第56回 東横百貨店―ターミナルビルのさきがけ

東横百貨店は、昭和9(1934)年11月に渋谷駅に誕生したデパートである。その後昭和12(1937)年に西館が、昭和45(1970)年に南館が誕生し、最初にできたデパートは東館と呼ばれた。ターミナル型デパートのさきがけとして経済史にも大きな足跡を残した東館は、渋谷駅の再開発に伴い2013年3月に閉館した。鹿島にとっては忘れられない建物である。

竣工した東横百貨店竣工した東横百貨店クリックすると拡大します

たくさんの水車がかかる渋谷川

渋谷駅とその周辺は、今でこそ若者文化の発信地として知られ、BunkamuraやPARCO劇場がある芸術の香り高い地域だが、明治18(1885)年3月に日本鉄道品川赤羽線の渋谷駅ができた頃は渋谷村と呼ばれるのどかな田園地帯だった。

渋谷駅の東側には線路に沿うような形で渋谷川が流れていた。渋谷川は、玉川上水四谷大木戸の余水とあちこちに点在する池から流れ出る水を源としている。パワースポットとして有名になった明治神宮の清正井(きよまさのいど)も源の一つである。川は天現寺橋(東京都渋谷区広尾)から下流は古川と呼ばれた。浜松町近くの浜崎橋から東京湾に流れ出ている。今は幹線道路となっている明治通りは、この渋谷川に沿った古道を整備して作られた。川幅は広く、深さは6mを越えるところもあり、水車が回り、セキレイやカワセミが飛び交い、アユやウナギが泳いでいた。童謡「春の小川」や「森の水車」は、この渋谷川の風景をうたったものである。水車は川筋に沿っていくつもあり、近隣の米を精米して都心に運ぶために使われていた。人口が急激に増えた明治30年代から渋谷川には生活排水が流れ込み、明治40年代になると川沿いに金具、電線、電球などの工場ができてドブ川となっていく。水車は、電化が進んだ大正時代にはほとんど姿を消した。昭和に入ってからもウナギが獲れたほどの渋谷川だったが、高度経済成長期に渋谷駅南側の稲荷橋から上流はすべて暗渠になってしまった。一部遊歩道になっているところもあり、川の名残がうかがえる。この渋谷川の上に作られたのが、東横百貨店である。

渋谷駅の開業と地域の発展

明治18(1885)年3月1日、日本鉄道品川赤羽線渋谷駅が開業する。
日本鉄道会社は明治14(1881)年、岩倉具視らが発起人となって創設、青森まで6年で鉄道を通す計画を立てた。品川赤羽線約20kmは、品川から渋谷、新宿を経由して赤羽に至る。東北本線と東海道本線を繋ぎ、建設資材運搬の役目を負う重要な路線だった。駅は品川、目黒、渋谷、新宿、板橋、赤羽の6駅。本来繋ぎたかった上野・新橋間は当時既に人や店が多く立ち並ぶ市街地で、このあたりは田舎で田畑ばかりのため建設しやすかったことも一因である。上野・新橋間は、のちに東京市街線と呼ばれる高架で結ばれる(鹿島の軌跡第47回参照)。品川赤羽線は、品川から大崎を通り目黒川沿いを進む予定だったが、黒煙を上げて走る蒸気機関車は疫病と害毒を撒き散らすと地元農民の反対に遭い、目黒川より1kmほど東の五反田から目黒を経て渋谷川に沿う路線に変更された。鉄道工事では初めての競争入札が行われ、鹿島組と杉井組(大正時代に倒産)が請け負っている。鹿島の星野鏡三郎は、この工事でドコービルという軌条トロリー車を採用し、作業効率を高めた。

渋谷駅が開業した明治18(1885)年の駅の位置は、今より300m南に位置していた。2020年まで埼京線ホームがあったあたりである。木造の駅舎は青山方向(山手線の内側)を向き、単線で一日3往復、駅員は6人だった。東京鉄道(後の市電)の青山線は明治37(1904)年に三宅坂から青山4丁目まで開通していたが、明治40(1907)年に青山6丁目まで開通し、渋谷駅までは馬車で結ばれていた。明治44(1911)年には市電が渋谷駅まで開通する。都心との連絡は格段に便利になった。日本鉄道品川赤羽線を含む東海道線の一部と東北線の一部は、明治34(1901)年に山手線と改名。明治38-39(1905-06)年に複線化され、明治42(1909)年には電化される。電車の本数や貨物の輸送も増えたため、踏切を高架にすることと、駅の移動が急務となり、渋谷駅は大正6(1917)年に現在の場所に移った。元の場所は貨物専用駅となる。駅が大山街道(赤坂から渋谷、多摩川、伊勢原へ至る街道。現在の国道246号と重なる箇所が多い)沿いに移ったことで、映画館や飲食店の集まる歓楽街や花街も発展していく。

