第26回 国技館―伝統と技術が融合した相撲の殿堂

相撲の歴史は古く、『古事記』や『日本書紀』まで遡る日本古来の文化の一つである。その相撲のために専用の建物を作り、それを「国技館」と称して両国の地に開館したのが明治42(1909)年のことであった。国技館はその後蔵前に移り、昭和60(1985)年初場所が柿落としとなった現在の国技館は3代目にあたる。国技館という名前が生まれてから2009年でちょうど100年になる。

竣工直後の両国国技館外観 竣工直後の両国国技館外観 クリックすると拡大します

内部・相撲開催時 内部・相撲開催時 クリックすると拡大します

アリーナ(土俵・桝席が格納され、吊天井が上がった状態) アリーナ(土俵・桝席が格納され、吊天井が上がった状態) クリックすると拡大します

天気で興業が左右された勧進相撲

相撲は、神話時代の力持ちの力比べをその始まりとする。野見宿禰(のみのすくね)は、360年ごろ当麻蹶速(たいまのけはや)と垂仁天皇の前で力比べを行って勝者となり「相撲の祖」といわれるようになった。現在の国技館の東500mに位置する野見宿禰神社(東京都墨田区亀沢)には歴代横綱の碑があり、今でも東京場所の前には相撲関係者が例大祭を行っている。

聖武天皇の時代、天平6(734)年7月7日(旧暦)には「相撲節会」(すまひのせちゑ)と言われる天覧相撲が催され、毎年2月にはそのための力士を探して諸国に御触れが出された。相撲節会は承安4(1174)年までの440年間、豊穣への祈願を込めた国家的行事として宮廷で開催された。鎌倉時代に入り、相撲は武芸として奨励される。源頼朝は建久2(1191)年、「上覧相撲」を鶴岡八幡宮に奉納しており、信長、秀吉の時代に至るまで上覧相撲として催された。どちらかというと時の権力者の観賞用で、江戸時代に入ると大名も力士を召抱えるようになる。

一方で神事に奉納される「社相撲」は、中世の頃から寺社の建立や改修の寄進のための勧進相撲へ形を変え、営利目的の興業へと発展していく。都市部の治安悪化により一時禁止されるが、18世紀半ばに復活。江戸、大阪、京都の3都で勧進相撲の興業が定期的に開催されるようになる。江戸では深川八幡宮(富岡八幡宮)や蔵前八幡宮の境内を興業地としていたが、天保4(1833)年以降は回向院(東京都墨田区本所)での興業が定例となった。

しかし寺の境内での相撲は天候に左右された。当時の番付には「晴天十日之間」とあり雨天順延。雨が続くと本場所終了まで1ヵ月から2ヵ月もかかる時もあったという。そこで天候に左右されず、興業の都度相撲場を作る必要のない常設の相撲場の建設計画が、明治中期頃から持ち上がっていた。

相撲常設館「国技館」誕生

明治39(1906)年3月、第22回帝国議会は回向院境内に相撲の屋内施設建設を決定する。設計は日本を代表する建築家・辰野金吾(*1)と葛西萬司(*2)。日本初のドーム型鉄骨板張の建物で、明治39(1906)年6月着工する。敷地1,500坪(4,959m²)、建坪906坪(2,995m²)。鉄材の骨組みに木の板で壁を作る工法で、308本の鉄柱、538tの鉄材が使用された。この大屋根が巨大な傘に見えたために「大鉄傘」という言葉が生まれた。洋風建築ではあったが、屋根は法隆寺金堂を模していた。総工費28万円。明治42(1909)年6月2日、開館式が行われる。

この相撲常設館の名称は板垣退助が提案した「尚武館」(しょうぶかん)とする案が有力だったが、相撲好きの作家江見水蔭(*3)が開館式のために起草した披露文に「角力(相撲)は日本の国技」という一節から、年寄尾車が着想を得、国技館と命名された。

