第19回 新入社員教育の変遷

4月の桜とともに新学期、新入生、新入社員・・・と感じるのは日本人だけである。
1月、2月が新学期というオーストラリアの一部の州を除く世界の大半の国では、新学期は8月か9月からで、4月に新卒の一斉入社があるのは、世界でも日本だけといっていい。
今ではごく一般的に行われている新入社員教育であるが、いつごろからはじまったのか、また、時代の変遷とともにその教育内容はどう変化していったのかをさぐってみよう。

4月入社の新卒たち

4月1日付で新入社員を一度に採用するようになったのは、鹿島の場合昭和7 (1932)年ころからではないかと思われる。4月1日付で工務員(技術職)6名と事務員3名が採用されている。それまでは社員の縁故者の子弟が随時入社していた。昭和2(1927)年には入社試験(簡単な面接)が行われ、入社試験の走りだったと記録にある。

記録に残っている「本年度学校卒業の雇員」への採用通知は昭和10(1935)年2月15日。4月1日付けで20名が入社する。その頃はまだ「入社式」という言葉はなかったが、当時の社長・鹿島精一は「当会社は商店なるを以って商人たる態度を以って人に接しよ、しかして当会社は非常時(*1)なるを以って諸氏も一層緊張してこの非常時を切り抜け、将来ますます鹿島組の名を社会に高からしめるよう努力していただきたい」と新入社員に訓示を与えた。また、新入社員側からも非常時の渦中、就職に悩み疲れた時に採用通知をもらったうれしさと、「今後はただひたすらに誠実の二字を守り、職務に対し出来得る限り専念努力いたす決心」が月報誌上で述べられている。

この時代新入社員教育は行われておらず、社長訓示後に社内の主要部門に挨拶に回るとすぐに配属先へ行き、教育はもっぱらOJTであった。昭和11(1936)年4月の社長訓示では「自分の建立したものが残り、そこにプライドがあり、土木の人ならば自分が施工してできた隧道が残り、そこに自ら仕事に興味もわいてきます」と述べている。それを聞いていた10数名の新入社員のほとんどは、多忙を極める満州の各出張所へ赴く。

*1 昭和7年満州国建国、昭和8年国際連盟脱退と軍国主義への道を歩み始めた時代。準戦時体制といわれた。不景気は続いており鹿島は大型赤字工事のため昭和11年7月には資本金を300万円から250万円に減資することとなる。

人事部の創設

昭和10(1935)年12月号の『鹿島組月報』で某重役が、(1)学校教育は学問偏重なので算盤が遅く、文章は拙く、応対もできないで実業界に入るので使い物になるまで時間がかかる。(2)非常識な技術者は企業者に対しても不利益を与えることがあり、天災地変より恐ろしい。(3)相当な学校を卒業したものは気位が高くはじめから設計、監督、経営の要衝に当たるつもりかもしれないが下級の仕事から漸次上級の仕事に進む心がけを養うことが涵養である。と苦言を呈する。それに対し、翌月の誌上で鹿島守之助(*2)は「適切なご教示だが、若き学校出の社員を立派に一人前の有能な社員に仕立てるためには、会社の上級の者、先輩者において十分愛の手を以って教導してゆくことが何よりの急務である」と述べる。昭和12年、13年、14年の3月にそれぞれ「新入社員には簡単な仕事から慣れさせ、先輩が業務指導を怠らないように」と通達が出た。

昭和12(1937)年5月副社長に就任した守之助は、生産力拡充のための人員の拡充、機械の整備・材料の節約を掲げる。企業者と下請けとの間に介在する請負事業においては優秀な人材が必要であり、その採用は急務中の急務であると述べている。そして翌昭和13(1938)年には帝大出5名を含む54名の新卒を採用し、新入社員に対する一定方針の事業教育は絶対的に必要であるという信念の下、「学校新卒者講習会」という名の新入社員教育が始まる。3月の最後の一週間があてられ、4月2日には社長招待の午餐会が催された。

