第48回 明治時代の水準器-福島県の旧家から発見された測量機を追って

福島県田村市。郡山市の東約30km、阿武隈高原に位置する人口3万8,000人ほどののどかな山あいの地方都市である。隣町には有名な「三春の滝桜」がある。この田村市の旧家から、外箱の蓋裏に「鹿島組本店倉庫係印」がある明治期の水準器(測量機。レベル)が発見された。水準器の持ち主は、伊藤直記という人物であった。

和算を学んでいた伊藤直記

伊藤直記は文政9(1826)年に旗本領荒和田村(現・福島県田村市)に本田半左衛門の次男として生まれた。伊藤家に養子に入り、天保14(1843)年、17歳の時に和算(わさん)最上流(さいじょうりゅう)の佐久間朴斉(*1)に学ぶ。弘化5 (1848)年には朴斉の息子である佐久間庸軒(*2)の門弟となり、算学を極めていった。和算(わさん)は、関孝和を祖とする関流が有名であるが、ほかにもさまざまな流派が全国各地にあった。伊藤が学んでいた最上流はその一つである。それぞれの家元の元で算術を学び、問題を出題して回答し、「パズルを解くような感覚で数学の問題に打ち興じていた」(*3)。そのレベルは非常に高く、例えば関孝和の弟子の建部賢弘(*4)は円周率を少数点以下41桁まで正確に算出していた。

算学者たちは、自分たちの算術を外へ発信するために算額の奉納を行った。算額とは数学の問題と解答を絵馬に仕立てて神社仏閣に奉納するもので、図形を扱った問題が多かった。日本国内に現存する算額は1,000件ほどでそのうち400件が江戸時代に奉納されたもの。福島県には全国一多い111枚もの算額が残っている。伊藤直記も、1850年代に福島県内の神社仏閣に3枚の算額を奉額している(*5)。和算には鶴亀算、旅人算など今もよく知られているものや、図形の問題もあり、趣味的なものだけではなく地図や暦などの計算をして実践に役立てるものも数多くあった。全国の和算家は、農業用水のための水車の設計、幕府天文方、土木工事、年貢の換算、堤防、水路などさまざまな局面で民や藩、幕府に協力していた。伊藤直記も師である佐久間庸軒らと共に、藩の行政あるいは地元の農民の力となり、尽力し、元治元年(1864)8月には三春藩より苗字帯刀を受けたのだった。

伊藤直記肖像 伊藤直記肖像クリックすると拡大します

*1 さくま ぼくさい 1786-1854 陸奥三春出身の和算家。最上流算学者・会田安明の高弟渡辺一(陸奥二本松藩藩士)に入門、天保2(1831)年に自宅を稽古所として算学教育を行った。
*2 さくま ようけん 本名・纘(つづき)。1819-1896 遊歴算家。 渡辺門下で学び、福田理軒に洋算を学ぶ。安政5(1858)年九州長崎天草へ算術修行。万延元(1860)年三春藩士。藩校「明徳堂」算学教授。明治に入り県職員として測量を行い、明治8(1875)年1月地理寮御用として東京で地租改正事務局の設置に関わるが、福島に戻り、磐前県に勤める。明治9(1876)年自宅に庸軒義塾を開く。門人は延べ2,000人と言われる。弟子には士族だけでなく商人や農民も多く含まれた。
*3 国立国会図書館ホームページ 江戸の数学 第一部和算の歴史 第3章家元制度趣味としての和算
*4 たけべ たかひろ 1664-1739 徳川家光の右筆・建部直恒の三男。1676年に兄と共に関孝和の門人となり、書物や解析書を多く著した。1719年吉宗の命で「日本総図」を作成。幕府で御留守居番などを務めた。日本数学会では彼の名を冠した建部賢弘特別賞と奨励賞(通称「建部賞」)を設けている。
*5 ①御幡町六地蔵堂の10問目。嘉永3(1850)年 福島県田村郡三春町亀井
②若宮阿弥陀堂の22問目。安政2 (1855) 年 福島市松川町浅川
③境之明神の9問目。万延元 (1860) 年 福島県白河市明神前 1問目の答えは「1」、2問目の答えは「2」となって、1~9まで設問と答えが同じで、遊び心が見える。問題と答えが1~9に並ぶのは、福島県内でも三春大神宮の算額とこの2つしかない。

