第49回 ある軍事郵便
手元に「勃利 12.3.5 4-8」という消印が押された軍事郵便がある。差出人は満州鹿島組の松岡確(かたし)。宛先は多賀城海軍工廠内技術中尉松岡重一、重一は確の長男である。
年間4億通も行き交った軍事郵便
軍事郵便とは、戦地にいる兵士宛に家族らが送る、あるいは戦地にいる兵士が家族らに送る郵便のことである。その始まりは明治27(1894)年、日清戦争開始直前に「海外派遣ノ軍隊軍艦軍衛衙其ノ他軍人軍属ニ関スル郵便物の件」という勅令第67号が発令され、「軍事郵便規制」が制定されたことによる。その後日露戦争(明治37・1904年~明治38・1905年)以降に、軍事行動に即した制度に適宜改正され、第二次世界大戦が終わる昭和20(1945)年まで存在した。
軍事郵便は、郵便物の表に「軍事郵便」と朱書きするだけでよかった。戦地の兵士から出す場合は無料で切手を貼らなくてもよく、兵士宛に出す場合は通常料金の切手が必要だった。兵士が出した手紙は軍でまとめられ、検閲を経て宛先へ送られる。軍事郵便は、軍事機密のため、あるいは移動のため細かい現在地を知らせることのできない兵士と、赴任場所の詳細を知ることのできない家族にとって、唯一の通信手段であった。現存する軍事郵便のほとんどは、戦地から国内に向けて書かれたものである。国内から戦地の軍人に向けて書かれた手紙は、戦況が厳しくなってきたり、終戦後の引き揚げの際に手荷物として持つことができなくなったりで、ほとんどは処分されてしまう場合が多かった。
手元にある松岡が出した「軍事郵便」は、封書の表に「軍事郵便」と書かれているものの、満州国にある民間企業に勤める父親つまり民間人が、日本国内の海軍の施設に勤める息子に宛てた手紙であり、本来の軍事郵便とは趣を異にするものである。
封筒の表には「軍事郵便」と書かれているクリックすると拡大します
6FEN、3FEN、1FEN
封書には「六分6FEN」、「三分3FEN」、「一分1FEN」と計3枚の切手が貼られている。「FEN」とは満州国通貨の「分」のことで、1圓(Yuan)=10角(Chiao)=100分(Fen)=1000厘(Li)という単位だった。満州国の郵便はもともと中国の体系を維持していたが、日満郵便条約によって同一郵便区域化される。つまり日本国内の郵便料金とほぼ同額で満州から内地へ郵送されていたのである。
日本国内の郵便料金は、昭和12(1937)年4月1日に37年ぶりに値上げされ、はがき2銭、封書4銭となり、昭和17(1942)年4月1日には封書が5銭になる。次いで昭和19(1944)年4月1日にははがき3銭、封書7銭、昭和20(1945)年4月1日にははがき5銭、封書10銭となった。
一方、満州から日本宛の料金は昭和12(1937)年4月1日にはがき2分、封書4銭となったが、昭和17(1942)年3月1日にははがき3分、封書6分、昭和19(1944)年10月1日にはがき5分、封書10分となり、日本国内の料金改正とはズレがあった。ちなみに、満州国内の郵便料金は日本宛と同額であった。この封書は昭和20(1945)年3月5日に出されているので、正しく10分(=10銭)分の切手が貼られている。
封書の消印は「12.3.5」となっている。満州国の元号である康徳(こうとく)12年3月5日という意味で、日本の元号では昭和20(1945)年となる。
満州国は昭和7(1932)年3月1日に誕生した。首都を新京(現・長春)に置く。
当初首都候補となっていたのは、満州南端の大連から北へ約400kmの場所にある大都市奉天(現・瀋陽)だった。しかし、南北約1,700km、東西約1,400kmの広大な満州において、奉天は南に寄りすぎているとの理由で首都候補から外された。奉天からさらに北へ300kmに位置した長春を首都に制定して新京と命名し、大規模な都市計画が進められることとなる。昭和8(1933)年4月から「国都建設第一次五か年計画」が始まり、ほぼ原野だった新京は近代的な都市に生まれ変わっていく。元号は大同と決まった。
昭和9(1934)年3月1日帝政が敷かれたことにより、康徳と改元される。
切手と消印クリックすると拡大します
ウナギがやせた?
