第41回 日本初の高速道路・名神高速道路山科工区

現在、日本の高速道路の総延長は9,207.7km。日本初の高速道路は昭和34(1959)年、京都・山科に作られた。当時の日本の道路は主要道路でさえ舗装率が低く、一般道はほぼ未舗装、雨が降るとぬかるみだらけになった。当時の日本の自動車保有台数は340万台だった。

鉄道大国日本

現在の日本の自動車保有台数は約8,000万台(*1)。乗用車は約5,900万台、アメリカに次いで世界第2位である(*2)。高速道路のインターチェンジまではどこからでもだいたい1時間で行けるといわれ、年末年始やお盆の時期の渋滞は何十キロにも及ぶ。一方で地方の鉄道では廃線が相次いでいる。それでも日本は世界一の鉄道大国で、昭和25(1950)年には鉄道が日本の旅客輸送の9割を占めていた。現在でも旅客輸送は群を抜いて世界一である。そのせいかどうか、道路整備は遅れていた。

昭和15(1940)年頃から当時の内務省土木局で「重要道路整備調査」が行われたのが、日本の高速道路調査の始まりと言われている。この時初めて全国規模での交通情勢や経済要素の調査・解析を行った。昭和18(1943)年になると、それらの資料を基にして全国的な自動車国道網が描かれる。中でも東京・神戸間は最優先区間として路線の選定、測量、設計が実施される。当時の自動車保有台数がわずか20万台であったことを考えると、かなり先駆的な調査だった。しかし戦争が激化する中でこれらは中断してしまう。

昭和26(1951)年、戦前の資料に基づいて再調査が行われた。日本経済復興のための手段の一つに外貨導入計画があり、対象事業として高速道路事業があがる。そのための調査でもあった。建設省はさまざまな外国企業、外国人技師に調査を依頼する。(*3)

昭和31(1956)年に入ると、交通量が多く経済効果も高い名古屋・神戸間を第一期区間としてより具体的な高速道路計画が進められる。この地域には日本の人口の1/5が居住し、経済生産は1/3、名古屋、大阪、神戸の3港から輸入される貨物は1/4、輸出貨物は1/2といわれ、この区間に高速道路を建設した場合、日本の六大都市東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸のうち4都市が結ばれ、経済効果は絶大なものがある。建設資金となる外貨を導入するためには、より権威のある調査で高速道路の必要性や採算性を訴え、世界銀行(*4)と交渉する必要がある。そこでワトキンスを団長とする6人の調査団(*5)が招聘された。昭和31(1956)年4月16日に日本道路公団が設立された数週間後のことだった。団長のラルフ・J・ワトキンスは、アメリカの調査会社ダン・アンド・ブラッドストリート株式会社の調査担当役員で、のちに米国統計学会会長も務めた人物である。彼らは80日間にわたって日本の道路事情を調査する。そして昭和31(1956)年8月8日、ワトキンスレポートという膨大な報告書を建設大臣に提出した。あまりに衝撃的な報告書は、当時新聞でも大きく取り上げられた。

*1 国土交通省ホームページより
*2 トラックやバスを入れると中国に次いで3位
*3 昭和27(1952)年2月、ブリースブラザーズ社・コッター副社長、昭和27(1954)年2月、カリフォルニア州ウォーマック技師、昭和30(1955)年、佐久間ダム建設中のガイ・F・アトキンソン社・パーカー技師
*4 The World Bank 1944年設立、第二次世界大戦後のヨーロッパの支援から開始。日本は1952年8月に加盟し、13年間で31件(発電所、鉄鋼、自動車、造船、ダム、農地開発のほか名神などの高速道路事業3件、新幹線建設)の借り入れを行った。借入総額は86,300万ドルに上る。1971年からは資金供与の側に回り、現在では世界の途上国の産業、運輸、エネルギー、環境、保健、教育分野に提供される資金のうち1/3は日本人投資家からのものである。
*5 ラルフ・J・ワトキンス(団長)、L・ベレット・E・ハーゲン(資本供給及び需要)、フランク・W・へリング(技術計画)、グレン・E・マックロフィリン(工業関連輸送)、ウィルフレッド・オーエン(運輸経済問題)、H・マイケル・サピアー(農業・その他の一部産業・貿易関連の輸送)という一流の専門家6名で構成。

