第21回 関東大震災と鹿島

大正12(1923)年の関東大震災で、当時木挽町にあった鹿島組本店は全焼している。
地震の揺れによって人にも建物にも被害は出なかったが、社員たちが帰った後、 折からの強風で延焼による焼失を免れることはできなかった。

鹿島岩吉と安政地震

関東大震災の前に江戸で起きた大きな地震は安政江戸地震である。安政2(1855)年10月2日(西暦では1855年11月11日)午後10時ごろ、江戸湾の荒川河口付近を震源とする直下型地震が起きた。マグニチュードは7.0から7.2。当時の幕府調査による町人地の死傷者数は死者4297人、負傷者2775人。大名屋敷内での死者は2000人以上といわれている。

独立から15年、大名屋敷の出入り大工となっていた鹿島岩吉(鹿島の軌跡第2回参照)は、前年夏、妻スマが病死し、後妻にチヨを迎えたばかりだった。長男岩蔵は11歳、すぐ下に弟と、生まれたばかりの妹富貴がいた。住み込みの職人も多くいたものと思われる。

この地震によって、日本橋通り白木屋あたりから芝大木戸までは、蔵作り土蔵や人家は八分どおり倒れ、崩れた家は数知れず、高輪は大半崩れ、品川上宿少々、下宿は六分通り崩れた。(大阪の瓦版「東都珍事実録話」)岩吉の家は「八分どおり倒れ」た地域である。大名屋敷も地震で崩れた家が多かった。小石川の水戸藩邸内で勤皇家・藤田東湖が母を助けようとして鴨居を体で受け、圧死した話は有名である。東湖の死がその後の水戸藩の運命を変えたとも言われている。水戸徳川家の屋敷は広大で、岩吉以外の大工もたくさん出入りしていたであろうが、岩吉も駆けつけたのか。それとも、すぐ近所の松平越中守の屋敷に駆けつけたであろうか、店のある中橋正木町から越中橋を通って松平邸までは、ほんの200~300mほどの距離である。火事は60か所余りから起こったが、風が弱かったために延焼の程度は少なかった。それでも大名小路では会津藩邸(和田倉門内)や姫路藩邸(大手門)などが焼け、会津藩邸では130名以上の死者が出た。日比谷御門近くにある土井大炊守の屋敷は火事の心配はなかったが、非常時で鍛治橋御門も数寄屋橋御門も閉められており、岩吉ら出入り大工が御門の中に入るのは、翌日以降だったと思われる。

市中では瓦礫撤去の人足も不足し、国許などに伝手を頼って集めねばならないほどだった。岩吉たちも、寝る間もない忙しさで働きまわったに違いない。それから3年後には江戸を後にして横浜に行き、英一番館をはじめとする洋館建築に進出した。
大岩と名乗った出入り大工から、鹿島方と名乗った洋館建築、鹿島組となって鉄道建設と、時代の変遷と共にその業容を広げてきた鹿島組が次に大地震に遭ったのは、大正12(1923)年、関東大震災であった。

大正12年9月1日 木挽町

当時、鹿島組本店は木挽町9丁目(現・銀座7丁目。鹿島の軌跡第13回参照)にあった。建物は木造の2階建洋館で、社員数は101名。他に店童など見習い社員、賄いなどが加えられる。地震発生時にはそのうちの20数名程度が建物内にいたと思われる。

正午直前に襲った地震は容易に収まらず、「危険を感じて表に出ても、足を取られて立って居られないほど大地は揺れ続けていた。人々は皆、腕を組み合って恐怖のうちに収まるのを待っている。鹿島精一組長は、その中で計理の鈴木さんと手を取り合っていた。『ひどいね、ひどいね』といいながら、不安げな顔つきをしていた。鈴木さんは両足が悪く歩行困難のため、通勤は人力車、店内を歩く際には杖と壁を頼りにしなければならないほどだった。その鈴木さんを支えてあげるため、組長が手を取り合っておられた。」(*1)

木挽町界隈の震度は5弱から6弱で、壊滅的な被害はない。企業も役所も、その後火災によってすべてをなくすとは思いもしていなかった。事務所内は書棚が転倒して書類が散乱していたが、それらを元に戻すと、家も気になることから自宅へと三々五々帰っていった。鹿島組も例外ではなかった。住み込みの組員や店童を残し、普段よりも早めに帰路についた。