開館式の前日、明治42(1909)年6月1日付の朝日新聞に「国技館を観る」と題した記事が掲載されている。「13,000人を容れる相撲常設館。幅10尺(3.03m)の廊下を通って広場へ入ると天井高く空広く眼がくらむよう。中央が土俵で高さ2尺5寸(76cm)、18尺(5.5m)四方に土を盛り上げて直径16尺(4.8m)の円が描かれ、その上に土俵屋形が建てられた。屋形は総檜造り、四ツ棟の破風造りで軒高22尺(6.7m)、屋上までは25尺(7.6m)。四本柱は白・赤・萌黄・黒の布を巻きつけ、軒下には紫色の幔幕を張る。屋根は柿葺きにすべきところを省略している。(中略)屋形が全体の建物と調和せぬことについては大分世の中に議論がある。」天井には3個のシャンデリアが輝き、桝席がきれいに円を描いている様はちょうどローマのコロシアムでも見ているようだと記事は続く。3日付記事では国技館開館式が未曾有の盛会で、午前5時の祝砲に始まり「国技と名づけられたる相撲道がいや栄に栄えゆくべき瑞相とは知られたり」と称えている。

国技館の完成により同年6月の新番付は「晴天十日之間」ではなく「晴雨ニ不問十日間」となった。翌年(明治43、1910年)1月の番付表では「本所元町国技館」とはじめて国技館の名が書かれている(その前は両国元町常設館)。この国技館人気はその後大正期にかけて日本全国に9つの国技館・相撲常設館を作ることになるが、それらの建物はすべて短命に終わった。

*1 たつの きんご 1854-1919 建築家 佐賀県生まれ 工部大学校でコンドルに学び、卒業後英国留学、1884年東京大学に建築講座を開講、教授、1898年東京大学工科大学長 1890年退官、辰野葛西建築事務所創立、建築学会会長。日本銀行本店、東京駅、盛岡銀行本店、奈良ホテルなど156作品を手がけた。
*2 かさい まんじ 1863-1942 建築家 岩手県生まれ 慶応義塾、第1高等中学校を経て1890年帝国大学工科大学卒業、日本銀行建築課へ技師として就職、1903年辰野葛西建築事務所開設(作品は上記参照)、1915年工学博士
*3 えみ すいいん 1869-1934 作家 岡山県生まれ。SF・冒険小説の先駆者。大衆小説、推理小説など幅広く執筆。

旧両国国技館内観(竣工時) 旧両国国技館内観(竣工時) クリックすると拡大します

旧両国国技館内観(大正9年再建時。屋形の形状が異なる) 旧両国国技館内観(大正9年再建時。屋形の形状が異なる) クリックすると拡大します

大鉄傘(旧両国国技館鉄骨トラスは、ダブル・ワーレン・トラス) 大鉄傘(旧両国国技館鉄骨トラスは、ダブル・ワーレン・トラス) クリックすると拡大します

断面スケッチ 断面スケッチ クリックすると拡大します

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火災と震災、戦災そして接収

両国国技館は大正6(1917)年11月、失火から全焼する。大鉄傘も崩れ落ち、2年後に鉄柱を立てて上棟式を行ったものの、強風による死傷事故が起き、大正9(1920)年1月にようやく再建される。亜鉛張りの屋根、無筋鉄骨コンクリート造。この間本場所は靖国神社(千代田区九段)で開催された。

ところが3年後の大正12(1923)年9月1日、国技館は関東大震災でまた焼けてしまう。この時は大鉄傘が残っていたため、翌年の夏場所は国技館で開催された(*4)。昭和19(1944)年2月、国技館は軍に接収され、風船爆弾の工場となる。この年の夏場所は、後楽園球場と明治神宮外苑相撲場(幕下以下)で行われている。

昭和20(1945)年3月10日の大空襲で国技館は焼け落ち、8月には終戦を迎えた。柔道、剣道は戦闘技術に結びつくとして進駐軍が禁止したが、相撲は禁止されず、11月には秋場所が開催される。東京中の大型施設が進駐軍に接収される中、昭和21(1946)年9月には国技館も接収される。外壁がクリーム色に塗り替えられて屋根には大きくMEMORIAL HALLと書かれた(*5)。この柿落としに行われた21年秋場所を最後に大相撲は明治神宮外苑相撲場、大阪市福島公園仮設国技館、浜町仮設国技館と場所を点々とする。

*4 国技館で予定されていた春場所は、名古屋の武徳殿空地で行われた。
*5 メモリアルホールは、進駐軍の接収が解除された昭和27年4月、国際スタヂアムと名を変えてローラースケート場などを有する娯楽施設となった後、日大講堂となり、昭和58年解体、両国シティコアという複合ビルに生まれ変わる。

