第39回 リトルトーキョー再生 ―よみがえったアメリカの日本人町―

ロサンゼルス中心部にある全米一大きな日本人街リトルトーキョーは、サンタモニカ、ビバリーヒルズ、ハリウッド等と共にロサンゼルス市内の観光名所の一つである。しかし、この街に存亡の危機が訪れた時に、鹿島をはじめとする日本企業が立ちあがったことは、意外に知られていない。

米国に渡った日本人たち

米国に渡った日本人たちは、ジョン万次郎のように漂流した漁民などを除き、明治の中ごろまでは勉学が目的の者が多く、ほとんどは旧士族や裕福な商家の子弟などで、書生として米国人の家庭に住み込みで働きながら、学校に通った。同志社大学を創立した新島襄は、明治3(1870)年、日本人として初めて米国の大学(*1)を卒業している。

明治の半ば過ぎからは農民や労働者も米国に渡る。各地で鉄道建設が盛んになると多くの日本人労働者が採用された。明治39(1906)年ごろ米国にいた日本人は約4万人。その1/3に当たる1万3千人以上の日本人が鉄道労働者だった。日本人の勤勉さ、緻密さは重宝され、様々な分野、特に農作物の生産で成功者も出て来るようになった。

南カリフォルニアには明治3(1870)年ごろにはすでに2人の日本人がいたと言われる。明治26(1893)年にロサンゼルス市で開かれた天長節奉祝会には80数名の日本人が集まった。その後日本人は徐々に増え、料理店、風呂屋、日本食料品店なども開かれる。明治30(1897)年にはロサンゼルスで最初の羅府日本人会が組織された。明治34(1901)年から大正13(1924)年までが移住最盛期で、ロサンゼルスとその近郊に住む日本人の多くは、農園、鉄道、鉱山、漁業などの労働に従事する。また、それらの経営者や、旅館、下宿、日本料理店、洋食店などの経営者も多かった。

*1 ニューヨーク州アマースト大学で理学士の学位を取得。新島は文化元(1864)年に密航して米国に渡り、後に正式な留学生となった。

リトルトーキョーの始まり

リトルトーキョーは、明治18(1885)年にチャールズ・カメという元水夫(漁民という説もある)がロサンゼルス通りの一角にレストランを開いたことが始まりだと言われる。明治39(1906)年のサンフランシスコ地震(*2)でサンフランシスコ日本人街は壊滅し、人々は南に移住した。このためロサンゼルスの日本人人口は急激に増加し、明治39(1906)年の4,613人から明治40(1907)年末には7千人となった。市内には5つの日本人宗教団体、10の県人会が設立され、ほかに商業会議所、湯屋組合、旅館組合などの団体が生まれる。ロサンゼルス市は、明治43(1910)年頃ハリウッドなど近郊都市を合併、大正3(1914)年には人口45万人の大都市となり、それに伴って日本人社会も大きくなる。ダウンタウンに近い日本人街はその頃から小東京(リトルトーキョー)と呼ばれる。家族経営の小売店、旅館などがあり、渡米間もない日本人たちや日系移民の心の支えとなっていった。

大正4(1915)年にはロサンゼルスに日本領事館が置かれ、新聞社、雑誌社、学校、私塾などもできてくる。昭和15(1940)年、ロサンゼルスの日本人は一世、二世、三世あわせて3万2千人、米国全体で11万人の日系人が暮らしていた。日米開戦により、彼等は太平洋沿岸から立ち退きを余儀なくされ、強制収容される。昭和19(1944)年12月に米国政府は翌年1月から日系人の太平洋岸への帰還を許し、日系人たちは元の場所へ戻って来た。しかし、すべての日系人が元いた場所に戻ったわけではない。そのため全米各地の日本人街はすたれていく。カリフォルニア移民の中心だったサクラメントの日本人街は、市街地再開発によって消え、町並みも人も変わってしまった。米国各地で同様の都市改造が進み、日系人は離散の運命をたどっていた。リトルトーキョーも例外ではなかった。不在の間に荒らされた街並、建物は老朽化が進み、街の復興は思うに任せなかった。

*2 明治39(1906)年4月18日未明アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ周辺で起こった地震。マグニチュードは7.8程度だったが、火災が3日間続き、町のほとんどが焼けた。死者は約700人(諸説あり)。人口40万人のうち22万5千人が家を失ったと言われる。

