第29回 明治期の旅券―持ち主の人生と鉄道工事

「鹿島岩蔵所傭専任鉄路事務前往韓国」と書かれている明治32(1899)年発行の旅券(パスポート)が見つかった。震災と戦災で古い資料を失った当社にとって、この旅券は、この時期に韓国で工事をしたことの具体的な証明書であると同時に、今まで社史上に出てこなかった新たな社員(組員)の発見でもある。

旅券発見

「“鹿島岩蔵の鉄道工事”で韓国へ渡ったという明治時代の旅券があるというのだが」と鹿島茨城営業所(水戸市)から連絡が来たのは、2010年3月半ばのことだった。持ち主は、茨城県土浦市在住の神林正雄氏。旅券はこの神林正雄氏の父親・神林松吉氏のものだという。
茨城営業所が入手した旅券の写しには、「明治32年5月2日」と発行日が書かれている。明治32(1899)年といえば、鹿島初の海外工事となった京仁鉄道工事に違いない。早速営業所の担当者と共に土浦の神林氏を訪ねた。

神林松吉旅券 神林松吉旅券 クリックすると拡大します

神林松吉旅券裏 神林松吉旅券裏 クリックすると拡大します

パスポートの歴史

長年鎖国を続けていた日本も、幕末に外国との交流が盛んになり、外国で身分を証明するための書類が必要となってきた。そこで慶応2(1866)年、幕府は海外渡航の希望者に学業と商業の目的に限り条約を締結している相手国への渡航を認めることとし、そのための旅券を発行した。外国奉行(*1)は6か月かけて外国の旅券を研究し、帰国した留学生から話を聞き、原型を作ったという。

旅券は当初、海外への渡航を国が許可した免許証「海外行免状」として公布された。明治8(1875)年の「海外旅行官民免状付与表」によると、英、米、仏、清などに明治8(1875)年7月から1年間に510件付与され、発行現数1,165件、返納283件とある。神林松吉が渡韓した明治32(1899)年の付与数は全体で51,057件、目的は、移民が36,048件で最も多く、次いで商業、公用、農業、学修などである(*2)。国別では朝鮮への渡航は4,701件とハワイ(21,747件)、アメリカ本土(6,942件)に次いで3番目に多い。

「海外行免状」は明治11(1878)年に「海外旅券」に改称され、現在の旅券法に当たる「海外旅券規則」が制定される。その後移民の数が増えるに連れて旅券発行数も増えたため、経費削減と持ち運びの便利さを考え、明治26(1893)年にB5サイズに改められる。神林松吉の旅券はこのサイズだった。表には外務大臣の、裏には東京府知事の名前が書かれている。

*1 がいこくぶぎょう 江戸幕府の職名。通商貿易その他諸外国との応接一切のことをつかさどった。1858年の日米修好通商条約締結で創始。1868年廃止。(広辞苑)
*2 鉄道工事はその他の「雑」(全体で4,200件)に分類されていると思われる。大正年間になると漁業目的での付与も毎年1万人以上に上っている。当時旅券を持って海外に出た人の多くは移民で、特にハワイには明治18(1885)年の944人から始まり明治27(1894)年の第27回までに計29,000人が移住した。明治26(1893)年までのパスポートは「日本帝国海外旅券章」という朱印が印刷してあり、半分に折ってもA3サイズという大きなものだった。

神林松吉、東京へ

神林松吉は、常陸国新治郡真鍋村(現・茨城県土浦市)で土浦土屋藩95,000石の藩士・神林藤助の長男として明治2(1869)年に生まれた。土浦藩は日本橋から18里半(72.6km)に位置し、譜代大名が5氏19代治めている。霞ヶ浦と桜川とによってできた低湿地帯で洪水が多かったが、江戸との交易が盛んで賑やかな城下町だった。明治4(1871)年7月の廃藩置県で水戸県、土浦県など版籍奉還後の各藩がそのまま十数の県になり、同年11月の府県統合で茨城県と新治県に、明治9(1876)年の第二次府県統合で現在の茨城県となった。