この手紙の差出人・松岡確は、明治21(1888)年4月に富山県富山市に生まれた。旧制富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒業後鉄道作業局(のちの鉄道省)に入省し、主に隧道工事に従事していた。昭和9(1934)年、46歳の時にその専門性を買われ、鹿島組に入社している。昭和10(1935)年7月には「豊橋線第三工区」に赴任する。
豊橋線は、東海道本線新所原駅から分岐して浜名湖畔を北に進み、三ケ日から東進して岩水寺(がんすいじ)に至る37.4kmの路線で、鹿島は全線7つの工区のうち第三工区を担当した。東海道本線掛川駅から浜名湖北岸の二俣を通り岩水寺まで走る二俣東線と合わせ二俣線として昭和15(1940)年6月、掛川・新所原間67.9kmが営業開始となる。現在は第三セクターの天竜浜名湖鉄道(天浜線)として営業している。
豊橋線第三工区の詳細は不明だが、浜名湖沿いの工区である。『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編』によると、ある日、養鰻業者の代表がウナギ持参で詰所に来たという。持参と言ってもかば焼きを持ってきたわけではない。業者の代表曰くウナギは夜行性の魚で、昼間は眠っているものだが、鉄道工事が始まってから音がうるさく、くい打ちの振動で安眠できず、神経衰弱になってこんなにやせてしまったとのこと。やせたウナギを持参したのである。ウナギのやせた分に対しての補償を求められたという。
松岡は、この工区工事の成功賞与として昭和12(1937)年2月26日付で250円を得ている。
当時公務員初任給は75円。松岡の給料は110円だった。
豊橋線第三工区鹿島組社員(前列左から二人目松岡確)クリックすると拡大します
成功賞与クリックすると拡大します
家族とともに満州国へ
豊橋線の工事が終わると、松岡は家族を帯同して朝鮮半島の富寧(現・朝鮮民主主義人民共和国威鏡北道富寧郡)に赴任する。辞令では昭和12(1937)年2月となっている。鹿島では、昭和11(1936)年から富寧水力発電所の工事を行っていた。大工事でダム、隧道、第一、第二、第三発電所及び付帯工事一式を鹿島一社で施工している。堤高62m、堤体積31万5000㎥の重力式コンクリートダムで隧道工事も隧道延長20kmと長大なものだった。日本国内で施工したダムのほとんどは、この時代まだ堤高が30m前後であったことを考えると、大規模なダムである。また、この現場では日本の建設会社で初めてケーブルクレーンを使用してコンクリート打設工事を行っている。
威鏡北道は朝鮮半島の付け根に近い東側の地域だが、富寧発電所は北緯42度を超え、北は満州との国境を流れる豆満江に接し、東は日本海に面する山岳地帯である。降雪は少ないが、寒気は厳しい。農産物も地下資源もなく、人口も少ないため工事は困窮を極めた。しかし最終的には予定工期を一年短縮して完成した。ダムは現在も使用されている。
施工中の富寧ダムクリックすると拡大します
工事用ケーブルクレーンクリックすると拡大します
第一発電所遠景クリックすると拡大します
当時の満州国と主な鉄道路線及び本文中に出てくる主な地名クリックすると拡大します
満州国各地で鉄道工事に従事
昭和13(1938)年1月、松岡は満州国新京市に赴任する。
満州国の総面積は1,191,000k㎡。現在の日本の面積(377,972k㎡)の3倍以上の広大な地域である。当時は大連に鹿島組満州営業所が置かれていた。大連は遼東半島南端に位置し、明治38(1905)年9月4日、ポーツマス条約により日本の租借地となっていた。大連には事務系の拠点が置かれ、奉天(現・瀋陽)には建築、新京(現・長春)には土木の拠点がそれぞれ置かれていた。土木系技術者である松岡が赴任したのもこの新京であった。
彼は昭和13(1938)年3月には八道江へ赴任し、翌年4月に八道江出張所長になっている。鹿島組八道江出張所は、満州国通化省臨江縣八道江(現・吉林省白山市臨江市)にあった。満鉄工事分区があるため、現場事務所をここに置く方が、都合がよかったらしい。満州一の高峰白頭山(2,744m)を源流とし、満州国と朝鮮半島の間を通り黄海に流れ出る鴨緑江沿いの地域である。富寧から直線距離で250kmほど西、満州・朝鮮間の国境線のほぼ中央に位置していた。昔から巨大な地下資源が埋もれていることは知られていたが、その険峻な地形と密林地帯によって開発が阻まれていた場所である。ここで満州国国有鉄道の鉄道敷設工事を行っていた。通化を起点として八道溝、臨江、大栗子を結ぶ約200kmの通臨線である。この路線を敷設することによって、沿線に眠っている推定埋蔵量6億トンの石炭資源、埋蔵量5千万トンの大栗子鉄山を、通化地区に運ぶことができることから工事が急がれていた。