昭和16(1941)年の新入社員は177名、講習は産業組合中央会館で行われ、最終日の社長招待午餐会は京橋中央亭(*3)で開催された。

昭和16年新入社員講習会日程

3月 24(月) 25(火) 26(水) 27(木) 28(金) 29(土)
1
(9:00-9:50)
訓示(鹿島新吉専務・営業系) 訓示(竹田常務・総務系) 建築経理(建築部経理係長) 訓示(竹内常務、伊部取締役、萩村取締役) (建築系) 配下制度及労務者問題(総務部長)
2
(10:00-10:50)
開講式(会長・社長訓示) 配下制度及労務者問題 (総務部長) 建築請負業の概念及業界の趨勢(建築部副参事) 土木工事施工(土木部工務係長) 建築工事施工(建築部副参事)
3
(11:00-11:50)
請負業経理の特殊性(経理部次長) 物品会計概要(物品会計監督) 工事用機械及工具(深川工作所次長)
4
(13:00-14:00)
鹿島組の沿革職制分科及現業組織(総務部次長) 訓示(監査役2名) 訓示(技師長) 訓示(日沢取締役・営業担当) 工事用機械及工具(深川工作所次長) 営業(営業部次長)
5
(14:00-14:50)
請負業の契約(総務部長) 帳簿組織及現場会計(経理部次長) 機械器具の配給及入手手続き(調度部次長) 土木請負業の概念及業界の趨勢(土木部工務監督) 建築工事見積もり(建築部副参事) 閉講式
6
(15:00-15:50)
建築用工事材料の配給及入手手続き(調度部次長) 土木工事施工(土木部工務係長) 請負業における会計監査(調査部次長心得)

(重役以外個人名省略)

満州などの外地工事の増加による人員補強に加え、優秀な人材を渇望する鹿島守之助は昭和17年1月、人事部を創設(*4)、自ら人事部長となり人員増強を図っていった。昭和15年に1,120名だった社員も昭和20年には3,000名(*5)に達する。戦時中は採用しても採用しても兵隊にとられてしまう時代だった。タイピストや交換手以外の女子事務員を採用するようになったのもこの時代からである。

*2 昭和9年7月から鹿島組にかかわっていたが、このころはまだ取締役になっていなかった(昭和11年4月取締役、昭和12年5月副社長、昭和13年7月社長)
*3 「デザートコースに入ってから」という本文から考え、当時明治屋の4,5階にあったレストラン中央亭と推察される。明治屋京橋ビルは昭和8年竣工、設計:曽禰中條建築事務所、施工:竹中工務店 SRC造8階建て
*4 それまでは総務部内の人事係4名が、人事を担当していた。
*5 たくさんの社員が外地から未帰還だったため、3,000名中1,000名前後の消息は掴めていなかった。昭和23年の社員名簿まで未復員者の項目があり、内地・外地・満州鹿島に分けてそれぞれ事務・土木・建築の社員名と留守宅が記されている。昭和24-27年の名簿がないため、「未復員者」の項がいつ頃まであったかは定かではない。

新入社員教育訓練

戦後人事部は外地からの引揚者、未帰還者の整理に追われる。昭和22(1947)年には5回も給与改正が行われたが、インフレによる物価高騰に対応しきれず生活は窮乏を極めた。新入社員教育が落ち着いて行われるようになったのは、工事量が上昇し始めた昭和26(1951)年前後かと思われる。社長・鹿島守之助は昭和28(1953)年5月「写真月報」(*6)の巻頭言で「教育訓練を重視せよ」と題し「会社の経営にとって最も重要なことは社員の教育及訓練である。事業の繁栄に最も大切な要素は人の力であり、社員の教育を怠る企業体は一時的に繁栄することがあっても、永遠の繁栄は期待できない」と述べている。

ここに昭和31(1956)年度の新入社員教育訓練(本社集合教育)講義テキストがある。会社のしおり以外はすべてわら半紙にガリ版刷りで、講義項目が一般事務、土木、建築、その他に分類されている。一般事務では社員としての心得、福利厚生と社会保険、服務規則・給与規定などのほかに、「電信・電話の取り扱い」という項目がある。「電話代は高いので真に必要な場合以外は電報を用いる」、「同時に通話できる回線数は限られているので長電話をしない」などの項目が時代を偲ばせる。また、「建設業の調達並びに調度事務一般について」調度部長(*7)が講義をしている。当時は花形部署だった調度部だが、今はない。バスで都内近隣の土木・建築の現場を回り、見学することが社員教育に取り入れられるのもこのころからである。