生まれ変わる時を迎える

昭和36(1961)年夏、リトルトーキョーにある都ホテルを取得して新ビルを建設しないかという話が住友銀行(現・三井住友銀行)から鹿島に持ちかけられる。都ホテルビルを所有していた日系一世が、売却して日本に戻る計画だと言う。住友銀行のアメリカ子会社、加州住友銀行ロスアンゼルス支店はこのビルの1階にあったが、建物の老朽化が著しく、鹿島に建て替えてもらえないかというのである。

住友銀行は、大正5(1916)年に米国に進出しサンフランシスコに支店を、ハワイに布哇住友銀行を開設していた。大正13(1924)年ロスアンゼルス支店が開設される。日系移民にとって日系銀行の役割は大きかった。そのため移民の出身地である中国・九州地方、和歌山県などにも出張所等を設置して日系移民と彼らを送り出した家族に対応してきた。昭和16(1941)年の日米開戦によって在米各支店は接収され、撤退するが、昭和27(1952)年サンフランシスコに加州住友銀行を設立し、再進出を果たす。ロスアンゼルス支店はリトルトーキョーに置かれた。

鹿島建設会長の鹿島守之助と社長の卯女夫妻は昭和36(1961)年12月にリトルトーキョーを訪れた。一か月半にわたる欧州・北南米視察の途中、夏に話を持ちかけられていた都ホテルとリトルトーキョーを実際にこの目で見てみようとロサンゼルスを訪れたのであった。二人はそれより以前、昭和29(1954)年にロサンゼルスを訪れている。その時はロサンゼルスで成功を収めているフレッド和田(*3)の案内で各所を回り、日系人の活躍を肌で感じていた。シティホール(*4)に上り、市街を見渡している。しかし、リトルトーキョーを見るのは昭和36(1961)年に訪れた時が初めてだったようである。鹿島卯女はこの時のことを次のように書いている。「当時、リトルトーキョーに隣接する都ホテルという煉瓦造の古いホテルがあった。住友銀行の支店はそこに入っていて、銀行の支店長の案内でそのホテルの屋上からリトルトーキョーを眺めた。ホテルは、住友銀行がよくこんな汚い所にいられると思うほどの古い汚いビルで、そこから眺めた日本人街は決して美しいとはいえない古い汚いさびれた町だった。」(*5)「前面には立派なシティホールがあり、警察などの建物が並び、その向かいに古い大きな停車場がある。広いパーキングには何百台もの自動車が色とりどりに並んでいた。日本人街の方は、日本語の看板がたくさん出ているが、なんともさびしい風景であった。長年培った日本人街、リトルトーキョーも今何とか生まれ変わらねばならない時期という事であった。」(*6)

*3 ふれっど・わだ 1907-2001 日系二世。実業家。1964年の東京オリンピックや1984年のロサンゼルスオリンピック招致に関わるなど、スポーツ界に多大な功績を残した。
*4 ロサンゼルス市庁舎。昭和2(1927)年竣工。地上28階建、138m。昭和43(1968)年まで41年間ロサンゼルスで一番高い建物。
*5 鹿島卯女「ロスアンゼルスとミネアポリス紀行」『鹿島建設月報1977年10月号』P27
*6 鹿島卯女「ロスアンゼルスと私」『鹿島建設月報1977年2月号』P34

日本人街は日本人の力で再建美化を

帰国した鹿島守之助は住友銀行頭取の堀田庄三と共に、リトルトーキョー再建に立ちあがる。「ロスはその近傍に、カリフォルニア在留日本人のほぼ半数である約8万人が住んでいる日本文化の中心地である。そのリトルトーキョーを近代化して日本人の生活圏を擁護し、その四散を防止することは、急務中の急務」(*7)だと考えた鹿島守之助は、さまざまな反対や困難にもかかわらず、再開発を断行する。日本は敗戦国かもしれないが、米国の日系人がそれによって貶められることのないように、ようやく日米対等と言われるようになった時代において「一方が貧民窟のような所に住んでおり、一方が高度に近代化された高層ビルに住んでいては、対等ムードなどは到底考えられないことである。リトルトーキョーの近代化なくしては、日米対等は考慮できない。日本が米国と同じ資格において、政治、経済、文化を発展させることは不可能であろう。」(*8)

当時の鹿島は昭和30(1955)年にようやく「我国建設業大手5社の一つに数えられるようになった」(*9)ところであり、「当時の鹿島の実力からすると、海外進出はかなりの冒険であった」(*10)。鹿島守之助は「この地は近い将来きっと立派に再建される地域である。日本人街は日本人の力で再建美化しなければならない。鹿島建設としても米大陸への進出を考えねばならない時期である」(*11)と考え、進出を決意したのである。