松岡が赴任したのは、横行する匪賊(現地ゲリラ)に襲われた第三工区(八道江・林子頭間)を終え、第十一工区が開始された時だった。第三工区は匪賊に襲われた社員たちの精神面での影響が大きかったため、当時としては珍しく社員を全員入れ替えて工事を続けた。第十一工区でも匪賊対策は続く。第十一工区は鴨緑江の右岸の臨江から太栗子に至る12kmで朝鮮との国境に近く、より匪賊の襲撃が懸念されていた。
八道江集落は東京ドーム2個分以上もの広さで高さ約3mの土塀で囲まれ、2カ所に通路があった。土塀の四隅に要塞を作り、警備員がついて夜通し20分間隔で鐘を鳴らして連絡を取っていた。約50名の警察遊撃隊も配備されていた。そのそばに鹿島組の事務所、独身寮、家族宿舎、食堂を作り、間を地下塹壕で結び、非常の場合は全社員家族とも短銃及び猟銃を持って入り、防禦するようになっていた。
内陸のため夏は暑く、川面や法面に反射する太陽で灼熱地獄となり、冬は気温が零下30数度にも下がって川面は凍り、積雪は数十cmに達し、春には雪解け水が押し寄せる。わずか数kmの区間に隧道2本と20数か所の構造物がある地形を、工期に遅れることなく、昭和15(1940)年春、無事竣工した。
昭和15(1940)年3月1日、満州鹿島組が設立される。
満州鹿島組前にて。松岡は、前から2列目右から6人目クリックすると拡大します
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満州鹿島組の社員として
昭和15(1940)年3月25日、松岡は満州国小汪清に赴任、大肚川出張所長となる。
小汪清は現在の吉林省延辺朝鮮族自治州にあり、興寧線170.3kmの起点である新興の次の駅である。松岡の大陸での初任地であった富寧から真北に110kmほどの場所であった。当初は資材搬入の利便性を考えここを起点に工事が進み、のちに新興を作ってそこを起点にした。興寧線全線開通は昭和15(1940)年12月15日である。
昭和16(1941)年2月、今度は満州国東安省東安に移る。現在の黒竜江省牡丹江市。ソビエト連邦との国境近くの地で、ウラジオストクから真北に230km余の場所である。満州国有鉄道虎林線の工事が行われていた。虎林線は満州東部を南北に延びる満州国内幹線の一つ図佳線、図門(ともん)・佳木斬(チヤムス)間580.2kmのうち図門から358.7km地点の林口から北東方向に国境付近を335km走る路線で、終点虎頭には大日本帝国陸軍の虎頭要塞があった。虎林線自体は昭和13(1938)年12月に開通しているので、松岡が赴任した当時は改修工事などを行っていたのではなかったかと思われる。または、彼はこの地域の工事の統括管理をしていたのかもしれない。
昭和17(1942)年7月に虎林線の起点である林口への辞令を受ける。林口は幹線である図佳線からの乗換駅として栄えていた。前任地東安から西に170kmほどに位置する。
ところが、昭和17(1942)年5月付の「満州鹿島組業務分担表」という数少ない満州鹿島組の資料によると、松岡は鶏寧出張所長と記載されている。手元にあった松岡の辞令などの中に「鶏寧」と書かれたものはないが、鶏寧は虎林線東安と次に赴任する林口のちょうど中間地点である。このあたりは虎林線の改修工事が行われ昭和16(1941)年末に完成しているので工事の進捗に併せて現場事務所が移動していたのであろう。
昭和18(1943)年3月、勃利出張所長となる。当時は東安省勃利県。現在の黒竜江省七台河に位置する。同年9月20日には対ソ国防上の緊迫度が増し、東満州一帯での行政区分とするため、東安省、牡丹江省、間島省を統合して東満総省となっている。林口から図佳線を86km北上した場所に勃利駅があった。このあたりの中心地だったという。関東軍の駐屯地や陸軍病院、満蒙開拓青少年義勇開拓団の訓練所なども勃利にあった。
昭和15(1940)年に鹿島組とは別の現地法人である満州鹿島組となってからの同社の経営体系などはほとんど資料がなくわかっていないため、松岡がどのような仕事をしていたのかは不明である。当時の満州でのことを回想している座談会の中に、松岡を回想して「あの人は鉄道出身だから私たちよりも給料がよかった」というものがあった。年齢も50代であるから、地域の統括的な業務をしていたと思われる。
