第33回 「洋館の鹿島」が建てた岡山県庁舎

戦前の岡山県庁舎が、明治12(1879)年に鹿島岩蔵の手によって建てられたものだと分かったのは、昭和36(1961)年のことだった。地方紙に連載されていたコラム(*1)で偶然に発見されたのである。関東大震災と戦災で社史資料を焼失した鹿島の前史にはまだまだ知られていないことがある。

*1 夕刊新聞(現・岡山日日新聞)昭和36(1961)年1月13日 岡長平・作「ぼっこう横丁」

夕刊新聞 夕刊新聞 クリックすると拡大します

鬼県令・高崎五六

岡山県は、瀬戸内海の温暖な気候に恵まれた交通の要衝である。古くは「吉備の国」と言われた。「岡山」という県名は、岡山城あたりの小高い丘を「岡山」と呼んでいたことに由来する。戦国時代に宇喜多秀家がこの「岡山」に城を築き、そこから生まれた城下町とともに、一帯を岡山と呼ぶようになった。1603年、姫路藩主・池田輝政の孫光政が鳥取から領地替えで入封し、備前岡山藩の基礎を築く。岡山は池田氏の下、明治維新まで発展を続けた。一方備中地域には、天領と弱小の諸藩が多数存在していた。

明治4(1871)年7月、政府は廃藩置県を行い、藩は県へと名前を変える。同年11月、現在の岡山県域には岡山県・北条県・深津県(のち小田県)の3県が設置され、明治8(1875)年には岡山県・北条県の2県、翌9(1876)年には岡山県1県となった。

初代岡山県権令(*2)には、岡山の士族・新庄厚信が任命され、その後元長州藩士・石部誠中が権令を務めていたが、政府による地租改正の強行と農民の反対闘争との板挟みとなってしまう。石部は明治8(1875)年9月30日付で内務卿・大久保利通に辞職願を提出。事態打開のために大久保が送り込んだのが、薩摩閥の腹心、高崎五六(*3)だった。

高崎五六は元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわってきた肝の据わった人物だった。10月13日に着任すると、辞令書き一人を残し、県庁官員111名の首を切ってしまう。そして東京から17名を着任させ、その後も新しい官員を増やして県政運営の体制を作り上げていく。事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けるなど強力な指導性を発揮してトップダウンの県政を推進、鬼県令と恐れられた。だが、前任者辞職の原因となった地租改正を2カ月で成し遂げて12月25日には政府に完了報告を提出するなど、その手腕は大久保らに見込まれたとおりのものだった。

*2 県知事のこと。明治4(1871)年の廃藩置県を受けて発布された県治条例によって、県の長官の名称を、官位が五等官の場合は「権令」、四等官の場合は「県令」と定めた。東京・京都・大阪の3府には「知事」の名称が用いられた。明治19年の地方官制で各県の長官の名称は知事となる。知事が公選となるのは戦後のことである。
*3 たかさき ごろく 1836-1896 鹿児島県出身。薩摩藩士。公武合体派の志士として幕末のさまざまな動乱に深くかかわる。明治4(1871)年置賜県(後の山形県)参事、明治5(1872)年教部省御用掛、明治8(1875)-17(1884)岡山県令、明治17(1884)年参事員技官、明治18(1885)年元老院議官、明治19(1886)-明治23(1890)東京府知事、明治20(1887)年男爵位を授けられる。

新しい県庁舎の建設

明治9(1876)年10月18日、高崎は、内務卿・大久保利通に岡山県庁新築敷地についての上申書を提出する。その内容は「現在の県庁は狭く、小田県、北条県との合併もあって、ますます手狭になって来たため、県下岡山鷹匠町旧鴨方藩邸の跡地に県庁舎を新築したい。この場所は高台にあって湿気もなく、役所の場所としては適当であると思われる。別紙図面の朱点内の部分で、地所は6,462坪7合(21,360m²)、建物は379坪(1,253m²)を考えている」というものだった。天神山と呼ばれるこの場所は、「岡山」「石山」と共に岡山三山と呼ばれ、岡山市街を東西南北に瞰下す絶好の場所である。着任して一年、圧政家と言われながらも高崎の手腕によって岡山県は着実に整備されて来ていた。県庁舎を新調することは、権力の象徴を築くことでもあった。