払い下げ物資で作った蔵前国技館

両国国技館の接収は解除されず、仮設場での相撲は観客の呼び込みにも限度がある。そこで昭和24(1949)年10月、蔵前に新たな国技館建設が開始された。相撲協会では戦前から蔵前橋たもとの東京高等工業学校跡地を所有しており、昭和15(1940)年頃から新国技館の建設計画を進めていたが戦争で中断していた。その計画を再開したのである。とはいっても戦後の資材のない時代。41間(75m)四方をトタン板で囲い、厚木の海軍格納庫解体鉄骨を使って建設し、昭和29(1954)年9月完成する。収容人員11,000人。昭和25(1950)年から28(1953)年の本場所は建設中の蔵前国技館で開催されている。

昭和27(1952)年9月には4本柱を撤廃して吊屋根にし、柱の色を残した4色の房をぶら下げた。昭和46(1971)年1月には冷暖房を完備するなどして改修を繰り返すが、元々が使いまわしの資材を使っての建設である。全面改修か部分改修か、新たな国技館建設か、相撲協会内で議論が続いていた。

蔵前国技館内観 蔵前国技館内観 クリックすると拡大します

外観(建物は純和風だった)敷地面積17,769m² 外観(建物は純和風だった)敷地面積17,769m² クリックすると拡大します

模型 模型 クリックすると拡大します

蔵前国技館跡地は現在東京都下水道局北部第一水道事務所 蔵前国技館跡地は現在東京都下水道局北部第一水道事務所 クリックすると拡大します

両国国技館側から隅田川越しに蔵前国技館跡地(下水道局建物)を見る 両国国技館側から隅田川越しに蔵前国技館跡地(下水道局建物)を見る クリックすると拡大します

相撲の聖地・両国へ戻る

日本相撲協会理事長の春日野清隆(*6)は、現役時代から旧国鉄両国駅横の操車場の場所に目をつけていた。そこで昭和52(1977)年6月、国鉄側と第一回協議を行う。国鉄は大赤字を少しでも解消したいことに加え、駅脇に国技館ができれば国鉄利用客も増えると考えた。春日野らは当時国鉄総裁であった高木文雄の下に何度も足を運び、説明とお願いを繰り返す。蔵前の土地は、運よく東京都の汚水処理場建設用地候補となった。隅田川を挟んで右岸と左岸。蔵前は浅草橋問屋街にあり、両国よりも土地の値が張る。蔵前の土地売却費は143億円、両国の土地購入費は94億円だった。この差額49億円に、協会全体で諸経費を倹約(*7)して毎年10億円ずつ貯めた96億円と、文部省の補助金5億円を合計すると150億円になる。

両国への移転は昭和55(1980)年に決まり、57年3月には国鉄と相撲協会の間で、用地売買の契約が成立した。「施工業者は鹿島建設一社に決まった。相撲界は建設業界とのつながりが深く、請け負いを数社にゆだねると疑惑を持たれかねないので、一切のつながりを廃した結果であった。」(*8)

春日野は「新しい建物は自分らに、支払いは若い者に、では筋が通らない」と無借金建設にこだわる(*9)。「見積もりは161億5千万円だった。建設費を積算協会で調べたら、たいへん勉強した価格だった。が、半端が気に入らない。私が事業部長の二子山と一緒に鹿島建設の社長に会いに行って、”きょうは社長を負かしに来た。横綱5人掛かり(5人の力士が続けざまに横綱と対戦する)というのがあるが、社長には栃若2人掛かりです”と言ったら、社長は笑い出して、半端の11億5千万円をスパッと負けてくれた」(*10)

昭和57年1月、元建設事務次官前田光嘉を座長とし、大学教授や建築家をメンバーとする「新国技館建設設計審査委員会」が発足する。杉山隆建築設計事務所の持つ和風の伝統・様式美に対する造詣と、鹿島建設の持つ技術的な背景を基盤とした近代性を融合し、両方の長所を織り交ぜ、委員会のメンバーと相撲協会の理事も交え、建物の形を昔の両国国技館のような円形にするか、四角がいいか、伝統や様式美をどう取り入れるか、天井を張るか大鉄傘にするか、頭飾りをどうするか、何度も話し合いが持たれた。鹿島ではその都度模型を作って説明をした。そして、相撲の風情を大切にしながら、現代の技術を駆使した国技館の全容が固まっていった。

工期は当初、設計と工事の打合せ会では最短で2年かかると考えられていた。ところが春日野が工事を半年短縮して60年1月までに完工させるよう要望してきた。「高見山も北の湖も、とにかくそれまではがんばるつもりでいるんだからそれにまにあわせなきゃいけない」(*11)「57年の春の園遊会で天皇陛下から“いつできるの”と御下問があったのに、私は“60年までには間に合わせたいと思います”とお答えしていたのだ。鹿島建設はこの無理を承知してくれた。」(*12)

