第20回 花貫川水力発電所-今も残る大正期のめがね橋とサージタンク

今では、私たちの生活のほとんどすべてに電気は欠かせなくなっている。
発電の歴史は建設の歴史であり、地域開発の歴史でもある。今回は、大正初期の竣工以来茨城県北部に今なお残り、発電を続けている花貫川水力発電所の建設とそれにまつわる逸話を紹介する。

火力発電から水力発電へ

明治15(1882)年、銀座にアーク灯(*1)が灯される。それまでのガス灯の柔らかな光に変わり、まばゆい電燈が銀座の街を照らした。明治19(1886)年には日本初の電力会社・東京電燈(東京電力の前身)が開業、翌年には日本橋茅場町(東京)に火力発電所(出力25kW)が誕生(*2)する。白熱電灯1,600個分の電力に過ぎなかったが、明治25(1892)年には東京電燈が電燈1万灯祝典を挙行するほど増加した。発電出力は、電灯の需要だけではなく産業の発達と共に工場や電車の動力源としても増え続けていった。明治45(1912)年には東京市内(*3)に電灯がほぼ完全普及する。

明治時代の火力発電の燃料は石炭だった。出力が少なく送電技術も未熟な当時、周辺7-8kmへの送電用のため発電所を分散して各地に建設していた。水力発電は火力の代わりと考えられていたため、山間部の町で費用をかけて火力発電を行うよりも、近くの川を利用した水力発電所を作った方が安価であった。発電方式も河川の流れを調整せずに水路の落差で発電する「流れ込み式」あるいは「水路式」と呼ばれる方式だった。しかし石炭の値上がり、発電コスト、送電技術の発達などから水力発電が発達し、明治44(1911)年には水力発電が火力発電の発電出力を上回ることとなる。

日本の水力発電は明治21(1888)年、宮城紡績が工場照明用に水車で発電機を回した三居沢発電所(宮城県荒巻村。現・仙台市)(*4)がはじまりとされる。明治24(1891)年11月に運用が開始された京都市営蹴上発電所(京都)は日本初の営業用水力発電所で、琵琶湖疏水を利用して付近の工場に電気を供給した(*5)。翌年には箱根電燈が電気を供給、水力発電企業は続々と誕生した。

日本初の出力1万kWを超える商業水力発電所、東京電燈・駒橋発電所(山梨県北都留郡廣里村。現・大月市)は星野組(*6)施工で明治39(1906)年1月に着工し、明治40(1907)年に完成した。当時、大手銀行の営業部長が東京電燈の社長に「水力電気というのは初めて聞いたが、どんなことをするんですか?」と聞いたという。それほど水力発電は珍しく、新しい仕事だった。駒橋発電所の電気は76km先の東京・早稲田変電所まで送られる。当時日本最長の送電距離で、これにより水力発電開発の経済的、技術的定着が確立された。

*1 アーク灯 空気中でのアーク放電による発光を利用した照明。高価なバッテリーを多数使用したが寿命は100時間程度しかなかった。
*2 茅場町から送電開始後、東京の5箇所に石炭火力発電所が作られ、明治29(1896)年には浅草に出力200kWの発電所も完成する。
*3 東京府中心部の15区。明治21(1888)年設置。昭和18(1943)年、東京府が東京都となり、都の直下になったため、廃された。現在の千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区の一部(旧本所区)、江東区の一部(旧深川区)がそれに当たる。
*4 さんきょざわはつでんしょ 東北電力所有で発電を続けており、記念館を見学できる。現在の建屋は明治42(1909)年に建てられた二代目だが、国の登録有形文化財(建造物)になっている。世界初の水力発電所は、明治11(1878)年フランス、パリ近郊のセルメーズ製糖所に作られたものだといわれる。
*5 完成当時の出力は160kW、明治28(1895)年にはこの電力を使って日本初の市電・京都電気軌道が開業している。現在は関西電力が所有し、4500kWで稼動している。
*6 明治期に鹿島組三部長のひとりだった星野鏡三郎が起こした。「鹿島の軌跡 第1回 辞令の持ち主たち」参照。