翌明治10(1877)年2月27日、内務卿大久保利通代官内務少輔・前島密より「用地のうち一部は官有地(国有地)、一部は官用地(*4)とする。建物は一旦買い上げた後下げ渡すので、代価を取り調べて申し出るように」という回答書が送られてくる。県庁舎の新築は認められた。これを受け明治11(1878)年3月、高崎は内務省に工費27,045円の新築願いを提出する。この金額は一地方の県庁舎の工事費としては破格だった。414坪(1,369m²)の内務省庁舎(明治7、1874年頃竣工)でさえ、石造で45,540円かかるところを木造にして22,770円に抑えているほどである。内務省からの回答書は工費を13,600円にするなら建築を認めてよいというものだった。5月27日、総工費13,599円(現在の価値で1億1,600万円くらい)という設計変更を伺い、7月1日に許可が下りる。

工事命令書は、「神奈川県下 横浜境平民 鹿島岩蔵」に建設工事を請け負わせ、「建物総坪数589坪2合5勺(1,948m²)、本門ほか石垣など一切の費用として13,599円86銭を以て請負を申しつけ候。諸事不都合なきように念を入れて致すこと。本建築充用木材は、主として岡山県美作国勝北郡及び東北条郡内、津川山官林の檜・ケヤキ・杉計3,450本及び上道郡祇園村竜の口官林並びに御野郡宿・津島村半田山官林松木730本の払い下げを受ける。岡山県の役人4名を建築事務担当官吏として定める」というものであった。設計変更をして内務省の要望する金額内(といっても上限より14銭低いだけだが)に収めたが、それは工事にかかるほとんどすべての材木代はかかっていないから収まったということのようである。

しかし、鹿島岩蔵は、どのようにしてこの西国の県庁舎工事を請け負ったのであろうか。

*4 官有地だが、地券(現在の権利証のようなもの)があり、区入費(町内会費のようなもの)を支払う義務がある。

洋館の鹿島

話は、明治維新前、岩蔵の父・鹿島岩吉の時代にさかのぼる。

鹿島の祖・鹿島岩吉は、安政6(1859)年の英一番館(ジャーディン・マセソン商会横浜店)、亜米利加一番館(ウォルシュ・ホール商会横浜店)をはじめとして、横浜や神戸で数々の洋館を建設し、「洋館の鹿島」と言われていたほどだった。

しかし、最初から外国商館を作るつもりで横浜へ出たわけではない。大名屋敷の出入り大工として江戸で成功していた岩吉だったが、活気のある横浜へ移った時、日本人が発注する工事は残っていなかったのだ。外国人発注の工事でも、領事館などの工事なら通訳もつくが、当時の民間発注の建築工事は、発注者や設計者である外国人の指示を、彼らと共に香港から来た中国人が聞き取り、それを漢字で日本人に伝えて、つまり筆談で工事を進めるという手間のかかるものだった。そのような中で、大工として一流の腕を持つ鹿島岩吉は横浜初の外国商館・英一番館を建設する。その後も次々と外国商館を建設し、日本に来ている外国人のコミュニティの中で、人から人へと「気に入らぬと損をしても遣り直す」(*5)彼の仕事ぶりが知れ渡る。岩吉の息子・岩蔵は、同じ横浜で鼈甲商(*6)を営んでいたが、得意とする交渉力で父・岩吉を助け、いつの間にか岩蔵が「洋館の鹿島」の代表となっていった。

彼等の仕事は横浜や神戸の居留地の商館や異人館だけにとどまらなかった。亜米利加一番館のウォルシュ兄弟の推薦もあり、木挽町(現・銀座8丁目)に後藤象二郎らが興した貿易商社「蓬莱社」(明治6、1873年竣工)を、品川に毛利公爵邸洋館(明治6、1873年竣工)を、王子に渋沢栄一らが興した日本初の抄紙会社の工場(明治8、1875年竣工)を、手掛けていったのである。

後藤は元土佐藩士、毛利は元長州藩主、渋沢は明治期のほとんどの産業の成り立ちにかかわりを持つ実業家である。「洋館の鹿島」の名前は、薩長土肥を中心とする明治政府要人の中に、あるいは新しい産業を興そうとする気鋭の人々の中に知れ渡っていたのかもしれない。明治9(1876)年には、これもウォルシュ兄弟の推薦で、神戸三宮に神戸製紙場の工場を着工している。

*5 肥塚龍『横浜開港五十年史』(横浜商工会議所)(1909)p97
*6 鼈甲(亀の一種「たいまい」の甲羅)で作った櫛や笄を売る商人。明治2(1869)年発行の「大港光商君」という横浜商人の番付で「境町鹿島屋岩蔵」は中ほどより少し上に記載されている。