日本の道路は信じがたいほど悪い

ワトキンスレポートの扉文には、フランシス・ベーコンの言葉が引用されていた。「国家の繁栄と偉大さを決定するものに三つの要素がある―それは、肥よくな土地・繁忙な工場・人と物との場所から場所への容易な輸送、である。」(*6)
そしてレポートの冒頭部分の「調査結果と勧告」に書かれたのが下記の文言である。
The roads of Japan are incredibly bad. No other industrial nation has so completely neglected its highway system. (日本の道路は信じがたい程に悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない。)

レポートには、道路の未舗装率が一級国道で77%、二級国道で90%、都道府県道では96%に及ぶと述べられている。道路網はさらに悪く、未改良で工事も維持も十分でないため悪天候で通行不能となる。レポートの表紙には悪路で車を押す写真が飾られ、これらを象徴している。さらに、昔ながらの道路は自動車が通るには狭く危険であり、貧弱な道路と道路網が日本経済に損失を与えている(*7)。近代道路輸送の利点を知らずに、現在の不十分な道路網に大変な金額を支払っているというのである。日本の人口密度と都市間の距離の近さが混合交通(歩行者、自転車、手押し車、牛馬車、スクーター、オートバイ、乗用車、大小のトラック、バス)を生み、これが日本の2車線道路の大部分で自動車の使用を不能にする結果となっている。出入り制限措置をとった高速道路をこれほど余儀なく必要としている工業国は日本のほかにない。と続いていた。

昭和33(1958)年9月25日、名神高速道路山科モデル工区の競争入札が行われ、鹿島が落札。10月19日には盛大な起工式が行われ、11月1日から本工事に着手する。鹿島の仮事務所は小野小町ゆかりの名刹隨心院(ずいしんいん)に設けられた。

*6 Francis Bacon 1561-1626 イギリスの哲学者、神学者、法学者。数々の名言がある。原文は"Here be three things that determine the prosperity and greatness of a nation-a fertile soil, busy workshops, and easy conveyance of men and goods from place to place."
*7 直接的経済損失は車両減価償却、修繕費、事故による損害、燃料消費、タイヤの損耗、時間の損失があり、交通事故による死者は6,379名(昭和30・1955年)に及ぶ。運転免許取得者数300万人、自動車200万台の時代である。現在年間死亡者は約7,000人。運転免許取得者数8,000万人、自動車8,000万台である。

ワトキンスレポートに掲載された悪路の写真 ワトキンスレポートに掲載された悪路の写真 クリックすると拡大します

現在の隨心院山門 現在の隨心院山門 クリックすると拡大します

用地未解決、設計未完了

名神高速道路の全延長は188km。完成すると名古屋・神戸間を2時間足らずで結ぶことになる。山科モデル工区は京都市東山区勧修寺北大日(現・京都市山科区勧修寺北大日)を起点として山科盆地を西から東南に横切る延長5,280m。路盤の大部分は旧東海道本線の路床(廃線旧堤)(*8)にほぼ平行して建設される。それに加えてこの区間はもともと京都バイパスとして計画されていたため、用地取得は比較的早く進んだ。昭和32(1957)年11月に公団が180名に対して土地代金70%の支払いを実施した際には、それぞれの会場付近に、銀行、信用組合、郵便局が預金獲得のために出張していた。あとにも先にもこのような光景はなかったと、日本道路公団の建設誌には書かれている。しかしその後の取得は順調とは言い難く、特に京都インターチェンジ付近は2名の土地ブローカーによって用地取得が進まず、一部は週刊誌沙汰になった。裁決によって土地が収用できたのは、昭和35(1960)年11月の事である。

鹿島としては日本初の高速道路のモデル工区であるから、ここでの工事の施工内容、成否が全線の工事に影響する。「本格的道路工事の日本における最初の仕事である」(城塚孝雄大阪支店土木部長)と意気込んで工事に臨んだのだが、用地未解決、設計未完了という状態で、気持ちは逸るものの前途は暗澹たるものがあった。

