第25回 東京ゴルフ倶楽部朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場

2008年の日本のゴルフ人口は830万人程度(*1)、ゴルフ場総数はアメリカに次いで世界2位の2,358である(*2)。昭和初期、まだゴルフがごく少数の上流階級のスポーツだった頃、ゴルフコース設計家C.H.アリソンを招き、日本人の手によって世界に通用する本格的なゴルフ場が作られた。東京ゴルフ倶楽部朝霞コース。時代の波に翻弄され、8年しか存在しなかったが、今はないそのコースを施工したのが鹿島であった。

*1 コースに出る人の数。ピーク時の2001年には1,340万人だった。また、コース人口の予備軍として練習場人口は2007年に810万人。出典:社会経済生産性本部『レジャー白書2008』(2008年)
*2 一季出版『月刊ゴルフマネジメント』2008年8月号

日本人の日本人による日本人のためのゴルフ場を

日本に初めてゴルフ場が作られたのは明治34(1901)年。イギリス人貿易商アーサー・グルームが、六甲山の自分の山荘近くに4ホールのゴルフコースを作った。起伏の大きい山あいにできたサンド・グリーンのコースを2年後には9ホールに、明治37(1904)年には18ホール3,776ヤードに拡大、現在の神戸ゴルフ倶楽部六甲コースの原型となる(*3)。

一方、横浜では明治39(1906)年11月23日、日本初の洋式競馬場(1886年開場)の走路(一周1,774m)内側に9ホール、2,473ヤード・パー34のNippon Race Club Golfing Associationが開設された(*4)。日本初のグラス・グリーンのコースで、とても美しかったという。

しかし、これらは主に外国人向け。日本人同士でのびのびプレーできるゴルフコースを作ろうと、大正2(1913)年12月8日、東京ゴルフ会が作られる。発起人は井上準之助(*5)らで、東京府荏原郡駒沢村(現・東京都世田谷区駒沢)の通称大切山(でんぎりやま)に3万坪余の土地を借りて造成し、大正3(1914)年6月東京ゴルフ倶楽部が創設される。駒沢は明治時代、天皇が兎狩りを楽しんだほどの原野だった。6ホールで仮開場、後に9ホール2,300ヤードとなる。これが、日本人が日本人のために作った最初のゴルフコースであった。

当時の一般的なゴルフ場はサンド・ティ、サンド・グリーン、雑草と小砂利のフェアウェイだった。「日本のセントアンドリュースといわれる駒沢へ連れていってやるが、そこではティ・グラウンドからずうーっと一面に芝なんだという。ゴルフというものは芝の上でやるものかとびっくりしたね」(*6)と語る堀籠は、芝の上ではやりにくいと言って、先輩にこっぴどく叱られたという。実業家や華族、海外経験者といった人々が嗜んだゴルフであったが、本場には程遠いものだった。

*3 現在は18ホール、4,019ヤード・パー61。基本的なレイアウトは当時のまま。
*4 競馬場は昭和18(1943)年日本海軍が接収、昭和22(1947)年からは占領軍が管理する。昭和44(1969)年一部横浜市が譲り受けて根岸森林公園として整備。競馬場の一等観覧席は文化遺産として同公園内に現存している。
*5 いのうえ じゅんのすけ 明治2(1869)年-昭和7(1932)年 大分県出身 横浜正金銀行頭取、日銀総裁を経て大蔵大臣。駒沢の土地は井上が横浜正金頭取時代に個人名義で借りた。朝霞でのプレーを楽しみにしていたがオープン2ヶ月前の昭和7(1932)年2月に暗殺された。
*6 堀籠乕之介「程ヶ谷の50年を語る」程ヶ谷カントリー倶楽部『程ヶ谷50年』(1972)P22

皇太子時代の昭和天皇対英国国王の親善試合も

大正7(1918)年、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースで開催された日本アマチュア選手権で日本人が優勝、外国人に劣らない実力が証明された。大正11(1922)年4月19日には当時皇太子だった昭和天皇と英国のプリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード8世)との親善試合も駒沢コースで行われる(*7)