松吉は、一地方の士族の長男として、明治維新の変化を肌で感じていた。生家は藩主の屋敷のひとつをもらって改築したものだったというから、かなりの地位にあったものと思われる。そして、明治22(1889)年4月に彼の住む真鍋村が近隣2村と合併して真鍋町になったのを機に、「このままここにいてもうだつが上がらないから、東京へ行く」と言い残して家を出る。徒歩で松戸(千葉県松戸市)まで出て一泊し、翌日に東京へ着いたという。松吉はその後、明治26(1893)年1月に同じ茨城県新治郡の栗山ゑいと結婚、翌年10月には長女登美が誕生している。

現存する本人の書いた履歴書によると「明治二十八年十月東京市京橋区木挽町鉄道工事請負業鹿島岩吉の事務員に就職」とある。松吉がどういう経緯をたどって鹿島組に入ったのかは詳らかではないが、その接点のひとつとして考えられるのが、鹿島組の常磐線工事である。

鹿島組は明治27(1894)年11月、日本鉄道常磐線の施工に着手している。上野・水戸間の60余マイル(約96km)は4業者に特命で発注され、鹿島組は同線中最難工区の隅田川橋梁と軟弱地盤が続く土浦・高浜間を施工した。隅田川にかかる隅田川橋梁(*3)は地盤が軟弱で、200フィート(61m)構桁を架けた3基の橋脚(連立14フィート井筒)を、地下80フィート(24.4m)まで沈下させて基礎を安定させた。この橋梁は外国の会社による競争設計で、鹿島組が施工した200フィート径間の複線式プラット型構桁は、日本初の橋梁であった。

また、土浦・高浜(現・茨城県石岡市)間約13kmのうち、桜川(土浦市)と恋瀬川(石岡市)間は霞ケ浦の北端に位置し、沖積土(*4)から成る軟弱な地盤が続く箇所である。当時はまだ特段の地盤改良工法はなく、ただ盛土を繰り返すのみの時代。高浜停車場付近は地盤が最も軟弱で、盛土しても翌日には跡形もなく沈下して平らになってしまうことを繰り返し、一向に固まらない。粗朶(木の枝)を入れても沈下は収まらず、とうとう高浜駅北側に作る予定のトンネルを設計変更して切り取り、この土砂を盛土に流用した。地盤沈下はそれでも収まらず、盛土用の土砂を作るために、その後2回も切り拡げたという。特に高浜駅の南に位置する恋瀬川付近は地盤沈下がひどく、予定の数倍の土砂を投入して盛土を終え、明治29(1896)年末、ようやく全線竣工した。

常磐線は土浦→神立→高浜と北上する。松吉の生家のある真鍋町は、土浦駅から北へ1kmほど。松吉が鹿島組に入ったのが明治28(1895)年10月、常磐線の工事はその前後2年であるから、おそらく鹿島組が盛土を続けるさまを見たか、この工事の代人であった新見七之丞(*5)に見いだされたのであろう。

現在の高浜駅の北には切通しがあり、ホームからはっきりと見える。明治時代、盛土を取るためにトンネルから切り取りに変更した小山は、それから100年以上たっても線路脇の法面が自然のまま残っている。

*3 常磐線の南千住と北千住の間の橋。径間200フィート(約61m)複線式プラット型構桁2連、径間60呎(約18.3m)鈑桁19連。最初から複線で施工された。
*4 ちゅうせきど 流水に運ばれて低地に堆積した土砂が 土壌化したもの
*5 にいみ しちのじょう(1854-1919)愛知県出身。小僧からのたたき上げで27歳の時、鹿島組最初の鉄道工事・北陸線で鹿島組代人となった。その後国内外の数々の鉄道工事現場を歴任、明治35(1902)年、岩蔵の命により長崎県愛野村(現・雲仙市)の新田開発事業のための会社、新見商店を立ち上げるが明治40(1907)年業績不振により閉店。その後愛野村に移り新田開発に生涯をかける。