水力発電所と鹿島

鹿島組がはじめて施工した水力発電所は、明治42(1909)年の宇治川電気(関西電力の前身)・志津川発電所(京都府宇治市)であった。関西初の大出力水力発電所で、施主である宇治川電気は、勝手がわからないために信用の置ける業者である鹿島組に頼んで請け負ってもらうことにした(*7)。このとき鹿島組が担当したのは隧道と開渠水路。淀川水系宇治川から発電所へ水を引き込むための水路建設で、当時としては大工事だったため工事は大正2(1913)年までかかったが、この施工で鹿島組の信用は高まった。以降鹿島組は平等院(宇治市)近くに常設の出張所を置いて宇治川電気関係の工事を続けた。大正10(1921)年には二期工事で日本初の発電用ダム・大峯ダム(*8)を施工し、「ダムの鹿島」としての第一歩を踏み出す。

大正元(1912)年に完成した桂川電力・鹿留発電所(山梨県鹿留町。現・都留市)は、鹿島組が次に手がけた水力発電所である。水路建設の後に、発電所本体建設工事を特命で受注した。完成後は山中湖を水源とする桂川(*9)から16,800kWの電力を東京へ送った。当時の東京朝日新聞によると、発電所は「鹿留の山麓に取入口を設け山腹を貫通し、水路延長2,500余間を隔てて水槽に達し、470尺(142.4m)の落差を以て550個(*10)の水量を4条の鉄管より流下せしめ8千馬力の水車4台を運転」とある。桂川電力は、大正11(1922)年に東京電燈と合併。東京電力の基礎を築く。

*7 土木工業協会・電力建設業協会『日本土木建設業史』(1971年) p87
*8 大峯ダムも志津川発電所取水口も、昭和39(1964)年に天ヶ瀬ダムが完成し、水没してしまう。
*9 かつらがわ 水源は山中湖。途中で忍野八海の名水が流れ込む。山梨県都留市、大月市を流れ、神奈川県相模原市より、相模川と名前を変える。相模湖、津久井湖のダム湖を経て、相模湾に注ぐ。流域面積1680km²、長さ113kmの一級河川。
*10 明治時代に使用された流量の単位。毎秒1立方尺(=0.0278m³/s)のこと。550個は15.29m³/s。

花貫川水力発電所

福島県双葉郡富岡町から茨城県日立市にかけての常磐炭田は石狩炭田、筑豊炭田に次ぐ規模で、本州最大の石炭埋蔵量を誇っていた。明治30(1897)年2月に常磐線(*11)が開通すると、その鉄道を利用し、炭鉱まで専用線を引いて石炭を運び出した。明治40(1907)年には水戸に初めて電燈が灯り、明治末期にはこの茨城県北部にも電燈を灯そうと多賀銀行(*12)頭取樫村定男らによって多賀電気が発足。大正元(1912)年12月、本社を茨城県松原町(現・高萩市)に置き、火力発電所を建設、大正2(1913)年には付近一帯に電燈が灯った。時を置かず、多賀電気は町内を流れる花貫川を利用した水力発電の申請を県に提出する(*13)。花貫川は茨城県北部の高岡村(現・高萩市)を流れる独立河川で総延長16.36km、流域面積63k㎡、川幅は最大でも29m程度の二級河川である。多賀電気は、この上流に出力600kWと710kWの発電所を計画する。茨城県立歴史館に残る行政資料によると、水利使用調書(茨城県から内務省への報告の控)許可分の項に、大正2(1913)年9月19日、取入口を多賀郡高岡村大字中戸川に、放水口を大字秋山に置く水利使用を多賀電気に許可と書かれている。

大正4(1915)年、朝鮮の鹿島組京城出張所(現・ソウル市)で道路工事、灌漑工事などに携わっていた川崎龍哉(*14)はマラリアにかかって内地に戻され、同年8月に花貫川第一発電所の現場に赴いた。茨城県多賀郡高岡村島曾根の高萩出張所の現場には、主任(所長のこと)の世津谷鋭次郎(*15)のほかに有馬重澄、鈴木虎治が既に赴任していた。当時の鹿島組が設計からかかわっていたかどうかは定かではないが、現場事務所は公文書に残る着手日の大正6(1917)年11月16日よりも前にあったようである。

第一次世界大戦(1914-1917)によって産業は発展し、電力需要は増加の一途をたどっていた。近辺にある日立鉱山や日立製作所では自家発電設備だけでは供給が追いつかず、新たな発電所建設の余裕もなく、多賀電気と茨城採炭(茨城県北中郷村。現・北茨城市)から数百kWを受電することとなる。