*8 明治13(1880)年7月に京都・大津間の鉄道が、新橋・横浜、京都・大阪に続く日本で3番目の鉄道として開通する。しかし当時の汽車の性能では京都と大津(琵琶湖)の標高差45mを走れず、技術的に東山にトンネルを掘れなかったため、現在の線路から見て大きく南側を迂回する形がとられた。大正10(1921)年8月、東山トンネル、新逢坂山トンネル経由の現在の路線に切り替えられ、旧線は廃止となった。

平面図 平面図 クリックすると拡大します

高速道路わきの旧東海道線山科駅跡の碑 高速道路わきの旧東海道線山科駅跡の碑 クリックすると拡大します

150mに1か所の構造物

高速道路用地には従来の道路が横切っている箇所が数多く存在する。川や水路も横切っており、これらには橋梁、暗渠、水道管などの構造物を構築しなければいけない。すべて高速道路と立体交差する形になり、だいたい150mに1か所の割合で介在している。これら構造物の施工は、土工事に先行して開始された。アメリカの高速道路工事では、構造物工事は土工事より前に出件し、その割合は2kmに1か所程度。構造物の施工が終わってから土工事が発注されるという。山科工区の場合は構造物工事と土工事を同時に行わねばならない。土工中心に施工計画を策定し、その盛土工程に従って構造物工程を調整するしかなかった。構造物に使われたコンクリートは約3万m³に及ぶ。構造物基礎のコンクリートパイル(杭)は、トラッククレーンに強力なパイルハンマー(杭打機)を取り付けて打ち込まれる。コンクリートは工区中央部に設けられたバッチャープラントからアジテータトラック(=生コン車)で全工区に運搬される。現場ではこれら早急に施工を要する構造物に着手すると共に、切土箇所から木の根などの雑物を取り除き、排水設備、試験盛土を行うことによって、切土が迅速に進むように体制を整えた。昭和34(1959)年1月、一斉に切土運搬を開始する。

土工事は地ならし作業から始まった。敷地はブルドーザで敷き均され、ブルドーザにつけたリッパーという巨大な爪が岩石や固い土を掻きとる。敷地の大半を占める旧東海道線の廃線敷きも同一締固め土とするために敷き均し、転圧された。線路敷きを均した土は15万m³に及ぶ。スクレーパーが土砂を削って運ぶ。道路の土台である路体を盛土する土は、国道1号線との交差点である小山丘陵部のインターチェンジ設置地点で掘削し、運ばれた。移動した土の量は60万m³に及ぶ。

工事は切盛土を流用するために全区間を8区間に分割、それぞれの搬土距離、ダンプ作業と目的に応じて各種重機を使用した。ダンプで盛土部の中央に土を盛り上げて通路を作り、嵩上げしていく。この中央部の通路の状態が悪いと土を搬入するトラックのタイヤが土にめり込んでしまうため、良質な土で盛土を作り、通路を作らねばならない。ダンプでの運搬は、一般道路を使用するために大きいものは使えずに、5~7tのダンプを使用した。当時日本には2,3台しかなかった大型キャタピラ車も導入された。

搬入された土は、モータースクレイパーで敷き均し、シープスフートローラー(*9)、グリットローラー、タイヤローラーなどの転圧機械で転圧する。所定の締固め度合いになるまで一層20cmごとに入念に転圧され、強固な基礎路体が作り上げられる。一層転圧するごとに土質試験を行い、含水比を確認する。

*9 Sheep's foot roller 羊の足を模した締固め機。欧米で堰堤等の締固めに羊の群れを利用したことに由来。現在ではほとんど使われていない。

土との闘い、記録的な降雨

盛土材料の含水量検査は毎日行われた。
土が乾燥せず、含水比が規定まで低下しないと作業不能に陥る。鹿島技術研究所は昭和24(1949)年4月に建設業界初の研究所として発足し、特に初期には土質の研究が多かったため、含水比削減問題には全力で取り組んだ。一方現場では道路公団に設計変更を願い出て土質の改善に努めた。日本で初めての土質試験所を現場に設置し、公団規定の現場試験基準によりさまざまな試験を実施し、厳重な品質管理を行った。

