第38回
香取秀真と鹿島龍蔵の交流―鹿島組本店ビル正面に掲げられたレリーフ

鋳金家・香取秀真(ほつま)は、近代金工史における先駆的人物で、美術の工芸家として初の文化勲章を受章している。八重洲にあった鹿島組本店ビルの正面玄関には、彼の作ったレリーフが掲げられていた。今回は、香取秀真と鹿島組のつながりについて、取り上げる。

グラスゴー大学で学んだ鹿島龍蔵

東京駅の八重洲南口、現在、八重洲ブックセンター(東京都中央区)の建っている場所に鹿島組本店ビルがあった。設計者は、鹿島龍蔵(たつぞう)である。

鹿島龍蔵は、鹿島組の2代目経営者である鹿島岩蔵(いわぞう)の息子で、明治13(1880)年に生まれた。明治29(1896)年、17歳で第一高等学校に入学するが、本人いわく「遊び過ぎがたたって」2度も落第し、明治33(1900)年春に退学、同年イギリスのグラスゴー大学に入学し、造船学科に学ぶ。グラスゴー大学は、1451年に創設された世界でも最も古い大学の一つで特に工学分野では最古の歴史を持ち、産業革命で大きな役割を果たしている。龍蔵がどういう経緯からこの大学を選んだかは定かではないが、20世紀初頭のグラスゴーは、活気にあふれた工業都市で人口101万人(*1)。造船業も盛んだった。ここで若き龍蔵がさまざまな影響を受けたであろうことは想像に難くない。龍蔵と交流があった芥川龍之介は「この度は田端の人々を書かん。こは必ずしも交友ならず。むしろ僕の師友なりと言ふべし。」で始まる随筆「田端人」を大正14(1925)年に著しているが、その中で龍蔵のことを「少年西洋に在りし為、三味線や御神灯を見ても遊蕩を想わず、その代わりに艶めきたるランプ・シエエドなどを見ればたちまち遊蕩を想うよし」と書いている。彼は今見ても非常に端正な顔立ちをしているが、若き日、イギリスでどのような毎日を送っていたのだろうか。後に龍蔵は留学時代のことを、日本から豊かな仕送りを受けて、何の責任もなく誰の監督も受けずに過ごした時期だったと振り返っている。

龍蔵が大学を卒業したのは明治37(1904)年のことである。その年の2月、日露戦争が勃発していた。兵隊にとられるから帰らない方がいいと両親に言われ、アメリカに1年、オーストラリアに1カ月滞在する。日露戦争は明治38(1905)年9月5日のポーツマス条約調印によって終結し、龍蔵はそれから間もなくして帰国した。明治39(1906)年1月、神戸の川崎造船所に勤めるが、同年夏に辞職、東京に戻って9月に結婚、12月に横須賀の東京湾要塞砲兵連隊に志願兵として入り、1年後の明治40(1907)年12月に除籍する。

*1 1900年の世界の都市の人口はロンドンが648万人で1位、以下、ニューヨーク、パリと続き東京は約150万人で7位。グラスゴーは16位だった。

芥川龍之介が憧れた「東京人」

龍蔵が鹿島組の経営に加わったのは、いつごろからなのかははっきりしない。父・鹿島岩蔵のもとで働きたくないために、造船所に勤めたり、志願兵になったりしたのだろうか。龍蔵は後に「父が世を去るまで反目し続けた。反目といっても憎み合うのではないが、年中向かい合えば反目していた。これは父と祖父の関係も同じだった」と書いている。父・岩蔵は、息子が留学中、金遣いが荒いと怒りながら仕送りをしていたという。明治42(1909)年正月の写真では、鹿島岩蔵組長を挟んで右に鹿島精一副組長、左に龍蔵が座っている。とすると、この頃はすでに鹿島組の経営にかかわっていたのであろう。父・岩蔵は明治45(1912)年2月に亡くなった。龍蔵は、社内では理事さん(*2)またはその住まいから「田端さん」と呼ばれ、組長であり義兄である鹿島精一の補佐を務めた。明治30年代から発行されていた『鹿島組月報』に自ら率先して読み物や旅行記を書き、内容を充実させたのも龍蔵である。彼の文章は「孤峯荘主人」、書画には留学時代の呼び名であるトーマスを漢字にした「唐升」という雅号で掲載された。

