーク市の約680万人。日本国内の人口は大阪市が昭和3年に東京市を抜いて日本一となっていたが、昭和7年の大合併により東京市が日本一に舞い戻った。

二・二六事件

昭和11年は雪の多い年だった。2月4日には大風雪が東京を襲い、積雪は30cmを越えた。そして23日に大雪が降って、26日にさらに雪が降る。積雪35cm。「昭和維新」を目指す陸軍皇道派の一部青年将校が26日未明に決起し、近衛歩兵第三連隊(現在は赤坂サカス)、歩兵第一連隊(現在は東京ミッドタウン)、歩兵第三連隊(現在は国立新美術館)らの部隊1,400名を指揮して、午前5時ごろ首相官邸や重臣の私邸7箇所を襲撃、8名を殺害した。同時に警視庁を占拠、朝日新聞社を襲撃、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠し、27日午後に山王ホテル(現・山王パークタワー)(*5)、料亭「幸楽」(現・プルデンシャルタワー)を本部とした。ホテルの宿泊客は早々に立ち退き、ホテル側は代替宿泊所の手配に追われた。スケートリンクは衛兵所となり、各所に機関銃が据えられている。ホテルの窓には机や椅子でバリケードが築かれた。兵士たちは屋上から手旗信号で連絡を取っていたという。

虎屋16代黒川光朝は、そのときの模様を鹿島建設創業150年記念誌に次のように書いている。「府立一中(現日比谷高校)5年生の昭和11年二・二六事件の時、青山1丁目から市電に乗り、赤坂見附を過ぎ次の平河町で反乱軍により、電車を止められ、我々一中の生徒だけは兵士に囲まれて登校することが出来た。首相官邸の物々しい有様を見て、昼頃に先生の引率で全生徒が幸楽(現ニュージャパン)の横の坂道を抜け、弁慶橋迄行って解散し家に帰った。」
また、中学生だった礒野誠一はタウン誌『AKASAKA』に「事件の朝、三宅坂の白一色の雪景色の中で立ち往生した2台の市電の緑色の車体が美しく見えた。区からの指示で夕方薄暗がりの中を乃木国民学校へ避難することになった。不動尊の参道を登り豊川稲荷前の牛啼坂の取っ付きにあった赤坂小学校の真裏を曲がったところで、剣付鉄砲を持った兵隊に誰何されて驚いたことが思い出される。」と書いている。
小学生の杉山和男(*6)は友達とこっそり戦車を見に行っている。「家の前を溜池や山王下方面から手荷物を持って反対側の六本木方面へ避難する人達が大勢通り始めた。外に出てみると菓子屋や八百屋の店頭は、あの人達が買っていったのか、全く商品がなくなり空っぽだった。学校を見に行くと教室も講堂も避難してきた人々で一杯だったのに驚いた。翌日も退屈なので学校へ行ってみると、昨日の避難民の姿は全く消えて、代わりに上京してきたらしい兵隊たちの宿舎になっていた。」溜池辺りの同級生が「僕の家の近所に戦車がいるぞ」というので、立ち入り禁止地域を家と家の間をすり抜けて戦車を見に行き、家に帰って話して怒られた。

*5 昭和7年、安全自動車社長中谷保が株式会社山王ホテルを設立。当初80室だったが行き届いたサービスと低料金から事件のころには250室にまで増築され、隣接する日本館もあった。地下に東京初の人工のアイススケート場もあり、人気のホテルだった。
*6 杉山和男「少年が見た2.26事件」『季刊国際貿易と投資』(2006年春号)

戒厳令下の東京

一般市民には事件の情報は知らされていなかった。東京・大阪の株式取引所が臨時休止になったという12:40の臨時ニュースが唯一その変調を知らせるものであった。夜7時の定時ニュースは「重要物件の警備と一般の治安維持のための第一師管下戦時整備」が告げられたのみ。26日20:15に陸軍省がようやく発表し、20:35「本日午前5時ごろ一部青年将校らは左記箇所を襲撃せり」という臨時ニュースがラジオから流れる。翌日付の朝刊にも同様の文面が掲載された。

26日午後には決起支持のような陸軍大臣告示(*7)が東京警備司令部から発せられるが、27日午前2:50に戒厳令布告。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)に置かれ、赤坂・永田町一帯の市民の避難を勧告、実施した。東京へ入る鉄道・バスなどの交通機関は遮断されたが28日までは警戒は穏やかで、民間人が決起軍本部のある山王ホテルや幸楽に近づくことができ、差し入れなども頻繁に行われていたという。

