第57回 鉄道開業150年 さまざまな峠越え、谷越え

新橋・横浜間に日本初の鉄道が開業してから150年を迎えた。
明治5(1872)年に鉄道が開業してから明治が終わるまでの約40年の間に、日本の鉄道の約8割が完成している。明治期に鉄道請負に進出した業者は130ほどあったが、そのほとんどが消え、現在まで残るのは9社である。鹿島は、天保11(1840)年に町方大工として創業し、大名屋敷のお出入り大工、洋館建築と歩を進めていたが、明治13(1880)年、鉄道請負に転進した。現在残る9社の中で一番古いのが鹿島である。それから今まで途切れることなく日本国内だけではなく海外でも鉄道工事に携わっている。

明治の花形、鉄道工事

明治時代以前、建築工事は宮大工、城大工などが施工する「産業」のひとつであったが、土木工事は幕府や藩主などが命じて行う「普請」であった。産業の構造が変化し、土木が産業として成立するようになった明治時代以降に「鉄道請負」をはじめとする土木建築請負業を生業とする業者が数多く出現するようになった。鉄路は日本中に延び、鉄道の敷設工事は人々にとって身近なものとなる。蒸気機関車を通すための線路の建設は、初めて見聞きするものであり、その工事に携わる人々は颯爽として見えた。鉄道工事が土木工事の花形と言われた所以である。

鉄道ははじめのうち「船につなぐ輸送手段」として海・川・湖にある港と、鉱山や山林などのある内陸部を結ぶために計画されることが多かった。また、官製ばかりでなく、全国各地で地域の名士、有志たちによってたくさんの鉄道会社が起こされ、建設が盛んになっていく。日本の土地は狭く急峻で、そこを縫って鉄道を通す。蒸気機関車のスピードを落とさずに輸送力を確保するには、急勾配を避けねばならない。橋梁やトンネルは、当時の建設技術では極力避けたい工作物である。だから何度も測量し直し、実際に予定した場所から離れて線路を通すこともあった。それでも橋梁や長大トンネルを敷設しなければ先に進めない場合や、連続勾配を強いられる場合もある。橋梁は川の流れの中心点に直角に架設するため、前後にS字カーブを入れて調整する。長大トンネルを避けるため、曲線を入れたルートを計画し、短いトンネルを何本も作って繋いでいく方法などが取られた。一番考えなければならないのが勾配である。初期の蒸気機関車のパワーは非常に小さかった。

今回は、鹿島が鉄道創世記に日本全国で鉄路を施工した中で、特に最難工区であったと思われる工事を取り上げる。それらは発注者からの特命、あるいは自ら名乗り出て、ある時は他社が投げ出した工区を代わり、またある時は自らが投げ出しそうになりながら完遂させた。困難な場所が多く、その努力にもかかわらず赤字となった場合が多かったが、「鉄道の鹿島」としての矜持を胸に、工事に臨んだ。

最初は砂利の納入を

日本初の鉄道である新橋・横浜間約18哩(約29km)の工事には2年6か月かかった。当時の工区割などについての資料はなく、請負業者は高島嘉右衛門ほか4名が確認されているに過ぎない。鹿島は江戸末期から洋館建築を専門としていたが、明治3(1870)年10月、鹿島岩吉名義で線路撒布用の砂利を納入している。当時横浜で櫛笄商(くしこうがいしょう)を営んでいた鹿島岩蔵が、父の名義で行った請負業者としての初仕事であると言われている。『日本鉄道請負業史明治篇』には「当時横浜に在住していた鹿島岩吉が砂利を納入した」(p11)ことが書かれている。それ以外全編を通じて砂利についての記述はないため、他との比較はできないが、「1000立坪許り」の納入とある。今の単位で約6,000㎥であった。