龍蔵は、書、篆刻、謡、舞、長唄、常磐津、狂言、歌沢(*3)、狂言、テニス、スケートと多彩な趣味を持っていた。芥川龍之介は、「然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの『人となり』なり。鹿島さんの如く、熟して敗れざる底(てい)の東京人は今日既に見るべからず。明日は更に稀なるべし。僕は東京と田舎とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情――或は狐狸相親しむの情を懐抱せざる能わざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言を餞(はなむけ)す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して来てはいけません。」龍蔵は大正14(1925)年にイギリス、イタリア、フランス等をまわるヨーロッパ旅行に出かける。横浜港では大勢の見送りに見向きもせずにフランス語の勉強をしていた。芥川の小説『河童』に出てくるゲエルという資本家は龍蔵がモデルだと言われている。  

*2 昭和5(1930)年に株式会社となるまでは、鹿島組は組長1名、理事(2~3名)という構成だった。株式会社設立後、龍蔵は取締役(5名)のうちの1人となった。
*3 端唄の一種。江戸後期から流行りだした。江戸っ子の粋人好みの歌。

田端文士村

明治44(1911)年初夏、鹿島龍蔵は田端650番地(現・東京都北区田端6丁目)に家を建て、移転。ここを「孤峯荘」と名付ける。天気のいい日には、遠く孤峯・筑波山(茨城県。877m)を眺めることができた。以後、昭和11(1936)年に浦和市領家30番地(現・さいたま市浦和区領家)の「雑木荘」と名付けた別荘に移るまで、25年間をここで過ごす。

当時の田端は、雑木林や畑が広がる農村で、上野の美術学校(現・東京芸術大学)からは約3km、ゆっくり歩いても小一時間ほどの近さだったため、明治30年代頃から若い芸術家が集まるようになる。小杉放庵(洋画家)、板谷波山(陶芸家)、吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家・歌人)、山本鼎(洋画家)らが次々と移り住み、大正時代に入ると芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、菊地寛、中野重治と言った小説家や詩人も田端に住むようになった。そのため田端は「日本のモンマルトル」あるいは「田端文士村」と呼ばれるようになっていった。鹿島龍蔵は彼等のパトロン的存在で、彼等のよき理解者であった。

近藤富枝の著作『田端文士村』の鹿島龍蔵の項は「板谷波山の貧窮時代の話である。波山は貧乏のどん底にあっても、自分からは決して借金にはいかないたちであった。いつも妻のまるが働いた。波山が借金に出たのは生涯に二度だけであった。その一度が鹿島龍蔵で、まると夫婦喧嘩をしていたために、やむなく波山がでかけたのである。その金で牛肉を買い、子供達を喜ばしたと言う。」と言う文章で始まる。その他、アトリエ建設中に大工に金を持ち逃げされた田辺至を助け、アトリエを完成させるなど、龍蔵の文士や芸術家たちへのパトロンぶりは枚挙にいとまがない。龍蔵は彼等とよく旅行をした。大正7(1918)年だけでも香取秀真と長野草風(日本画家)を誘って1月に九州、5月に関西、11月にも関西に出かけている。当時は旅行などに誘った方が金を出すのが当たり前で、費用はすべて龍蔵が出したという。また、「道閑会」という文士や芸術家との交流会を作り、芥川龍之介や菊地寛らとも頻繁に食事会などを持った。
大正12(1923)年9月1日の関東大震災の時には、龍蔵の田端の家には200人もの避難民が家中を埋め尽くし、9月5日夜には、越後高田連隊歩兵一個中隊100名が庭に露営する。それほどに敷地が広く、大きい家だった。

鋳金家・香取秀真

龍蔵と田端で交流の深かった鋳金家・香取秀真は、明治7(1874)年、千葉県印旛郡船穂村(現・印西市)の農家に生まれた。7歳で印旛郡佐倉村(現・佐倉市)の総鎮守・麻賀多(まかた)神社の宮司・郡司秀綱の養子となる。明治24(1891)年上京、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)にトップ合格。明治30(1897)年東京美術学校鋳金科を卒業し、鋳金家となった。彼は木彫を勉強するために美術学校に入ったのだが、学生時代のある時「奈良の大仏はどのようにして鋳たのか」とある人に聞かれ、答えることができなかった。そして、その謎を解明しようとして金工の道に入る。この奈良の大仏については、秀真は昭和12(1937)年に『東大寺大仏の鋳造について』と言う本を上梓し、その疑問に答えている。