土の乾燥が90%以上であることを確認したのち次の盛土が行われる。雨が降ると含水比がたちまち多くなるので、盛土作業を中止して土の乾燥を待たねばならない。土質は砂利交じりの粘土質が多く、もともと比較的含水率が高い。土工事は天候が許す限り昼夜の区別なく行われたが、それでも200時間/月くらいしか稼働できなかった。年間実働も160日程度にしかならなかったという。

本格的な土工事が始まって1か月。単純に考えていた盛土工事がいかに困難なものであるかを痛感することとなる。昭和34(1959)年2月に現場は過去30年来の降雨量に見舞われたのである。施工計画を立てる際に過去5年間の京都地方の平均降雨日数を基本としていたが、予想だにしなかった降雨と厳冬であった。土はなかなか乾燥しない。含水比が低下せず作業不能となり、結局2月は7日間しか作業可能日がなかった。その他の月も安穏と工事が進んでいたわけではない。転圧時の含水比は27%以上で作業中止となる。もともと日本は高温多湿で自然状態でも土の含水比は高い。最適含水比は16~7%といわれ、地山の自然含水比は20~30%に及ぶ。この含水比を低下させるために現場ではさまざまな工夫が繰り返された。

土取り場周辺に深い溝を掘り、勾配をつけて降雨の流出を図ることで、雨水を急速に排除する。地下水が浸透しないように土の遮断を図る。土取り場上部の腐葉土や草木を取り除いて含水率を下げる。ショベルで積み込む際にはわざわざ土を崩して少しでも風に当てることで含水率を下げる。盛土作業場ではトラックから降ろした土を転圧前に薄く敷き均して乾燥させる。降雨の予報が入ったら早めに土取り作業をやめて転圧を行い、転圧面を平滑に、ち密に仕上げることにより排水をよくし、浸透量を少なくさせた。盛土箇所は、風乾燥、曝気(空気を入れること)などの乾燥区域と、転圧区域に分けられた。

一方で雨に事前に立ち向かうために、朝夕2回地元の気象台に天気を問い合わせた。降雨予報が入った場合は午後にも問い合わせを行った。また、実際に降雨があった場合には、雨が上がった後にできるだけ早く水たまりを汲み出し、排水に務めた。降雨の影響の著しい場所や乾燥を急ぐ必要がある場所は、掻き起して曝気し、再転圧するなどの工夫によって、含水比を10~15%低下させることができた。路床ではこれらの転圧の他、整形が必要である。土はごまかしがきかない。地盤の支持力も要求されるため、試験で不合格となった箇所は、1~1.5m掘り起こして曝気乾燥の後で再び転圧して仕上げる。

大阪支店土木部(現・関西支店土木部)が作成した工事記録には、昭和34(1959)年1年間の最高気温、最低気温、天気、降雨量、稼働可否が表になってまとめられている。実に55頁にわたり土との闘いが綴られている。毎日が土と天候との戦いであった。土が生き物のように変化する。土の威力に土工事の困難さを教えられた。

工事途中で変更された幅員

高速道路建設に興味を示していなかった世界銀行だが、ワトキンスレポートや日本政府の強い後押しによって興味を示すようになる。昭和33(1958)年10月世界銀行ローゼン極東部長ほか10数名が現地視察に訪れ、昭和35(1960)年3月、世界銀行から日本道路公団に対して4000万ドルの第一次貸出しが決定、調印される。この金額はプロジェクト全体の31%を占めていた。建設工事は日本道路公団の監督下で請負業者が行うが、最も重要な工事は国際競争入札が行われ、曲線などの設計は西ドイツのドルシェ氏(*10)、土質及び舗装にはアメリカのソンデレガー氏(*11)が招聘された。世界銀行の資金援助を受けて外国の建設会社でも工事ができるようにしていたために、設計図はすべて英語だった。日本道路公団の設計図は1980年代まで英語だったという。

日本初の高速道路工事であり、日本道路公団にとってもこの工事が試験工事であり手探りで研究しながら施工する状態だった。世界銀行から招聘された外国人技師が交代で技術指導をしてくれるのだが、その都度設計が変更される。特に構造物の施工が進んでいた昭和34(1959)年5月に幅員(道路の幅)と縦断勾配(延長方向の勾配)の変更を指示された時には、現場は言葉をなくした。そのため、既設未設を問わず構造物の変更を余儀なくされる。
道路公団側の設計も遅れがちで、最初の計画通り工事を進めることはもはや不可能だった。夏の最効率最盛期にあたっているのに、土工事を進めるための構造物が施工できず、最速で作らねばならない構造物ばかりでコストは割高になっていく。

