第42回 社歌の変遷
鹿島の最初の社歌は昭和10(1935)年に作られた。戦後社名は鹿島組から鹿島建設に変わり、時代の変化とともに社歌も変わっていった。現在の社歌は4代目、1989年の創業150年の記念行事の一つとして、社内に歌詞を公募して作られたものである。それぞれの社歌は、時代を映す鏡でもある。社歌の歌詞、時代背景、社歌を巡る人々について取り上げ、歴史をたどってみよう。
一等賞金30円で社内公募
懸賞募集「鹿島組の歌」一等賞金30円の募集広告が『鹿島組月報』に紹介されたのは昭和10(1935)年6月のことである。当時の社員数は285名。北は北海道の羅臼出張所から南は福岡出張所まで、国内21出張所、台湾、満州、中国大陸、朝鮮半島などの外地に15出張所があった。しかし、内実は非常に経営の厳しい時代だった。
鹿島組は昭和4(1929)年に創立50周年(*1)を迎えている。八重洲に新たに本社ビルを建設して移転、盛大に祝ったが、時代は世界恐慌(昭和4・1929年)、昭和恐慌(昭和5・1930年~昭和6・1931年)に差し掛かっており、業績は下り坂だった。関東大震災(大正12・1923年)の復興事業がひと段落したことに加え、16年もの間毎年安定した利益をもたらしていた丹那トンネルは昭和9(1934)年3月に竣工、台湾電力・日月潭(にちげつたん)発電所、東横百貨店、上野駅といった大型工事も次々と竣工してしまう。新規に着工する工事は少なく、大きな継続工事もなかった。経営はかなり厳しく、昭和11(1936)年7月には、資本金300万円を250万円に減資せざるを得なくなる。昭和10(1935)年6月の社歌募集は、そういう時代と環境の中で社員を鼓舞する目的で行われたのであろう。「勇壮荘重なる歌詞のどしどし応募されることを望んでやまない」と巻末に書かれている。
竣工当時の鹿島組八重洲本社ビルクリックすると拡大します
『鹿島建設月報』昭和10(1935)年6月号の社歌募集の広告クリックすると拡大します
*1 | 当時は、鉄道請負に転身して「鹿島組」を名乗った明治13(1880)年を起点としていた。昭和32(1957)年に鹿島岩吉が独立した天保11(1840)年を創業の年に制定する。 |
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「鹿島組の歌」(カネ)にカの字は
3か月ほどの応募期間に何通集まったのかは書かれていないが、8月末に締め切って、鈴木彦次郎(*2)が審査を行った。小説家・鈴木彦次郎はこの頃38歳。当時の鹿島組社長・鹿島精一の甥で、深川鹿島邸で生まれ、子供の頃は精一に連れられて両国回向院にたびたび相撲を見に行った。東京帝国大学の学生時代に寮で同室だった川端康成らと文学活動に入り、昭和7(1932)7年ごろからは相撲小説や時代小説などの大衆文学に移行して流行作家となっていた。
鈴木は選出に苦労したようである。「いずれも捨てがたいものばかりで、やむを得ず、平易な、歌いながらも意味が取れるという観点から第一位を決定した。」と「鹿島組の歌 選後に」で書いている。(*3)「いかに美辞麗句があろうとも、しょせんは声高らかにうたう歌でしょう。そうした建前から、難しい辭句(じく)のあるものは歌詞として優れていても捨てました。第一位の作は、『押し立てようよの旗を』という歌詞が、力強く利いております。それに至極なだらかで、楽に歌えると思います。」とある。
第一位に選ばれたのは、三浦虎男の作だった。
鹿島組の歌(作詞:三浦虎男)
一 |
(カネ)にカの字は 我らの印 仕事報国 その一念で 押し立てようよ の旗を |
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二 |
北は蝦夷地に 南は台湾 遠く離れた満蒙までも 押し立てようよ の旗を |
三 |
花の都の 青空高く 建つる文化の大殿堂に 押し立てようよ の旗を |
四 |
山を貫き 大河を越えて 伸びる鉄路のその先々に 押し立てようよ の旗を |
五 |
古き歴史に輝く前途 老いも若きも力を合わせ 押し立てようよ の旗を |
*2 | すずき ひこじろう(1898-1975) 小説家。東京朝日新聞記者でのちに衆議院議員となった鈴木巌と鹿島精一の姉・はなの二男として深川島田町に生まれる。東京帝国大学文学部国文科卒業。学生時代から川端康成、石浜金作、今東光らと第6次『新思潮』を継承して新感覚派と呼ばれる文学活動に入り、作家として活躍。特に相撲作家として有名。その他名作「常磐津林中」、絶筆となった「巷説城下町」などがある。「常磐津林中」はのちに平岩弓枝脚本でテレビドラマ化された。 |