会員も増えたため18ホールの本格的ゴルフコースに拡張することとなり、大正15(1926)年5月9日、6,160ヤード・パー72のコースが完成する。

しかし、関東大震災の以降東京郊外(現在の世田谷区・杉並区近辺)は急激に宅地開発が進み、当初坪5厘程度だった倶楽部の賃料は畑地坪3銭8厘/月、田地坪3銭3厘/月(昭和3年-8年の契約)と高騰する。倶楽部運営に賃料問題が重くのしかかり、移転を考えざるを得なくなる。出資援助依頼状には「現在の地代は年64,000円なるが将来はさらに高騰すべき必然性を有す」(*8)とあり、現在の価値に換算すると年4千万円以上の地代を支払っていたことになる。

倶楽部は子爵相馬孟胤(*9)をキャプテンとする新コース建設委員会と、新コース財務委員会を立ち上げ、移転候補地を検討。条件は①東京駅起点、車1時間以内、電車も通っていること、②面積20万坪(約66万m2)以上、③地価坪5円以下。候補地は多摩川南岸、調布・東村山、千葉県松戸、埼玉県膝折村(現・朝霞市)の4箇所に絞られた。

昭和5(1930)年4月、移転先を膝折村に決定する。道路建設が予定されており、開通すると駒沢と同様東京駅から35分で行ける上、地価も平均4円70銭と格安だった。膝折村を見つけてきたのは白石多士良(*10)。平坦で起伏がないのが難点だが、谷や山がないから工事費が安上がりになる。大きく横切っている村道は村が付替えを決議してくれた(*11)。殿様ぞろいのメンバーの中で委員の一人だった白石が特に奔走し、土地を物色し、売買交渉をし、土地をまとめたと誰もが追憶している。

*7 このとき昭和天皇とペアを組んだのは大谷光明(*13参照)だった。
*8 75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年)P81
*9 そうま たけたね 明治22(1889)年-昭和11(1936)年 東京帝大植物学科、大学院修了。蘭の研究者。ゴルフはハンデ3の腕前。植物学者として芝の研究に没頭し、駒沢コースの近くに引っ越す。 “駒沢ベント”を発見、養生した。その芝は現在も東京GCのナーセリーと、旧領相馬家に近い宮城県・天明ccに保存されている。
*10 しらいし たしろう 明治20(1887)年-昭和29(1954)年 東京大学工学部卒。鉄道院技師。震災後、永代橋、清洲橋の復旧工事に日本初の潜函工法を実施。その後東大講師などもつとめた。昭和8年潜函工事専門の白石基礎工業合資会社創業。日本初のゴルフ入門書「正しいゴルフ」著者。
*11 75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年)P79

日本のセントアンドリュースをつくる

約20万坪(約66万m2)のコース予定地はほとんどが雑木で処々に花と松の巨木があり、高低差はなかった。「コースは誰でも容易に設計することができる。ということは同時にまた下手が設計するならば、平凡なものしかできないことを意味する。(中略)それだけに日本有数の立派なコースに朝霞をしたい野心を起こした。」(*12)と建設委員会委員の一人、大谷光明(*13)は述べている。その野望達成のために招聘されたのが、C.H.アリソン(*14)だった。昭和5(1930)年12月、日本に招かれたアリソンはコース予定地を念入りに見て周り、現地の地形図を手に帝国ホテルの一室に閉じこもって10日ほどで設計図を仕上げる。わずか2か月の滞在中、川奈ホテル富士コース(静岡県)、廣野ゴルフ倶楽部(兵庫県)などの担当者がアリソン来日を聞きつけて訪れ、アリソンはこれらの設計も手がけた。この2コースは今なお現存している。

アリソンに支払われた設計料は往復旅費と滞在費を含めて1,500ポンド(2万円。現在の価値で1,600万円余)、スーパーバイザーのジョージ・ペングレースに半年間月額400ドル(800円。現在の価値で64万円余)、クラブハウスの建設費に10万円(現在の価値で8,000万円余)という当時の常識の数倍を投じた。クラブハウスはアントニン・レーモンド(*15)の設計による白亜の建物(*16)だった。