高速道路のように細長い施工区間では一度現場に出ると連絡には不自由し、現場の行き帰りにも時間がかかる。工事の連絡は、全線2回路の工事用電話を設置して、携帯電話機も併用したそうであるが、どのような電話機だったのだろうか。
高速道路に付随した沿線の河川も改修された。路体は規定の高さに仕上げられ、路線脇の用水池も見違えるほど立派に作り直された。多くの橋梁が道路の上にも下にも設けられた。路床表面の仕上げや構造物の埋戻しには、現場から20km離れた宇治で採取したセレクト土を使用した。採取したセレクト土は10万m³に及ぶ。一層15cmずつ十分に締固められる。土工事の最終仕上げであるセレクト施工は特に厳格な品質管理のもとに行われた。

契約工期は5か月延長された。当初6億4,000万円だった工事費は、再三の設計変更で7億8,500万円にまで膨れ上がった。

*10 西ドイツの道路局長だった人物。路線の選定、線形の決定に幾何学的設計法が導入され、道路にマッチした美しい円曲線のクロソイド曲線を採用した。
*11 アメリカのコンサルタント。アメリカ人技術者のラブ氏と共に、上質舗装と設計・施工上の問題点を指導。

醍醐橋上部床板の打設 醍醐橋上部床板の打設 クリックすると拡大します

中川橋・醍醐橋 中川橋・醍醐橋 クリックすると拡大します

宇治でのセレクト土の搬出 宇治でのセレクト土の搬出 クリックすると拡大します

竣工間近の現場 竣工間近の現場 クリックすると拡大します

5か月遅れで完成

「いかなる工事でも辛抱と根気が大切でありますが、本工事は全く辛抱の一言に尽きたのではないかと思われます。進むにも進めない、退くにも退けない、金食い虫は抱えている。こんな現状では忍耐よりほかになかったでしょう。」(大阪支店土木部長城塚孝雄)

昭和35(1960)年5月20日、当初予定から5か月遅れて土工事は完成する。山科工区5,280mの完成した路体は、舗装工事を待つばかりとなった。

高速道路の黎明期に直面した様々な問題点は、発注する側の制度上、実施上の課題、施工する側の技術的、重機的課題などが一つずつ克服され、現在の高速道路網が作られてきたのである。

昭和38(1963)年5月25日、名神高速道路・栗東~京都南が7月の開通に先立って無料開放される。早朝から車の列。午前7時に京都南インターチェンジは開門された。
施工に携わった人びとも試走した。初めて通る高速道路は、信号もなくスムーズに走れることが楽しく、自分たちがこの道路の施工に携わったことがうれしく誇り高く思えた。アスファルトの凹凸は2mm以内に仕上げられていて時速100km以上出しても走りはスムーズである。しかし、社用のワゴン車である。しばらく走ると車の方がそのスピードに耐えられるのか不安になったという。

7月15日に開通した名神高速道路上には、物珍しさから見物人が出たと昭和38(1963)年7月1日付の新聞が報じている。見物人は高速道路内に入り込み、路肩に立っている。そういう時代の高速道路建設だった。鹿島はこの後大津インターチェンジ、蒲生工区、八日市工区などの名神高速道路建設に携わり、今も国内・海外の現場で高速道路とそれに伴う構造物を作り続けている。

<参考図書>
日本道路公団『名神高速道路建設誌』(1966年)
鹿島建設大阪支店山科出張所『名神高速道路山科工事』(1965年)
建設省道路局『ワトキンス調査団名古屋・神戸高速道路調査報告書』(1956年)
『REPORT ON KOBE-NAGOYA EXPRESSWAY SURVEY 1956 REPORT OF THE COMMITTEE FOR THE STUDY OF THE KOBE-NAGOYA EXPRESSWAY SURVEY REPORT』

(2014年5月22日公開)

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