*6 現在の社内報KAJIMA(鹿島建設月報)の原型となる冊子。昭和25年から30年まで隔月で発行された。
*7 調度部は、使用計画に基づいた機械・資材など工事用物品の調達の請求・転用・購買・輸送・配給・管理・処分まで行う部署。昭和33年6月、資材部、機械部の発足に伴い廃止された。

学べ、然らずんば亡びん (*8)

学歴社会が顕著になってきた昭和32(1957)年には学卒採用の人数が高卒採用数を上回るようになった。この年、文系学生は理系に比べて就職難で、よい就職口を見つけるために留年する現象が起きている。

昭和34(1959)年の新入社員訓練からは4分科会に分かれる。高卒160名大卒192名が、4月1日をはさんで4日間ずつ同じ講義を受け、現場見学、鶴見工作所(機械の製作所)実習を各1日行った後に事務・土木・建築・電気機械に分かれて実験・実習講習を3日間受けている。昭和36(1961)年頃からは各企業でも新入社員教育に力を入れはじめた。

鹿島で「入社式」という言葉が初めて使われたのは昭和36年からである。高度経済成長期の昭和37年、38年と続けて700名を上回る新入社員を採用する。4月1日の入社式をはさみ、高卒が3月の二週間、大卒が4月の二週間社員教育を受ける。新入社員はその後配属先の支店でも4日間ほどの教育を受け、任地へ赴いた。昭和38(1963)年には人事部に教育課が新設され、なお一層社員教育に力を入れるようになる。昭和39(1964)年の新入社員教育は合宿形式で行われた。「今年も」とあることからその前から行われていたようである。この年は現場見学のほかに技術研究所、鶴見工作所の見学も行われた。

昭和39(1964)年講義風景 昭和39(1964)年講義風景 クリックすると拡大します

昭和40(1965)年現場見学(神奈川県・城山発電所) 昭和40(1965)年現場見学(神奈川県・城山発電所) クリックすると拡大します

昭和40(1965)年11月から45(1970)年7月まで続いたいざなぎ景気によって、一般的なサラリーマンの平均給与は毎年15%も増え続ける。時代を反映したからか、昭和40(1965)年の新入社員教育から、研修期間は15日間となり分科会に設備系が加わる。また、先輩社員を囲む懇談会も行われた。6時起床で1時間のランニング、9時から17時までの講義、見学、22時の消灯までに宿題も済ませなければならず、かなりハードなものであった。

昭和46(1971)年8月には円が変動相場制になったが、このころから新入社員教育のテキストに女性用ができる。女子は会社に関する一般的な講義のあとで、職場のエチケットや命令の受け方、電話の取り次ぎ方などの講習を受けた。当時の女性の大半が、いわゆるお茶くみコピー(青焼き)、書類の清書などいわゆる補助業務を行っていたことがよくわかる講義内容である。余談だが、異性との接し方の項目では「お互いに親しくなることは当然である。行き過ぎた交際の結果、お互いに相手を傷つけることのないように注意すべきである」とある。

昭和48(1973)年講義風景 昭和48(1973)年講義風景 クリックすると拡大します

昭和49(1974)年指導員を囲んでのディスカッション 昭和49(1974)年指導員を囲んでのディスカッション クリックすると拡大します

20年続いていた高度経済成長が終わりを告げた昭和51(1976)年ごろから新卒者の数はぐっと絞られる。インフレと雇用不安の中での厳しい就職戦線を勝ち抜いてきた昭和51(1976)年の新卒者は98名。この年の新入社員タイプ(*9)は「たいやきクン型」。頭から尾まで過保護のアンコがぎっしりつまっているといわれた。新入社員教育は葉山研修センターで一週間行われている。

*8 鹿島守之助著「日本外交史」の序文。「学べ、然らずんば亡びん」とは、個人と同じく国民に適用する金言である。聡明な国民も、不見識な指導者によって誤導せられ、破滅に至る場合もある。これに反し、賢明なる人も、その国民の愚昧なるために惨禍に巻き込まれる場合もある。個人並びに国民に最もよく教えるものは歴史であり、外交である。明治、大正の外交を回顧するとき、おのずから誇りを感ずるとともに、多大の教訓を見いだすのである。
*9 現代コミュニケーションセンターが昭和48年度から入社年度別新入社員タイプを発表した。