コース造成工事は当初鹿島に発注されたわけではなかった。アメリカから現場監督のグローブ氏、倶楽部側から白石と赤星四郎(*17)が工事担当として出ており、彼らが地元の小さな業者に施工を任せていたらしい。しかし、いざこざが起きて工事は進まず、業者が白石や赤星の自宅にまで押しかけて来るようになった。そこで、白石が鹿島精一に調停と施工を依頼する。白石家は鹿島家とは親の代から親しく、白石は精一を父親のように慕っていたという。精一は即座に鹿島組の長谷川末蔵を現地に派遣して事態の収拾に当たらせた。当時鶴見臨港の鉄道工事現場の所長をしていた長谷川は、いつも苦虫を噛み潰したような形相だったが、温厚な口数の少ない人物で、精一の信頼も厚かった。長谷川は早速協力会社の者たちを連れて現地に出向き、すったもんだはあったものの大事に至らず収拾がついたと、長谷川の部下だった土屋国蔵は述べている。

*12 75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年)P83
*13 おおたに こうみょう 明治18(1885)年-昭和36(1961)年 西本願寺第21代門主の三男、明治39(1906)年英国留学、帰国後日本のゴルフ界に貢献。特にルールの正しい解説と普及に努めた。大正11(1922)年日本アマ選手権優勝、その後も優勝回数多数。戦前から多くのゴルフコースを設計。日本ゴルフ協会の設立に尽力した。
*14 Charles Hugh Alison(1882-1952)英国ランカシャー生まれ。ゴルフとクリケットの選手としてオクスフォード大学時代に活躍。米国ゴルフ協会に当時史上最年少の21歳で招聘され、連勝を重ねる。当初庭園設計を志すが、ゴルフコース設計に転向。第一人者ハリー・コルトの一番弟子となり、主に海外を担当。日本では「アリソンバンカー」と呼ばれる深いバンカーに彼の名が残る。日本滞在時、京都の修学院、桂離宮、龍安寺の庭を見学し感銘を受けた。
*15 Antonin Raymond(1888-1976) 日本とアメリカで活躍した建築家。ボヘミヤ(現・チェコ)生まれ。工科大学卒業後アメリカへ渡る。大正8(1919)年帝国ホテル建設のためフランク・ロイド・ライトと共に来日。
*16 このクラブハウスはレーモンドの代表作の一つ。使い勝手もたいへんよく陸軍、占領軍にも使われ続けた。
*17 あかほし しろう 明治28(1895)年-昭和46(1971)年 赤星財閥の4男に生まれ、高校から米国留学。ペンシルベニア州立大学卒業。同じく米国留学した弟六郎と共に戦前のゴルフ界で活躍。昭和2(1927)年日本アマチュア選手権優勝、日本オープン4位。戦後はゴルフコースの設計を多く手がけ、後進の育成にも努めた。

日本初のエバーグリーンコース

コースに貼る芝は、計画当初高麗芝の予定だった。当時冬枯れは当たり前、外国から常緑芝を持ってきても育たないと考えられていた。しかし、昭和4(1929)年から駒沢コースでグリーン委員長を務めた相馬孟胤(*9)がその年の初冬、枯れた高麗芝の中に常緑の芝を発見する。10年も前に岩崎小弥太が英国から取り寄せた芝の種子は、あちこちにぱらぱらと蒔かれていたが、その中から発芽した芝が日本の気候風土に根付いたのだ。これが「駒沢ベント」と呼ばれる西洋芝の萌芽だった。相馬は海外でも活躍できるゴルフ選手を育てるためには海外と同じ常緑芝のゴルフ場が不可欠であると考え、日夜研究に没頭していた。このころは「ゴルフをしていても青草ばかりが目に付いてゴルフそっちのけになった」と述べている(*18)。そして日本でも常緑の西洋芝の育成が可能との結論を出し、アリソンと相談の結果、朝霞のコースには日本で初めて常緑の西洋芝を用いることになった。高麗芝ならコース造成工事は10万円以内で済ませられるが、西洋芝は種子を外国から取り寄せ、水道設備も完備しなければならない。水道工事はアリソンの要望で「英語のできる大学出の技術者」が雇われた。約20万の洋芝部分は夏季には毎日散水をしなければならず、人口3万人の町と同様の規模の水道設備が必要だった。予算は膨れ上がった。