蓬莱社(後の十五銀行) 蓬莱社(後の十五銀行) クリックすると拡大します

各地で進んだ新庁舎の建設

明治4(1871)年の廃藩置県後、各県に政府が任命した府知事・県令が派遣される。明治6(1873)年には地方行政、警察、土木などを統括する中央官庁・内務省が設置され、地方行政の整備は急速に進められていった。各府県では既存の建物を県庁舎として使っていたが、県の合併や業務の煩雑化などにより人員が増加し、新しい大きな庁舎が必要とされるようになった。開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設する。洋風といっても和洋折衷の擬洋風建築(*7)で、明治10年代にはわかっているだけでも10以上の擬洋風建築の県庁舎が全国各地で建設されている。当時の県庁舎は中央官庁で計画案概要がまとめられ、それに地方の事情を加えて設計された。そのためこの時代の県庁舎の建物形状は大きく3種類に分類される(*8)。現在明治村にある三重県庁舎は、明治9(1876)年、県令岩村定高が計画した庁舎で、建築費14,900円。岡山県庁舎と同じ明治12(1879)年に完成している。岡山県庁舎は2階建て入母屋造り、本瓦葺き、壁体は漆喰モルタル、正面ペディメント(*9)、二階正面にはバルコニーがあり、アーチ型の窓枠には両開き窓をつけ、鎧戸が付いていた。

県庁舎の建築に使う木材は、官用山林から伐採したものを使うことになっていたが、着工から2か月以上たっても一本も天神山の施工現場に届かなかった。県が調査すると、用材の伐採作業は進んでいるにもかかわらず、運搬人が横流ししたり、河川沿岸の住民に取られてしまったりして、現場に届いていないことが分かった。そのため県は急きょ作業員に鑑札を持たせ、最寄りの分署から巡視を出すなどしてこれに対応、木材はようやく現場に届くようになったのである。

*7 この頃多かった和洋折衷の建物。宮大工や左官職人が日本の伝統的な和風建築技法を用いて外見を欧米風にした洋式もどきの建物で、和風建築から洋風建築へ移る過渡期の建築用法。
*8 近藤豊「明治初期の擬洋風建築の研究」(1999)P6 正面の平面形式からE字型、凸字型、特殊型と分けた。三重県庁舎はE字型、岡山県庁舎は凸字型である。
*9 pediment 西洋建築における切り妻屋根の、妻側屋根下部と水平材に 囲まれた三角形の部分。日本建築の「破風(はふ)」に該当する。

大久保利通の暗殺と鹿島岩蔵

岡山県にとって明治12(1879)年は、近代史上もっとも多彩な年であった。県会の開設、民立勧業博覧会の開催、県病院の整備、山陽新報の創刊、国立銀行の創業などがあり、そのうちのひとつが、県庁舎の新築落成である。

1月4日、山陽新報(山陽新聞の前身)が発行された。そこに「今度市中天神山に新築なりし県庁は、昨年12月21日をもって棟上げの式を行われ、3月中には落成の運び」という記事がある。そしてその2段下に、鹿島岩蔵についての記載がある。当時、いや今でさえ請負人(施工者)について触れられることは少ない。この県庁舎の地元での注目度、岡山初の本格的洋館建築を施工する横浜の鹿島岩蔵なる人物に対する興味が感じられる。

「県庁新築の請負人横浜居住鹿島岩蔵なる人は、先般東京工部省より御指向けになりし人にて、これまで東京諸官庁大臣方並びに外国人の家屋も大概この人の手になるもの多く、それゆえ西洋風の築造には妙を得て、その巧みなるに驚かざる者なし。新築の県庁は、高みなれば立地もよくまた築造者の巧みなる。されば、出来上りの上は恰好もよくかつ美麗なるべし。この費額は官費にて1万3千円なり。落成の日には諸人に総覧を許可さるという」と、県庁舎新築のために横浜から来た鹿島岩蔵を持ち上げ、彼の力量を讃えているのだ。