鹿島が納入した砂利は高輪付近に敷かれたと言われている。当時、鉄道より軍備という考えの兵部省(陸軍省・海軍省の前身)は、高輪の土地を「軍事上必要であるから手放せない」と測量すらさせない。大隈重信は「軍の土地などいらぬ、陸蒸気を海に通せ」と命じた。田町・品川間2.7kmの海上に、海を埋め立て幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通した。
鉄道が走る堤防と、陸地は十数本のはしけで結ばれていた。

「鉄道設計の限界」の柳ヶ瀬越え

明治13(1880)年5月、鹿島岩蔵は大工・鹿島方を改め、鉄道請負・鹿島組を興す。同年4月着工の敦賀線(柳ヶ瀬線、後の北陸線。現在は廃線)のうち、柳ケ瀬トンネル(1,352m)前後の中ノ郷・柳ヶ瀬間と、疋田・刀根間の2区間約8kmを請負った。現在の滋賀県長浜市から福井県敦賀市の区間である。鹿島にとって初めての鉄道工事であった。

柳ヶ瀬線工事は①新橋・横浜間(1872年)、②大阪・神戸間(1874年)、③大阪・京都間(1876年)、④京都・大津間(1880年)に次ぐ日本で5番目の営業路線。外国人顧問の手を離れ、日本人だけで建設する2番目の路線でもあった。今は廃線となっているこの区間の施工が急がれたのは、船で3か月から半年かけて大阪の市場に運搬していた北陸米が、この路線の開通により、琵琶湖を通ってたった3日で大阪まで運ぶことができるようになるからであった。もちろん、軍事的な目的もあった。

鹿島工区には5本の短いトンネルがあり、渓流に沿って走る線路には橋梁も多い。小刀根トンネル (全長56m) は、明治14 (1881)年竣工時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。 明治初期の規格で作られたこのトンネルのサイズが、D51形蒸気機関車の規格を決めたと言われる。小刀根トンネルは1996年敦賀市指定文化財、2010年JR西日本登録鉄道文化財、 2014年土木学会選奨土木遺産に選定されている。また、文化庁「日本遺産」#90では「海を越えた鉄道」として旧北陸線が紹介されている。

鹿島施工区間の築堤は高さ約9m、切取も深く工事は難航した。築堤とは、2本の並行した線路を走らせるため土を均して盛土や切取を行うことである。高さが均一の堤を築くことで列車をスムーズに走らせる。日本初の鉄道工事に従事した横浜の顔役などを使い、作業員をうまく統率したが、慣れない土地ということもあり、工事は赤字に終わる。しかし誠実に仕事をした点を買われ、請負金額20万円の工事で、政府から2万円の補助金を下付される。鹿島はそれ以降日本全国の鉄道工事を請け負うようになっていった。

小刀根トンネル小刀根トンネルクリックすると拡大します

直江津線・大田切の大築堤

直江津線直江津・軽井沢間の工事が始まったのは、明治18(1885)年7月のことである。直江津は、海路で建設資材を搬入するのに適していた。直江津から妙高、黒姫を経て、善光寺平から千曲川沿いに小諸を経由して長野県の軽井沢に至る148kmの路線である。信越国境の東部を貫く路線は、全線の約1/3を25‰の急勾配が占めている。鹿島はそれまで日本鉄道線(現在の東北本線)の工事に邁進していたが、この工事のために日本鉄道の工事から降りたと言われている。

鹿島工区のひとつ越後側の急斜面である関山から田口(現在の妙高高原駅)の区間は同線中最難区間であり、その中でも信越国境の大田切小田切の嶮は天下の難所と呼ばれる急坂で、参勤交代の諸侯をも苦しめた難所であった。工事は大田切川の谷底にアーチ型水路トンネル(幅7.8m、高さ7.8m、長さ94m)を作り、そこに盛土をし、高さ34mの土堰堤を築き、その上に線路を通すというもの。当初は鋼材での架設も検討されたが、鋼材は当時の日本にとって高額な輸入品だったために、渓谷を埋め立てる築堤工事が行われることになったという。105万㎥の土砂を運んで2埋(3.2km)の堰堤を作り、線路を敷く。東京ドームの容積が124万㎥である。10tトラックにして約18万台相当の土砂である。牛や馬、人力で土砂を運ぶしかない時代、これだけの量の土砂を運び、土を均し、堰堤を作る。近隣近在の土木作業員、石材作業員など一日1,000人以上が駆り出され、最終的には延べ30万人以上が施工に従事した。着工直後の明治19(1886)年2月には、組長の鹿島岩蔵が自ら現場に出向き、工事を督励した。そのせいか、これだけの規模の工事でありながら工事そのものでの事故はほとんどなかった。