現在の隅田川橋梁 現在の隅田川橋梁 クリックすると拡大します

高浜駅北の切り通し 高浜駅北の切り通し クリックすると拡大します

現在の高浜駅。ホームの北に切り通しが見える(左)。駅外観(右) 現在の高浜駅。ホームの北に切り通しが見える(左)。駅外観(右) クリックすると拡大します

「鉄道の鹿島」、朝鮮半島へ

松吉が入社した明治28(1895)年頃、鹿島組は関西鉄道奈良延長線、日本鉄道宇都宮・氏家間改良、総武鉄道佐倉・銚子間、北越鉄道直江津・柏崎間、柏崎・長岡間など国内各地で鉄道工事を請け負っている。松吉がどこの現場に出ていたかは定かではないが、新潟から親戚が訪ねて来ると、柏崎あたりの話を懐かしがったとのことなので、北越鉄道工事に従事したことがあったのかもしれない。3年半国内の鉄道工事現場を歴任し、明治32(1899)年5月、京仁鉄道工事に赴任する。

京仁鉄道は、朝鮮国の首都京城(*6)から北西部港町の仁川(*7)までの約40kmを結ぶ朝鮮半島における最初の鉄路であり、日本が海外に鉄道経営を試みた最初の鉄道でもあった。

明治29(1896)年3月、アメリカ人実業家モールス(*8)が京仁鉄道の敷設権を得る。1年以内の起工と起工から3年以内の竣工が条件だった。モールスは資金を本国に求め、一部が集まったため、明治30(1897)年3月に京仁鉄道の起工式を挙行する。しかしその後資金調達は難航し、モールスは日本に敷設権の譲渡、並びに引き続き施工者としてこの事業に関わることとしたい旨を申し入れた。日本側はこれを受け、同年5月、京仁鉄道引受組合(*9)を作り、モールスと契約を交わす。組合側はモールスに5万ドル(現在の価値で約1億6千万円)の手付を渡し、1年以内に工事完成した場合は100万ドルを交付して完成した鉄道の権利を受けるというものだった。6月、モールスは50万ドルの工事資金の増額を請求してきた。外務大臣・大隈重信は、鉄道敷設権が英・露・仏などの手に渡ることを危惧し、この増額を受ける。しかしその後モールスからの設計変更による増額要求が続き、組合側はその要求を拒むということが繰り返され、これらの交渉と請負者との折衝の煩わしさに疲れたモールスは、明治31(1898)年10月、工事を打ち切って工事に関する一切の権利を京仁鉄道引受組合に譲渡する旨の契約を交わす。これにより翌年5月、1,702,400円(現在の価値で約26億7700万円)をモールスに支払って日本が権限を獲得する。引受組合は京仁鉄道合資会社を設立、渋沢栄一を社長に残工事を進めることとなった。

一方工事は、着工から2年近く経過しているにもかかわらず、遅々として進まなかった。モールスの請負者コールブランの工事は杜撰で、設計と違う点も多く、勾配、築堤、切り取りの幅員不足など、ほとんどすべて手直しが必要だった。京仁鉄道合資会社は明治32(1899)年4月、仁川に事務所を開設し、全線を4工区に分けてその大部分を鹿島組に請負わせる。

*6 現在のソウル。明治30(1897)年国名が朝鮮国から大韓帝国となった
*7 大韓民国西北部の都市。現在ではソウル、釜山に次ぐ韓国第3の都市。人口270万人。黄海に面する韓国を代表する港湾都市で、国際空港で有名。
*8 当時仁川在住の鉱業家。宮中御用金20万円を用立てたことで力を得、鉄道敷設の権利を獲得した。
*9 京仁鉄道引受組合には、岩崎久弥、大倉喜八郎、安田善次郎、三井高保、前島密、益田孝、渋沢栄一ら当時の財界人が名を連ねた。

難工事を難なく施工

隣国とはいえ日本が初めて行う外地の仕事で、それもアメリカでさえ完工できなかった難工事である。開国して30年余りの日本に何ができるというのか、英・露・仏は敷設権を手にして朝鮮半島に影響力を持ちたいと考えていたため、日本の失敗を虎視眈々と狙う。世界中の注目を浴びる中、大日本帝国の威信がかかっていた。