また、通臨線工事で一緒だった三浦完司の手記によると、松岡は通臨線第11工区工事の後、牡丹江奥の佳木斬(チヤムス)に行ったとある。松岡家が保管していた資料の中に、佳木斬という地名はないが、勃利なども含めて佳木斬方面という意味だったのかもしれない。
昭和20(1945)年正月、松岡は実家の富山で、息子らと会う。
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父から息子への手紙
松岡確から息子の重一に送られた手紙は便箋3枚に書かれている。ここにその全文を原文のまま掲載する。
拝啓前略
先日はおおいに失礼しました。奇跡的に富山へ出張され、面談ができて、小生の満足欣喜の至りでした。
列車は大阪下関と延着し、ようやく20日に無事新京に着きました。途中荷物には大いに延び、閉口しました。しかし、兵隊さんのことを思い、元気出して運びました。
新京は未だ寒さ烈(はげ)しく、防寒服なくては「外室」できません。電報がたびたび来るはずです。人不足の折柄、用務が数々あり東奔西走して忙殺されております。目下、元の勃利に来ております。5,6日滞在してほかに行きます。本年は本社勤務ということにて、各地へ出張することになります。満州国は内地と異なり、出張しても食糧に心配はありません。
三枝子(重一の姉)の病気は目下快方に向かっていて、月末には退院することが出来ると思います。追々に暖かくなるからこの点は恵まれております。小生が到着したので大いに喜び、気を強くしております。小生が新京詰めなるゆえに何かと好都合と存じております。
小生の病気は風邪が元で、軽い肋膜炎でありました。寒さと過労が原因らしいです。目下のところ心配はありませんからご安心ください。
4月上旬ごろ正一君(三枝子の夫)に面会して、内地へ帰るようにするか否かを決定します。満州国は生活の点、内地よりやや合わないように見受けられます。
時節柄なお寒さ厳しく、御身お大切に軍務にご稽励ください。小生も時局柄張り切り大いに銃後に奉公します。
時々通信ください。母は特に貴兄を力としておりますから、「はがき」にてよろしく候(そうろう)条(じょう)差し出してください。特に小生より依頼しておきます。
小生日一日と重さを増していくような気がします。元気につき安心ください。
口上乱筆ながらご通知申し上げそうそう。
三月五日 父より
重一殿へ
追伸
満州内にて購入を要する品有之候へ者(これありそうらへば)申し出ください
適当に買い求め仕(つかまつ)る可(べ)く候也(そうろうなり)
55歳の父から23歳の息子への手紙は先日会ったお礼、近況報告、娘の病状、母へ手紙を書くようにといった、ごくありふれたものである。戦争中とはいえ、戦時色の強い内容ではない。会社の便せんに取り急ぎ用件を書いて出したように見える。
会社の便せんで息子に送られた手紙クリックすると拡大します
多賀城海軍工廠
この手紙を受け取った松岡重一は、大正11(1922)年1月11日に生まれた。父・確は34歳。初めての男の子だった。松岡の鉄道省時代のことで詳細は不明であるが、重一は長じて九州帝国大学を卒業している。この手紙を受け取った時は23歳である。「技術中尉」とあるから、理系の学部を出たのであろう。帝国大学の理系学部在学中に試験を受けて、卒業と同時に海軍技術中尉に採用されたものと思われる。
彼の配属先は、宮城県宮城郡多賀城村(現・多賀城市)にあった多賀城海軍工廠である。海軍工廠は、艦船、航空機、弾薬などの各種兵器を開発・製造・修理する海軍直属の軍事工場のことで、明治36(1903)年に横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4工廠が設置されたのが日本の海軍工廠の始まりである。多賀城海軍工廠は横須賀海軍工廠に所属し、第二次世界大戦の軍備増強のために昭和18(1943)年10月に新たに作られた。東北・北海道地域唯一の工場である。ほかに前後して日本全国に7か所の海軍工廠が作られている。
