第34回 ヘルメット(保安帽)の話 ―服装の変化とともに―

谷沢製作所(*1)の会議室に、昭和20年代に鹿島で使われていたものらしいヘルメット(保護帽)(*2)が展示されている。20余りのヘルメット(保護帽)の中の一つであるが、左横にNo.100と書かれているこのヘルメットがどこで使われたものか、なぜここに収まったか、その経緯は全くわかっていない。重さは350g、今のものとほとんど変わりない。

*1 たにざわせいさくしょ 本社:東京都中央区。昭和7(1932)年創業の保護具、安全用品の老舗。特に産業用ヘルメットでは国内シェア40%のトップ企業である。
*2 日本工業規格では保安帽。昭和47(1972)年の労働安全衛生法で保護帽という名称が使われるようになった。ヘルメットにはスポーツ用、防災用などもある。このヘルメット(保護帽)の説明書きには、「カッパ型に代表される帽子型に対し、ひさしが周囲についているものをヘルメット型と呼んでいた。長く伸びたひさしで、耳や首筋までを保護できるが、狭隘所には不適のため、屋外作業、建設業や造船業で主に使用された。水に弱い積層ファイバーの欠点を補うため、表面には防水塗装が施された。」とある。

職人の誇り・印半纏

鹿島の祖・鹿島岩吉は江戸時代後期、大名屋敷の出入り大工だった。「大工の岩吉」から屋号を「大岩」と称していた。その頃はもちろんまげを結っており、頭につけるものはねじり鉢巻きぐらいだった。服装は、印半纏(しるしばんてん)、腹がけ(腹巻)、股引(ももひき)というのが一般的である。明治4(1871)年の断髪令により、ちょんまげ姿は見られなくなったが、大工の服装は変わりなかった。

大岩店先の想像図 大岩店先の想像図 クリックすると拡大します

明治13(1880)年、鹿島(鹿島組)は鉄道請負に乗り出す。その時に作った印半纏の背には、曲尺(かねじゃく)と、その中に力(ちから)が描かれた。大工出身であることに誇りを持ち続けようという意味が込められていた。これが現在の社章の元となっている。この印半纏は誰でも着られるものではなく、鹿島の仕事をする職人の中で信用を得た者だけに与えられた印であり、誇りであった。明治時代、土木工事の花形だった鉄道工事では、この鹿島と杉井組が人気を二分していたという。ちなみに、大工から鉄道請負業に転進したのは鹿島だけ。杉井組は後継が育たず現在では消滅している。
明治から大正にかけての現場代人(今の現場所長)と呼ばれる人たちの服装は、背広の上着に紺織の股引、腹がけ、ねずみ色の鳥打帽と云うのが一般的だった。また、鳶や大工などの職人たちは、ぴたっとした股引に、腹がけ、半纏姿。足にはわらじをはいていた。

丹那トンネルでは独自の合羽、保護帽?

この丹那トンネル入坑時の写真は、雨合羽、ゴム長靴に、ヘルメット(保護帽)をかぶっているように見える。しかし、谷沢製作所の谷澤直人副社長に伺ったところ「初めて国産のヘルメット(産業用保護帽)が作られたのは、昭和8(1933)年のこと。当時日本では落石などから頭を護るためのヘルメットは使われていなかっただろう」という。大正年間にアメリカでは鉱山作業で保護帽が使用されていたが当時は学帽型、カッパ型と呼ばれる帽子の上にふたが付いたような形が主流だった。また、「帽子と頭の間に遊び(隙間)がないように見える、保護帽の場合、帽子と頭頂部の間には隙間が必要なため、浅くかぶっているように見えるものだが、これは深くかぶっているようにみえる」といった点も指摘され、この帽子は保護帽ではなさそうである。