明治40(1907)年に開通したのが、渋谷と東京府荏原郡玉川村(現・東京都世田谷区)を結ぶ玉川電気鉄道(後に東横電鐵に併合)。渋谷に接続した最初の私鉄である。大山街道に沿って分布する集落の連絡を目的に作られた路線で、郊外と都心を高速大量輸送で結ぶ郊外型電車とは目的が少し違っていた。同種類の鉄道に京浜電気鉄道(明治32・1899年。東海道)、京成電気軌道(大正元・1912年。千葉街道)、京王電気軌道(大正2・1913年。甲州街道)がある。これらの私鉄が開業した明治後期は、日清戦争後の好景気によって土木・建築事業が盛んになり、資材としての砂利の需要を高めていた。玉川電気鉄道は、多摩川の砂利を都心に運ぶための路線でもあった。明治42(1909)年1月、渋谷村は渋谷町となる。電灯が灯ったのもこの年である。大正12(1923)年の関東大震災では、一帯が被災者の救援地となった。被災した下町から移転した店が駅西側の道玄坂地区に発達していく。駅近くには警察署、郵便局、銀行が進出し、農地はほとんどなくなり大部分が住宅地となっていく。

東京横濱電鐵の開通

昭和2(1927)年8月28日、渋谷と横浜と結ぶ東横線が開通する。駅は山手線渋谷駅のすぐ東に作られた。当初広尾で路面電車の東京市電に接続させる計画だったが、山手線の乗降客の増加が見込まれたため、山手線渋谷駅を起点とした。東京と神奈川の境の多摩川に架けられた多摩川橋梁(381m)は東横線中一番の難関で、鹿島組が施工している。東京横濱電鐵東横線の他の工事に先立ち大正14(1925)年1月に着工、8月に完成した。人口の急激な流入により、東横線の乗客は増加の一途をたどる。郊外に居住し、都心の事務所へ通勤するサラリーマン層が増加したこともこれに拍車をかけた。

昭和7(1932)年には渋谷駅の一日の乗降人員は30万人を超えた。昭和8(1933)年、帝都電鉄(後の京王井の頭線)渋谷・井の頭公園間が開通し、渋谷駅は郊外と都心とを結ぶ主要ターミナルとしての地位を確立していった。

内藤新宿のまちはずれに日本鉄道線新宿駅ができた当時は、茶屋が1軒あるのみの「きわめて寂莫たる田舎」(『日本鉄道請負業史明治篇』p60)で、乗降客もほとんどなかった。しかし大正4(1915)年に京王線新宿・調布間が、昭和2(1927)年に小田急線新宿・小田原間が開通。昭和7(1932)年に東京市新宿区となる。同じ時に「渋谷区」も生まれ、『渋谷区史』には「渋谷駅と市中とを地下鉄によって直結する事業が、大きな期待のもとにはじめられ、遂に昭和13年に虎の門まで、翌年には新橋まで開通し、ようやく新宿駅との格差はなくなった」(P2,274)とある。

昭和初期の路線図昭和初期の路線図クリックすると拡大します

駅に百貨店を造ろう

都心部の銀座や日本橋には主に江戸時代の呉服商の発展形として生まれた百貨店である三越、松屋、白木屋、高島屋などがあり、新宿にはほていや(後に伊勢丹が買収)、三越、伊勢丹の3百貨店があったが、渋谷はあくまで乗換えの駅に過ぎなかった。東京横濱電鐵専務五島慶太は「発展を続ける東京西南部の玄関である渋谷に今まで一つの百貨店もなかったのはむしろ不思議であった」(東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会『東京急行電鉄50年史』P162)と述べている。