多賀城海軍工廠は、海軍の航空機用機銃、同弾薬包および爆弾製造専門工場として昭和14(1939)年に建設が計画された。施設能力の年産目標は、航空機用13ミリ機銃弾薬包500万発、20mm機銃3,000挺、同弾薬包500万発、800kg以下各種爆弾5万個、同用素材、航空機用火工兵器とされている。製鋼部では弾頭や弾帯を、機銃部では20ミリ機銃、7.7ミリ機銃などの航空機銃を、火工部では焼夷爆弾、親子爆弾、落下傘が装填されている照明弾、吊光弾など信号爆弾を製造していた。500haの敷地には倉庫、事務所、工場など南地区(主に機銃部)に61、北地区(主に火工部)に76の建物が点在し、共済組合病院、会議所、官舎、工員寄宿舎、工員養成所も設置されていた。S造、RC造、石造、煉瓦造、木造などさまざまな構造形態があり、建物用途によって使い分けてられていた。小さな建物まで入れると2,024棟もの建造物があったとのことである。当時は勤労動員で近隣の生徒・学生が数多く働いていた。終戦後、そのままアメリカ軍第14軍第11空挺師団大188連隊が駐屯していた。米軍撤退後は多賀城町(当時)や宮城県が多賀城海軍工廠機銃部跡地を工場誘致し、昭和46(1971)年の仙台港開港により現在では仙台湾臨海工業地帯として宮城県内有数の工業地帯となっている。また、火工部跡地の多くは現在陸上自衛隊多賀城駐屯地となっている。
富山から満州国新京まで
松岡が出した手紙によると、富山から大阪に出て、大阪から下関経由で新京に着いたのが20日とある。当時は戦況の悪化により列車も少なくなっていた。東京・九州間を結んでいた特急富士は昭和19(1944)年4月に廃止されており、昭和20(1945)年1月25日の改正により日本の内地全体で急行が5本に削減、さらに3月20日の改正により急行は東京・下関間の1往復のみになったそうである。
富山から大阪に出るには、北陸本線で富山から米原経由東海道本線大阪まで356.8km、大阪行き列車は一日5本である。所要時間は約10~11時間。それでも手紙には「大阪下関と延着し」とあるからもっとかかったのであろう。大阪から下関までは、504.1km。7本の列車が走っているが、そのうち急行は2本だけ。大阪発19:30翌9:00下関着、大阪発21:35翌11:40下関着があった。
下関から釜山までは関釜連絡船の旅である。その距離240km、7時間30分かかるが、このころには寝台設備は廃止(昭和19・1944年4月1日付)され、連絡船は一日1往復しか運航していなかった。
朝鮮半島の釜山から満州国の新京までは1,530.4km。直通列車で釜山発20:55、翌朝9:00に京城を通り、そのまま朝鮮半島をひた走り、ようやく満州国に入り、国境の街安東(現・丹東)着を22:30に経て、新京に着くのは翌日の12:30だった。
手紙では2月20日に新京に到着したとあるから、逆算すると昭和20(1945)年2月16日の早朝に富山を発ったのではないだろうか。もしかするともう一日早かったかもしれない。いずれにしても4日間、2,631.3kmの決して乗り心地がいいとは言えない列車と船での移動である。当時の列車での移動には、戦時下ならではの苦労もあったようである。昭和19(1944)年1月25日改正の時刻表の裏表紙には、「旅行防空心得」が印刷されている。「空襲時の運行」空襲時には汽車、電車の乗降の禁止や、時刻表どおりに運行しない場合がある。運行状況は一般に発表せず最寄りの駅の掲示を見てほしいが、電話での照会には答えない。「旅客の行動」列車内や駅内で空襲を受けたときの待避は車掌や駅員の指示に従うこと。「車内の待避」列車進行中空襲の危険がある場合は長緩汽笛を鳴らして徐行することがあるので、窓側に手回り品などを集め、通路寄りで低姿勢をとるように、列車停止後車掌の指示があるまでは車内で待避するようになどの注意事項が書かれている。
当時の時刻表と朝鮮・満州の頁の地図クリックすると拡大します
休む間もなく満州各地へ出張
手紙では、新京に5,6日滞在して勃利に行くとある。
新京から勃利まではどういう道程で行ったのであろうか。地図で見ると、新京から哈爾濱(ハルピン)までは京浜線で北北東に294.2km。「特急あじあ」を利用して4時間10分であるが、「特急あじあ」は昭和18(1943)年2月に戦争の激化を理由にすでに運転を停止している。その代わりに全線で列車の速度を上げて運転するダイヤに改正された。昭和19(1944)年4月には日本国内と同じように急行列車・寝台車の削減、不要不急列車の廃止などが行われているが、昭和19(1944)年10月改正の時刻表によると急行で6時間くらいだったようである。