幕府命での地図測量から安積疎水事業へ

慶応4(1868)年3月、新政府が発足、時代は明治へと変わる。明治元(1868)年5月、平和同盟としての奥羽列藩同盟が成立。伊藤のいた三春藩5万5,000石は、その前の白石列藩会議から参加していた14藩のうちの1藩で、その後奥羽同盟の11藩、奥羽越列藩同盟の6藩と共に、新政府に対抗する。7月、二本松へ侵攻する時になって三春藩は新政府軍に寝返り、これが会津戦争のきっかけとなってしまう。三春藩無血開城後、藩士たちは軍夫として駆り出される。伊藤も官軍の夫役として出陣し、二本松、若松攻撃に参戦した。三春藩は戦禍を免れ、多くの人命が救われた。

明治2(1869)年版籍奉還、明治4(1871)年廃藩置県と明治新政府は中央集権国家づくりに邁進する。江戸時代の国絵図を継承し、租税の調査資料として利用するため明治2(1869)年からは国絵図作成も行われた。伊藤の師、佐久間庸軒は「明治に入り、県の職員となり測量を行っていた」と福島県のホームページに書かれている。伊藤直記は彼と共に領内の測量と作図に関わるようになった。その功績により、明治4(1871)年4月に士族に列せられている。14の村を担当し、短期間に測量して絵図としてまとめた彼の能力は高く評価された。また、上京して私塾や海軍兵学校で洋算と測量術を学び、その実力を高めていった。

伊藤はその後も測量技術者として活躍する。当時西洋測量の技術を持つものはまだ少なかった。和算から洋算、測量術と研鑽を積んだ伊藤は、明治6(1873)年9月、若松県(のちに福島県と合併)絵図取調御用に任ぜられる。その後福島県の測量技術者としてその地歩を固めた。明治9(1876)年11月、中野新道(福島県福島町と山形県米沢町を結ぶ)開墾の測量を行う。明治12(1879)年10月、内務省勧農局に勤務、おもに福島県下の仕事を行い、明治13(1880)年11月には野蒜港(宮城県)への出張を、明治14(1881)年には農商務省より安積疏水掛を申し付けられている。中野新道、野蒜築港、安積疏水は明治政府が東北開発のために計画した三大事業である。特に安積疏水は、水利が悪く不毛の大地だった郡山の安積原野に猪苗代湖からの水を引くという明治12(1879)年から始まった国直轄農業水利第1号事業であった。お雇い外国人ファン・ドールン(*6)が政府の命を受けて実地調査を行ったことに始まったと言われているが、測量設計のほとんどは日本人技術者によって行われた。完成までに3年、延べ85万人、40万7,000円(現在の貨幣価値に換算すると約400億円)を投じ、明治15(1882)年8月に完成した。幹線水路延長52km、分水路78km、隧道37カ所、受益面積は約3,000haに及ぶ。安積疎水事業の測量日誌には伊藤の名前が何度も出てくる。

*6 Cornelis Johannes van Doorn 1837 – 1906 オランダ人土木技術者。明治5(1872)年来日、土木局長工師。河川改修、築港などの計画を立てた。明治12(1879)年安積疏水の設計を行う。日本人技術者のための技術指導書を残している。明治13(1880)年に帰国。日本の治水土木事業の基礎を作った。

鹿島が自前の測量機器を持つまで

鹿島が鉄道請負に進出したのは明治13(1880)年、伊藤が安積疏水に関わった頃のことである。請け負ったのは柳ヶ瀬線(のちの北陸線。現在は廃線)のうち、柳ヶ瀬隧道を挟む2区間で、それまで西洋館の建設を請け負ってきた大工出身の鹿島にとっては、初めての鉄道工事であった。そのため、施工が簡単な築堤を中心としたところを任される。築堤とは、レールを敷くために土を均して盛土や切り取りを行うことである。

