第28回 矢口水道株式会社-東京の端にあった小さな私設水道会社

昭和初期、鹿島が水道会社を経営していたことがある。
工事代金の未払いから始まった水道会社経営は、配当を出すほどの好成績を収めたのち、東京市に譲渡された。そこには、短い間ではあったが建設とは全く畑の違う水道経営に情熱を傾けた人々の物語があった。

江戸っ子は水道の水で産湯をつかう

天正18(1590)年、徳川家康は江戸に入府し、農耕用の用水開削と、飲み水用の上水を引くことを命じる。そしてできたのが、井の頭の池を水源とする神田上水(小石川上水)と多摩川の水を取水する玉川上水だった。後に三田・青山・千川・亀有の4上水が加わるが26年後に廃止され、神田上水と玉川上水が100万都市・江戸を支えた。主要幹線は石桶、支線は木桶(もくひ)、枝線には竹桶を使った。導いた水を上水井戸に貯め、桶で汲み出して使う。水道水の産湯は江戸っ子の自慢の一つだった。配水管総延長は150kmにもなったという。

これらの上水は明治に入ってもそのまま使用していた。しかし管理者がいないため混乱し、上水路に船を通す許可を出してしまったり、補修をするものがいなくなったり、様々な理由で水質は悪化する。原水を沈殿、濾過し、鉄管で圧送する近代水道の創設が求められながらも、既存木桶や上水路の補修、水源汚染の取り締まりなどでしのいでいた。

近代水道のはじまり

日本の近代水道は横浜で始まる。開港と共に急激に市街化した横浜は、海を埋め立てた土地のために良質な飲み水に恵まれず、明治18(1885)年、英国人技師を顧問に迎え、相模川上流を水源として野毛山に浄水場を作る近代水道の建設に着手、明治20(1887)年10月、通水を開始する。明治28(1895)年には水道条例(*1)に基づく最初の水道が大阪市に作られた。東京市の水道が淀橋浄水工場から本郷給水工場を経て通水したのは、明治31(1898)年12月のことで、これに伴って神田・玉川上水は明治34(1901)年6月、市内への給水を停止する。

明治44(1911)年、初期の計画より増強して東京市の創設水道工事を終えたが、人口の急増に伴い、水道条例を一時的に見直すこととなる。当該市町村に資力がない時は、民営水道の敷設を許可して所定期間終了後有償で移譲、または満了以前の買収もできるよう改正したもので大正2(1913)年4月、公布された。これにより、民営水道として最初にできたのが日本最大の私設水道会社・玉川水道株式会社(*2)であった。また、大正7(1918)年には大都市に隣接する町村水道に国庫補助が開始され、大都市及び近郊の水環境は整えられていった。

*1 水道条例 明治23(1890)年制定。明治政府は、水道経営は自治体が行うこと、消火栓設置の義務化などの水道に関する規制を初めて行った。昭和32(1957)年に制定された水道法の前身。
*2 大正7(1918)年2月創立。設立時の資本金30万円。荏原水道組合の事業を継承して、昭和2年1,000万円、昭和8年1,500万円に資本金を増強する。

矢口水道利用組合の悲劇

東京府荏原郡矢口町(現・東京都大田区矢口)は多摩川の下流近くの左岸に位置し、昭和3(1928)年に村から町となる。界隈には田畑が連なり、新田神社をはじめとする神社仏閣、茅葺の農家が背の高い樫や椎の木の陰に点在していた。第一次世界大戦以降工場が進出し、震災後は人口も急激に増加した。しかし天気の良い日には富士山を眺めることができ、谷地には蛙の声が鳴り響き、多摩川に入れば貝や白魚を簡単にとることができるのどかな田舎町だった。

矢口近辺はもともと地質が悪く、地盤も低いため、工場を誘致しようにも従業員の飲料水の確保さえも難しかった。東京市営水道の区域外で、玉川水道の給水区域(*3)と多摩川に挟まれて矢口町だけぽつんと残る形となった。町の有力者たちは町営で水道事業を行う派と玉川水道を利用する派に分かれて意見を戦わせたが、組合を作って町独自の水道事業を行うことが、町民の負担も多くなく、平和的に実現できる方法だという結論に達した。