秀真は歌人としても活躍している。20歳ごろから和歌を詠み、明治32(1899)年には、正岡子規の弟子となり、根岸短歌会の同人となった。昭和8(1933)年に春陽堂から出版された『万葉集講座』では、第3巻の中に正岡子規について書いた香取秀真の文章を見ることができる。

大学卒業後明治33(1900)年にはパリ万国博で銀賞牌を受賞、国内でも数多くの賞を受賞した。明治36(1903)年から昭和18(1943)年まで40年間、東京美術学校で、鋳金史と彫金史を教えている。昭和4(1929)年に帝国美術院会員となり、昭和28(1953)年には美術工芸家としては初となる文化勲章を受賞し、工芸を芸術の分野に高めた。

明治42(1909)年、秀真は田端433番地に転入し、大正6(1917)年、438番地に移転。芥川龍之介の隣に住まう。芥川は「田端人」の中で彼のことを「香取先生は通称『お隣の先生』なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり」と紹介している。香取の長男正彦は、明治32(1899)年に生まれ、大正9(1920)年東京美術学校に入学、卒業後鋳金家の道を歩む。昭和6(1931)年から20(1945)年まで田端500番地に居を構えていた。戦前全国の寺院にあった釣鐘は約6万個、そのうち5万個が戦災や供出でつぶされている。秀真の喜寿を記念し、昭和25(1950)年から父子共銘の鐘を作り始める。正彦は父が亡くなってからも作り続けた。個人で梵鐘を制作する鋳匠は香取父子が初めてだったと言う。広島平和の鐘をはじめとして日本全国の寺院のために作った鐘は、150以上になる。香取正彦は昭和52(1977)年に人間国宝に認定された。

香取秀真 千葉県立美術館HPより香取秀真 千葉県立美術館HPより

鹿島組本店ビルの建設

木挽町9丁目にあった木造2階建ての鹿島組本店は、大正12(1923)年の関東大震災で焼失、その跡地に2階建てのバラックが応急的に建てられる。大正12(1923)年9月7日、湊出張所(青森県三戸郡湊村、現・八戸市)所長の難波多津二が30名ほどの作業員と持てるだけの米を持って上京し、本店焼け跡に一週間ほどで作った急ごしらえの建物である。鹿島組は5年半余りこのバラックを本店とした。代替え地として東京市から与えられたのは、東京駅八重洲口の土地だった。現在の八重洲ブックセンターの建っている場所である。当時の東京駅八重洲口は改札が1つしかない東京駅の裏口。現在の外堀通りはまだ外堀のままで、東京駅から木造の古い陸橋がかかっていた。都電(当時は市電)の鍛冶橋停留場が近く、周囲には煙草屋、病院、床屋、すし屋、駄菓子屋などがあった。

八重洲に新たな鹿島組本店ビルの建設が始まったのは昭和3(1928)年3月のことである。鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階地上3階搭屋1階、延べ1,250㎡、軒高15.76m。基礎は松杭、外装は稲田石(*4)の粗仕上で、腰積以上の壁面は黄土色の砂岩模様の石張りだった。特筆すべき特徴は、(1)車庫代わりでターンテーブルになっている車寄せ (2)各事務室窓下に取り付けられた作り戸棚(室内が乱雑になるのを防ぐ) (3)窓下床面の小窓(室内下層の換気装置) (4)ブラインドと3段の横軸回転窓 の4点で、『土木建築工事画報』ではこれらを「設計者の労を多とするに足る」(*5)と評価している。

後に鹿島卯女(*6)が『鹿島建設月報』で「鹿島龍蔵氏(当時理事さんと言われていた)が設計して4階建ての本社ビルを建設しました。今思えば一寸変わったあまりぱっとしないビルでしたが、その頃はビルは丸の内側に2,3あった位で、八重洲側の建物はほとんど1,2階建てだったのでひときわ目立ったようです。(中略)入口の中央には車庫を兼ねて自動車のターンテーブルが埋め込みになっていたのは当時としては珍しい設備でした。叔父の力一杯の設計だったのでしょう。」(*7)と書いて、叔父龍蔵の個性がそこここに表れていた八重洲のビルを懐かしんでいる。