*11 磐城線、土浦線の総称。東北線に対して海岸線とも呼ばれた。明治31(1898)年全線開通。常磐線最長のトンネル金山隧道(1646m)など、全工区のうち1/3は鹿島組が施工。
*12 たがぎんこう 大正元年設立、昭和2年五十銀行と合併、五十銀行は昭和10年常陽銀行と合併。
*13 「大正6年春、県知事に水利使用許可願いを提出」と書かれている文献があるが、茨城県歴史館にある資料で見る限り、水利使用許可は大正2年に出されており、第一発電所の本省認可が大正3年9月に、第二発電所の本省認可が大正7年12月にそれぞれ下りている。「大正6年春」に県知事宛に書類を出したと言う記録は見あたらなかった。
*14 かわさきりゅうや 明治26年生まれ。明治44年鹿島組満州大連出張所勤務、大正元年3月深川の鹿島家に書生に入り、大正3年6月攻玉社工学校土木科卒業、京城出張所勤務。大正4年8月内地に戻り花貫川第一発電所、象潟羽越中線鉄道工事、宇治川水力発電所などの工事に従事するが大正7年10月病気療養に入り翌年10月退職。
*15 せつやえいじろう 成田鉄道株式会社の建築課長、技師長をつとめ、明治35年ごろ鹿島組に入社。鉄道敷設のベテランで社内外に名が知られていた。大正2年頸城鉄道の建設では社長の大竹が鹿島組の世津谷を指名し、報酬を自分の倍の月60円としたほど。身延線・朝鮮鉄道工事など多くの現場で主任(所長)を務める。熱心なクリスチャンで、東京市基督教青年会の理事も務め、内村鑑三らと交流があった。大正8年夏に現場で急死。

鹿島施工の登録有形文化財「めがね橋」

花貫川第一発電所(建設当時は松原第一発電所)は、花貫川の上流島曾根に取水口を、秋山に発電所を建設するもので、有効落差233尺(70.5m)、水量40個(1.112m³/s)最大出力600 kW。完成から90年を経た現在、有効落差70.61m、最大使用水量1.11m³/s、出力630kWと、その規模はほとんど変わっていない。

鹿島組は取水堰(*16)から、沈砂池、開削水路、隧道などの施工を担当したが、特筆すべきは支谷をまたぐ通称めがね橋と言われる3号水路橋である。山腹を貫く隧道から谷をまたいでまっすぐ延びる橋は、大正7(1918)年発電所への導水路として建設された鉄筋コンクリート造アーチ橋(*17)で、橋長77m、幅員約2m、高さ約22m。石を積み上げた橋脚から両側の山を結ぶ2連のアーチが掛けられ、「めがね橋」と呼ばれている。石積みの橋脚と鉄筋コンクリートの上部の構造が別になっている理由は、自然災害などで上部が破損しても橋脚がしっかりしていればすぐに仮設水路を設けることができるからだという。(*18)めがね橋は現在国の登録有形文化財(建造物)に登録されており、その解説文には「スパンドレル部に位置する木造桁橋の橋脚部材を想わせる鉛直材に,我が国の橋梁分野におけるRC導入初期の造形が窺える。」とある。
川崎は大正5(1916)年10月に秋田県象潟の鉄道工事現場へ旅立っているが、施工中も含めたこの水路橋の写真を鹿島建設に寄贈している。

大正7(1918)年6月23日付で多賀電気から茨城県内務部あてに提出された「発電用水の使用に関する件につき回答」によると、花貫川第一発電所は水路延長開渠678.2間(1,233m)、隧道583.8間(1,061.4m)、工費150,000円とある。このアーチ橋(施工時は大沢拱橋。拱橋はアーチ橋の意味)のことは記されていない。竣工年月はこの文書では6月となっているが、その後の別の文書によると、大正7(1918)年8月5日に竣工し、運転を開始している。

*16 花貫川上流の大熊川、中戸川合流点から600m下流にあり、中戸川に放流される第二発電所の放水も受け入れる構造になっている。
*17 日本初の鉄筋コンクリート構造物は明治36(1903)年に完成した琵琶湖疎水上のメラン式弧形桁橋。たもとに「本邦最初鉄筋混凝土橋」の碑がある。セメントと鉄筋は輸入品だった。
*18 茨城県教育委員会『茨城県の近代化遺産-茨城県近代化遺産(建造物など)総合調査報告書』(2007)P152