そこで、町の有志が中心となって、矢口町水道利用組合を作るために動き出し、組合員を募集する。組合員は株を30口(30円/口)まで購入できた。時代はちょうど投資ブームでもあり、応募者900人、3,000株を得たため、昭和3(1928)年7月、東京府の許可を得て有限責任矢口町水道利用組合を設立する。予算総額273,475円(現在の価値で約1億8200万円)。水源は矢口町古市場曽根分地先(現・大田区矢口3-33)。井戸を掘って地下水をポンプで取水する計画で、昭和4(1929)年9月、着工した。

ここまでは前途洋洋、自分たちの水道ができることを、矢口町の誰もが誇りにし、通水を心待ちにしていた。組合では水道経営の準備をし、工事は堀川組が請け負って進められる。しかし折からの昭和恐慌のせいか、秋の終わりごろには組合も施工業者も資金不足に陥り、工事は中断。不幸なことに堀川組の経営者が亡くなり、工事中断のまま水道事業は休止状態となってしまった。組合員数は331人にまで減少し、株の口数も1,503口まで減少する。水利組合は途方に暮れていた。

*3 給水路線は京浜工業地を中心とし、入新井(現・大森本町)、大森、大井、蒲田、品川、大崎、羽田、池上、六郷、碑衾(現・目黒区南部)、玉川、東調布(現・鵜木、雪谷大塚)、馬込、荏原がその区域だった。

鹿島組に持ち込まれた話

鹿島組の菅野忠五郎(*4)のところへ矢口町に水道を敷設する話が持ち込まれたのは、それから間もない昭和5(1930)年2月初旬のことである。

菅野は当時鹿島組理事(*5)。帝大出が幅を利かす台湾総督府で勅任技師まで務めた叩き上げであり、非常に頭の切れる、曲ったことの大嫌いな男だった。矢口水道の話を持ってきた台湾鉄道時代の「友人」のことを「ずいぶん古い友達だが、元来ほら吹きで、殊にそのころはいわゆるブローカーであったから、にわかに信用するわけにはいかなかった。」(*6)と後に述べている。

鹿島組は前年の昭和4(1929)年4月に震災後の仮本社屋から八重洲へ居を移し、本店ビル新築披露パーティと創立50周年祝賀会(*7)を盛大に開催していた。昭和5(1930)年1月には株式会社組織に変更するための発起人会を開いて2月8日に諸手続きを完了、22日に株式会社鹿島組の創立総会を開催予定で、新しい社屋、新しい体制に誰もが燃えている。しかし震災復興工事もひと段落し、昭和恐慌も始まって工事数は減少していた。そういうタイミングで持ち込まれた矢口水道の話だった。

菅野は矢口水道利用組合に直接話を聞きに行き、まず、技師長に会う。彼は、自分は船用機関を専門とする工学士だが水道分野でも数々の経験を積んでおり、菅野と同郷の岩手出身だと明かす。話に多少腑に落ちない点もあったが、信頼に値すると考えた菅野は、次に組合長の木村政男に会い、創立以来の経過を聞いた。木村は海軍軍医を経て開業医となった地元の名士であった。温厚でまじめな彼の話に、菅野の気持ちは傾く。その後多摩川から100mほどの場所にある水源地を視察してその日は帰った。

工事自体はそれほど難しいものではなく、水源地も確保できることは確認した。しかし、工事代金をもらえるのか。もともと資金不足から中断していた工事である。そこで菅野は中学時代からの友人である内務省土木局事務官を訪ねた。組合に工事代金の支払い能力がない場合は、国庫補助の見込みがあることを確かめ、工事を受けることで気持ちが固まった。

菅野はこの話を煮詰め、組長・鹿島精一に話を通す。見積書を提出して矢口水道利用組合と請負契約を締結し、工事に着手したのは昭和5(1930)年2月のことである。請負金額は207,693円(現在の価値で約1億7,300万円)。工事は順調で、予定通りその年の8月に完成した。

しかし、その時には組合員331名、口数1,503の矢口水道利用組合はすでに国庫補助の条件を満たしておらず、補助を受けることができなかった。菅野は自ら組合員を訪ね歩いて追加出資を依頼し、国庫補助を重ねて願い出るが、不況の時でもあり組合員にはこれ以上の出資の意思がなく、町民たちは水道水に大喜びするだけだった。矢口水道利用組合では、人のいい組合長が気をもむだけで、技師長は新たに採用した事務長と給水業務は行うが工事費の支払いには無関心。「その行動の怪奇真に解し難きものがあった。」(*8)他にも何をするでもない多数の従業員を雇っており、このままでは収支が合うはずもなく、鹿島組が工事代金を受け取ることは不可能だった。