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*3 | 『鹿島組月報』昭和10(1935)年11月号P35 |
右端・鈴木彦次郎、左から二人目・鹿島精一(昭和16・1941年盛岡にて)クリックすると拡大します
満州から送られてきた歌詞
一等当選の三浦虎男は、当時満州の現場にいた。彼の入社年は定かではないが、入社後の昭和4(1929)年2月1日に第一師団歩兵第一連隊第11中隊に入団している。昭和6(1931)年9月には第一陣として台湾の日月潭の現場に赴いた。この難工事の初期メンバーである。工事が順調に進み出した昭和8(1933)年1月、彼は大阪支店のテコ入れに駆り出される。2年弱勤務し、支店の財政立て直しに従事。昭和9(1934)年4月2日付で図們(トモン、トゥーメン)に異動になる。図們は、朝鮮半島の付け根の東側から少し内陸に入った場所である。翌年、梨樹鎮(リジュチン、リーシュジェン)派出所(満州国濱江省穆稜縣梨樹鎮南大街)に移る。現在の中国吉林省四平市梨樹県梨樹鎮である。鹿島組は大正期から満州で工事を行い、一時全員引き揚げたものの、昭和6(1931)年頃から再度満州で工事を行っていた。社員名簿にはこの現場の所属社員として9名の名前が記載されているので、かなり大きな現場だったのであろう。何の工事をしていたのかの手掛かりはなく、詳細は不明だ。夏場、満州での工事は佳境でかなり忙しかったはずである。また、この満州の梨樹鎮派出所から東京・八重洲の本社に三浦の作品が届くまでどのぐらいの日数がかかったのであろうか。とにかく「遠く離れた満蒙」にいる三浦が書いた歌詞が、一等になった。
その後三浦は、昭和15(1940)年2月に設立された満州鹿島組の庶務課長を経て、昭和18(1943)年には免渡河(メントガ)出張所勤務となっている。免渡河では関東軍第800部隊の飛行場滑走路工事、鉄筋コンクリート造の殻型格納庫工事などが行われていた。現在の中国内モンゴルフルンボイル牙克石(ガコクセキ、ヤーコーシー)市免渡河。斉斉哈爾(チチハル)と満州里(マンチュリ。ロシアとの国境近くの町)のちょうど中間のあたり。満州でもかなり奥地である。終戦時、引き揚げ時の彼の記録はない。昭和21(1946)年の社員名簿には満州からの未帰還者118名の中に名を連ねているが、その後無事帰還。昭和36(1961)年に富士川橋梁の現場を事務主任で定年退職するまで、日本各地の現場で業務に従事した。定年から逆算すると、彼が社歌に応募したのは30歳ぐらいだったと思われる。
満州社員会(昭和11・1936年2月28日、新京ヤマトホテル前)最後列の前、右から二人目が三浦虎男クリックすると拡大します
鹿島守之助社長、卯女夫妻と満州鹿島組社員(昭和16・1941年4月、満州奉天神社前)左から3人目が三浦。右隣が鹿島守之助・卯女夫妻クリックすると拡大します
水道会社常務が書いた歌詞
二等に当選したのは、小野威(たけし)である。この歌詞も力強い。ただ三浦の作品に比べると、歌詞が難しいのかもしれない。
鹿島組の歌(作詞:小野威)
一 |
古き歴史に輝きて 王者の地位の揺ぎなく 友は家族と相寄りて 栄ゆ我等の鹿島組 |
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二 |
南船北馬暇なく 猛熱酷寒ただならず 第一線に地を拓く 気鋭の戦士満ち満てり |
三 |
力丹那の山を抜き 敷くや鉄路萬余キロ 水力建築港湾と 津々浦々に我等あり |
四 |
いでや血盟社是の下 栄ある工事いそしみつ の旗の意気高く 世界の文化きづきなん |
小野は、当時庶務係主任。今でいう総務部長だった。この社歌募集のとりまとめ担当者でもある。彼は東京帝国大学法学部政治学科を卒業しているが、父は書家小野鵞堂で、彼自身も後にさまざまな揮毫をした書家であった。文学的素養が感じられる歌詞はそのためかもしれない。
彼は、当時矢口水道株式会社(鹿島の軌跡第28回参照)の常務を務めており、その業務は苦労と多忙を極めていた。もともと工事代金の徴収ができないために敷設権を買い取り継承して作られた水道会社である。全く分野の違う事業のにわか経営者として水道に関する本を買い込んで読み漁り、猛勉強したという。昭和8(1933)年の夏に入りようやく経営が順調になる。小野は昭和13(1938)年に鹿島組監査役、昭和26(1951)年副社長となる。多忙の中、社歌の歌詞を考えることで気分転換になったのだろうか。この歌詞を書いたのは34歳ごろのことである。