日本初のサージタンク

大正7(1918)年秋、野沢巳代作(*19)は花貫川第二発電所工事に従事するために、高萩出張所に赴任する。世津谷主任のもと、第一発電所の施工も担当した鈴木虎治と、現場雇員、給仕(雑用係の少年)、女中といった小所帯であった。世津谷は他の現場も兼務しており3か月に一度見回りに来たが、工事途中で他界する。工事は取水堰堤・総延長2000mの水路隧道・水槽が第一期契約で、公文書による工期は大正8(1919)年3月1日からだった。追加工事として鉄筋コンクリート圧力管(1000m)、サージタンク、鉄管路、発電所が加えられた。サージタンクは水路管途中に設けられた調圧水槽のこと。ここ花貫川第二発電所に作られたものが日本初と言われており、現在も建設当時そのままの姿で残り、運用されている。高さ約20mの煙突型で施工時にはアメリカに倣いスタンドパイプとも呼ばれていた。
施工では鉄製の型枠をはじめて使用し、外足場を使用することなくコンクリート打設を行った。モルタル表面仕上げを省いたが、通水しても一滴の漏水もなかったため企業者の賞賛を博した。また、取入口堰堤の位置を変更して3か月の工期短縮を図り、大正9(1920)年1月15日に完成した。

この追加工事で使用する砂利や砂は、現場から12km離れた花貫川下流で採取して牛車で運び上げ、発電所付近からは高さ100m以上を巻き上げて施工場所へ運ぶ手はずになっていた。しかし、圧力管の掘削をしていると、そこから上質の山砂利や山砂が豊富に出てきた。また、コンクリートに使用する水も発電所からポンプアップする予定でその予算を組んであったのだが、水槽付近の湧き水を利用することができた。加えて、圧力管掘削の際に予想された岩石は皆無に近く、工事は順調に進んだ。野沢はこのことを後に「山がわれわれを利したと言うに尽きる」と述べている。
鉄道工事などでも同じであるが、当時の見積もりは企業者側が地質調査をせずに設計して予算を組んだものに対して、請け負う側も地質に関しては経験や勘で見積もりをするのが常だった。そのため予想していた地質と違った場合、大きな損をする場合もあるが、この工事では、砂利・砂・水の運搬経費軽減と、取入口堰堤位置変更による工期短縮によって、思いがけない利益が生まれたのである。

*19 のざわみよさく 明治27年生まれ 大正2年岩倉鉄道学校高等建設科卒業後、鹿島組入社、世津谷について頸城鉄道の測量・設計を担当、大正6年身延線工事を担当し、大正7年花貫川第二発電所工事。大正9年単身アメリカに渡り、大正14年ニューヨーク大学土木科卒業。大正15年から内地・朝鮮の電源開発工事の所長を歴任、昭和19年本社土木部次長、昭和22年取締役企画部長、32年常務取締役、33年土木工務部長、昭和39年常任顧問

成功報酬でのアメリカ留学

多賀電気発注の花貫川水力電気水路工事は、営業経歴書によると工事金額403,500円(現在の金額に換算して226,167,255円)(*20)。他の工事が不況の大正8(1919)年には鹿島組全体の工事利益の65%をこの花貫川水力電気水路工事の利益が占めていたほどである。この工事の成功賞与で、野沢は留学を決意する。

主任代理で実質的な工事責任者であった野沢の成功賞与はどのぐらいだったのか、具体的な数字はないが、「ニューヨークまで行っても半分は残る計算だった」と書いている。「船は2等、汽車はツーリストで」とあるので、当時開通したばかりのパナマ運河を通ってニューヨークへ行くルートではなく、サンフランシスコかシアトルから陸路ニューヨークへ渡ったものと思われる。船会社や船の種類によっても金額はだいぶ違っていたようである。大正9(1920)年8月に改定された郵船会社旅客運賃(*21)によると、神戸発シアトル便は3等が84円から103円に値上がりしているが1等2等は「変化なし」となっている。他の便との差から考えて2等は300~400円(現在の金額に換算して35万~47万円)程度ではなかったかと思われる。大正時代の鉄道工事の平均的な成功賞与は400円から800円程度だったが、野沢は所長代理を務めており工期短縮は彼の成果の一つであるため、平均よりは多い賞与を受けたのであろう。