丹那トンネルの着工は大正7(1918)年4月だが、竣工は昭和9(1934)年。足掛け17年かかって完成したその工事のほとんどは、湧水との闘いであった。大正8(1919)年暮れ頃から三島口(鹿島工区)では水が多くなり、当時、農家などで着用していた茅(かや)製の蓑(みの)を着用した。しかしこの蓑は水に弱い上、カンテラの火が燃え移って作業員が大火傷をするという事故が起きた。紀州では水の滲みない棕梠(しゅろ)の蓑を着ると聞き、取り寄せるが、耐久力が少し上がっただけ。陸軍払い下げのラシャ(厚地の毛織物)服を蓑の下に着たり、帆木綿(帆布用の厚地で丈夫な綿布)で合羽を作ったり、果ては潜水夫の服を使うなど工夫をしてみたが、どれも決定的ではなかった。熱海口(鉄道工業工区)でも漁師の着る油を引いた袖無合羽を使ったり、綿入れを袖無合羽に改造したり毛布を使ったりしたが、水を吸い、いずれもうまくいかなかった。おまけに坑夫は重い材料を担ぐため、肩の部分がすぐに破れる。

大正12(1923)年の春頃、マントの行商に来た男にゴム合羽を作らせてみた。裏に布をつけるなどして何度も改良を重ね、ようやく使用に足る合羽ができ上った。完成品は一着15円(現在の価値で約7,500円)と値段は高かったが、袖口は折り返して紐で締め、ボタン穴もポケットも水が入らない工夫がされた。肩には厚いゴムを貼りつけて耐久性を増した。最初のうち、重い合羽を着て作業することを坑夫たちは嫌がったと言うが、とにかく体を濡らして体温を低下させることはなくなった。また、ゴム靴も改良して靴底を厚くし、丈を長くした長靴を作らせた。この長靴も高値の時には15円もしたと言う。

ヘルメット(保護帽)に見えた帽子も、合羽や靴と同じ頃から使用されるようになった。最初のうちは一般的な饅頭笠(*3)を使っていたが、水が漏る。そこで平たい菅笠に防水布をつけて使った。しかしこれは上下左右を見るのに不便だったため、写真にあるような麦藁帽子に防水布をつけて後ろの方を切ったものを使った。今のヘルメット(保護帽)の形状に近く見えるが、防水の観点のみから作られた帽子だった。

*3 まんじゅうがさ 竹と竹の子の皮で作られていた丸い笠。現在では人力車の車夫などがかぶっている。

パンフレットに載った礼状

大正元(1912)年、古河鉱業足尾銅山所長だった小田川全之が、アメリカ産業界で提唱されていたセイフティファーストの思想を「安全専一」と訳し、所内での安全運動を始めたことが、日本における安全活動の始まりとされている。当時鉱山では大規模な爆発事故や怪我が絶えなかった。昭和3(1928)年、全産業を対象とした第一回全国安全週間が始まる。

この第一回安全週間に、鹿島は参加していないのか、残っている資料には何の記載もない。翌昭和4(1929)年10月号の鹿島組月報(*4)に「安全週間実行方の件」と題した8月30日付の通知が記載されている。安全週間実行に参加するので掲示用のポスターやマークの必要数を至急知らせるようにと候文で記載されている。ちなみに通達など社内文書は、昭和21(1946)年秋まで候文で書かれていた。

鹿島組月報昭和4(1929)年10月号P7下段 鹿島組月報昭和4(1929)年10月号P7下段 クリックすると拡大します

これ以降、「安全」という言葉が社内でも使われるようになり、昭和10(1935)年には鹿島独自の「工事安全読本(建築工事の巻)」が配布される。安全に関する印刷物を配り、安全教育、安全研究などの啓蒙活動が行われ、それらが「鹿島組月報」で周知紹介されている。残念ながらこれらの活動で使われた資料は一切残っていない。

鹿島の記録に残る一番古いヘルメット(保護帽)に関する記載は、谷沢製作所の昭和13(1938)年製カタログに残されている。岩手県甲子村(現在の釜石市)の鹿島組鉱山現場にいた牛島正彦からの礼状である。「貴所製保安帽は2,3の坑内において試したるところ、結果は良好にして充分保安帽の目的に適すものなる」旨の候文がしたためられており、この現場で試行的に保護帽を使用していたことが分かる。牛島からの葉書には、「一層防水加工に工夫を施していただけると尚いいと愚考する」と書かれているが、当時のファイバー製保護帽は、水に弱いことが難点だったという。