しかし29日午前5:10に討伐命令、8:30には攻撃開始命令が下される。東京日日新聞(現・毎日新聞)では事件発生以来全員が篭城し、食堂には7日分の食料が用意されていた。そして日比谷一帯に立退命令が出た場合に備えて歌舞伎座の大食堂を借り、重要書類の持ち出し準備と共同印刷での印刷手配を行った。討伐命令と同時に本社の専用線は切断され、一般電話も電信も市内以外不通。東海道線横浜駅、東北線川口駅、総武線(当時は両国起点)市川駅で国鉄も遮断され、地方版は不着となったため横浜支局が東日本の通信基地となった。

安全自動車の本社は当時も現在と同じ赤坂見附にあった。一切の交通が遮断された本社前を時折戦車が通る。紀伊国坂上に山砲の列ができ、銃を持った歩兵部隊が2m間隔で配置される。鎮圧軍が本社3階の壁を破って土嚢を積み上げ、重機関銃をホテルに向けた。住民への避難命令が出ても社員たちは社を守り、社長私宅からの仕出し弁当で4日間食い繋いだ。

戒厳令指令本部となった軍人会館は、予備役などの軍人の修練の場として川元良一設計、清水組施工で昭和9年に竣工した。戦後は連合軍の宿舎として昭和32年まで使用され、その後九段会館としてホテル、レストラン、ホールを擁する建物となった。内部はすべて改修されており、昭和初期に流行した帝冠様式の外観だけが当時のままである。戒厳令指令本部となった軍人会館は、予備役などの軍人の修練の場として川元良一設計、清水組施工で昭和9年に竣工した。戦後は連合軍の宿舎として昭和32年まで使用され、その後九段会館としてホテル、レストラン、ホールを擁する建物となった。内部はすべて改修されており、昭和初期に流行した帝冠様式の外観だけが当時のままである。

*7 陸軍大臣告示 一.蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり 二.諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む 三.国体の真姿顕現の現況(弊風をも含む)に就ては恐惶に堪えず 四.各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申合せたり 五.之以外は一つに大御心に俟つ」(原文旧字カタカナ。国立国会図書館)

鹿島組の現場では

赤坂見附付近地質調査試掘工事は昭和11年2月25日に着工した。翌日は朝から雪が降りしきっていたが、赤坂山王下で測量を始める。当時地下鉄は浅草新橋間で営業しており、渋谷線(渋谷-新橋)と新宿線(新宿-築地)が計画される。そのうちの第一期工事が渋谷線渋谷・新橋間と新宿線新宿・四谷見附間で、東京高速鉄道会社では同時開通を目指して設計を進めていた。鹿島は渋谷線第二工区(赤坂見附停車場を含む三年町新町一丁目間1,350m)の担当で、三年町特許局前から市電軌道に沿って溜池町、山王下を経て、赤坂見附交差点50m手前から左折、青山通りの新町一丁目電車道に出るもの。鹿島にとっては初めての地下鉄工事(*8)であった。地盤が脆弱で一番の難工事と目される溜池・赤坂付近の工事を任す理由を「会社そのものが良ければ経験者よりもむしろ経験のない会社の方が緊張と慎重さが一層強く、おごりもないと思われる」と発注者側から説明された。「我々は大いに感激し、社員全員が機会あるごとにその言葉を思い起こして『立派にしかも工期を早めて完成させよう』と誓い合った。」(*9)巷では「地下鉄未経験の鹿島組がこんな難工事を引き受けたのは狂気の沙汰だ、これを引き受けた会社側は無謀の極にある」(*10)と言われていたらしい。

その地下鉄工事の実施準備のため、鹿島組社員数名は山王下で測量を行っていた。二・二六事件当日の朝であった。そのとき彼らのところに近づいた陸軍の兵隊がいた。連隊の多い地区である。兵隊が近づいても気にすることなく測量は続いていた。近づいてきた兵隊は仕事を止めて難を避けるように丁寧に申し渡したという。その雰囲気に気圧された社員たちは、早々に測量を中止して宿舎(*11)へ引き上げた。それから事件が終わる29日まで一歩も外に出ることはなかったという。