犬小屋作り

新入社員教育の基本的なパターンは時代が変わっても同じだが、そういった中でも時代時代による工夫が見られる。昭和56(1981)年は110名の新入社員を14班に分け、それぞれに先輩指導員がついた。研修4日目には本社の8部署を訪問し、その部署についての質問をしていく。PR誌製作コンペも行った。昭和58(1983)年は、最初の4日間が研修で次の1日は運動会、その後の一週間が本社管理部門訪問、現場見学、PR誌作成となっている。この年から新入社員へのOA教育が義務付けられ、マイコン(*10)の講習会が各支店で行われた。

昭和59(1984)年の新入社員教育は、犬小屋作りで話題になった。集合教育の最後で、150名の新入社員が17班に分かれ、21世紀の犬小屋を企画・設計・製作し、審査員の前でプレゼンテーションするというもの。製作時間は3時間。企画から始まって設計図書や見積もりも作るなど、会社の仕事のフローの縮小版を実践し、チームワークの大切さ、物を作る喜びを体感した。しかし、製作時間3時間は建前でほとんどのチームは徹夜だったという。おまけにホテルの給水施設が断水となった研修最終日、当社の数倍の人数いた他社の研修は一足先に終わったが、大人数の彼らが出発前に水洗トイレを利用したため給水タンクが空になった。鹿島の新入社員は水洗トイレで水を流すことができず、大変なことになったということがあったせいかどうかわからないが、翌年の研修は70名ずつ一次二次にずらして葉山研修センターで行われた。前半は講義中心で後半は「土地利用アイディアコンペ」と題し、研修センター前の土地を利用して事業計画を作成する実習。社員がコンサルタントや町役場担当者に扮し、情報を提供する。翌日午後のプレゼンテーションに向け、各チームはほとんど徹夜で取り組み、模型やビラを作りあげた。

バブルが始まった昭和61(1986)年、それまで作業服姿で受講していた新入社員は薄青色のTシャツに作業ズボン姿。このTシャツは前年行われた21世紀ビジョン提言(*11)参加賞をアレンジしたもので、会場が明るく感じられた。この年、オリエンテーリングと建長寺(鎌倉)の座禅が加わる。 昭和62(1987)年と翌年は、企業経営シミュレーションゲームが行われる。建設機械を企画・セールスして注文を取り、レゴで製品を作り、検査して納品、営業成績を競う。結果を損益計算書に反映させた。時代はバブル(*12)に入っていき、就職も売り手市場に変わる。この時代入社した社員はバブル入社と言われた。

*10 マイコン マイクロコンピュータの意味。1970~80年代頃の初期のパーソナルコンピュータのこと。オフィスコンピュータなどと比べて小さく、コンピュータの専門家ではない一般社員が業務に使用するようになり始めていた。
*11 前年度にグループ各社の35歳以下の従業員に募集した鹿島グループが目指す21世紀のエクセレントカンパニーであるための建設的提言。応募総数938編。35歳は15年後の21世紀に50歳になり、鹿島の重要な地位についているであろう人という線引きだった。
*12 1986年11月から1991年10月までの空前の好景気。1985年のプラザ合意により急激な円高が進み、金融緩和によって土地や株価が上昇。投機やリゾート開発がさかんに行われた。

平成時代の社員教育

その後、潮来ホテル等が研修施設となった。入社5年目から8年目の先輩指導員が各チームに付くのは変わらない。1990年には土地利用アイディアコンペが再度行われる。48グループに分かれて企画書と施設模型を作成し、発表した。この、土地利用アイディアコンペはその後も何度か行われた。1996年のコンペでは潮来ホテルに隣接する一部の土地活用をドリームに7チーム、コンセプトに11チーム、ビジュアルに10チームがそれぞれエントリーしてテーマに沿った作品を作った。

ここ10年ほどは木場寮や南長崎寮の研修施設やKIビル・赤坂別館の大会議室などで新入社員研修が行われている。泊り込みの合宿形式でチームに分かれ、プレゼンテーションして競い合うことはもうなくなった。

2007年からマナーやコンプライアンスの研修は、グループ会社の新入社員も参加した形を取っている。時代とともに新入社員教育のメニューは変化しているが、新たな社会への一歩を踏み出す新入社員の真新しいスーツやネクタイと緊張の面持ちは、今も変わっていない。

参考図書
鹿島守之助「日本外交史」(1965年)

(2008年4月22日公開)

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