国技館と言う固有名詞を関する唯一の建物の設計施工という栄誉を受けながらも、鹿島にとっては金額も工期も重い課題となった。

*6 かすがの きよたか(栃錦) 1925-1990 東京都出身 第44代横綱 昭和14年初土俵、昭和29年横綱昇進、昭和32年引退。昭和49年~63年日本相撲協会理事長
*7 本場所の来場者数を上げることのほか、各部屋の力士一人あたりに出している食料費の据え置きなどを行った
*8 川端要壽『春日野清隆と昭和大相撲』(河出書房新社)(1990年)P347
*9 日本建築材料協会「私の建築探訪」『けんざい』218号(2008年5月号)
*10 「この道 春日野清隆」東京新聞夕刊(昭和61年2月)
*11 SD編集部『新国技館の記録』(鹿島出版会)(1985年)P43 高見山は新国技館施工中の昭和59年に引退。
*12 川端要壽『春日野清隆と昭和大相撲』(河出書房新社)(1990年)P347

60年初場所は新国技館で行う

昭和57(1982)年9月20日、新国技館の計画が発表される。

地上3階、地下2階。延床面積35,700m²、客席人数11,500名。年間45日間の相撲興業日以外も有効に使えるように、土俵と一階桝席は可動式で収納して多目的利用のできる施設である。

60年初場所は新国技館で行う。この大命題に向けて現場では日夜議論が交わされ、試行錯誤が繰り返された。地下建築面積が敷地面積の87%もあるため、作業員や資材が集中しないように敷地を3工区に分割して大屋根の乗る部分を最優先施工した。大屋根の94m角の大トラスは施工の前例がない。通常はたくさんの仮設支柱を立てて組み立てるところを、橋梁技術を取り入れたウインチアップ工法を開発。階段状の観覧席で地組みした70mのトラスをウインチで一気に吊り上げる方法を取った。これにより支柱を組み立てる時間、解体する時間と支柱にかかる費用分の削減ができた。また、相撲協会と一緒に近隣を回り、日曜日・夜間の工事に理解を求めるなどして、工期短縮に励んだ。「これだけは鹿島建設の技術と工程管理の賜物じゃないでしょうか」と後に今里隆(杉山隆建築設計事務所)が語っている。(*13)安全面では相撲協会から特に「土俵は神聖なものでその土俵を血で汚すようなことがあってはいけない」と再三言われていたため、格別気を配った。工法の工夫で高所作業が減ったこともあり、工事は無事故無災害で終えた。相撲協会からの要望を果たすことができ、労働大臣表彰も受賞することになる。

*13 SD編集部『新国技館の記録』(鹿島出版会)(1985年)P44

「エコ」と言う言葉のない時代の「エコ」

関東大震災の時には、旧両国国技館の井戸水が多くの被災民を救った。新しい国技館の建設予定地は都市型洪水が起きやすい場所である。当時の墨田区長らが相撲協会へ出向き、国技館の雨水利用システム導入を申し入れた。屋根の面積は8,360m²。雨水を地下にある1,000m³の雨水槽に貯留して国技館で使用する雑水の70%をこの雨水で賄っている。震災時にはこれを非常用生活用水として利用できる。日本最大規模の先駆的な雨水利用システムで、国技館が「下町の水源地」といわれる所以である。大雪が降ったときは、屋根の頭飾り部分からこの雨水を噴出し、雪を溶かすこともできるが今のところその機会はない。

館内の照明は、明るい外周通路からスムーズに内部に入っていけるよう照度と色温度が調節されている。土俵上はテレビ中継のために124個の照明が照らすが、力士の精神統一の妨げにならないよう、力士の汗でハレーションを起こさないようそれぞれ角度が調整されている。また、日本人の髪は黒いため、テレビの画面に映る色が暗くならないように土俵の背景となる側の客席の照明を調整している。これらの良好な視環境の実現によりゼネコンとして初めて日本照明賞を受賞した。