昭和に入っても、ゲートル(巻き脚絆)や脚絆(きゃはん)姿は現場の正装だった。この服装が当時「請負」と呼ばれた建設会社の誇りだったともいえる。昭和3(1928)年の朝鮮図們線建設工事の現場は、有名な赤マムシ(体長60cm~1m。漢方薬の原料)の朝鮮最大の生息地で、商売人が捕獲に押し寄せるほどだった。歩行には素足は禁物、盛夏でも厳重な服装で体を保護しなければならない。足にはゲートルの代わりに蛇がその香りを嫌う紺の脚絆を履いた。

大井川上流の山奥にある湯山発電所(静岡県)は昭和7(1932)年着工である。この現場で隧道担当だった土屋国蔵によると、近くに寸又峡温泉があるせいか温泉の湧出する隧道での作業は難航を重ねた。坑内は熱く、隧道に入る時は裸になった。それでも汗びっしょりとなり、息苦しく一時間くらい仕事をしては外に出て、身体を休めたという。明文化はされていないが、こういった現場では昭和30年代ごろまで褌(ふんどし)の支給もあったようである。

一方満州のような寒い地域では、木綿製の黒い綿入れが作業服として配給された。特に北部の鉄道工事の現場では、9月の終わりには雪が散らつき、寒さが増してくる。体の小さい者がこの綿入れの作業服を着ると、ズボンが胸まであった。足首を紐でくくって、胸をベルトでしめると風が入らず、暖かく、身体の動作は楽だったという。帽子についての記載はないが、耳あての付いた防寒帽が使用されていた。

*4 明治30年代後半から昭和22(1947)年5月まで発行されていた月刊の社内報。現在の鹿島建設月報KAJIMAの元となっている。

安全のためのヘルメット(保護帽)はいつから?

戦後になっても一般的な建設現場では、ヘルメット(保護帽)をかぶることはなかった。保安帽、保護帽の役割を持つヘルメットが、建設業でかぶられるようになったのは、昭和30(1955)年前後のことだと思われる。

昭和30(1955)年8月の社報に、「社員現場用作業被服制定の件」という通達が掲載されている。敗戦から10年。満州、朝鮮、台湾、南洋各所から引き揚げてきた社員もそれぞれの居場所を見出し、年に何度も給与の見直しを図る必要に迫られるほどのインフレもようやく収まり、復興工事、進駐軍工事も終わり、戦後の混乱からようやく落ち着きを取り戻して次のステップへ進む時期だった。初めての統一した現場作業着を身につけることによって、「作業効率を増進すると共に社員意識を高揚してそのプライドと責任感とを高め、対外的にも制服によって全社一体の感を与えて信頼感を増す」ことができると考えられた。種類は「作業衣、作業ズボン、作業帽」の3種。サイズはインチ表示で4サイズ。腰回りは特大でも36インチ(91cm)であるから、皆細かったのか。ちなみに現在はブルゾン(上着)、シャツ(長袖、半袖)、パンツ(ズボン)が男性用10サイズ、女性用3サイズあり、特々大はウエスト105cmである。

同じ年の10月に、労務部(現在の安全環境部)の「保護帽の性能とその取扱いについて」という文章が掲載されている。ヘルメット(保護帽)は正式には現在でも「保護帽」と呼ばれる。それによると「隧道(トンネル)の掘鑿、岩盤の切り取り、高所等における作業場で、物体落下の危険のある作業においては保護帽を着用させることになっている」とあり、この当時こういった現場では保護帽着用は習慣化していたようだが、そのほかの現場ではまだまだであった。記事では保護帽の役目についての啓蒙とともに、「保護帽で死を免れた例」として岩石が落下して保護帽に当たった例が、写真とともに紹介されている。

最高裁判所復旧工事 昭和22(1947)年~24(1949)年 マフラー姿も見えるので帽子は防寒のためか。 最高裁判所復旧工事 昭和22(1947)年~24(1949)年 マフラー姿も見えるので帽子は防寒のためか。 クリックすると拡大します