柳ヶ瀬線工事は、①新橋・横浜間、②大阪・神戸間、③大阪・京都間、④京都・大津間 に次ぐ、日本で5番目の営業路線である。外国人顧問の手を離れ、日本人だけで建設する2番目の路線でもあった。当時測量は発注者である鉄道局が行っていたが、『日本鉄道請負業史 明治編』によると明治時代中盤を過ぎても測量は発注者側(鉄道局、時代によって鉄道寮、鉄道庁。あるいは鉄道会社)で行うことになっていたという。これは、請負者側にとっては不便であり不利なことであった。なぜなら発注者側は自分たちの都合で測量を始める。請負側が測量を行う場合には、その日は作業員を配さないなどそれに合わせた人員配置を行うことになるが、発注者の都合で測量が行われるため請負側に事前通告はなく、突然これから測量を行うという事態になるため、時に仕事を中断し、多数の作業員を休ませて測量が終わるのを待たなければならない。トンネルの測量の際には、作業員を半日近く休ませて測量を行う。作業員の賃金は仕事に出て来ている以上発生するため、請負側に少なからぬ損失が生じる。そのため明治時代も後半になると現場測量を請負者自らが行うようになっていったという。しかし、鹿島ではそれより前から自前の測量機器を持ち、測量を行っていたようである。鉄道寮では、明治6(1873)年に倉庫課を置き、鉄道需要品の購買配給に関する事務を行っていた。鹿島でもそれに倣う形で、倉庫係を置いていたと思われる。はじめのうちは鉄道寮から払い下げられた機材を購入していたのかもしれない。

明治26(1893)年、鹿島組は木挽町9丁目(現在の東京都中央区銀座8丁目)の本店が手狭になったため、木挽町6丁目2番地(現在の東京都中央区銀座7丁目)に移転する。「店の横の土蔵には高価な測量器具等が収められ、店の向かい側に二棟続きの倉庫があって大きい機材を入れていた。倉庫の裏側に鍛工場(たんこうば)があって機械の補修などを行っていた。鍛工場の背後はすぐ三十間堀で専用の桟橋が出ており、機材はここから積み出して船で各地へ送ったのである。」(小野一成『鹿島建設の歩み―人が事業であった頃』P128)とあるので、鉄道請負業者としては比較的早い時期から測量器具を持っていたのではないかと思われる。鍛工場とは、金属をハンマーやプレスでたたいて成形していく鍛造を行う作業場のことである。当時は自前でそういった作業もしていた。

社内に記録が残っている大正時代になると、『鹿島組月報』にさまざまな機材の在庫一覧が掲載され、その中に測量機、水準器の名前も散見されるようになる。

鉄道敷設のための測量

日本の鉄道建設技術は当初イギリスからの直輸入であったが、4番目の営業路線である京都・大津間の鉄道建設からは日本人技術者がすべてを行うようになった。それ以降は特殊な場合を除き、外国人の指導を必要としなくなった。それは、日本の「在来の土木建設技術がある程度までの水準を獲得していたという基盤があったからに他ならない。」(『日本国有鉄道百年史3』P98)

線路を建設する場合、起点と終点以外は、主要な都市や村落を結んで道路沿いに線路の中心線を決定する。中心線は、熟練した測量技師が実際に現地を見て決定し、それに基づいてトランシット(*7)で中心杭を打ち込んでいく。次に水準器(レベル)やハンドレベルを使用して、縦断測量や横断測量を行う。それらを基礎にして縦断面図や平面図が作成され、線路の位置や勾配が決められる。地図上の線路が地形その他の条件に適合しない場合には、何度でも測量を繰り返さねばならなかった。しかし鉄道の経済性を重視するようになるに連れ、実測前に実地踏査と統計その他の資料による綿密な調査が行われるようになっていく。線路の実測に使用される機械類はより精密なものとなり、「主として外国製品が用いられていた。」(『日本国有鉄道百年史3』P100)