明治20(1887)年夏にコレラが流行し多数の死者が出る。前年から流行ったコレラは日本全国に蔓延し、死者は10万人に及んだ。致死率は70%だったと言われる。鹿島岩蔵は、鉄道が開通したら湯治客を見込めると考え、さびれていた赤倉温泉を立て直し、そこに近代的で立派な旅館を建て、その経営にも乗り出したところだった。コレラが流行した際に罹患した作業員たちをこの旅館に収容し、看護に務めたという。コレラで亡くなった63名と、工事中の築堤崩壊で亡くなった16名の慰霊碑が線路脇に建てられている。

明治20(1887)年11月完成、翌月試運転の列車が走り、翌年5月に関山・田口間が開通した。この大田切の工事は鹿島岩蔵にとって特別思い入れのある工事だったようである。息子の鹿島龍蔵が「善光寺詣りから大田切の工事を見せ、赤倉の温泉に入れてついでに日本海の波の音を聞かせてやろうとでもいうのだろう、父に連れられて家中総出で出かけることになった。5月末のある朝、車で上野駅に至り、一番汽車で昼少し過ぎ頃に終点横川に着、馬車一台貸切り、碓氷峠を越した。その晩は追分泊まり。(中略)翌日馬車で篠ノ井の出張所に立ち寄り、夕暮れに長野に入る。一泊して翌朝本間英一郎氏(鉄道庁長野工務課長)を訪問した。折から馬上で出かけるところであったが、彼に対して父が頗る丁寧にお辞儀をするのに驚かされた。父のこうした態度を初めて見た私は、子供心にこんな偉い人があるのかと思った。善光寺詣りを済ませて長野から開通したばかりの汽車に乗り、田口駅に下車し、赤倉へ上った。豊かな温泉に浸りながら硝子越しに遥かに日本海まで見晴らしたときはいいなと思った。(中略)翌日は、ご自慢の大田切に行って大築堤を歩きながらこれを築いた苦心談を聞かされた。大きな山々が周囲に重なり合っているのに比べて、何だこれしきなことをと思った」と書いている。明治21(1888)年5月、6歳の頃の思い出である。当時は上り下り3本ずつの運行なので、ゆっくりと築堤を散歩できたのであろう。現在、えちごトキめき鉄道が所有する大田切橋梁は2021年2月、登録有形文化財に選定された。

66.7‰の碓氷峠を制した26の隧道と18の橋梁

中山道線東部線高崎・横川間11km最急勾配25‰は明治18(1885)年10月竣工、直江津線直江津・軽井沢間147.2kmは明治19(1886)年8月から明治21(1888)年12月にかけて順次完成し、急峻な碓氷峠に阻まれた横川・軽井沢間が残っていた。

線路は12km、最急勾配66.7‰の区間は7.2kmに及ぶ。鹿島は日本鉄道会社線第一区線工事の大部分を請け負っていたが、大田切に続いてこの工事を特命で受け、以後第二区線第三区線の工事に参加せず、この碓氷峠越えに傾注する。有馬組と共に1~8号トンネルの労力及び材料提供、25号26号トンネルの施工を行った。26号トンネルは一番困難であったと言われる。工事は明治24(1891)年3月から明治25(1892)年12月まで1年9カ月を費やした。翌年4月に開通する。(鹿島の軌跡「第32回軽井沢鹿島の森の始まり」参照)