月ノ沢発電所(山形県)中心部埋戻し(右岸断層部突入)工事 昭和27(1952)年。雨なのか、蓑をつけ菅笠をかぶっている。 月ノ沢発電所(山形県)中心部埋戻し(右岸断層部突入)工事 昭和27(1952)年。雨なのか、蓑をつけ菅笠をかぶっている。 クリックすると拡大します

どちらも東北電力松神発電所工事(青森県)。上の写真は昭和29(1954)年4月23日、導坑4800m地点を削岩機2基で削孔中。カッパ型と言われるごく初期の形状のヘルメットをかぶっている。下の写真は第2号隧道工事下口完成祝。同じ年の5月29日。 どちらも東北電力松神発電所工事(青森県)。上の写真は昭和29(1954)年4月23日、導坑4800m地点を削岩機2基で削孔中。カッパ型と言われるごく初期の形状のヘルメットをかぶっている。下の写真は第2号隧道工事下口完成祝。同じ年の5月29日。 クリックすると拡大します

桂沢ダム建設工事(北海道)昭和26(1951)年~32(1957)年 現場事務所前での記念撮影。現場での基本的な服装は明治後期と変わっていない。 桂沢ダム建設工事(北海道)昭和26(1951)年~32(1957)年 現場事務所前での記念撮影。現場での基本的な服装は明治後期と変わっていない。 クリックすると拡大します

大和証券ビル新築工事 昭和30(1955)年3月 現存写真中、建築工事でヘルメットをかぶっている 一番古い写真。作業員はまだヘルメットをかぶっていない。 大和証券ビル新築工事 昭和30(1955)年3月 現存写真中、建築工事でヘルメットをかぶっている 一番古い写真。作業員はまだヘルメットをかぶっていない。 クリックすると拡大します

鹿島建設月報昭和34(1959)年11月号裏表紙。以降昭和50(1975)年3月まで安全関連標語、イラストなどを毎月掲載。 鹿島建設月報昭和34(1959)年11月号裏表紙。以降昭和50(1975)年3月まで安全関連標語、イラストなどを毎月掲載。 クリックすると拡大します

東京放送会館新築工事(東京都)現場での安全表彰風景 昭和35,6(1960,61)年ごろ 東京放送会館新築工事(東京都)現場での安全表彰風景 昭和35,6(1960,61)年ごろ クリックすると拡大します

社報昭和30(1955)年10月11日号 社報昭和30(1955)年10月11日号 クリックすると拡大します

しかし、ヘルメット(保護帽)にしろ安全帯にしろ、現場で働く作業員にとっては「安全」という概念よりも動きやすさ、働きやすさが優先し、この時代、作業員の指導には苦労していたようである。例えば、昭和32(1957)年から建設の始まった奥只見ダム(福島・新潟県境)の現場では、「保安帽も腰ひも(安全帯)も普及し始めた頃であったから、高所作業をしている作業員に帽子をかぶれ、腰ひもをつけろと命じると、背中の保安帽や腰にぶら下げただけのひもを指さして、持っているよと云うゼスチャーをして平気な顔をしているのには閉口した。」(*5)という。

また、昭和36(1961)年の城山発電所(神奈川県)の現場では乗り込み時から『保安帽全員着用』の指示が出されていた。「労務係は各班作業員に保安帽の完全着用を励行させるため現場を巡回したが、オペレータに保安帽着用が定着しない。機電係長に相談に行くが、当時はオペレータの権力が強く、保安帽着用の強要はできないと言われてしまう。多少の議論は仕方がないが保安帽着用を強行していこうと、機電係長にも理解してもらい、翌日オペレータ全員に集合をかけると同時に機電係長が各作業場を巡回。見事にオペレータ全員保安帽の着用に成功した。これを見て驚いた各班の職長が、我も我もと保安帽着用の号令をかけ、作業員の保安帽全員着用を実現した」(*6)

こうして昭和30年代も半ばを過ぎると、ヘルメット(保護帽)は当たり前のように定着していく。

谷沢製作所の谷澤陽太郎相談役によると、鹿島の建築本部(現・東京建築支店)で谷沢製作所製のヘルメット(保護帽)の使用が制定されたのは、昭和36(1961)年ごろのことだったが、一般的に建築現場でヘルメット(保護帽)が完全着用される契機になったのは、昭和47(1972)年の労働安全衛生法の施行からだという。