しかし線路敷設のための測量は、そう簡単なものではなかった。日本の土地は狭く急峻で、鉄道はそこを縫って通さなければならない。蒸気機関車のスピードを落とさずに輸送力を確保するためには、急勾配を避けなければならない。橋梁やトンネルの施工は、当時の建設技術では極力避けたい工作物だった。そのため、何度も測量をし直し、実際に線路を敷きたかった場所から離れた場所に線路を通すこともたびたびあった。それでもどうしても橋梁や長大トンネルを敷設しなければ進めない箇所がある。連続勾配の設定を強いられる個所もある。橋梁は、川の流れの中心点に対して直角に架設する必要があるため、前後にS字カーブを入れて調整する。また、長大トンネルの施工を避けるため、曲線を入れた線路を施工し、短いトンネルを何本も作って繋いでいく方法が取られた。

*7 transit 角度を計測する測量機器。直線の確認、任意の角度の測定などに使用する。セオドライト (theodolite)、経緯儀(けいいぎ)ともいう。

ダンピーレベル

鉄道の施工において水準器は、断面図や平面図を作成するための測量に使われた。
今回発見された水準器は側面に「Cocking Co. YOKOHAMA」と印字してある。横浜の「コッキング商会」が輸入したイギリス製の水準器「ダンピーレベル」である。明治14(1881)年に発行された『横浜商人録』によると、コッキング商会は、横浜居留地本町通75番地にある「西洋舶来品類輸入商」で、明治2(1869)年に来日したイギリス人サミュエル・コッキング(*8)が横浜居留地55番地に設立。機械・薬品・医療器具・測量器具などの精密機械を輸入し、ハッカやユリ根などを輸出していた。その敷地内にはハッカの製造工場もあり、大変栄えていた。

明治42(1909)年に農商務省から発行された『重要輸入品要覧』によると、明治32(1899)年から明治41(1908)年までの測量機の輸入先はイギリス、アメリカ、ドイツの順でイギリスが過半数を占めていたが、明治41(1908)年にはアメリカからの輸入品が7割を占めていた。イギリスのスタンレー社製やワッツ社製の測量機器は、コッキング商会などの外国商社だけではなく、玉屋、服部時計店、中村測量機械店、成田幾次郎測量機械など日本の商店でも販売された。明治43(1910)年の玉屋のカタログで見ると120円から215円という値がついている。大正3(1914)年の服部時計店のカタログには「服部製英国型」(英国ワッツ社式)のダンピーレベルが、12インチ130円、14インチ142円とある。

測量機器は、国内でも徐々に生産されるようになるが、当時の日本の技術では外国製品に匹敵したものを安価に生産できる水準にはなく、最も有名な工場でさえも設備が不完全で、ごく限られたトランシットやレベルが製作される程度であった。それに加えて測量機器のような特殊な機械は需要に限りがある。製作には多年の熟練を要し、近い将来欧米品に対抗する良品を製作することは難しいと考えられた。例えば当時国内トップクラスの玉屋商店(現・タマヤ計測システム)でさえ、工場にはなお改良を要する点があったといわれる。玉屋商店が日本初のトランシットを生産したのは大正7(1918)年のことである。

水準器の側面 水準器の側面クリックすると拡大します

左写真の中央部を拡大するとCocking Co. YOKOHAMAの文字が見える左写真の中央部を拡大するとCocking Co. YOKOHAMAの文字が見えるクリックすると拡大します

*8 Sumuel Cocking 1845-1914 アイルランド生まれ。両親とオーストラリアに移住したのち、明治元(1868)年23歳で来日。明治4(1871)年横浜居留地にコッキング商会を開設。コレラの消毒薬として石炭酸を輸入し財を成す。明治17(1884)年横浜市平沼に自邸とせっけん工場を開設。明治39(1906)年取引先のイギリスの銀行倒産のため事業縮小、経営権譲渡。植物好きで江の島に植物園(現・江の島サムエル・コッキング苑)を作った。