*7 鹿島守之助「特別寄稿私の海外旅行」鹿島卯女『道はるか』P63
*8 鹿島守之助「特別寄稿私の海外旅行」鹿島卯女『道はるか』P63-64
*9 渥美健夫『つれづれの記』P64
*10 渥美健夫『つれづれの記』P219
*11 藤井義之「カジマビルの竣工に寄せて」『鹿島建設月報1968年1月号』P10

リトルトーキョー再生計画

ただちにリトルトーキョー地区再開発プラン作成プロジェクトチームが作られた。昭和37(1962)年のことである。鹿島昭一副社長(後に社長、現・最高相談役)、土岐常務(建築設計担当)以下設計陣を動員し、「多額の費用をかけて」(*12)リトルトーキョー再開発マスタープランを作成した。

彼等に与えられたのは東京のホテルの一室。エール大学に留学する直前だった岡田新一は、出発当日までここで作業に励んだ。彼は後に最高裁判所設計競技で最優秀賞を受賞し、建築家として独立する。また、後にKIIの取締役となり、現在は米国で建築家として活躍する高瀬隼彦もメンバーの一人だった。まだ日本の民間企業の中には街づくり都市づくりという意識のなかった時代の話である。当時としては稀に見る大プロジェクトだった。

計画は2カ月余りで完成し、日系人商業会議所を通じてロサンゼルス市に寄贈された。この計画は、高い評価を受ける。市は隣接するシビックセンターを拡大するため既にリトルトーキョーの一部を接収していた。さらにリトルトーキョーを取り壊し、日系住民9,000人をメキシコ人居住地の隣に移動させる計画であった。しかし、市は鹿島が計画した再開発プランが実現するならリトルトーキョーを存続させるとしたのである。リトルトーキョーの存続とそこにかかわる日系人の運命が、鹿島の計画にゆだねられた。

鹿島はまず現地に足がかりを作るために、日系人によって既に設立されていたファーストエンタープライゼズ社(FEI)に資本参加して、昭和39(1964)年にカジマ・インターナショナル社(KII)を設立する。会長に鹿島守之助、社長に渥美健夫(当時鹿島副社長、後に社長)、副社長に鹿島昭一とジョージ荒谷(*13)が就任、住友銀行頭取の堀田庄三を相談役に迎える。

しかし、KII社を設立して間もなく、最初の障害に直面する。すでにFEI社が買収していた都ホテルビルから立ち退かない居住者がいて、その立ち退きに2年を要した。加えて、敷地の一部を市の道路拡張工事に無償提供しなければならず、当初の計画に狂いが生じる。さらにこれらを解決して着工しようとした矢先、ベトナム戦争による金融市場のひっ迫、金利の上昇が起き、それらは建設資金の調達をより困難にし、資材や労賃の上昇を招いた。

変更をたびたび余儀なくされ、その都度新たなプランが作られた。地元有力者は、立地条件が悪いから、ビルを建てても入居する企業がないだろうという。建物形状はシンボル的な、日系人の拠点となる記念碑となる建物だから、高層ビルがいい、いや、フロア当たりの床面積が大きい方がテナントを集めやすいから中層がいいなど二転三転した。加えてロサンゼルスでは建物の有効面積1,000平方フィート(=92.9㎡)に1台の駐車能力が必要である。これらの条件を満たし、米国の規格化された材料と工法を用い、なおかつ日本らしい雰囲気が求められた。

昭和41(1966)年9月、都ホテルビルともう一棟の建物を解体し、地下1階、地上16階の高層部と地下1階地上3階の低層部からなるカジマビルの建設が始まる。

マスタープラン マスタープラン クリックすると拡大します

*12 鹿島守之助「カジマビル竣工とロサンゼルス再開発」『鹿島建設月報1968年1月号』P8
*13 じょーじ・あらたに 1917-2013 日系二世。カリフォルニア州サウスパークの大農園に生まれ、慶應大学、スタンフォード大学に学ぶ。陸軍日本語教官を経て、ロサンゼルスで貿易会社を経営。ミカサ陶器創立者、米国ケンウッドの元社長。篤志家としても知られた。KII、EWDC、KUSAなどの役員を務めた。