哈爾濱から東部満州の中心都市である牡丹江まで浜綏(ひんすい)線では東南東に354.3km。哈爾濱を朝7:05に出て牡丹江に19:00に着く列車と、哈爾濱を23:15に出て牡丹江に翌日の11:20に着く列車の2本しか直通はない。牡丹江から図佳線を北上して196.2kmで勃利である。昭和19(1944)当時でさえ直通は2本しかなく7時間ほどかかったようである。
勃利で息子あての手紙を出している。
彼は手紙に、「小生の病気は風邪が元で、軽い肋膜炎でありました。寒さと過労が原因らしいです。目下のところ心配はありませんからご安心ください。」と書いている。
列車の距離で見ると844.7kmであるが、富山から新京の満州鹿島組本社に戻り、そこで5,6日滞在してから勃利に向かうというのは、体力的にかなり厳しいものではなかったかと思われる。満州の3月はまだ寒い。現在の長春でさえ、3月の平均気温は最高気温3.8度、最低気温-6.4度、平均気温は-1.5度である。旅行情報によると「11月から3月までの冬季は非常に寒さが厳しくなる」とある。列車で夜を明かしたことも何度もあったことであろう。病み上がりの松岡の体は自分で思っている以上に体力を失っていた。
勃利に滞在してほかに行くと手紙には書いてある。勃利出張中に風邪をこじらせたのか。あるいは「軽い肋膜炎」は軽くはなかったのか、それとも完治していなかったのか。当時、鹿島は佳木斬から豊錦一帯の地下埋蔵無煙炭の採掘を目的に、佳富線第4工区の工事を施工していた。勃利からは図佳線一本で北へ130kmである。この工事を視察したのだろうか、哈爾濱には満鉄哈爾濱建設事務所があるがそこに向かったのだろうか、新京へ戻る途中だったのだろうか。
手紙を出してから8日後の3月13日、松岡は哈爾濱市の病院で肺炎で亡くなってしまう。56歳だった。
哈爾濱は新京、奉天と並ぶ北満第一の大都市で、対露外交の中心地として栄えていた。その昔松花江岸の名もなき漁村だったが、明治31(1898)年5月、ロシアが満州侵略の拠点として都市計画を敷き、東洋のモスクワと呼ばれる異国情緒漂う荘重華麗な都市を作り上げた。ロシア正教の教会やカトリック教会、アールデコ調のホテル、アールヌーボーの哈爾濱鉄路局、ルネサンス様式の銀行、バロック様式のオフィスビルなど主に20世紀初頭に建てられた様々な建築様式の建物が混在している。また、歓楽街もロシア風のキャバレーやダンスホールなどが多くあり、金髪碧眼の白人も多くみられた。亡命ロシア人なども数多く住んでいたようである。
哈爾濱の南崗区(なんこうく)は、哈爾濱駅の南に広がる区域で、大正15(1926)年6月に埠頭区、新市街が哈爾濱特別市となり、昭和13(1938)年に新市街が馬家溝河を境に南崗区と馬家区に分けられた。松岡が亡くなったとされる南崗区師院街9号は、前述した三浦の手記によると「哈爾濱の病院で逝去された」とあるので、病院の場所であろう。
松岡の遺骨は3月19日、在満州国特命全権大使山田乙三受付で、鹿島組を通して遺族のもとへ送られたそうである。遺骨が届いたのは8月15日とある。
松岡の家族は病気の長女ほか妻、三男も満州にいたようであるから、この「鹿島組を通して」というのが満州鹿島組なのか、それとも東京の鹿島組本社のことなのか。家族は終戦とともに満州を引き揚げたらしいが、満州鹿島組で新京の社宅にいた社員・家族が引き揚げることができた35人の中に、松岡の家族の名前はない。そのため松岡の死後4月とか5月の段階で、日本に引き揚げていたのではないかと推測される。家族も遺骨も無事に日本に着いたのは何よりであった。
<参考資料>
日本鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)編』(日本鉄道建設業協会、1978年)
多賀城市教育委員会、多賀城市文化遺産活用活性化実行委員会『多賀城市文化財調査報告書第124 集 旧多賀城海軍工廠の調査』(2015年)
哈爾濱観光協会『哈爾濱/観光:附・サービス読本』(1939年)
哈爾濱観光協会『哈爾濱案内図』(1934年)
満史会『満州開発四十年史』(1964年)
東亜交通公社『時刻表 1月25日改正』(1944年)
上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」金沢星稜大学『星稜論苑第41号』(2013年)
新潮旅ムック『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 満州・樺太』(2009年)
(2018年3月15日公開)