溜池特許庁付近での鉄矢板打ち準備 溜池特許庁付近での鉄矢板打ち準備 クリックすると拡大します

特許庁前 特許庁前 クリックすると拡大します

溜池付近鉄杭打の様子 溜池付近鉄杭打の様子 クリックすると拡大します

溜池付近鉄杭打の様子 溜池付近鉄杭打の様子 クリックすると拡大します

*8 「鉄道工事界、水力工事界におけるわが鹿島の覇者たるの地位は自他共に動かざるところであるにもかかわらず、不幸地下鉄工事はわが組は従来入手の機会を逸して居り遺憾な感があったが今回機熟し東京高速鉄道工事第二工区を特命にて去る12月23日契約を了した。」『鹿島組月報』昭和11年1月号
*9 花村殿「地下鉄道工事今昔」『鹿島建設月報』1961年3月号。はなむらさだむ 大正13年11月鹿島組入社、信貴山索道、日月潭、東京地下鉄工事などに従事し、昭和36年11月土木部営業部長代理となるが昭和38年5月10日、出張先の横川第二発電所現場にて不慮の事故にて殉職
*10 『鹿島組月報』昭和11年3月号
*11 赤坂区中ノ町20の山王出張所。現・港区赤坂6丁目4付近

タイルを土嚢代わりに

一方、海軍航空本部庁舎新築工事(現在は環境省・厚生労働省)の現場では、コンクリートが打ち上がったところだった。これからタイルの取り付けを始めようとしていたところで事件が勃発する。警視庁は占領され、海軍共済組合講堂には軍艦乗組員の水兵が続々と集まってきた。タイルを土嚢代わりに積み上げ、屋上では決起軍に向けて銃を構える姿が見えた。今にも銃撃戦が始まりそうな様子に現場経理担当の星尾駒太郎(*12)は震え上がったという。朝日新聞の社屋が爆破されたとか、大臣は皆殺しになったとかデマも真実もどこからともなく聞こえてくる。銃撃戦が始まったらひとたまりもない。巻き込まれたくない。仕事など手につかなかった。ようやく夕方になって事務所を出る時は銃剣を背中に突きつけられ、「横を向いてはいかん」「まっすぐ歩け」と日比谷交差点まで連れて行かれた。ちょっとでもふらつくと銃剣でつつかれる。生きた心地がしなかった。結局このあたり一帯民間人の出入りは禁止されてしまい、工事は一時中止となった。現場に寝泊りしていた者は外に出ることは許されず、事態が沈静化するまで常備食で食い繋いだとのことである。

*12 昭和10年3月入社、本店経理係を経て建築系現場を中心に活躍、昭和41年技術研究所事務部次長、昭和44年退職

事件の終焉

攻撃に先立ち立川飛行場から飛び立った陸軍機が3万枚のビラを撒くが、風に流されてしまい兵士たちの目には届かなかった。安全自動車本社前には束で落ちた。「下士官兵に告ぐ」という投降勧告のビラを戦車に貼り、戦車兵が徒歩でビラを配る。同様の文章がホテル前のスピーカーからも聞こえた。各隊は徐々に解散、下士官に連れられて原隊へ復帰していった。ホテル内にある洋酒も日本酒も死を覚悟した兵によって全て空にされ、盆栽は軍刀の試し切りによって無残な姿となっていた。

この事件を機に陸軍内では統制派が勢力を増し、組閣にも介入して軍国化が進む。彼らを後押ししていたと思われる陸軍の首脳は、天皇の激怒によって態度を変えたため決起軍は孤立、反乱軍の汚名を着せられて処刑された。事情を知らされず訓練だと思って参加したほとんどの兵は、大正4年前後の生まれの初年兵。1月10日に入隊してまだ1ヶ月の若者で、半数以上は埼玉県出身だったという。

海軍航空本部庁舎は、3月30日までの予定が5月までかかり、竣工した。その後、江田島の海軍兵学校校舎、呉鎮守府大防空壕などの海軍関係工事は終戦まで途切れなかった。

鹿島のはじめての地下鉄工事であった銀座線赤坂見附虎ノ門間の工事は昭和13年8月に竣工、翌昭和14年に浅草・渋谷間の直通運転が開始される。その後空襲で被害を受けた地下鉄の銀座4丁目付近、丸の内線中野高円寺間など、数々の地下鉄工事に携わり、現在も日本各地の地下鉄工事現場で施工を続けている。

現在の地図で見る位置関係。 現在の地図で見る位置関係。 クリックすると拡大します

参考図書
花村君追想録刊行会『花村君追想録』(昭和39年)
鹿島建設『Kajima Corporation 150 years of Pictures』(1989年)
赤坂商店街協議会タウン誌編集室『赤坂タウンガイドAKASAKA』No13(2001年)
安全自動車70年史編纂委員会『交通報国 安全自動車70年のあゆみ』(1989年)

(2008年2月21日公開)

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