日米の違いを感じて

現場の施工会社社員は管理者とタイムキーパーの2名だけである。当時の日本の建設業界では考えられないことだった。型枠工事が思うように進捗しない。協力会社のフォアマンたちがこの遅れをどう取り戻すかに興味があると、現場の見学に行った奈良真光(後の鹿島副社長)が『鹿島建設月報』にレポートを寄せている。外部足場もなく、養生用の金網もない。仮設事務所も倉庫を含めて50㎡程度のパネル組立式小屋と、1坪程度の協力会社の詰所が2棟あるだけ。作業員は慎重で無理のない作業態度である。ユニオンが厳しいから突貫作業はあり得ない。7:30から16:00まで、急がず怠けず明るく働く作業員の様子は日本のそれとは余りにも違っていた。

最初は物足りなさを感じた彼等の作業ぶりは非常にきちんとしていて、特にコンクリート打設は見事な仕上がりである。技術的な違いはなく、日米の作業員の体格の違いによる型枠材の大きさの違いくらいのものだが、米国人作業員たちは、正確な型枠の建込み、正確な配筋、清掃など基本的事項を忠実に守っている。工期に遅れもなくきちんとした作業がされている。その作業ぶりには学ぶことが多かった。米国では各作業員のプロ意識によって自主的に作業が行われている。米国の建設事情を必死で学び日本に生かすことを考えるレポートが続く。

リトルトーキョーの拠点カジマビル

昭和42(1967)年11月15日、竣工式が挙行された。 米国では竣工に際した式典などは行われないため、神主が神事を行う竣工式が珍しく、テレビ局や新聞社が取材に訪れ、思わぬ形でのPRとなった。その夜カジマビルで開いたカクテルパーティには定刻前から招待客以外の大勢の客が詰め掛けて長蛇の列となり、中にはビルの完成を涙を流して喜んでいた人たちもいたと言う。

カジマビルは日本のビジネスセンターとなり、高層部の15,16階に日本国総領事館が、1~5階に加州住友銀行ロサンゼルス支店が、ほかにジェトロ連絡所、電通、法律事務所などが入居した。鹿島建設社長の渥美健夫は、竣工式出席後のインタビューで「このビルでリトルトーキョーというものの地盤沈下を食い止めた」(*14)と述べている。カジマビルの建設は、鹿島建設一企業の対米進出以上の意味を持っていた。日米の友好関係の確立に貢献し、現地日系人の地位を向上させ、日米対等の立場を建設する一助となったのである。

しかし、一方で鹿島やカジマビルに対する地元の反発も生まれた。安い家賃で年金暮らしをしている一部の人々にとって、地域が活性化すれば、家賃が上がり追い出されることになる。カジマビルは当時のリトルトーキョーにとって異質、異端の存在で、日本企業がリトルトーキョーを買占めに来たというような受け取られ方もあった。進出した最初の10年は、鹿島は儲けるために来たのではない、決して儲かる仕事ではない、一緒にリトルトーキョーを作り上げていきましょうと一人一人に心を尽くして説得し続けていくことになる。渥美健夫は後に「鹿島のロサンゼルス進出は、真に善意と理想に基づくもの」(*15)だったと述べている。

*14 渥美健夫「KIIカジマビル竣工式に出席して」『鹿島建設月報1968年1月号』P14
*15 渥美健夫『つれづれの記』P220

東洋と西洋の架け橋をめざして

カジマビルに次いで建設されることになったのが、ホテルと商業施設である。鹿島では昭和45(1970)年頃からその検討を進め、昭和47(1972)年11月、ロサンゼルス市地域再開発局が公募した「リトルトーキョー再開発計画」に応募する。翌月、鹿島を中心とする日系グループ案が選定された。

当初鹿島はこの計画の設計・監理だけを行うつもりだったが、中心となる企業が見つからない。やむなく世話役を務めることにして、向こう10年間は配当を期待しないで協力してくれないかと各社を回った。当時は「愛国心が非常に強かった。日本が高度成長を遂げてやっと米国と肩を並べるようになった。それなのにリトルトーキョーがこのように朽ち果てたままでいいのか、復興を成し遂げた日本の力を示すべきだと言う意気が皆にあった」(*16)その当時ロサンゼルスに事務所を持っていた各社はこの開発に意義を感じ、協力を快諾した。その結果、鹿島、銀行16行、商社7社、4大証券、2大不動産の計30社が出資して、KIIによるディベロッパーEWDC(East West Development Corporation)が、 昭和48(1973)年9月に誕生する。鹿島建設社長の渥美健夫が社長となった。社名は東洋と西洋の架け橋の意味を持つ。