東京横濱電鐵は、沿線の土地を「住みよき土地」とするために付帯事業として住宅、土地分譲、遊園地経営なども行い、利益を創出していた。さらに沿線居住者の利便を図るために日用生活品の販売、食堂の経営を開始。昭和2(1927)年には東京初の私鉄直営食堂「東横食堂」を渋谷駅2階で開業し、昭和6(1931)年には駅構内に食料品マーケットを開業し、「良品廉価」をモットーに業績は順調だった。しかし、郊外居住者の利便性を高めるためにはこれらだけでは十分な提供ができないと、百貨店計画が持ち上がる。昭和7(1932)年5月から調査に着手。新入社員を3人ずつ2班に分け、10カ月の予定でターミナルデパートの先輩である阪急百貨店(昭和4・1929年、大阪・梅田駅で開業)に派遣する。
彼らが指示を受けた研究項目は、
① 建築方法、順序、様式 
② 具体的な建築費、設備費
③ 商品選択(渋谷でターミナル百貨店に適応するため)
④ 商品の売れ行き見込み、利益率、回転率 
⑤ その他事務組織、仕入れ販売方法、宣伝、サービスなど営業一般
⑥ 店員の採用及び訓練法
⑦ 収支予算
⑧ 開店時期
⑨ 製造および加工業
であった。本社には昭和8(1933)年4月1日付で百貨店部を新設、百貨店設置準備委員を任命した。百貨店部長は常務の篠原三千郎(しのはらみちお1886-1953)が務めた。総務部と営業部が置かれた。総勢14名は百貨店設置準備委員でもあり、彼らも同年5月20日から3か月間阪急百貨店に出張し、それぞれの分担事項についての詳細な調査を進めた。篠原は、鹿島組社長の鹿島精一とはゴルフ友達で、『鹿島精一追懐録』には「ゴルフと将棋」というタイトルで寄稿し、精一のことを「最もいい友の一人で且つ先輩として尊敬した人」と書いている。

鹿島は一流どころか下位である

東横百貨店出店の情報を得た鹿島では、早くから専務の鹿島新吉を中心に営業活動を進めていた。のちにこの現場の所長となる萩村金一郎らが東京横濱電鐵の本社を訪れたのは、昭和7(1932)年12月の半ばのことだった。その時点で工事は鹿島に決まっていたようである。

百貨店の新築工事を鹿島が請け負うことについて、東京横濱電鐵の役員たちは不安だった。彼らからの最初の質問は、鹿島組の建築の実績についてだった。萩村は、早速その年の4月に竣工したばかりの上野駅(鹿島の軌跡第7回参照)について「百万円級の一流仕事」(「鹿島組月報昭和10年1月号」p64)だと説明した。すると専務の五島慶太は「鹿島組は鉄道省に仕事の縁故が深いから、そういう工事もあったかもしれないが、それ以外の大きな建築工事は何かありますか」と質問した。萩村は答えに窮してしまう。その前年、鹿島は大阪で大阪市立商科大学予科校舎本館その他新築工事(1931.9-1932.9)、日本赤十字社大阪支部病院看護婦寄宿舎その他新築工事(1932.4-1933.3)という2件の大型工事を請け負っている。土木については言うまでもないが、建築に関しても一流だと自ら宣伝していたにもかかわらず、出た言葉は「経歴は少ないかもしれませんが、新興の気に燃えている鹿島組の努力をぜひ買って頂きたい」と、自ら大規模建築の経験値の低さを認めてしまう。鹿島は大工の棟梁であった鹿島岩吉が興し、大名屋敷の出入り大工を経て洋館建築を得意としていた。しかしそれは50年も前の話。鉄道や発電所に付随する建築物だけではなく、このような大規模建築を施工したいという信念が、もともとは大工だったと胸を張るのではなく、新参者として謙虚に頭を下げさせたのであった。

鹿島に非常に好意を寄せていた五島慶太でさえ、鹿島の建築については一流どころか遥か下位に評価していた。また、常務の篠原三千郎からは「鹿島組の建築を信頼してではなく、鹿島組に大建築の経歴を得させるためにこの工事をやらせるのだ」とまで言われる。それまで土木では鹿島は東京横濱電鐵東横線多摩川橋梁はじめ種々の工事を請け負っていた。萩村はいかなる努力をしてでもこの工事を立派に仕上げ、鹿島の建築の経歴に連ねるのだと深く心に刻んだ。それと共に、建築工事の実績が少ないにもかかわらず、本工事の営業活動を続けて受注に至った専務の鹿島新吉に対して深い感謝を寄せた。社長の鹿島精一は、「自分の地位や関係を利用して仕事は獲りたくない。もしその仕事の出来栄えその他で嫌なことを聞いたり言ったりするようにでもなれば、せっかくの親交を失い、信用の妨げになる」(竹川渉「感激」『鹿島精一追懐録』p187)という非常に清廉な人物であったため、五島や篠原との親交が、この工事受注の一助となることはなかったのであった。