鹿島組の膝折工事事務所に異動になった鈴木荘六九は、当時の現場を「東武東上線成増駅からバスで20分。誠に寂しい雑木林の一面でした」と述べている。この起伏のない雑木林を伐採して起伏を作り、バンカーを設置し、グリーンに盛土をする。今では特に難しいこともないと思われる工事だが、ベント芝の植え付けを種子から取るためには、多量の新生土が必要である。ティ・グラウンド3,375坪(11,160m2)、フェアウェイ53,980坪(178,400m2)、グリーン4,491坪(14,850m2)、計61,846坪(204,500m2)に芝の種子を蒔けるようにしなければいけない。当時は大型トラックの数が少なかったため、4kmほど離れた場所から土を運ぶ作業が思うように進まない。牛馬なども使い、起伏を作るための土砂6万m3、芝を貼るための砂1万5千m3を運ぶ。作業員は延べ6万人が動員された。これが一番大変だったと鈴木は後述している。

鈴木は、工事はすべて「外地から招いた園芸指導者」の指導の下行われたとも書いている。当時のゴルフ場造成工事の認識が「園芸」あるいは造園に近いものであったことが伺える。それまでのゴルフコースの造成工事は、造園業者がゴルフの権威者の指導を受けて行われていた。そのためこの朝霞コースの造成指導をしたペングレースの仕事ぶりは画期的で、各地のゴルフ場関係者が見学に来るほどだった。アリソンの設計とペングレースの造成、相馬の「駒沢ベント」芝、それを具現化する鹿島、それぞれの技術が朝霞コースを作り上げていった。

20万m2余の種まきは昭和6(1931)年9月10日頃から行われ、10日ほどで終わった。相馬は毎日のように膝折まで出かけた。豪雨で種子や若草が流される。パッチ(芝の病気)が発生する。中古車に150ガロン(567.8リットル)のタンクを取り付け、パッチ発生箇所に消毒剤を撒きながら回る。ラフ用の芝は青く芽吹いたが霜柱で全滅してしまう。フェアウェイやグリーンに肥料を撒き、常緑を保ってオープンに備える。

*18 75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年) P117

膝折から朝霞へ

このゴルフコースのある膝折村の地名の由来は、源平時代まで遡る。名のある武将がこの地で戦った時、乗っていた馬が膝を折って戦に負けたことから付けられたという。鹿島の営業経歴書でも「膝折ゴルフ場工事」と表記されている。ところがゴルフ場に「膝折」という名前は縁起がよくないという話が持ち上がる。

改名するなら東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁でもある朝香宮鳩彦王(*19)の名前を頂きたいと宮内省に打診し、理事会で「朝霞」が決定する。膝折村でもこれを機に町制施行の機運が高まり、地名に「膝折」の名は残しながらも「朝霞町」が実現した。現在の埼玉県朝霞市には、東京ゴルフ倶楽部キャプテン子爵井上匡四郎から発せられた町名改称許可書が市の文化財として保管されている。

朝霞市の文化財になっている町名改名書 朝霞市の文化財になっている町名改名書 クリックすると拡大します

鹿島組営業経歴書 鹿島組営業経歴書 クリックすると拡大します

工事名に膝折ゴルフ場の名前が書かれている 工事名に膝折ゴルフ場の名前が書かれている クリックすると拡大します

昭和7(1932)年5月1日午前8時、120余名のプレーヤーの前で朝香宮殿下による始球式が行われる。18ホール6,700ヤード・パー69。ここに東洋一といわれる常緑芝の美しいゴルフコースが完成したのだった。総工費は土地買収も含めて160万円余(現在の貨幣価値で15億円余)。当時の一般的なゴルフコースの3倍とも4倍とも言われたが、世界に通用するコースを後世に永く残すためであるから惜しくないと、かかわった人々はみな思っていた。アリソンは米国の一流プレーヤーを対象とした選手権コースをイメージしてコースを作った。そのコースは「アウト9ホールも非常に感銘深い変化に富んだものだったが、インの10番から18番までの各ホールは、1ホールごとに盛り上がる球趣に、全く息苦しくなるような感動を覚えたものである。」と讃えられた。(*20)