東京大学駒場博物館

この水準器とほぼ同じものを、東京大学教養学部駒場博物館が所蔵している。 「ダンピーレベル」という名称も、駒場博物館の先生方から教えて頂いた。博物館が所蔵しているダンピーレベルは、ほぼ同じサイズと形であるが、外箱は伊藤家所蔵のものと違い革の紐がついている。伊藤家所蔵の水準器にはCocking Co YOKOHAMAと刻印されているが、駒場博物館所蔵の水準器は同じ場所にNegretti & Zambratt社の文字が刻まれている。1843年に創設されたロンドンの測量・光学・物理化学機械のメーカーだそうである。また、箱の外側には「工部大学校土木学教場」「第一高等学校測量室印」の焼き印が押されている。明治時代には測量学という授業があり、授業で使用した。工部大学校の教育システムは、入学年齢15歳以上が予科で基礎科学と図学及び英語を主体とする教育を2年、その後7つの専門学科(*9)に分かれ2年、実地学を2年、卒業論文と最終試験の後、卒業という仕組みだった。実地学のほとんどは、工務省各部局の作業現場での実習である。『東京大学百年史』で見ると、工学寮・工部大学校(*10)時代の測量学教師としてイギリス人ジョーンズ(R.Jones)が明治6(1873)年6月~明治11(1878)年8月、土木及び測量学助教師としてイギリス人トムソン(A.W.Thomson)が明治11(1878)年8月~明治14(1881)年6月まで在職している。

東京大学駒場博物館が所蔵する数学部の測量器械簿には、「Level(ダンピー) 2 工科大学より借用 明治21年中の借用」と書かれている。また、別の物品簿には、明治24(1891)年3月5日にダンピーレベルを1台115円で購入、明治42(1909)年にも購入され、価格は165円と記載されている。測量機はほかにもワイレベル、ブロックレベル、ハンドレベルなどの名称が見られ、それぞれ高価なものであった。日本の未来を担う学生たちは、これらの測量機器を使用して実測の腕を磨いた。

*9 土木学、機械(工)学、電信学(電気工学)、造家学(建築学)、実地科学(応用化学)、鉱山学(採鉱学)、冶金学
*10 中央行政機関である工務省に置かれた専門教育機関。工学寮は正式名称を工学寮工学校といい明治4(1871)年8月に発足。明治10(1877)年1月11日、工部大学校と改称される。工務省の衰退により工部大学校は文部省に移管され、明治19(1886)年3月に帝国大学工科大学となり、明治30(1897)年に東京帝国大学工科大学となった。

伊藤直記と鹿島の接点

外箱に「鹿島組本店倉庫係印」が押された水準器は、どのようにして伊藤直記の手に渡ったのであろうか。伊藤と鹿島のつながりは定かではないが、伊藤が活躍した安積疏水の事業には、この時代まだ鹿島組はかかわっていない。鹿島がかかわったのは第二次世界大戦前から計画されていた新安積疏水(安積疏水第二幹線)で、昭和21(1946)年~昭和24(1949)年という戦後の資金、資材の入手困難な時期に施工している。そのため伊藤直記と鹿島の唯一接点と思われるのが両毛鉄道の工事である。

両毛地方の有志によって計画された両毛鉄道は、日本鉄道会社第二区線(現・東北本線)の小山駅(現・栃木県小山市)と日本鉄道会社第一区線(現・高崎線)の前橋駅(現・群馬県前橋市)を結ぶ52哩(マイル。=83.7km)の路線である。日本鉄道会社の支線という扱いで鉄道局が工事の委託を受けた。利根川橋梁(198.1m)は独立工事として別発注されたが、それ以外の工区は鹿島組と杉井組(当時の老舗のひとつ。大正期に倒産)が請け負った。

『日本鉄道請負業史 明治編』P115には、両毛線について「五等技師三村周をして専ら之が建設工事に従わしめた」とある。伊藤の辞令の中に、明治23(1890)年7月2日付で「三村技術主監付属申付候事。両毛線建築の職務取扱可致候事」とある。三村技師の下で両毛線建築を行うようにという日本鉄道会社技術部の辞令である。三村は鉄道局勤務であり、日本鉄道が伊藤を三村の補助として指名したということであろう。