国技館の相撲での利用は3場所45日間、それに多目的ホールとしての利用を入れても90日。これらテレビ中継用の電源も含め年間45日間の最大電気使用量に併せた電気設備にすると、開館していないときがもったいない。そこで相撲開催期間中の空調は自家発電でまかなうことを相撲協会側に提案、信頼性の高い船舶用の自家発電装置をバックアップ用と併せて2台設置し、年間2500万円もの電気料金の節約を実現した。当時はまだこういった大型建物に常用の自家発電装置を設けることは珍しく、画期的なことだった。

過去に火災に遭っている国技館は防災に殊更気を配っている。2階部分にある大型開口部を利用して2,3階席から5分、1階席からでも10分で避難できる。大屋根の頭飾りが開く排煙機能もついている。

新たな歴史を紡ぐ国技の殿堂

昭和58年4月27日、起工式が執り行われた。司会は行事式守錦太夫が務め、神事では地鎮之儀として北の湖、千代の富士両横綱の土俵入りも行われた。日本中が注目するプロジェクトで、式典の都度NHKはじめテレビ局や新聞各紙が会場を訪れる。現場では式典準備のほかにその対応にも追われた。また、見学者の数も尋常ではなかった。新しい工法を使っていたために見学者の数は通常の現場よりも多かったが、建物の形ができ、国技館の雰囲気がわかるようになると、毎日のように見学者が訪れる。一日数組重なることも多く、現場ではタイムテーブルを作って見学者対応を続けた。これは竣工直前まで続くことになる。

8月25日立柱式、昭和59(1984)年4月27日上棟式。10月3日定礎式。鎮め物として、日本相撲協会各理事の名前を刻んだ銅版、年寄名簿、秋場所番付、寄付者名簿、工事工程表、工事記録写真、当日の各新聞、各金種紙幣・硬貨などが埋められた。

昭和59年11月場所千秋楽をもって、蔵前国技館は閉館した。最後の日、閉館セレモニーのためにペンライトが配られたが、閉館後、帰途につく観客のペンライトが、蛍の光のように浅草橋駅まで続いていた。

昭和60(1985)年1月9日、落成式と披露パーティは2,300人の出席者を迎えて行われた。振袖を着た建築本部(現・東京建築支店)総務部の女性たちが受付を手伝う。やぐら太鼓が鳴り響き、厳かな神事に続いて横綱土俵入り、大関若嶋津と朝潮による神事相撲(*14)、横綱千代の富士と北の湖による三段構え(*15)、テープカットの後地下大広間に場所を移して挨拶、感謝状授与、謝辞など20分ほどのセレモニーのあとで場所を戻して披露パーティが行われた。20分足らずで土俵が地下に収まってパーティ会場が作られたことを目の当たりにした出席者からは歓声が上がった。

1月13日初場所初日。天皇陛下をお迎えし、満員御礼の中取り組みが開始された。初場所初日の天覧相撲は初めてのこと。天皇陛下はロイヤルボックスで初日から大荒れの熱戦を楽しまれた。横綱北の湖は初場所三日目に引退を表明した。

2月17日、国技館の落成を祝う「5000人の第九」コンサートが開催された。墨田公会堂など各所で練習を積んできた5000人が国技館に集い、石丸寛指揮で「歓喜の歌」を歌い上げた。鹿島建設合唱部と共に、現場事務所からも有志が参加。会場が広いためオーケストラの音は遅れて聞こえてくる。耳ではなく眼で確認して指揮に合わせて歌うことがなかなか慣れず、苦労したという。この5000人の第九コンサートはその後も毎年続けられている。国技館は今では株主総会や企業の式典、大学の入学式など相撲以外の利用でも定番の場所となりつつあるが、相撲が行われているときの国技館界隈の活気は、初代の国技館の時代から変わらず続いている。地域の防災拠点としての顔も持ち、墨田区の防災備蓄倉庫も完備、隅田川の川向こうという位置づけからNHK中継基地にもなる頼もしい存在である。

*14 新国技館の繁栄を願う奉納相撲
*15 相撲の基本体を表す三つの構え

<参考図書>
新田一郎『相撲の歴史』(山川出版社)(1994年)
川端要壽『物語日本相撲史』(筑摩書房)(1993年)
川端要壽『春日野清隆と昭和大相撲』(河出書房新社)(1990年)
大鵬(納谷幸喜)『相撲道とは何か』(KKロングセラーズ)(2007年)
春日野清隆『栃錦・春日野自伝』(ベースボールマガジン社)(1990年)
SD編集部『新国技館の記録』(鹿島出版会)(1985年)
日本建築材料協会「私の建築探訪」『けんざい218号』(2008年)

(2009年7月28日公開)

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