鹿島組はこの工事に、新見七之丞を送り込む。新見は、「鹿島の三部長」の一人で、その筆頭格の人物。「鹿島の新見」か「新見の鹿島」か、と言われるほどの鹿島の一番番頭だった。新見は、初めての海外工事に精鋭を連れて渡韓する。そのうちの一人が神林松吉だった。松吉は酒も煙草も人並み以上、生来厳格な性格で、金の管理には非常に几帳面な人物である。当時現場作業員の9割は現地の人間を雇わなければいけない契約があった。国内の工事とはまた違う才能が要求される中、片腕として連れて行くにはうってつけの人物だった。

日本による京仁線工事は明治32(1899)年4月、第一第二工区の土工から始まった。漢江(*10)橋梁を含む第4工区では、築造中の橋脚3基を基礎工事不足により取り壊すこととなる。ここに、橋梁工事の諸材料運搬用の仮設橋(527m)を作り、アメリカ製の径間200フィート(60.96m)単線プラット構桁10連、全長628.5mの橋をつくる。橋台は花崗岩で巻かれた。アメリカ人技師の施工中には何度も水害に遭って橋脚や資材を流されたため、日本人が施工してできるものか危ぶむ声もあった。ところがこの橋梁を難なく施工。日本の威信は保たれ、「鉄道の鹿島」の名を高めることとなった。

しかし、この工事で神林松吉は左手を負傷する。発破の際の手違いで、左手親指をなくした彼は、それ以降写真を撮る際にはポーズを工夫したという。京城の写真館で撮った写真には、森田震治が一緒に写っている。松吉とは年も近く、同じ事務系ということもあり、仲が良かった。森田は、明治30(1897)年、26歳の時に鹿島組に入り、朝鮮半島での工事を歴任後、丹那トンネルの現場に長く務める。現場一筋の経理マンで、昭和7(1932)年に監査役に就任するが、昭和8(1933)年9月に病死する。松吉との交流は、亡くなるまで続いていた。

*10 ハンガン ソウル市の中心部を横切る全長514kmの大河。ちなみに日本最長の信濃川は367km。漢江橋梁は、長さ2062フィート(628.5m)

京仁線漢江鉄橋 京仁線漢江鉄橋 クリックすると拡大します

朝鮮へ渡ったころの神林松吉 朝鮮へ渡ったころの神林松吉 クリックすると拡大します

京城の写真館で。神林松吉(左)、大倉勝太(中央)、森田震治(右) 京城の写真館で。神林松吉(左)、大倉勝太(中央)、森田震治(右) クリックすると拡大します

何度も現場を訪れた鹿島精一

京仁線の次に施工したのが京釜線である。京釜線は京城・釜山間の総延長444.5km。明治34(1901)年6月、京釜鉄道株式会社を設立し、8月に北は永登浦(漢江の南約3km)から、南は草梁(*11)から工事を開始する。この工事の件で鹿島岩蔵は9月4日に渋沢栄一を訪ねている(*12)。これは韓国の企業に工事を請け負わせる動きがあったためだと思われる。日露の関係が切迫してきた明治36(1903)年12月、日本政府は日本からの兵隊や物資の輸送には欠かせない路線となる京釜線の速成命令を下す。明治37(1904)年1月、速成工事区間195kmを全線一斉起工することとなった。9業者が分割施工し、鹿島組は芙江・新灘津間と、難工事区間である増若工区を担当した。しかし、朝鮮半島での鉄道工事を歴任していた小川貫太郎が朝鮮で客死。日吉於兎一郎があとを継ぐこととなる。鹿島岩蔵はこのことを大変心配し、工事促進督励のため、鹿島組副組長・鹿島精一を現地に向かわせた。

明治37(1904)年1月、精一は初めて朝鮮半島を訪れる。増若は、京城の南、大田(*13)の西にある地域で、当時鹿島は鉄道が開通していた芙江(*14)に出張所を置いていたが、増若はそこから馬で2泊3日もかかる不便な山中にあり、民家を借宿舎としていた。松吉は、交渉事の時は、短刀を忍ばせて事に当たったという。宿舎の部屋の中には縦4畳ほどのオンドルがあり、4,5人が雑居していた。南京虫が出る、オンドルの過熱で衣服を焦がすなどの住環境で、満足な食事もとれない中での工事であった。精一がこの地を訪れた時の写真に神林松吉が写っていることから、事務系の彼もここにいたらしい。