上野駅改良工事(1930.2-1932.3)上野駅改良工事(1930.2-1932.3)クリックすると拡大します

大阪商科大学・予科校舎(1931.9-1932.9)大阪商科大学・予科校舎(1931.9-1932.9)クリックすると拡大します

川を跨いで作る

東横百貨店の建設は、渋谷駅本屋の大拡張計画も兼ねていた。開業当初は田舎で乗降客も少なかった渋谷駅は乗降客30万人にも達し、このままの駅本屋、売店及び食堂では顧客や乗降客に満足を与えることができない。しかし、停車場の敷地は狭小なため、駅に隣接する渋谷川河川敷を占用し、さらにその東側民地を買収して拡げる。渋谷川を跨いで地下1階地上7階の東横百貨店本館を新築し、その南側に玉川電車(玉川電気鉄道、1938年東京横濱電鐵に合併)線路を隔てて、地下1階地上3階の百貨店事務館を建設し、玉川電車線路下を通る地下道と線路上の跨線通路で両館を連結することとした。

工事期間は昭和8(1933)年2月1日から昭和10(1935)年1月31日までの24か月。上野駅改良工事(地下2階地上3階、延べ9,608m2ほか)も24か月かかった。東横百貨店本館は地下1階地上7階、延べ12,868m2。この時代の工事としては大工事である。しかし、工事を始めようとした時に建築関係の許可が取れていないことが判明する。本工事に着手できない。仕方なく、許可がなくてもできる高架の脚の取り外し、各種準備工事を行い、待つ。ようやく許可が下りたのは6月初旬である。4か月も経っていた。

すると今度は東京横濱電鐵から、工事を昭和9(1934)年9月末までに全部仕上げるようにと言われる。24か月の工事を16か月で。何度工程を作り直してみても、10月の半ばまでかかる。東横側としては開業時期を検討した結果の変更であり、確かに1月末の竣工では、二八(にっぱち)と呼ばれる売り上げが落ちる時期の開業となってしまう。結局それぞれ互いに助け合うことで合意し、最終的に竣工は10月末、工期は17か月になった。

モダンなデザインのターミナルビル

都市部での大工事で、三面が線路である。周囲に余地がほとんどなく、建物の下に川が流れているという敷地の特異性と煩雑な交通事情によって制約だらけの工事であった。設計監理は、渡辺仁建築工務所が担当した。建物は当時としては非常に斬新でモダンなデザインであり、呉服商を出自とする老舗百貨店とは、全く違うタイプの建物だった。建物の一部に帳壁(カーテンウォールのこと)を採用している。2階には水平の連続窓が配され、「モダニズム建築としてもより先進的な構造を採用していた。わが国で帳壁や水平連続窓が普及するのは戦後になってからであったが、すでにその試みが始まっていたことが理解できる」(小野田滋「東京鉄道遺産をめぐる24 ハチ公が見上げたターミナル―1」『鉄道ファン』2011年5月号p147)。

建物は地下1階にはデパートの食品売り場と倉庫、機械室、電気室が配され、1階にはデパートの入口と渋谷駅の広間(出札室、改札室、売店、荷物扱所、省線連絡通路、公衆便所)、中2階に運輸課事務室、2階から6階までがデパートの売り場、7階に大食堂、屋上階は屋上庭園と機械室という構成だった。

基礎はニューマチックケーソン工法で

建物を貫通している渋谷川の擁壁工事も難関だった。川に蓋をすることは建築工事全体に有効であったが、現場の周りに空地がない。当初は杭打基礎の設計であったが、湧水の多い砂地である。鋼矢板で囲って内部を露天掘りしていたら、地下水で砂が浮き上がってしまい、掘るたびに砂と水が沸き上がる。そこでニューマチックケーソンという新工法で工事を行うこととなった。鹿島は、専門の白石基礎工業(白石→現・オリエンタル白石)に依頼した。創業者の白石多士良(しらいしたしろう1887-1954)は、鹿島精一を父のように慕っていた人物である。両者とも父の代からの盟友で、白石が会社を興すときに相談に乗ったのも精一だった(『鹿島精一追懐録』p87)。「門野重九郎氏と鹿島精一氏の好意」として、白石の社史に頁を割いて精一のことが紹介されている。白石基礎工業は、鹿島他6社と白石の共同出資によってできた会社である。