このリトルトーキョー再開発計画は、建物全部を調査し、残すもの、取り壊すものに区分けし、マスタープランに従ってアパート、ホテル、老人ホーム、カルチャーセンター、ショッピングセンター、オフィスなどを建設するもので、地元の協力体制も徐々に生まれてきていた。ホテルは、ニューオータニのオペレーションで運営されることが決定する。日本の大手ホテルチェーンとしては初の米国進出であった。しかしこれも最初からスムーズに決定したわけではない。当初予定していた日本の大手ホテルが直前に辞退を表明したため、ニューオータニにお願いするに至ったのだ。ニューオータニ側にしても、米国進出を希望していたとはいえ、他社の仕様での創業である。苦難は山積していた。

それらを乗り越えて、総工費3千万ドル(1ドル300円換算で現在の価値にして約92億円)、地上21階、地下4階、延べ40,663㎡、客室数448室、レストラン・バー5箇所、宴会・会議室8室のホテルが誕生する。低層部3階の屋上には1,500㎡の日本庭園が設けられ、ホテルは、ニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン・ロスアンゼルスと名付けられた。リトルトーキョーは活気を取り戻していた。

ホテル起工式で鍬入れする渥美社長 ホテル起工式で鍬入れする渥美社長 クリックすると拡大します

ホテルとショッピングセンターの建設予定地(道路左) ホテルとショッピングセンターの建設予定地(道路左) クリックすると拡大します

左・カジマビル、右・ホテル 左・カジマビル、右・ホテル クリックすると拡大します

ホテル全景 ホテル全景 クリックすると拡大します

新たな道へ進むべく

ホテルは昭和52(1977)年9月にオープンする。当初の客室稼働率は40%を切る状態で経営が非常に厳しかった。ニューオータニと鹿島の担当者が奔走し、他のホテルに内定していた日本航空乗務員の定宿として確定させる等して、徐々にその実績を上げていった。また、ホテル内のレストランや宴会場では毎日のように日系企業、日系人社会の宴会が繰り広げられた。当時出張でアメリカを回る日本人ビジネスマンたちは、このホテルに泊まると半分日本に帰って来たようでほっとしたという。

昭和55(1980)年には隣接するショッピングセンター、ウェラーコートも完成する。30テナントの中には、松坂屋、紀伊國屋書店、岡田屋といった日本でも有名な店のロサンゼルス支店が軒を連ね、本物の日本料理店が並んだ。リトルトーキョーはロサンゼルスの一大観光名所となり、日本食を米国に広める一助となった。特にカレーライスは、それまで米国人はカレーライスを食べないと言われていたにもかかわらず、赤坂の日本料理店がカレーショップを開いて好評を博し、後に全米に普及するきっかけとなった。昭和59(1984)年のロサンゼルスオリンピックでリトルトーキョーの景気は最盛期を迎える。

2007年末、当初の計画を完遂させたEWDCは、ホテルと商業施設を売却する。ホテルは2007年8月、キョート・グランドホテル&ガーデンズ、2012年6月にダブルツリー・バイ・ヒルトン・ロサンゼルス・ダウンタウンとなるが、日本庭園は今もそのまま残っている。日系人も三世、四世の時代となって日本人町に集わなくなった。もともと日本人は住まいや結婚も含めて、米国社会に同化していく傾向が強い。また、米国社会も広くそれを受け入れる土壌がある。昭和36(1961)年に鹿島守之助・卯女夫妻が見たリトルトーキョーは、姿かたちを変えて今も日系人の心のふるさととして生き続けている。

*16 岩松良彦「事業をふりかえって」鹿島建設「リトルトーキョー再興」編纂委員会『リトルトーキョー再興』(2009年)P46

<参考資料>
鹿島卯女『道はるか』(1962年)
鹿島建設株式会社『鹿島守之助―その思想と行動―』(1955年)
住友銀行行史編纂委員会『住友銀行八十年史』(1987年)
渥美健夫『つれづれの記』(1995年)
鹿島建設「リトルトーキョー再興」編纂委員会『リトルトーキョー再興』(2009年)

本文中、「ロサンゼルス」と「ロスアンゼルス」の表記が混在していますが、固有名詞、引用文で「ロスアンゼルス」表記となっているものは、そのまま表記しております。ご了承ください。

(2013年8月29日公開)

ページの先頭へ