花貫川第二発電所の工事が終わり千曲川水力発電所工事に従事していた野沢は、大正9(1920)年7月に鹿島龍蔵(*22)にアメリカ行きを願い出た。龍蔵は快諾し、親友の柏万次郎(鈴木商店米国支配人)を紹介して野沢のアメリカ生活の便宜を図る。9月、26歳の野沢は現職のまま横浜港からニューヨークへ旅立った。英会話の勉強のため青年会館(YMCAのことと思われる)に半年間通い、コロンビア大学の選科で1年半アルバイトをしながら学んだ後、当時有名教授のいたニューヨーク大学土木工学科のジュニアクラスに入学する。20人のクラスに留学生は3人だった。野沢はアメリカ留学中、「橋梁の最大径間」「電気鉄道」「蒸気シャベル使用の工事」「水中基礎工事」「橋脚の地震に対する安定」など、大学で学んだことや大学図書館にある新刊本を翻訳して鹿島組月報に寄稿することで、送り出してくれた会社への感謝を伝えた。

大正13(1924)年秋にニューヨーク大学を卒業した野沢は、鹿島龍蔵、鹿島新吉らに同行して欧州各国を視察、インド洋廻りで帰国、鹿島組に戻ってきた。実務から離れて5年。工事の見積もりを手伝ったが日本の工事単価が全くわからなくなっていたため、アメリカの計算方法を多少修正したものに労賃を加味して数字を出した。「ずいぶん安いな」と上司に言われた野沢は、「アメリカならこのぐらいでできます、アメリカでできることを日本でできないはずはないでしょう」と胸を張って答えた。しかし上司から「そんな値段で取ったら組がつぶれるぞ」と強くたしなめられる。野沢はその後見積もりを猛勉強したという。また、アメリカで水利工学と事業経営学を学び、実際に建設業を見てきた野沢は、日本の建設業に合理化と科学的管理法を導入。作業効率の増進、生産性向上に寄与した。

多賀電気は全国的に電気事業の統合が行われた大正10(1921)年に茨城電気と合併し、15(1926)年には東部電力と合併。東部電力は関東配電、東京電力へと移り変わる。
花貫川第一発電所、第二発電所は、現在も稼動している。東京発電(*23)が所有、発電を続けていて、第一発電所630kW、第二発電所750kWを出力している。水力発電は地球温暖化やCO2削減が叫ばれる現在では、資源が純国産・再生可能・クリーンなエネルギーとして見直されている。めがね橋付近は、天端から太平洋を望むことができる花貫ダム(*24)を中心に週末には新緑や紅葉を楽しむハイキング、バーベキューの場として親しまれて、賑わっている。しかし雨に煙る日など、国道461号から一歩山へ入ると、大正期に取下金を一人で運ぶ野沢が毎月3里の山道を往復する時、ポケットに短銃を忍ばせていたという山深さを今でも感じることができる。

*20 日本銀行企業物価戦前基準指数からの換算。米価で換算すると647,821,100円
*21 大阪朝日新聞大正9年8月10日
*22 かじまたつぞう 明治13年生まれ。鹿島岩蔵の息子。田端に住んでいたため「田端さん」と呼ばれた。鹿島精一組長の下で理事として経営に携わった。田端文士村(北区)で芸術家や文人たちのパトロン的存在でもあった。明治45年イギリス・グラスゴー大学造船科卒業。八重洲本社ビルの設計者でもある。昭和29年没。
*23 とうきょうはつでん 昭和3年姫川電力株式会社として設立。昭和48-60年に東京電力より中小水力発電所を譲り受ける。昭和61年社名を東京発電に変更。現在53箇所の水力発電所を保有し、約8億kWh/年の電気を東京電力に供給している。
*24 はなぬきだむ 1972年完成の多目的ダム 堤高45.3m 堤頂長223.6m 堤体積174,000m³ 施工:株木建設

協力
東京発電株式会社
茨城県立歴史館行政資料室
海事図書館

参考図書
豊田高司・岡野眞之ほか『にっぽんダム物語』(2006年)
土木工業協会・電力建設業協会『日本土木建設業史』(1971年)
土木学会土木史研究委員会『日本の近代土木遺産現存する重要な土木構造物2800選(改訂版)』(2005年)
中川浩一『茨城県水力発電誌』(1985年)
小竹即一『電力百年史』(1980年)
佐藤幸次『茨城電力史』(1982年)
高萩市史編纂専門委員会『高萩市史』(1969年)
三浦昭男『北太平洋定期客船史』(1994年)
茨城県教育委員会『茨城県の近代化遺産(建造物など)総合調査報告書』(2007年)

 

* 2011年3月11日の東日本大震災で、花貫川第二発電所のサージタンク等の設備も被害を受けた。しばらく補修をしながら発電所運転を継続していたが、2013年11月、サージタンクの撤去を行った。現在はサージタンクを省略した形式の新しい設備で発電を続けている。

(2008年6月30日公開)

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