ニューマチックケーソンは、潜函工法、圧気潜函工法、空気ケーソン工法などと呼ばれ、圧気しながら地盤掘削する施工法で、都市部の軟弱な地盤でも大規模な基礎を施工できる。
主に土木の橋梁の基礎工事などで採用されていたが、建築物では昭和6(1931)年に伊藤萬商店(大阪市)、昭和8(1933)年日本銀行第二期工事(東京都中央区)に次いで3例目であり、白石基礎工業としては最初の建築工事であった。

ケーソンは河川工事のケーソンと異なり、小規模のもので総数22個、1期工事に20個、2期工事に2個を使う。一般的な大きさは幅1.8m、長さ6m、深さ2m程度、大きいものになると6.3m、7.6m、上が浄化槽になるため2mほど深く下げた。一般的な2m×6.3mのケーソンでは沈下完了までの日数は平均2週間くらいである。延べ85人が、1日2交代、12時間打ち1時間休憩。一日75cm程度沈める。全員がほとんど初体験である。空気を送り込むとまるで噴火口の泥海のようにブクブクと泡がたち、泥を高く跳ね飛ばす。擁壁の下を洗えば隣家の床下の土を掘り出してしまう。砂利層で水量が多く、1か月の予定工程が2か月半となった。昭和8(1933)年9月17日に最初のケーソンに着手して、12月2日にようやく第一期工事分20個のケーソンの沈下を完了した。

いかなる障害を排しても工事を進める

工期が限られていたため、夜間作業も多かった。作業員は夜6時まで働いた後、夕食を取って7時半には夜間作業に就く。作業を行う際は、予め電灯配線を行わねばならない。電気工事の工賃、電線、電球、スイッチなどの損料、電気料金、弁当代、夜間手当を合計すると、経費は昼の2.7倍はかかる。なおかつ能率が悪く、仕事の手際も悪くなり危険が伴う。出来高は昼の約6割。しかし、いかなる障害を排してでも行わねば翌日の工程に差し支える。多人数で長期間夜間作業を行う工事では、工程の中のどこから夜間作業をするかを計算して昼間の作業をする必要がある。昼間の進捗を確実にするために、作業員の人選がより大切であり、仕事の順序、作業員の作業手順についての研究も必要だった。

この現場は高層建築で敷地が狭く、道路が使用できない場合が多い。日々現場の整理をし、トラック車馬の出入口は、二か所以上設けて対応する必要がある。しかし出入口は狭小で日々複雑に変わる。人間の能力も機械の能率も十分発揮できるようにするためには、これらの動線の確保が非常に重要であった。躯体が出来上がっていくと、外装内装工事に入る。建築工事では各工種の工事が一度に行われるため、材料を十分補給して作業に差しつかえないように輸送能力を最大限に利用していくことも大事であった。現在の建築工事では当たり前のことかもしれないが、当時の鹿島の人々にとってはどれもこれもが新たに直面する課題だった。20数名の担当社員たちは、日曜祭日も返上して昼夜兼行の突貫工事を進め、予定の工期内に完成を見る。

10月19日、雨の中商品の搬入が始まる。「狭い商品搬入口を桐油紙をかけた商品を担いだ商人が、羽織の濡れるのもかまわず、道も狭く並べられた自転車やリヤカーの間を縫いながら、ひたひたと白足袋の草履履きで水たまりを避けてひっきりなしに階下の商品倉庫へ運んでいる。建築場の1階はまるでセメントの洪水だった。雨天続きの湿気はむっとセメントの臭いを立てて足場の丸太は蜘蛛の巣のように張ってあった。これで11月1日の開店に間に合うのか」(『開店満五周年 記念出版東横百貨店』p43)

工事中の東横百貨店工事中の東横百貨店クリックすると拡大します

もうすぐ完成する東横百貨店もうすぐ完成する東横百貨店クリックすると拡大します

「渋谷盛り場の一大記念塔」

昭和9(1934)年11月1日の開業に先立ち、10月30日及び31日の両日を開業披露招待日とし、1日目に新聞社、政財界名士、官庁名誉職及び仕入先、2日目は一般顧客を招待した。屋上で、マジックやダンスなどの催しがあり、夕方からは大食堂で招宴が開催された。鹿島の社員たちは30日が招待日だった。晴天の中、真っ白な東横百貨店の建物を見た時に、数か月前の姿を思い比べ、感慨無量だったという。「渋谷盛り場の一大記念塔」とは、『鹿島建設百三十年史』の東横百貨店についての記述である。