施工中の軽井沢第25号トンネルスケッチ施工中の軽井沢第25号トンネルスケッチクリックすると拡大します

碓氷第26号隧道西口(鉄道博物館蔵)碓氷第26号隧道西口(鉄道博物館蔵)クリックすると拡大します

奥中山の三重連

東北本線随一の急勾配の難所が「奥中山」といわれる場所である。岩手県盛岡市の北約40kmに位置するこの場所は、最大25‰近くの勾配が連続し、電化前にはほとんどの列車が補機付きで登り、前補機2両をつけて登る「三重連」といわれる迫力ある蒸気機関車の姿が見られた。昭和43(1968)年東北本線全線電化によって三重連は姿を消したが、今でも勾配に変わりはない。

日本鉄道は明治5(1872)年5月、高島嘉右衛門が東京・青森間に鉄道を敷設し、北海道開拓に資すべしと政府に建言したことに始まる。岩倉具視他そうそうたる発起人たちを集め、明治14(1881)年に設立。今の東北本線の基礎となる日本鉄道会社線は、青森まで6年で完成させる予定で工事を開始する。

明治15(1892)年6月、第一区線の川口・熊谷間から着工。明治18(1885)年1月第二区線大宮・宇都宮間着工、明治19(1886)年8月第三区線白河・仙台間着工、明治21(1888)年4月第四区線仙台・盛岡間着工、明治21(1888)年5月第五区線小繁・青森間着工と続く。鹿島の施工区間は多く、第一区間のほとんどを施工、第二第三区線の時は直江津線、中山道東部線に従事していたが、第四区線から復帰。松島・一ノ関間工事を特命で受け、ついで衣川付近、黒沢尻付近、花巻付近、石鳥谷付近の工事を施工。これらの工事は特に難工事もなく、事故などもなかったようである。

第五区線は盛岡から北上して山に入っていく。沼宮内から25‰という最急勾配になり、中山隧道まで上りが続く。そこからまた25‰で小繁に下る。この勾配線のために、高い築堤や深い切取り、隧道が三か所あるのである。日本鉄道線中最難関区間であり、奥中山をはさんだ沼宮内・小繁間は、鹿島工区であった。事務所は中山に置かれた。当時はまだ奥中山という地名ではなかった。駅名を決める際に、国内に中山という地名は多かったため、陸奥の国の中山、陸奥中山としようとしたところが、どういうわけか「陸」が取れて「奥中山」と名付けられたという。北上川の水源地域で、日本鉄道会社線中最高の海抜地点である。十数戸しかない寒村には冬はよくオオカミが出てきて、国道で食い殺された者もいたという噂であった。深夜になると現場事務所の雨戸ががさがさと音がする、オオカミが体をこすりつける音で、気味が悪かったという。

大塚谷隧道の側壁を粗石積みにしたほかは、隧道は全部煉瓦造だった。鹿島の星野鏡三郎はこの煉瓦製造納入を北海道の畠山六兵衛と提携し、中山に登り窯の煉瓦工場を設け、畠山にその製造経営を一任した。現場では、鉄道庁の人々も、鹿島の人々も、作業員の人々も、朝5時には起きて食事を済ませ現場に出る。日中休みなく働き事務所に戻るのは夜7時ごろ。事務連絡などを終えて宿舎で夕食を食べる。急ぎの仕事の場合は、夜間も働いた。隧道の畳築は昼夜交代で行った。

明治21(1888)年5月に着工した第五区線小繁・青森間の線路は、小繁から馬淵川に沿い、小鳥谷、福岡、三戸を経て尻内に至り、海岸よりを北上して野辺地、小湊、青森と進む。この区間では小繁・尻内間の山地を通過するため、土工が多く橋梁、隧道、最急勾配25‰で難工事が続いた。小湊から東北に約1.6kmの海岸、浅所村に材料陸揚げ場を作り、運搬線を敷設して各方面の工事を行った。鹿島は資力があり経験が豊富で、施主の信頼も厚かった。交通不便な場所で、横浜から船で青森の湊に到着後、皆馬を買い、その馬に乗って現場周りをした。鹿島の工区は全線に点在し、大急ぎに巡回しても1か月はかかったと現場代人・新見七之丞は後に述懐している。交通が不便な場所だったこともあるが、いかに広大な土地の中に線路を敷いていくかがわかる。