この記事では岩蔵は、「東京工務省より」差し向けられたとある。
明治11(1878)年5月14日、内務卿・大久保利通は暗殺された。大久保暗殺後、内務卿に就任したのは伊藤博文である。政治の主導権は薩摩から長州へ移った。亜米利加一番館の施工以来鹿島と交流のあったウォルシュ兄弟は、長州閥と密接な繋がりを持っていた。明治6(1873)年に元長州藩主である毛利公爵邸の洋館工事を鹿島岩蔵が請け負ったのも、ウォルシュ兄弟の紹介ではなかったかと言われている。岩蔵は、毛利公爵邸洋館工事を施工中に鉄道頭・井上勝と知り合い、彼の勧めで明治13(1880)年に鉄道請負に進出することになる。井上勝は、長州藩時代伊藤博文とイギリスに密航した仲である。伊藤博文も、岩蔵と交流があったとされる。県庁舎施工の許可が下りたのは、明治11(1878)年7月である。大久保利通が内務卿のままだったら、もしかすると岩蔵が岡山県庁舎の施工のために差し向けられることはなかったかもしれない。

鹿島岩蔵(明治13年ごろ)。娘・糸子と 鹿島岩蔵(明治13年ごろ)。娘・糸子と クリックすると拡大します

県庁舎総覧会

庁舎の開庁式に先立ち、総覧会が行われた。
5月12日(月)付の山陽新報によると「四方から老若男女が県庁を見て、それから蓮昌寺の大曼荼羅様を拝まんとか、博覧会を見物せんとかいいつつ、山をなすばかりに県庁へ押しかけ、これがために市中は大層のにぎわいになっている」と紹介している。蓮昌寺は1313年創建の日蓮宗の寺院で、2万4千坪の境内と48の末寺を有し中国一を誇っていた。大曼荼羅様はその寺宝である。博覧会は、産業文化の啓蒙のために岡山城を会場に4月から開催されていた民立勧業博覧会のことである。当時後楽園はまだ池田家の所有で、一般公開はされていなかった。明治12(1879)年は県庁、大曼荼羅様、博覧会が岡山の三大観光スポットだった。

しかしこの新聞記者によれば、彼が新県庁舎内に入ろうとすると、官吏は靴を履いたまま上がって良いが、それ以外の者は靴を脱いで上がるようにと係の者から言われる。「官吏と我々との間にかく区別を立てられるはいかなるわけかとお尋ね申したれば、只々その規則なりとのお答えなれば、県庁で御規則にそむいては相済まぬことと思い、拝見せずして卑屈にも帰社いたしました。全体我々の考えでは、お役人様が靴にて上がり賜いしなれば、我々も下駄や雪駄で上がりても苦しからぬくらいにと思いしに、靴でさえ脱がなければならぬとは卑賤なる人民の悲しさというもの。畢竟(ひっきょう)な民権の微弱なるがために実に慨嘆の至りではありませんか」と、皮肉たっぷりの憤懣やるかたない様が紙面から読み取れるが、そういうわけで、建物内部の様子についての記載は一切ない。

岡山県庁舎開庁式と珍妙な「洋食宴会」

5月14日(水)に発行された山陽新報では、5月12日の開庁式の様子が描かれている。午後3時、三つ重ねの板(はん)が鳴ったのを合図に、長官はじめ郡区長及び諸官員などが礼服着用で登壇。出席者の中には病院長、銀行役員、新聞記者などと共に、「新築請負人」という記述も見られ、鹿島岩蔵も「賜饌(*10)の席」に着いたことがわかる。

岡山中の名士が集まったと言う酒肴の後、一同は庭園を総覧した。その後再び宴が夜まで続き、宴の間中、吉備楽(*11)の調べが響いていた。この岡山初の大規模な洋食宴会のために高崎五六は、料理人もボーイも神戸から呼び寄せ、食材も神戸から取り寄せた。新庁舎2階にある長さ24mの大広間中央にテーブルが置かれ、25人前の料理が盛りつけられた。絹のナプキンも用意されていた。準備は万端だと思われたところへ招待客の一人の外国人が、高崎に耳打ちする。椅子が一脚も用意されていなかったのだ。椅子に座る習慣がないので、失念したらしい。高崎は県庁の庭園内にある装飾用の瀬戸物でできたスツールのような形の腰かけを集め、椅子代りにした。招待客のほとんどにとって初めての洋食であるから、出されたスープに水とソースを入れて味を調整する者、ナイフとフォークの使い方が分らず、皿を持ち上げて掻っ込む者、騒々しく大騒ぎだったようである。