矢口水道会社の前で。前列左から2人目が小野威クリックすると拡大します
台湾・日月潭へ出張して現地の社員たちと。中列中央が小野クリックすると拡大します
静岡の山の中で
三等に当選したのは、伊藤義富である。漢文調の格調の高い文体は、慶応大学時代に培われたらしい。詩を書くタイプではなかったが、文学青年だった。
鹿島組の歌(作詞:伊藤義富)
1、 |
黎明の海に掉さして 我が業界の水先を 勤むる此処に幾星霜 歴史は古し鹿島組 |
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2、 |
雷霆海魔狂う時 事業報告伝統の 旗幟(きし)高らかに振翳す 基礎牢固たり鹿島組 |
3、 |
堅忍不抜渾身の 勇もて揮(ふる)ふ双腕に 文化燦然輝けり 業績偉なり鹿島組 |
4、 |
旭日天に沖(ちゅう)す時 君の御稜威(みいつ)を頂きて 理想の文化打建てん 永久(とわ)に栄あれ鹿島組 |
伊藤は当時、静岡県榛原上川根村字ブナゾレの鹿島組ブナゾレ詰所にいた。現在の静岡県榛原郡川根本町千頭のあたり、寸又峡に近い山の中である。千頭ダム(1930-1935、間組施工)の隧道工事だったようだが、記録は残っておらず詳細は不明である。翌昭和10(1935)年7月には、大分県の日田出張所に異動しているので、三等入選の知らせは大分で聞いたと思われる。伊藤は昭和2(1927)年ごろ入社して丹那トンネルの現場に配属され、主に隧道現場に勤めた。昭和18(1943)年にはスマトラ横断鉄道建設工事にも携わっている。昭和22(1947)年に定年を待たずに退職し、独立するが、昭和30(1955)年に56歳で亡くなった。この歌詞を作ったのは35,6歳の頃である。
現場名、撮影時期不明。中央・伊藤義富クリックすると拡大します
発電所竣工記念か。撮影時期不明。中列中央、伊藤クリックすると拡大します
丹那トンネルの現場にて。後列スーツ姿・伊藤クリックすると拡大します
「大利根月夜」の作曲者が作曲
昭和10(1935)年12月、「鹿島組の歌」のレコード吹込みが行われた。長津義司が作曲・編曲、テイチク専属歌手の木村肇氏が同社管弦楽団伴奏で吹き込んでいる。レコード希望者は1枚50銭で庶務係あて申し込んだ。当時のレコードの市場価格は1円30銭である。割安で販売して、起工式、落成式、歓迎会、送別会などでどんどん使用して士気を高めてもらおうとしたのであろう。
作曲者の長津義司は、当時駆け出しの作曲家だった。昭和14(1939)年に田端義夫が歌う「大利根月夜」が大ヒットしている。ほかにも三波春夫の「ちゃんちきおけさ」、「大利根無常」、「元禄名槍譜 俵星玄蕃」、石原裕次郎の「勝負道」など数多くの名曲を作曲している。鹿島組の社歌の作曲がどういう経緯で長津に依頼されたのかはわからないが、この初代の社歌は、非常に単純に口ずさみやすい、耳に残りやすいメロディである。国内海外の様々な現場で、いろいろな局面で歌い継がれてきたことであろう。
昭和16(1941)年3月には「鹿島組の歌」のレコードの希望数調査を行っている。「支店、営業所ヨリ組歌ノ『レコード』頒布方申出ノ向有之候処現在品無之ニ付此際新ニ作成ヲ企図致度就テハ予メ各所ノ希望枚数承知致度候本月末限リ希望(枚数)ノ有無御回答相成度此段及照会候也」(*4)とある。当時は「組歌」といっていたことがわかる。
このレコードの原盤1組と、配布したと思われるレコードが1枚残っている。原板は2枚一組で、少し動かしただけで剥がれ落ちて、中の金属が見えるほど劣化している。レコードは33回転。ジャケットはなくしたのか、最初からなかったのか、不明である。
*4 | 『鹿島組月報』昭和16(1941)年4月号P36 原文は旧字。「支店、営業所より組歌の「レコード」頒布方申し出の向きありこれ候ところ、現在品無。これにつき、この際新たに作成を企図いたしたく、ついてはあらかじめ各所の希望枚数を承知いたしたく候。本月末限り希望(枚数)の有無ご回答相成りたく(いただきたく)この段及び照会候なり」 |
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鹿島組から鹿島建設へ