芙江・新灘津間の第一錦江橋梁は、釜山から300kmの位置にあり、径間200フィート構桁4連、径間60フィート鈑桁2連を架設するものだった。川底の岩石の凹凸が激しい上、橋桁架設工事中の明治38(1905)年9月には大雨による流水で200フィートの構桁1連が墜落、足場などを流出したが、第二錦江橋用に準備した構桁を転用し、同年10月に無事開通した。

増若隧道は、延長262m。3本のトンネルを掘削するものだが、この地特有の頑強な岩盤に苦しめられる。100馬力のコンプレッサー2台を据え付け、削岩機を使用しても一日平均1.5mしか進まず、一日300人の作業員を使って全面掘鑿法により施工。このときの鹿島組の下で施工にあたった伊沢という業者は、後に丹那トンネルでも鹿島組の下、着工から竣工まで工事に当たった。

京義線は、日露開戦と同時に軍部が京城・義洲(中国との国境近く)間に軍用鉄道を急設するための速成工事で全長499km、明治37(1904)年3月に着手、明治39(1906)年4月に完成する。鹿島精一は引き続き鹿島組担当工区の竜山・新義洲間工事現場に赴き、陣頭指揮を執った。神林松吉は、この京義線速成工事を終えた明治39(1906)年3月に鹿島組を退職している。

*11 チョリャン 現在は釜山市。京釜鉄道の終点
*12 竹内綱(京釜鉄道常務)宛て書簡 渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』第16巻(1957年)P452
*13 テジョン 韓国のほぼ中央にある都市。
*14 プガン 京城の南約140km。

増若にて(中央・鹿島精一、右から3番目神林松吉) 増若にて(中央・鹿島精一、右から3番目神林松吉) クリックすると拡大します

増若隧道及び線路取り付け工事 増若隧道及び線路取り付け工事 クリックすると拡大します

第一錦江橋梁完成後機関車走行テスト 第一錦江橋梁完成後機関車走行テスト クリックすると拡大します

京釜線工事(二列目右から4人目・鹿島精一) 京釜線工事(二列目右から4人目・鹿島精一) クリックすると拡大します

芙江停車場 芙江停車場 クリックすると拡大します

芙江出張所 芙江出張所 クリックすると拡大します

神林松吉のその後

明治39(1906)年3月、鹿島組を退職した神林松吉は、吉林(中国東北部)でアルコール製造業を始めた。その後タクシー、映画館、風呂屋、写真館など各地で様々な職種に手を出し、京城で薬種商を営んだのち、朝鮮半島中部の西岸に位置する群山に居を構える。群山は明治32(1899)年の開港後、湖南平野の米の積み出し港として急速に発展した港町で、松吉が訪れた頃は、韓国人も日本人も倍増して活気を増していた。松吉はここで、神林薬店を開業する。これが成功し、敗戦で引き揚げるまで店を続けた。薬店と言っても、薬品類や化粧品類を作ったり日本から輸入したり小売したりと手広く手掛けていて、店の表にはその証の広告がずらっと並ぶ大店だった。群山市大和町の市街地にあった店とそこに隣接する家は大きく、皇族が泊まるほどではなかったが、海軍の一番偉い人の宿泊所になったという。従業員も日本人と朝鮮人あわせて50人ほどいた。松吉は朝晩必ず薬品倉庫を回り、箱の積み方を直し、ゴミを拾った。