「オーできた。見事にできた大建築、清澄な秋空に高くそびゆる乳白色の立体、その奔放自由な直線の醸すシンプリシティ、ようやく横広き大きな窓のクラールハイト―まことに旧時代の華美と虚飾を脱ぎ捨てたネオリアリズムの表像である。午前中はこの近代的大建築物を竣工せしめた鹿島組の招待客が、いかにも喜ばし気に、また得意げに続々とご来店である。かつて雨の日、異臭に煙っていた1階も今は全く舗装されて鏡の如く磨かれ、蜘蛛の巣の如く張り巡らされた天井の丸太も、輝く五色のシャンデリアと変わって、華麗そのものである」(『開店満五周年 記念出版東横百貨店』p43-44)。11月1日は晴天で、顧客数は48,000人に及んだ。たびたび入場制限をしなければならず、本社から多数の応援者を呼ぶほどの盛況ぶりであったという。

昭和12(1937)年7月号の『鹿島組月報』に「東横デパート増築は俄然当組に特命」の記事が掲載される。「河川法抵触問題で、一時建設不能に陥った東横デパート増築はその後関係者の努力により、既に完成を見ていた渡辺仁氏の設計に基づき、急きょ実現せしめることに決定し、基礎を白石基礎工業と請負契約を行う一方上部主体工事は、指名入札とするか特命にするか慎重に協議を遂げた結果、俄然特命方針に決し、現館建築請負の当組へまず高速度鉄道、東横電鐵、省線、玉電、帝都電鉄、市電の6電車線突入する3階まで第一期請負契約と締結することとなった」とある。6月25日に契約を完了、7月21日に地鎮祭が挙行された。基礎工事を9月中に終え、10月から躯体の施工開始、昭和13(1938)年4月末日に竣工する。当時東京の地下鉄は銀座線だけであったが、ビルの中腹に地下鉄の電車が吸い込まれていく様子は人々の度肝を抜いた。

渋谷駅は、山手線、東横線、玉川電車、帝都電鉄(現・京王井の頭線)、地下鉄銀座線、市電が乗り入れる一大ターミナルとなり、その中心に東横百貨店が聳えていた。地下鉄の改札を出るとその向かいはもう百貨店の入口である。百貨店の中に駅があると大変珍しがられ、たくさんの人々が訪れた。東横百貨店は、渋谷を起点とする人の流れを生み出し、収益を生み出すことにも成功した。渋谷駅を中心とした地域は、途切れることなく発展を続ける。

東横百貨店工事担当者東横百貨店工事担当者クリックすると拡大します

東横百貨店全景東横百貨店全景クリックすると拡大します

増築工事鉄骨建方中1938年4月1日増築工事鉄骨建方中1938年4月1日クリックすると拡大します

増築工事鉄骨建方ガイデリック盛替中1938年4月15日増築工事鉄骨建方ガイデリック盛替中1938年4月15日クリックすると拡大します

銀座線に上がる階段(2013年撮影)銀座線に上がる階段(2013年撮影)クリックすると拡大します

銀座線に上がる階段(2013年撮影)銀座線に上がる階段(2013年撮影)クリックすると拡大します

新しい渋谷に生まれ変わる

昭和20(1945)年5月、渋谷駅付近は空襲によって壊滅的な被害を受ける。細々と営業していた東横百貨店も内部が全焼、各売り場は壊滅的な状態となった。戦後、駅周辺は闇市で賑わう。東横百貨店は昭和23(1948)年に売り場を復旧。昭和24(1949)年10月、3階建てのビルをレールの上に載せて玉電ビル側に移動させ、ハチ公広場が作られる。昭和25(1950)年に東横百貨店は全館で営業を再開、翌年には全国の名店を集めた「東横のれん街」がオープンする。「デパ地下」のさきがけである。玉電ビルは、昭和29(1954)年に改築され、東横百貨店西館となる。1956年東口にできた東急文化会館(設計:坂倉準三、施工:清水建設)にはプラネタリウムと4つの映画館、飲食店があった。プラネタリウムは日本最大級、パンテオンは定員1,199人で日本最大級の映画館のひとつだった。渋谷駅東口を出るとビルの壁の下一面に上映中の映画が描かれていた。北口地下に闇市の移転先となる渋谷地下街(1957年)が開業、同じころ都電の発着は、駅と東口にある東急文化会館の間となった。