両毛線の工事は明治20(1887)年7月に栃木・佐野間着工に始まり、明治22(1889)年11月の小山・桐生間開通で全通したと『日本国有鉄道百年史』や『日本鉄道請負業史 明治編』にある。群馬県文書館には明治22(1889)年3月9日付の両毛鉄道線路のための土地収用の記録や同じ年の両毛鉄道への寄付の資料があり、11月20日付の両毛鉄道の時刻表なども保管されている。そのため開通は明治22(1889)年ではないかと思われるが、『鹿島建設百三十年史』及び当社に残る一番古い営業経歴書『営業経歴概要』(昭和7・1932年頃発行か)には両毛鉄道株式会社発注の小山・前橋間鉄道建設工事は、明治22(1889)年12月~明治23(1890)年12月と書かれており、伊藤の辞令と鹿島に残っている工期とを重ね合わせてみると、明治23(1890)年の7月以降のどこかで伊藤と鹿島組の誰かが重なり、水準器を譲り渡したと考えられる。

伊藤は明治20(1887)年、61歳で日本鉄道会社に入社し、両毛線の工事にかかわっている。明治・大正時代の日本人の平均寿命は男性42歳、女性44歳くらいで推移していた。現在と比べ乳幼児の死亡率は高かったが、それを除外しても平均寿命は50歳くらいであったといわれる。明治後期に大企業では55歳定年制が定められるようになった(*11)。伊藤は、56歳で農商務省を依願免官して福島県の郡役場を渡り歩き、61歳で日本鉄道の技術部に就職した。高齢であっても伊藤の測量士としての実績と腕が買われたのであろう。

水準器の外箱の蓋裏には「第五號」と筆字で大きく書かれた紙が貼られ、そこに「鹿島組本店倉庫係印」という角印が今も鮮やかに見える朱色で押されている。少なくとも鹿島組にある5番目の水準器であり、購入から数年後に払い下げたのであろう。購入したのが伊藤直記であったと思われる。当社にある古い資料の一つ、明治25(1892)年7月付の「明治廿四年度利益計算書」には、「鹿島組本店会計係印」が押されている。水準器の外箱の蓋裏にある「鹿島組本店倉庫係印」と配列も文字の形もそっくりにみえる。

福島県の旧家から発見された水準器は、現在福島県田村市の有形文化財に指定されている。伊藤直記は、明治25(1892)年、65歳まで日本鉄道のさまざまな工事に携わり、職を退いた。その後、明治27(1894)年には地元の要田村(かなめたむら。 現・田村市)役場新築費を寄付、明治30(1897)年には70歳で福島県要田村村議会議員に当選するなど、大正4(1915)年に89歳で亡くなるまで、地元のために尽くす生活を送った。彼の遺徳をしのび、生家(福島県田村市船引町荒和田)近くに大正7(1918)年、顕彰碑が建てられている。

東京帝国大学工学部の測量学の授業はその後縮小され、学生たちがこの器具を使って実習することはなくなった。第一高等中学校時代から使われていた測量機器は、測量に使用した参考書や、時間割図、学生たちが測量して実測図を作成したさまざまな測量教科書用絵図、ほかの測量機器と一緒に今は博物館に眠っている。

*11 荻原勝『定年制の歴史』(日本労働協会、1984年)

<参考資料>
東京大学百年史編纂委員会『東京大学百年史 通史一』(1987年)
東京大学百年史編纂委員会『東京大学百年史 部局史三』(1987年)
横山錦柵編『横浜商人録』(1881年)
佐々木茂市編『日本絵入商人録』(1886年)
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史1』(1974年)
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史3』(1974年)
鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史 明治編』(1967年)
小野一成『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
知野泰明、藤田龍之「猪苗代湖疏水(安積疏水)事業における測量日誌に関する研究」『土木史研究 第19号』(1999年)
福島県教育委員会『福島県立博物館調査報告第15集 安積開拓と安積疏水総合調査報告』(1986年)
佐久間庸軒和算保存会『最上流佐久間派資料集』(2012年)

本文は、福島県田村市教育委員会文化財保護審議委員 中澤市雄氏の調査と、東京大学 大学院総合文化研究科・教養学部 駒場博物館の先生方の調査を元にまとめました。

(2017年7月13日公開)

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