*4 かんのちゅうごろう(1871-1951)盛岡生まれ 明治21(1888)年 岩手県立尋常中学校 (現・盛岡一高) 卒業後日本鉄道会社入社。長谷川謹介の腹心として鉄道技師を務めた。明治33年~台湾総督府鉄道技師 大正9(1920)年高等官2等、勅任技師。同年4月理事として鹿島組入社。昭和5(1930)年2月取締役(5人のうちの一人)、昭和14(1939)年辞任。昭和19(1944)年「日本鉄道請負業史明治編」編纂、昭和26(1951)年「鹿島組史料」出版
*5 現在の副社長クラス。当時は組長の下に4名の理事がおり、現在の役員に当たるのは組長と理事の5名。組員は200名ほどだった。
*6 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)p144
*7 当時は起点を、明治13(1880)年としていた。(鉄道建設に進出し、社名を「鹿島組」とした年)
*8 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)p145

水道会社経営に乗り出す

時は世界恐慌の時代。みすみす20万円もの工事代金をふいにすることはできない。鹿島組社内で検討の結果、別に新会社を創立して、自ら水道事業を経営することを決断する。

昭和6(1931)年2月、元東京市水道局長を顧問に招へいし、矢口水道株式会社(資本金30万円・現在の価値で約2.9億円)の設立許可申請書を提出した。しかしそこに思いがけない妨害が入る。件の矢口水道利用組合の技師長が資本金100万円の会社を新たに作り、矢口水道の経営と新設の水道工事委託に応じると、名乗りを上げたのである。株式募集の成算もない計画を持って市役所の知人の間を暗躍し、鹿島の会社設立を妨害し続ける。「まったくもって怪奇至極の行動として、憤怒に堪えなかった。」(*9)鹿島側はこの防戦に追われ、許可を得るのに100日近くかかってしまった。

6月23日付の株主依頼の書面には「事業の性質上矢口町と鹿島組関係者のみで株式募集すべきところだが、募集株式4,000株のうちあと1,500株(20円/株)残っている、財界不況株価低落の今日に新株をお願いするのはいかがかと考えるが、年5,6分以上の配当は可能と確信しているので鹿島組の姉妹会社として目をかけてほしい」とあり、菅野ら鹿島組側が矢口水道株を売り歩いたことがわかる。

昭和6(1931)年8月10日、矢口水道株式会社創立総会が開催される。ここに矢口水道利用組合の水道並びに敷設権を買収継承し、事業一切を引き受けることとなった旨を報告した。発起人引受株数10,990株、公募引受株4,010株、計15,000株。社長は菅野忠五郎が自ら務め、相談役に鹿島精一、常務に小野威(*10)を置き、取締役に鹿島忠夫、鹿島新吉、監査役に永淵清介という鹿島組幹部らが就任し、ほかに鹿島組から事務員8名、工務員2名を派遣した。旧水利組合からは木村組合長ほか元組合員数名を取締役、監査役に配し、技師長、事務長以下20数名の従業員は解雇した。
本社は水源地から1.2kmほど離れている目蒲線の本門寺道駅(*11)前に置かれた。

常務となった小野は、「自分は世間知らずで無鉄砲であったために当時ただ一人楽観説を持っていた」と後に述べているが、引き継いだばかりの水道会社は素人経営とは言え水量も水質も完全ではなく、また、それに対して何の対策もとられていなかった。研究熱心な小野は、水道工学の書籍、雑誌を片端から読みあさり、水道会社の経営ノウハウや技術を会得していった。