昭和22(1947)年、鹿島は鹿島組から鹿島建設に社名を改める。そのため、「鹿島組の歌」では使えないこと、戦前の歌詞には「満蒙までも」とあり、時代にそぐわないことから、鈴木彦次郎が三浦の歌詞をアレンジした「鹿島建設の歌」を作詞する。三石精一が編曲して二部合唱の譜面が作られた。手元に残っているレコードには©1961とあることから、昭和36(1961)年頃のことのようである。藤原歌劇団合唱団が歌っている。
鹿島建設の歌(作詞:鈴木彦次郎)
一 |
(カネ)にカの字は鹿島の印 国土開発その一念で 押し立てようよの旗を |
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二 |
花の都の青空高く 樹つる文化の大殿堂に 押し立てようよの旗を |
三 |
伸びる建設南に北に 遠く離れた海外までも 押し立てようよの旗を |
鹿島建設の歌ソノシートクリックすると拡大します
鹿島建設の歌レコードクリックすると拡大します
広島支店総務部次長のもうひとつの顔
昭和41(1966)年、「会社の発展に伴い旧来の社歌を改め、新たに会社の現況にマッチした社歌を作成」(*5)することになった。日本は高度経済成長期で、昭和38(1963)年には鹿島は受注高世界一を記録している。地盤を改良して臨海工業地帯が作られ、工場やオフィスビル、ダム、発電所などが次々と建設された。鉄路の総延長が最長となったのもこの頃である。受注高も売上高も10年間で6.3倍の伸び率を示し、社員数は6,804名に上った。
この時は歌詞を広島支店(現・中国支店)総務部次長・植田哲二が書いている。植田はペンネームを英玲二といい、北島三郎の「男の情炎」、畠山みどりの「さてそれからと言うものは」などのヒット曲を持つプロの作詞家だった。昭和22(1947)年9月の鹿島広島支店開設と同時期に鹿島に入社し、主に支店総務部に勤務していた。昭和49(1974)年頃、支店嘱託を最後に退職している。彼の歌謡曲の作詞の中で現在残っている一番古い履歴は、昭和28(1953)年永田とよ子の「下田の雨」である。また、昭和36(1961)年に鹿島婦人会(*6)創立20周年を記念して作られた「鹿島婦人会の歌」や「鹿島清美会(*7)の歌」の歌詞も彼が書いている。当時の彼を知る人によると、非常に温和な優しい人で、作詞家の星野哲郎と交友があったが、特にひけらかすこともなく淡々としていたそうである。
鹿島建設社歌(作詞:英玲二)
一、 |
空あり そこに そびえ立つ われらは えがく 虹の塔 時代を 越える 清新の 技術は さらに 夢を呼ぶ おゝ 大鹿島の 旗のもと 誇りあり 鹿島 鹿島 鹿島建設 |
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二、 |
海あり そこに 拓きゆく われらは 架ける 夢の橋 未来を 築く この胸に 世界を 制す 血が通う おゝ 大鹿島の 旗のもと 誇りあり 鹿島 鹿島 鹿島建設 |
三、 |
道あり 遠く はるけくも われらは 担う わが社運 伝統 永く 人若く 和衷の 誠 花と咲く おゝ 大鹿島の 旗のもと 誇りあり 鹿島 鹿島 鹿島建設 |
作曲は飯田信夫に依頼している。彼は戦前から活躍していた作曲家で、映画音楽、校歌、社歌なども多く手掛けていた。昭和41(1966)年5月、日本ビクター築地スタジオにて、伴奏・ビクター管弦楽団、歌・三浦洸一、安西愛子で吹き込まれた。三浦洸一も安西愛子も当時その名を知らぬ人のいない高名な歌手である。この歌の楽譜は翌月の鹿島建設月報に掲載され、レコードは全国の職場に配布された。当時は会社の行事も多く、各所でこの新しい社歌が歌われた。
*5 | 『鹿島建設月報』昭和41(1966)年6月号P32 |
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*6 | 昭和16(1941)年、社員夫人の親睦会として誕生。初代理事長を鹿島卯女取締役が務める。ボランティア活動や親睦会が活発に行われたが、専業主婦の減少や時代の変化もあり、2010年に70年の歴史に幕を閉じた。 |
*7 | 女子社員の啓蒙活動を目標に昭和15(1940)年に発足。当時の「女子事務員」は、30余名だった。会社の補助で勤務時間後に会社でお茶やお花、料理といった習い事、演劇鑑賞、雑誌購読などが行われたが1980年代に幕を閉じた。 |