鹿島岩蔵は横浜在住で新し物好きだったから、洋食には慣れていたはずである。後に自宅にはコックを置いて朝から洋食を食べていたほどだ。高崎県令や外国人に交じって平然とフォークとナイフを使って洋食を堪能していたのであろうか。それとも皆に交じって賑やかに晩餐を楽しんだのであろうか。
岡山市内では夜遅くまで祭灯をつけ、祭り太鼓を鳴らして新しい庁舎の開庁を祝った。

*10 しせん 天子から賜る食事の意
*11 きびがく 明治初期、雅楽をベースにして岡山に生まれた舞楽

明治天皇山陽道御巡幸

この新しい県庁舎の火の見櫓からは、遠く児島の海まで見渡せると言うので近隣在郷の人が見物に押し掛けた。開庁後、三日間だけ一般市民に公開される予定が我も我もとたくさんの県民が押し掛けたため、公開期間を延ばしたほどである。

関西以北で最も高い建物と言われたこの岡山県庁舎には、明治天皇も山陽道御巡幸の時に立ち寄られている。明治18(1885)年7月26日、34歳の明治天皇は新橋停車場から横浜までは汽車、横浜から横浜丸で神戸港に着き、山口県の三田尻港に入ったのが29日。厳島神社、広島県庁、練兵場とまわり、岡山県へは8月5日から8日まで4日間滞在した。岡山県庁には6日に訪れ、各課を御巡覧されたとある。供奉人員総数199人。その中には当時内務卿で宮内卿も兼務していた伊藤博文の名もみえる。天子さまを岡山へお迎えするのは初めてのことだった。11日には神戸港を出て横浜に12日に着き、山陽道御巡幸は終了する。

大正15(1926)年、皇太子(後の昭和天皇)の岡山・広島・山口三県行啓を記念して多数の記念写真集が発行された。「岡山県写真帖」には、30点の写真と解説が掲載されている。その第一番目に岡山県庁が掲載されている。5月19日、皇太子殿下は横須賀港(神奈川県)から軍艦長門にて出港。21日朝宇野港(岡山県)に入り、24日朝、岡山駅から広島駅に向けて発った。

その後の県庁と天神山

昭和20(1945)年6月29日午前2時、70機のB29が焼夷弾を投下し、岡山の市街地の80%を焼き尽くした。重要文書を疎開させることが決まった翌日のことだった。その日まで使用されていた岡山県庁舎もそれに関する書類もすべて焼失する。

新しい県庁舎(設計・前川國男、施工・竹中工務店)は岡山城近くに昭和32(1957)年6月に完成した。47都道府県の中で最も遅れて完成した岡山県民待望の本庁舎だった。旧岡山県庁のあった場所は、昭和37(1962)年に岡山県総合文化センター(現・天神山文化プラザ)が、やはり前川國男の設計(施工・大本組)で建てられ、前庭だった場所には昭和62(1987)年、岡田新一の設計で岡山県立美術館が建設された。当時、施工図担当主任だった大沢雄作は、今も鹿島・中国支店に在籍している。今と違ってCADのない時代、収まりの難しい三角形の組み合わせの図面を起すことが大変で、何度も設計者と打合せしたこの工事のことを今でも鮮明に覚えていると言う。

県立美術館脇の坂には「県庁坂」という名前がついている。岡山県民は、戦前ここに県庁があったことを忘れていない。

天神山文化プラザ 天神山文化プラザ クリックすると拡大します

岡山県立美術館 岡山県立美術館 クリックすると拡大します

県庁坂。交差点の左に見える木は、天神山文化プラザ入口、その左後ろに見える白い建物が美術館。 県庁坂。交差点の左に見える木は、天神山文化プラザ入口、その左後ろに見える白い建物が美術館。 クリックすると拡大します

現在の岡山県庁舎。 現在の岡山県庁舎。 クリックすると拡大します

<参考資料>
岡山県史編纂委員会編『岡山県史 第10巻 近代1』(岡山県)(1985年)
岡山県『岡山県政史 明治・大正編昭和前期編』(岡山県)(1967年)
蓬郷巌『岡山県庁ものがたり』(日本文教出版)(1963年)
吉岡三平編『岡山事物起源』(日本文教出版)(1974年)
山陽新報マイクロフィルム 近藤豊『明治初期の擬洋風建築の研究』(1999年)
岡山県庁舎建設誌刊行会『岡山県庁舎建設誌』(1967年)
岡長平著作集『ぼっこう横町』(岡山日日新聞社)(1977年)
岡山県『岡山県写真帖』(1926年)

<協力>建設産業図書館
<協力・監修>岡山県立図書館

(2011年8月4日公開)

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