1964年に開催された東京オリンピックは、東京の街を大きく変えた。都心の各駅の周辺や道路の整備が行われ、渋谷駅も国鉄、東横線の駅がそれぞれ改良され、南口が開設される。首都高速道路3号線は渋谷駅の南口と東口の広場を大きく跨ぐディビダーク工法で鹿島が施工している。東急の牙城であった渋谷に、西武百貨店やPARCOが進出し、1979年には東急のファッション発信ビル109ができた。渋谷のスクランブル交差点は一度の青信号で多くの人が行き交う世界的に有名な場所になった。

渋谷は2000年代から徐々に新しい街に生まれ変わる。東急文化会館は2003年6月に閉館し、2012年4月に渋谷ヒカリエが生まれ、商業施設だけではなく多くの企業が入居し、オフィスビルとして新たな歩みを始める。東館、西館、南館からなる東横百貨店は、渋谷のランドマークとして85年の歴史を紡ぎ、2020年3月に閉店した。4社8路線が乗入れている渋谷駅は一日平均330万人が利用する巨大ターミナルとなった。しかし渋谷ダンジョンと呼ばれるほど乗換の動線は複雑にからみあっていた。

長く親しまれた東横線のかまぼこ型屋根の駅舎は、再開発で取り壊される。2013年3月に東横線は地下5階に移った。東京メトロ副都心線と相互直通運転を開始する。これにより2004年から相互直通運転を行っていたみなとみらい線に加え、西武池袋線・東武東上線とも繫がった。一方JRでは2015年から渋谷駅の大規模な改良工事を実施中で、ホームの移設や改築、バリアフリー化などを段階的に行う。線路の切替工事は第一回を2018年5月に45時間かけて埼京線の線路切替工事を、2020年5月に54時間かけて2回目の移設工事で埼京線ホームを350m移動させ山手線の横に移設した。どちらも鹿島JVが施工している。渋谷駅改良工事(第Ⅰ期)は、狭隘な上、時間的制約がある施工条件下で、関係各所と綿密に連携して施工計画を策定し、2度の大規模線路切替工事や埼京線ホームの移設工事を計画通りに無事故で完遂して渋谷駅の利便性向上に寄与したとして東日本旅客鉄道(JR東日本)から感謝状が贈られ、平成30年度土木学会では、「都心ターミナル駅において極めて複雑かつ困難な制約条件を克服した大規模線路切換(列車を止めての46時間連続工事―JR渋谷駅改良 第1回線路切換―)が技術賞を受賞している。

2019年には、東横百貨店西館のあとに高さ230mの複合施設渋谷スクランブルスクエア(東棟)(地上47階)が完成した。渋谷駅の再開発は、東横百貨店西館と東館の跡地にできる渋谷スクランブルスクエア西棟が完成すると終わり、2027年に新しい渋谷が生まれる。

<参考図書>
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今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 東京』(2009年)
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小野田滋「東京鉄道遺産をめぐる24 ハチ公が見上げたターミナル―1、2」『鉄道ファン』2011年5月号、6月号
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東京人2013年3月号
鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
羽土俊郎「渋谷驛に於ける東京高速鐵道橋脚築造の特殊工法に就いて」『土木建築工事画報』昭和13年5月号
東京急行電鐵株式會社『東京横濱電鐵沿革史』(1938年)
臼井幸彦『駅と街の造形』(1998年)
荻窪圭「6つに分断された“迷宮”渋谷はどうして生まれた?」202X年 ネオ東京「今昔物語」『日経ビジネス2019年9月20日号』(2019年)
中林啓治『記憶のなかの街 渋谷』(2001年)
郷土出版社『目で見る渋谷区の100年 : 写真が語る激動のふるさと一世紀』(2014年)
渋谷区教育委員会『渋谷の記憶 写真でみる今と昔』(2007年)
渋谷区教育委員会『渋谷の記憶II 写真でみる今と昔』(2009年)
渋谷区教育委員会『渋谷の記憶III 写真でみる今と昔』(2010年)
渋谷区教育委員会『渋谷の記憶IV 写真でみる今と昔』(2011年)
百貨店日日新聞『開店満五周年 記念出版東横百貨店』(1939年)

(2022年8月1日公開)

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