詞(うた)ひとつ あなたに作ってもらいたい
1989年に創業150年を迎えるに当たり、記念行事の一つとして新しい社歌を作ることになった。社内に「新しい社歌の歌詞募集」のポスターが貼られた。「最優秀作品1点30万円、佳作2点各10万円の賞金、応募者全員に参加賞を差し上げます」とある。
当時の担当者は50通も来ればと思っていたところ、国内海外さまざまな現場や管理部門の社員から寄せられた作品は、203通に及んだ。30代中心の社内審査員34名が5段階評価法で評価、各役員推薦作品と併せ34作品を選考。その後第二次選考委員が最終的な当選作品を決定した。
1989年6月には入選者が決まり、7月18日に表彰式が行われた。最優秀作品に選ばれたのは技術研究所・桜井和実の「限りなき創造(クリエイション)」。将来鹿島が建設業以外の分野に進出しても歌える壮大な歌詞であることやイメージソング的にも使える歌詞ということも、受賞理由の一つだった。桜井は当時39歳。技術研究所の主任研究員としてダムやコンクリートの研究をしていた。作詞をしたのは今回が初めてだが、モダンジャズやコルトレーンを好むテナーサックス奏者の一面も持つ。この詞は募集を知ってから1か月ほどかけて制作した。彼は翌年4月にアルジェリアのシェルファダムの現場に赴任、その後、ザンビア出張所、ウォノレジョダム(インドネシア)、山王海ダム(岩手県)、ククレガンガダム(スリランカ)、スリランカ営業所長などを経て2009年、カレべRCCダム(インドネシア)の所長を最後に鹿島を退職している。
限りなき創造(クリエイション)(作詞:桜井和実)
1. |
かけがえのない 地球だから そだてよう 幸せな未来 明日(あす)の世界を創造(つく)る技術が 私達の願い Take a Chance 君の瞳の輝きが 君の額に光る汗が Try a Chance 時間を越えて 空をつないで 明日(あした)へ続く 虹の架け橋 今 夢はひろがる 私達は誓う 限りなき未来の創造(クリエイション) KAJIMA CORPORATION |
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2. |
かけがえのない 地球だから だいじにしよう 私達の国土(くに) 明日(あす)の世界を築く技術が 私達の願い Take a Chance 君の心の輝きが 君の胸の奥の情熱が Try a Chance 荒野に歌を 波に祈りを 明日(あした)へ続く 虹の架け橋 今 夢はひろがる 私達は誓う 果てしなき未来の創造(クリエイション) KAJIMA CORPORATION 時間を越えて 空をつないで 明日(あした)へ続く 虹の架け橋 今 夢はひろがる 私達は誓う 限りなき未来の創造(クリエイション) KAJIMA CORPORATION |
佳作に選ばれたのは名古屋支店(現・中部支店)の酒井由美子「君につたえたい」と営業本部の植松利夫「希い(ねがい)」である。酒井は現在も中部支店営業部で活躍しているが、たまたま歌詞を思いついたことを周りの人たちに話したところ、応募を勧められ、応募したそうである。詩作はこれが初めてで、管理部門にいたために「勝手に現場のイメージを膨らませて」書いたのが「君につたえたい」だった。植松は、当時営業本部の部長。入社して仙台支店(現・東北支店)に配属になったもののその後は営業畑一筋で、定年後も数年勤めたのち、1994年に退職している。
「限りなき創造(クリエイション)」の作曲は、井上大輔に依頼する。井上は昭和16(1941)年生まれ。ブルーコメッツで歌手として活躍後作曲家の道に入り、「NAINAI16」「ランナウェイ」「め組の人」などで知られる。CMやアニメーションの作曲のほか、企業のイメージソングや社歌も数多く手掛けていた。歌は杉田次郎、白鳥恵美子、井上大輔が歌った。
社員全員にカセットテープやCDが配られた。また、社内CATV'KISS'では、いろいろな場面で社歌を歌う様子を全国から集めて紹介するコーナーが設けられ、同期同士、友人同士、部署単位、結婚式などで歌う様子が毎週放映された。現在は、一堂に会して社歌を歌うということはない。もともとイメージソング的な社歌を作ろうということで作られた楽曲ということもあり、さまざまな研修の最後に流す程度である。社員にとっては歌えなくても耳になじんだメロディとなっている。203作品から選ばれた「限りなき創造」の歌詞は、25年たった今も古びることはない。
(2014年9月22日公開)