「この頃近畿以西においては日本土木会社が鉄道請負業界の覇権を握っていたが、東部の業界においてこれに対峙するものは鹿島、吉田をおいて他になかった」(『日本鉄道請負業史明治篇』p71)。明治24(1891)年9月1日、日本鉄道会社線、のちの東北本線は青森まで開業したのであった。

山陽本線の最難所セノハチ

広島県東広島市から広島市にかけての山陽本線八本松駅・瀬野駅間の通称をセノハチという。鹿島建設の社史には工期が明治26(1893)年5月から明治27(1894)年4月、「三原広島間鉄道建設」、契約先が「山陽鉄道株式会社」と掲載されている。

山陽鉄道会社は、明治19(1886)年に神戸・姫路間の鉄道建設を目的に申請された。政府は下関までの建設を条件にこれを許可し、明治25(1892)年7月に三原まで約232.5kmが開通する。明治24(1891)年12月には広島市長と市議会議長連名で国有鉄道での建設を求めた嘆願書を政府に提出していたが、三原から先はなかなか進まなかった。資金面だけではなく路線決定の問題もあった。

鉄道庁長官・井上勝は明治24(1891)年7月「鉄道政略に関する義」を松方正義総理大臣に提出する。鉄道網充実のためには5,200哩(8,320km)の建設工事が必要である。官私の既設線及び近々竣工確定路線1,650哩(2,640km)、今後未成線3,550哩(5,680km)の建設が必要であるとして、経済上もっとも急がれる区間6区間のうちの一つに三原・馬関(現在の下関)をあげた。

もともと陸軍は、敵艦隊からの攻撃によって線路が破壊される懸念がある海岸から遠ざけ、輸送力の点でも戦時の大量軍事輸送に対応できるように狭軌から広軌(標準軌)への変更を求めていた。鉄道庁側は、「日本の地形から広軌化は不可能。険しい山岳が連なる国土にあえて内陸部に幹線を敷くことは建設に莫大な資金と時間を要し、完成後も通行上の浪費が著しい」(「明治期鉄道史資料第2期第2集第21巻」)として、陸軍案に反対していた。結局三原・広島間は鉄道庁案をもとに進められる。

しかし、資金が集まらない。明治23(1890)年頃は「明治23年恐慌」と呼ばれる日本初の資本主義的恐慌であった。産業構造の変化によって新しく誕生していた鉄道会社や紡績会社など多くの会社の資本金払込が前年夏以降集中し、凶作もあり、金融が逼迫、多くの新設会社が破綻した時期であった。山陽鉄道会社は社債を発行するなどして資金を集め、明治26(1893)年4月、ようやく広島までの工事を開始する。しかし、鉄道路線が三原城をかすめることに対する苦情、用地買収の拒絶、工事妨害、沿線住民の反対運動などが相次ぐ。清国との関係が悪化していることに懸念を抱いた軍や政府は、広島までの鉄道の早期建設に尽力、住民が折れる形となって敷設は進む。

22.6‰の勾配を持ち「西の箱根」とも呼ばれた山陽本線随一の難所は、日清戦争開戦直前の明治27(1894)年6月10日、広島まで開通する。日清戦争の開戦が布告されたのは、8月1日のことであった。ちなみに、政府はその後ただちに広島から宇品港までの軍用線(宇品線)5.9kmを17日間の突貫工事で建設し、軍事輸送に活躍した。