松吉の妻ゑいは、店が軌道に乗り始めた明治42(1909)年に病死、松吉は同郷の殿塚いちを後妻に迎える。いちとの間には三男三女が生まれるが、女の子は幼いうちに亡くなり、長男・鈴雄も、昭和12(1937)年に病死してしまう。松吉は長女登美の婿に、郷里で薬局を手広く営んでいた山口濱之助の次男・達三を迎え、ますます店を広げていった。後に別に工場を作ったほどの繁盛ぶりだったという。松吉は店を孫の神林照雄(大正10年生まれ)に継がせるべく、京都で薬学を学ばせ、次男・虎二、三男・正雄には好きな道を歩ませることにした。松吉自身は大正8(1919)年から群山金融組合(日本で言う信用組合)の組合長を5期務め、商業会議所評議員、群山府協議会議員などを歴任、昭和9(1934)年には群山無尽金融株式会社の社長を務めるなど、地元の名士として活躍、紀元2600年式典では記念章を受けている。

昭和20(1945)年8月、立教大学で学んでいた三男・正雄が出征のために群山に帰省中、敗戦となる。大勢いた雇い人たちもばらばらになった。群山は38度線の南側、北緯36度にあったため、町中は陸軍の統治からアメリカ軍の統治に変わっただけで毎日の生活にさほど不自由は感じなかった。英語の話せる正雄が、老境に入っていた松吉夫妻と姉・登美夫妻を連れて昭和20(1945)年12月に日本へ引き揚げた。ほとんどの日本人が無蓋車に乗せられ、立ったまま何時間も汽車に揺られたのに比べ、神林の一族ということで、アメリカ軍兵と一緒の車両の座席に座る特別扱いだったという。日本に戻った松吉は、姪(妹の長女)に任せていた真鍋の家に戻った。もう76歳だった。

孫の照雄は昭和17(1942)年2月に召集され、薬剤将校となるが、昭和19(1944)年5月、乗っていた靖国丸が沈没。13時間海上を漂った。乗組員1000人のうち10人しか助からなかったという。マラリアにもかかった。昭和20(1945)年12月に復員し、両親兄弟と借家住まいだった。ある日松吉は、霞百貨店(後の土浦京成百貨店)の「薬剤師募集」の看板をみつける。早速照雄が応募するが、給料が安く、その額では家族を養うことができない。そこで社長と交渉し、給料を貰うのではなく場所代を百貨店側に支払う形にしてもらう。製薬会社各社からは開店祝いとして薬品が送られてきた。松吉が群山時代に培った信用がものをいい、神林家が土浦で薬局を再開する話が各社に伝わっていたのである。昭和21(1946)年7月5日、百貨店の片隅に「カスミ薬局」を開店、店はたった一坪半の広さだった。松吉と照雄はモノの値段がどんどん上がっていく中、貴重な薬を闇値ではなく定価で販売する。毎朝6:30に店を開いたが、評判を聞きつけ、近隣ばかりか遠くからも客が絶えなく、繁盛した。松吉は毎日土浦まで孫の手伝いに通い、昭和28(1953)年、84歳で亡くなる3か月前まで店を手伝っていた。

松吉の二男・虎二は慶応大学を出、近畿銀行社長を務めたのち勇退、松吉と同居していた三男・正雄は公認会計士となり、鹿島の石川六郎会長が日本商工会議所会頭時代に土浦市商工会議所会頭を務め、現在も土浦に在住している。松吉の孫・照雄は、祖父と始めたカスミ薬局を元に、昭和36(1961)年にスーパーマーケット・霞ストアー(のちのカスミ)を創業。カスミは現在ではイオングループの一員となり、茨城県を中心に北関東一円に137店舗とグループ会社5社を持つ優良企業に成長している。

<金額の換算はすべて日本銀行ホームページ企業物価指数による>

<参考>
国立公文書館HP
鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治編』(1967年)
瀬谷義彦・豊崎 卓『茨城県の歴史』(1973年)
面影編纂委員会『面影―鹿島精一・糸子抄―』(1962年)
鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
難波多津二『多津つぁん一代記』(1956年)
渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』第16巻(1957年)
朝鮮総督府鉄道局『朝鮮鉄道史』第1巻(1929年)
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』第4巻(1972年)
菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)
川又一英『草の露、一滴の水 神林照雄伝』(1992年)
外務省通商局編『旅券下付数及移民統計:明治元年~大正9年』(1921年)
矢野国太郎『京釜鉄道案内:南韓旅行記』(1905年)

(2010年6月1日公開)

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