しかし、昭和15(1940)年3月、陸軍が陸軍予科士官学校建設用地として東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの譲渡を申し入れる。当時の倶楽部キャプテンは木戸幸一(*21)。『木戸幸一日記』にはその顛末が散見される。倶楽部側は、軍の要望であるから譲渡已む無きとしても倶楽部会員の不利益にならないように交渉を進めた。木戸は6月に内大臣となったため後任のキャプテンは後藤文夫(*22)が務めた。同年9月、170万円(現在の貨幣価値で7億3,750万円)で、土地212,729坪(703,200m2)、クラブハウス715坪(2,364m2)建具付売却を承諾する手続きを完了する。

昭和16(1941)年3月16日、木戸らは朝霞での最後のプレーを楽しんだ。「快晴、温暖無風、絶好のゴルフ日和なりき」(*23)。翌日、コースは閉鎖された。同年11月2日付の朝日新聞には陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞が原へ移転という記事が掲載されている。翌年1月には地鎮祭が挙行され、ゴルフ場の面影は消える。戦争が終わった昭和20(1945)年9月にはアメリカ軍第8軍団が進駐、キャンプドレイクとなった。

朝霞の地を追われることとなった東京ゴルフ倶楽部は、新コース用地を埼玉県三芳村に求める。しかし7割近くの土地を買収したところで法律が変わり農地を買えなくなる。戦局も変化して社会情勢がゴルフ場建設を妨げる。新たな土地を求めようにも三芳村で散財していた。そこで大谷の設計で南コースを造成中だった秩父カントリー倶楽部(1938年設立。埼玉県狭山市)と合併し、東京ゴルフ倶楽部狭山コースとして再生する。終戦から昭和27年まで占領軍に接収されるが、昭和28年自主運営を取り戻し、昭和30(1955)年には社団法人東京ゴルフ倶楽部が設立された。

東京ゴルフ倶楽部狭山コースは18ホール、6,904ヤード・パー72。過去4回日本オープンが開催され(*24)、世界ゴルフコース100選(2007年、米国ゴルフマガジン社)にも選ばれた。東洋一美しいコースといわれた朝霞コースは失われたが、その精神は今もなお、由緒ある名門ゴルフ倶楽部の歴史を紡ぎ続けている。

*19 あさかのみや やすひこおう 明治20(1887)年-昭和56(1981)年 陸軍士官学校卒業後、大正11(1922)年フランス留学、帰国後近衛師団長、軍事参議官、上海派遣軍司令官などを歴任、陸軍大将。昭和22(1947)年皇室離脱。東京の本邸は現在の都立庭園美術館。ゴルフの宮様として親しまれた。
*20 コース設計家・間野定吉の言葉。75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年)P90
*21 きど こういち 明治22(1889)年- 昭和52(1977)年 侯爵。京都帝国大学法学部卒業後農商務省入省。昭和5(1930)年同省を辞し内大臣府秘書官長、昭和12(1937)年文部大臣兼初代厚生大臣、昭和14(1939)年内務大臣、昭和15(1940)-20(1945)年内大臣。
*22 ごとう ふみお 明治17(1884)-昭和55(1980)年 大分県生まれ。東京帝国大学卒業後内務省入省。台湾総督府総務長官、昭和5(1930)年貴族院議員、農林大臣、内務大臣歴任、大政翼賛会副総裁。戦後は参議院議員
*23 東京大学出版会『木戸幸一日記下巻』(1966年)
*24 狭山コース4回のほか、駒沢コースで1回、朝霞コースで2回、東京ゴルフ倶楽部全体で計7回開催。

<参考資料>
75年史編纂委員会『東京ゴルフ倶楽部75年史』(1989年)
程ヶ谷カントリー倶楽部『程ヶ谷50年』(1972年)
平野正裕「よこはまゴルフことはじめ」有隣堂『有粼』第456号(2005年)
相馬郷友会『子爵相馬孟胤閣下追悼録』(1936年)
白石基礎工事『追憶・白石多士良』(1955年)
鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950)
日本ゴルフコース設計者協会HP
日本銀行HP企業物価指数(金額換算)
個人提供資料 土屋国蔵、鈴木荘六九

(2009年4月28日公開)

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