*5 横尾誠吾『私の鹿島土木史』P63
*6 高草木功「城山地下発電所工事における労務管理と現場の思い出」横尾誠吾『私の鹿島土木史』P161

現在のヘルメット(保護帽)事情

ヘルメット(保護帽)は昭和30年代前半までは炭鉱での使用が一番多かったが、その後高度経済成長とともに、重厚長大産業の工場や建設現場などでの使用が増えていった。その種類も、昔は14種類くらいだったものが現在では形状の違いだけで100種類を超える。それぞれの産業に見合った形のヘルメット、ニーズに合わせたヘルメットが作られる一方で、昭和52(1977)年、ヘルメット(保護帽)の規格が変わり、環紐と呼ばれる部分でかぶり深さの調整ができなくなった。今までのJIS規格に加え、国家検定の対象となり、より厳しい審査が行われるようになる。加えて昭和50年代半ば過ぎから建設現場では、内装に発泡スチロールなどを使った衝撃吸収ライナーが加わる。衝撃吸収性が1.5倍上がったと言う。大手建設会社が率先してこのヘルメットを使用したことで、業界全体に広まっていった。

平成元(1989)年4月、鹿島は創業150年目を機に、ヘルメットと作業服をモデルチェンジした。時代と共に建設現場での働き方が変化し、得意先や設計事務所で打合せの時にも違和感のない、ネクタイも合う作業服(ユニフォーム)が、社員にアンケートを取り、試着テストを繰り返して作られた。基本デザインをメンズブランドのデザイナー細川伸が担当している。

ヘルメットの色とデザインもこの時に変わっている。それまで支店ごとに違う色で、アップルグリーン(おもに土木系現場)クリーム色(2種類)、黄色、白が混在し、ラインが入ったものもあった。形はMP型と呼ばれる既成品が主だった。鹿島は新デザインの提案を数社に依頼したが、谷沢製作所ではちょうどMP型でも野球帽型でもない欧米スタイルの新製品を一般販売のために開発中だった。それを鹿島のオリジナルヘルメットとして提案。今ではごく当たり前のワンタッチバックルもこの時の提案の一つだった。このヘルメット(保護帽)はデザインが斬新なだけでなく従来と比べて50gも軽く、疲労度が全く違うということもあり、すぐに採用が決まったと言う。

この後他の建設会社でもオリジナルデザインによる仕様変更が相次いだ。鹿島以外で独自の形状のヘルメット(保護帽)を使用しているのは大成建設、清水建設、大林組、東急建設、フジタの5社だけ。日本唯一のオリジナルヘルメットメーカーである谷沢製作所が、それぞれの企業と打ち合わせを重ねてニーズに合わせたヘルメット(保護帽)を作って来た。デザインを社内公募したり、より後頭部の保護に特化したもの、風通しをよくしたもの、軽くしたものといった工夫をしたりと、ヘルメット(保護帽)は今も進化をつづけている。ちなみに鹿島のヘルメットは業界最軽量。JVで他のヘルメットをかぶった時、初めてその軽さを知ることになる。

鹿島では、平成16(2004)年4月から使用済みのヘルメット(保護帽)を、セメントの原料や燃料としてリサイクルしており、また平成22(2010)年4月からは作業服(ユニフォーム)を自動車内装材や防水シート等にリサイクルするなど、環境にも配慮をしている。谷沢製作所によると、最近では通常ヘルメットを使用しない企業でも防災用のヘルメットを装備するようになってきているという。どのヘルメット(保護帽)にも、安全への願いが込められている。

<参考図書>
横尾誠吾『私の鹿島土木史』(1985年)
小林八二郎『五十年の歩み』(1975年)
土木工業協会、電力建設業協会『日本土木建設業史』(1971年)
鉄道省熱海建設事務所『丹那トンネルの話』(1934年)

<協力>(株)谷沢製作所

貨幣価値は、日銀の企業物価指数を参考に換算。

(2011年12月12日公開)

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