地下には倉庫、暖房機械室、配電室が置かれ、1階には食堂と事務室、2階には組長室、理事室、応接室、電話交換室、庶務と経理の事務室、3階には、そのほかの部署と、来客用の和室、宿直室、店童(書生)寝室、搭屋には図書室、娯楽室、物干しが置かれた。

*4 いなだいし 花崗岩のこと。別名白御影。茨城県笠間市稲田付近が産地。明治以降土木・建築用材として広く使われた。日本橋、最高裁判所,日本銀行本店新館の外壁などに用いられている。
*5 『土木建築工事画報』昭和4年5月号 P36
*6 かじま うめ 1903-1982 龍蔵の姉・糸子の娘。鹿島の5代目社長
*7 鹿島卯女「八重洲ブックセンターのオープンに当たって」 『鹿島建設月報1978年10月号』P24

労働者のレリーフ

縦のラインを強調したシンプルなファサードの本店ビルの建物正面入口には、日本鋳金界第一人者と言われた香取秀真氏作のスコップや鶴嘴(つるはし)をかついだ労働者の横顔のレリーフが取り付けられた。

中央にアルファベットでKAJIMA-GUMIと表記され、その左右に向き合って、9人ずつのヘルメット姿のたくましい男たちの横顔があり、それぞれスコップや鶴嘴をかついでいる。肩の筋肉が盛り上がっていて、上半身裸であることがわかる。ブロンズの重厚感と相まって、建設会社の本店ビルらしい重々しさがある。

当時の建築界は関東大震災の後の建設ブームで、メダリオン(*8)やレリーフなどの装飾が流行っていたのは確かである。しかしそれらは、テラコッタ(*9)、彫刻、石膏製や漆喰製などで、ブロンズのレリーフという重量のあるものを、それも玄関の軒蛇腹(*10)に取り付けた例は、調べた限り見当たらない。イギリスで造船学を修めた龍蔵の真骨頂と言える。

加えて、香取秀真のレリーフと言うのも類のないことだった。彼は鋳金家で、その作品は香炉、仏具、花瓶、置き物等がほとんどである。鹿島龍蔵の表札なども作っているが、これだけ大きなブロンズ製のレリーフというのは、他に例がない。この労働者のレリーフの制作については、香取秀真の作品集などを見ても全く記録がなく、詳細は不明である。

昭和4(1929)年5月号の『土木建築工事画報』に鹿島組本店の新築工事概要が紹介されているが、これには「正面玄関軒蛇腹は美術界の新人香取正彦のブロンズレリーフ張り付け」とある。香取正彦は、日本経済新聞連載の「私の履歴書」の中で、昭和10(1935)年に鹿島龍蔵に乞われて満州の昭和製鋼所創立20周年の記念品を作るために現地を訪れた事を書いているが、そこでは鋳物で作ることができず、焼き物にしたことと、それを保存して下さっていた人がいて、現物を見ることができた感慨について触れている。鹿島組本店ビルのレリーフについての記述はどこにも見当たらなかった。このレリーフが、鹿島に昔から伝わるように父・香取秀真の作なのか、それとも『土木建築工事画報』に書かれているように子・香取正彦の作なのかは、レリーフにサインがないこともあり、はっきりしない。

このレリーフの図柄は、鹿島の古い株券にも使われている。昭和36(1961)年9月に株式公開(店頭株、同年10月に株式上場)して大幅にデザイン変更するまで、30年もの間、鹿島の株券の上部には、常に香取秀真のレリーフが描かれていた。鹿島組にとっても、鹿島で働く人にとっても、このレリーフはシンボル的な存在だった。