矢嶽越えの実現

九州南部、肥後、日向、薩摩の国境に矢嶽峠がある。この急峻な峠はその昔、薩摩側から戻ってくることができた客人は柳生十兵衛ひとりしかいなかったと言われた場所である。鹿島が施工した矢嶽隧道(2,096.1m)の開通で、青森から鹿児島までが鉄路で結ばれた。明治42(1909)年のことであった。

人吉・矢嶽間は直線距離で12.9km、高低差426.7m、勾配を緩やかにするために距離を取る。第三球磨川橋梁を渡り、8km、25‰の上り勾配、横平隧道(502.9m)から半径300-400mのループを描き、隧道の上が大畑(おこば)駅となる。日本初のループ線である。ここまでで人吉駅から10.5km進み186.2mの高さを確保する。大畑駅で石炭と水を補給し、スイッチバック、谷間を埋める高さ35.1m、土量約30万㎥の大築堤を築き、30.3‰の急勾配を上る。人吉駅・矢嶽駅間では430mもの高さを上がる。標高差は東京タワー(333m)よりも高い。矢岳駅を頂点に下る。矢嶽隧道は25‰の片勾配となり、鹿児島県吉松村(現・湧水町)まで2km以上を一気に下がるのである。工事は鹿児島側から6工区に分けられ、鹿島は3、4工区矢嶽隧道から矢岳付近までを施工する。工事の詳細については鹿島の軌跡第50回「肥薩線矢嶽隧道 難渋する隧道工事が生み出した矢嶽越え」に詳しいが、湧水はトンネルの中で川のようになり、あまりの難工事に所長が中途解約しようかと考えたほどだった。2015年、文化庁は肥薩線を日本遺産に認定、また、2017年には日本イコモスから「日本の20世紀遺産20選」に選定されるなどしたが、2020年7月の集中豪雨で被災し、今現在も八代~吉松間が不通になっている。

矢嶽隧道の完成を祝う矢嶽隧道の完成を祝うクリックすると拡大します

現在の矢嶽トンネル(2017年撮影)現在の矢嶽トンネル(2017年撮影)クリックすると拡大します

明治32(1899)年4月、鹿島は韓国の漢江に初めてかかる橋、漢江橋梁(628.5m)を建設している。アメリカの実業家が施工途中で投げ出した仕事だった。日本初の鉄道を外国人の指導を受けながら施工してから30年もたたない頃の話である。日本が後に鉄道大国になり、世界に鉄道技術を輸出するようになることを、明治の人たちはわかっていたのかもしれない。

* ‰ パーミル。勾配を表す単位。水平方向に1,000m進むと上がる(下がる)高さのこと

<参考資料>
原田勝正『日本の国鉄』(岩波新書256)岩波書店、1984年
鉄道大臣官房文書課編『日本鉄道史』上中下篇 鉄道省、1921年
広島県立文書館企画展「資料で見る広島県の鉄道のあゆみ」1992.5.15-6.13
上田廣『鉄道創設史傳』交通日本社、1960年
鉄道建設業協会編『日本鉄道請負業史 明治篇』鉄道建設業協会、1967年
石井満『日本鉄道創設史話』鉄道創設八十周年記念出版 法政大学出版局 1952年
沢和哉『鉄道―明治創業回顧談』築地書館 1981年
井田泰人「明治期幹線鉄道の研究史:山陽鉄道に関する主要研究の紹介と分析」『近畿大学短大論集』第48巻第1号 2015年12月
松下孝昭『鉄道建設と地方政治 (近代日本の社会と交通第10巻)』日本経済評論社 2005年
妙高村史編さん委員会『妙高村史』妙高村、1994年
大木利治「産業技術遺産探訪 大田切工事碑」
鹿島龍蔵『第二涸泉集』鹿島組、1927年
思いで鉄道探検団ホームページ
松下孝昭『鉄道建設と地方政治』日本経済評論社、2005年
日本国有鉄道仙台駐在理事室『ものがたり東北本線史』鉄道弘済会東北支部、1971年
菅野忠五郎『鹿島組史料』鹿島建設、1963年

(2022年10月14日公開)

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