*9 菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)P146
*10 おのたけし (1901-1977)東京・神田生まれ。父は書家・小野鵞堂。大正15(1926)年東京帝国大学法学部政治学科卒業、関東水力電気入社。昭和4(1929)年鹿島組入社。株式会社組織変更の事務、矢口水道の経営を経て昭和13(1938)年から大阪勤務(後に大阪支店長)。同年監査役、昭和14年(1939)年取締役、昭和17(1942)年常務、昭和24(1949)年専務、昭和25(1950)年本社勤務。昭和26(1951)年副社長、昭和51(1976)年副会長
*11 正式な住所は矢口町小林(現・大田区東矢口3-31)。東急目蒲線は大正12(1923)年11月に全線開通した。現・東急多摩川線。本門寺道駅は、蒲田-矢口渡間の駅で大正14(1925)年10月に開業した。北2kmに池上本門寺がある。昭和11(1936)年1月に道塚駅に改称するが、昭和20(1945)年6月、それまで蒲田駅でJRに平行に入っていた線路を矢口渡駅からJR蒲田駅に直角に入るように線路付け替えが行われたため、廃線、廃駅となった。

楽で辛い商売、水道屋

当時世間では、水道屋さんほど楽な商売はないと言われていた。
一社独占で競争相手がなく、無料の水を汲み上げて売るからである。しかし現実は正反対。原料の水はタダだが、水源地から水を運ぶ動力、濾過費用、減菌費用、人件費、土地建物代などの出費がある。減価償却や金利も見ないといけない。小さな水道会社のほとんどは、水道料金を東京市の倍近くに設定しても赤字経営だった。しかし水道料金の値上げは、関係官庁と内務省が了解しない。赤字が増えても中止することも休むこともできない。諸設備の改善、鉄管の延長といった工事は次々と発生する。

昭和6(1931)年9月の矢口水道第1回営業概況報告書(9月1日~30日)によると、9月1日から営業を開始し、従業員12名、総収入5,869.78円(現在の価値で約579万円)、総支出3,819.50円(同・約377万円)、当月利益2,050.50円(同・約202万円)とある。創立に伴う臨時経費がかさみ、この程度の利益計上しかできなかったが、経費の節約と給水戸数の増加によって、収入金増加ができる。この月の給水戸数は67戸増加して計899戸、年内に1,200戸まで伸ばしたいという言葉で報告書は結ばれている。

矢口水道株式会社の経営開始から2か月後、昭和6(1931)年10月24日付で矢口水道利用組合は解散した。
その理由書には、矢口町は小さく、居住者が限られている。最大可能引受口数を30口に限定したため余力がある人でも30口以上買えなかった。組合員以外も組合員同様水道を利用する権利があることが知れ渡って、組合員を増やすことができなくなった。資産家が比較的少ない地域である。極度の不況で土地の産業が委縮したことなどが挙げられている。組合解散時の組合員数331名、資産合計は281,631円(現在の価値で約2億7770万円)だった。

一方、矢口水道株式会社は水道の安全性をうたい、営業に邁進した結果、組合員数を順調に伸ばしていた。10月の収支報告では利益を出していたものの、水質が悪く、水質検査を頻繁に行う必要があり、それまで外注していた水質検査を、専門の検査官を雇って行うこととなった。翌11月、警視総監高橋守雄宛に出した報告書によると、含有クロールの量が過剰で東京府より改善を命令された。悪水の流入防止、不良土砂の排除、鑿泉の試堀などの対策を実施中であると、東京市衛生研究所の水質検査結果報告書(東京府知事宛)を添えて報告している。

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水質試験報告書(警視総監宛、東京府知事宛など、毎月のように提出していた) 水質試験報告書(警視総監宛、東京府知事宛など、毎月のように提出していた) クリックすると拡大します

増加する給水戸数

昭和7(1932)年10月、東京市は隣接5郡82町村を併合した。東京府荏原郡矢口町は5郡を合併し、東京市蒲田区矢口となる。東京市はこれを契機に旧東京市と郡部の水道の統一を目指した。玉川水道、矢口水道、日本水道(世田谷、駒沢地域)の会社経営3社を除く単独町営、町村組合経営の10水道事業(*13)を継続経営し、それらの給水地域は旧東京市の水道料金と同様の料金(*14)となった。

12月、水源地からの水量が不足してきたため、水源地拡張工事を22,400円(現在の価値で約2200万円)で発注する。工事は井筒の側面に孔をあけ、水をポンプアップして、旧水源地の濾過地まで鉄管で誘導するもので、施工を担当した鹿島組の戸部戸米治は「極めて簡単な工事であった」と述べている。戸部はこの工事で特別賞与50円(同・約2万円)を手にした。