正面玄関の上にレリーフとKAJIMA-GUMIの文字が見える 正面玄関の上にレリーフとKAJIMA-GUMIの文字が見える クリックすると拡大します

株券(*11) 株券(*11) クリックすると拡大します

*8 メダリオン メダイヨンともいう 明治期から昭和初期にかけての西洋建築、石造りなどの大型公共建築に多用された円形の壁面浮き彫り装飾 石膏や漆喰で作られる事が多い
*9 テラコッタ 素焼きの焼き物
*10 のきじゃばら 建物の軒や最上部に帯状にめぐらした刳り方のある突起部分
*11 昭和5(1930)年に株式会社になった時の百株券。ほかに五百株、拾株券、五株券、壹株券があった。上部中央のロゴマークは、鹿島のKと創業者岩吉の岩の篆字(てんじ)を図案化したもの。 カでは美術的ではないと、明治44(1911)年ごろできた。株券下部には カマークが使われており、ふたつのロゴが、並行して使用されていた。これは、社名が鹿島建設株式会社となってからも踏襲され、昭和36(1961)年株式上場までの50年間、株券の上部にはこのレリーフの図柄が使用されていた。

レリーフの供出

昭和13(1938)年7月に国家総動員法が施行される。そのころの『鹿島組月報』には「鉄鋼材配給統制に関する件」「重油、ガソリン類使用制限に関する件」「消費節約励行徹底に関する件」「物価公定に関し諸材料購入方に付注意の件」等の通達が並び、「銅使用制限規制の改定について」の時事解説も掲載されている。政府は鉄鋼配給規則を制定し、金属類の回収を呼びかける。昭和14(1939)年1月を過ぎると、マンホールの蓋、ベンチ、鉄柵、灰皿、火鉢等鉄製品の回収がそれぞれの役所や職場単位で実施される。しかし任意の供出で拘束力がなく、需要を賄うことができない。そこで昭和16(1941)年9月、金属類回収令が制定され、金属製品は、役所・職場・家庭の別なく、子供の玩具に至るまで、根こそぎ回収されるに至った。

昭和17(1942)年に入ると、金属製品の回収はますます厳しくなっていく。都道府県ごとに「資源特別回収実施要綱」が定められ、大々的な金属の回収が行われる。東京都は昭和18(1943)年9月、金属非常回収工作隊を結成し、都庁以下全役所と国民学校・中学校の暖房器機などの回収を開始する。家庭で使用中の鍋釜等の金属製品類も回収対象となった。官公庁、市町村の施設、神社、寺院 教会なども例外ではなかった。

鹿島組本店ビル正面玄関を飾っていた香取秀真のレリーフも、供出の対象になった。確たる日付は不明だが、供出の指令を受けた日の夜に急いで撤去し、隠したのだった。急いだために、随分乱暴に引きはがされたようである。6個のパーツに別れたレリーフは、1枚が幅130cm高さ65cmほど。大人4人でようやく持ちあげられる程度の重さで、応急的に作られた木箱に納められ、どこかに保管されていた。木箱の状態から考えて、別の場所に疎開していたのではないかと考えられる。レリーフの剥がされた跡は、そのままだった。

昭和20(1945)年5月、鹿島組本店ビルは焼夷弾の直撃を受ける。地下の倉庫にあった社史資料などもこの時にすべて燃えたと聞く。どこかに疎開していた木箱に入ったレリーフは、被災を免れた。

昭和22(1947)年、社名を鹿島建設と変えるが、レリーフは元に戻されなかった。このとき、レリーフのあった場所に社名「鹿島建設」が、入れられた。昭和43(1968)年7月、赤坂に本社ビルが建てられ、本社機構は赤坂に移される。
八重洲の旧本店ビルは昭和50(1975)年まで残り、土木部八重洲出張所等が入居していた。八重洲ブックセンターを新築することになった時、この香取秀真のレリーフをエントランスに飾ろうという案があったが、いつの間にか立ち消えてしまった。レリーフは、今、赤坂別館の資料センターの倉庫に眠っている。

<協力>
北区文化振興財団 田端文士村記念館

<参考資料>
『筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻』筑摩書房(1971年)
嶋本久寿弥太編『香取秀真の芸術と生涯 資料編』(1955年)
香取正彦『鋳師の春秋』(1987年)
藤森照信『建築史的モンダイ』(2008年)
武村雅之『天災日記 鹿島龍蔵と関東大震災』(2008年)
近藤富枝『田端文士村』(1983年)
工事画報社『土木建築工事画報』昭和4年5月号(1929年)
芥川龍之介「田端人」『芥川龍之介全集第4巻』(1971年)
鹿島龍蔵『第二涸泉集』(1927年)
鹿島龍蔵『第一・第三涸泉集』(1932年)

(2013年4月1日公開)

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