昭和8(1933)年6月末には給水戸数は2,000戸を超え、旧矢口町全戸数の半分に達した。近隣では工場誘致も進み、7月1日付で東京府から「水源地付近に工場が新設され、排水汚水が水源地に入り込む可能性があるので隣接水路防護工事を行うよう」に指導を受ける。同じく7月1日には、玉川水道株式会社の給水地域で花街を持つ蒲田新宿町(現・大田区南蒲田)の町内会・新京会が「悪水供給から町民の健康を守るために」2週間の間、矢口水道より水の供給を受け、各戸に供給した。

矢口水道は小さいながらもその存在を認められ、会社経営も順調だった。しかし給水戸数が増えるに連れ、水源地が一か所だけでは賄いきれなくなっていった。昭和9(1934)年7月、蒲田区下丸子(現・大田区下丸子1丁目)に水源井を新設するため下丸子耕地整理組合と協議し、畑地235坪を一坪10銭/月で借りる契約を結ぶ。古市場の浄水場も下丸子浄水場も、多摩川の旧川筋にあたっていた。7月末には矢口水道の給水は、専用栓2,452戸、共用栓68戸、特別栓13戸計2,533戸に及び、株主へ毎期5分の配当もできるようになり、苦渋の選択だった矢口水道の経営もようやく順調になった。

*13 単独町営の渋谷町、代々幡、井荻町、目黒町、淀橋町、千駄ヶ谷町、大久保町、戸塚町と、町村組合経営の、江戸川上水町村組合、荒玉水道町村組合
*14 東京市営水道は10m³あたり93銭、玉川水道は14m³あたり1.75円、矢口水道は1.65円

東京市へ

昭和10(1935)年3月、玉川水道が東京市に買収される。玉川水道側は昭和7(1932)年9月、内務省に営業延長を申請していたが、市は買収協議を通告、内務大臣は延長を昭和10(1935)年までに限る。買収根拠条項の適用問題、買収価格問題など混乱はあったものの、買収は完了した。同年9月、東京市会は矢口水道と日本水道の買収建議を可決する。(*15)

昭和11(1936)年、矢口水道は給水戸数3,500戸(区域内総戸数6,500戸)、給水人口18,000人(区域内総人口32,000人)、給水栓数3,300個、一日最大給水量2,650m3まで大きくなっていた。

昭和12年にはいり、矢口水道は水道事業の東京市への譲渡について臨時株主総会を開いて協議する。その結果、譲渡を受諾。3月1日、矢口水道株式会社はその事業一式を東京市に譲渡し、解散することとなった。

東京市は32万円(現在の価値で約1億8700万円)で矢口水道を買収。同年6月15日、臨時株主総会が開催され、矢口水道はその役目を終えた。

小野は、7月まで東京市水道局の嘱託を務めて引き継ぎ業務をこなし、鹿島組に戻った。 その手記の中で「この6年間馴れぬ商売に相当頭を悩ました。その営業の本元である水量も十分ではなく水質も良好といえなかったので、幾度か瓦解の危機に近い状態になったことがある。しかしどうやら危機を逃れ得たのは、会社全体のものが和していたためであり『誠と熱』をもって勇往邁進したためであったと思う。あるいは天祐というべきかもしれない。とにかくかつての矢口水道会社存亡の機に際して私の体得した信念は『誠と熱』でことにあたるということであった。私は難問山積している工事現場各位にこの金言を御贈りしたいと思う。」と述べている。

矢口水道本社の建物は、そのまま東京市が「水道課営業所」として利用していた。戦時、空襲で旧矢口水道は消失したが、水源地は昭和35(1960)年まで東京都水道局の水道水として使われていたという。今は、矢口水道株式会社という小さな水道会社とその浄水場があった面影はどこにも残っていない。

*15 日本水道株式会社との交渉は昭和16(1941)年ごろ一時中断し、昭和20(1945)年4月、ようやく買収が成立、東京の水道が一元化された。

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※現在の金額への換算は、すべて日本銀行HP「企業物価指数」をもとにしたものです。

<参考資料>
東京都水道局『東京近代水道百年史』(1999年)
矢口町役場『矢口町史』(1932年)
小野威「矢口水道の想ひで」『鹿島組月報 昭和12年7月号』(1937年)
大田区史編さん委員会『大田区史』(1996年)
横浜市水道局HP

(2010年2月12日公開)

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