*1 竹川渉「感激」鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年) PP189-190

深川鹿島邸

深川区島田町9番地(現・江東区木場2丁目)の深川鹿島邸は岩吉の隠居所で、元は信濃高遠藩内藤駿河守の下屋敷だった。敷地は2000坪程度。狸が出没するような寂しい場所だったという。明治18(1885)年に岩蔵一家が移り住み(*2)、庭を整え、屋敷を整備増築し、園遊会や新年会などさまざまな行事に使う、個人の屋敷というよりも会社の迎賓館のような場所となった。庭の大きな池にはボラ、大鰻、鯉、鮒、手長エビなどがいて、来訪者が気軽に釣りを楽しめた。丹那トンネル貫通記念祝賀会の時はトンネル模型を作り、仮装行列、屋台、仮設舞台での神楽余興まであったという。紳士の乗った二頭立ての馬車が永代橋を渡ると、深川の巡査は心得て鹿島邸までの道筋を警護したほどだった。明治後期から大正時代にかけての外国人向けガイドブックには、鹿島邸がMr. Kajima's Gardenと紹介されており、多数の外国人観光客が訪れた記録が「JTB大正5年度事業報告」に残っている。

*2 明治23(1890)年から明治29(1896)年の間は広尾の洋館に住んでいた。

深川鹿島邸全景 深川鹿島邸全景 クリックすると拡大します

深川鹿島邸での新年会(大正3年) 深川鹿島邸での新年会(大正3年) クリックすると拡大します

大正12年9月1日 深川鹿島邸

深川の私邸では、精一の妻・糸子と、卯女・薫の二人の娘が昼食を取ろうとしていた。その時の様子を鹿島卯女は後に次のように書いている。「ドンドンドンという鈍い音がして、体が上下に持ち上げられ、はっとした次の瞬間、激しく横に揺れ始めたので、誰が言うともなくテーブルの下へ入ろうと大きなテーブルの下へもぐりこみました。両手を床についていると床がゆらゆらとゆれ、床ごとぐるぐる回っていたような感じでした。家はがっしりした建物でしたので、倒れたりつぶれたりはしませんでしたが、壁が落ちたり、柱と壁の間が2寸くらいすいたりしていました。次々と強い余震が来て動くこともできません。少し収まった時に、やっと庭の大きな松の下の熊笹の一杯生えたところが一番安全だろうということで、そこへ避難しました。二階の瓦やガラス戸は全部庭先の敷石の上へ落ちてこなごなになり、地面には大きな亀裂が口を開いています。」(*3)。島田町近辺は震度6強から7と推測され、鹿島邸などの大邸宅を除いた近辺の庶民的な家々の全潰率は30%近くに上った。

父・精一の安否が気遣われたが、無事の連絡が入る。しかし道が混雑していてなかなか帰れず、車を永代橋の上に置き、運転手と歩いてきたとのことだった。島田町は中心地からは遠く、四方を川で取り囲まれており、大きな池もあるから火事の心配はないけれど、焼け出された方々が来られるだろうと、余震の合間に落ちた壁を片付け、掃除をし、炊き出しの仕度を始める。

*3 鹿島卯女『深川の家』鹿島出版会(1976年) P102

大正12年9月1日 田端鹿島邸

鹿島組理事の鹿島龍蔵(*4)は、当時田端に住んでいた。芸術をこよなく愛し、彼を慕って田端に集まった芸術家も多く、現在でも記念館や菓子に「田端文士村」の名が残っている。鹿島組内にも彼を慕う人は多く、精一は組長、龍蔵は田端さんと呼ばれていた。

大正12(1923)年9月1日、上野で院展を見ていた鹿島龍蔵は、梅原龍三郎と歓談後、同行の香取正彦(*5)らと休憩所にいた。パタンパタンと油絵の額が落ち、彫刻は台から落ちて粉々になった。龍蔵は預けた傘を受け取り、上野の電車駅に向かったが発車しないので汽車の駅に行く。大きな余震がプラットホームの上屋を波のように揺らす。駅員が声高に発車の見通しがないことを告げたため、徒歩で帰ることにし、公園の水呑場で水を飲み、山下の木村屋で買ったアンパンを食べる。途中谷中では、瓦一枚落ちていない五重塔が聳えているのを見る。

田端の家に戻ると庭のテニスコートには、人々が避難してきていた。建物は、2階の煉瓦が落ちたことと壁の破損程度で、美術品は無事だった。上野も田端も震度は5程度、家屋の全潰率は1%未満だったといわれる。電話は不通で互いの安否がわからないが、それほどひどいことはないと思っていた。米、副食物、ろうそく、炭を余分に買い入れる。夜になると火事は一層ひどくなり、家の中でも人の顔が判別できるほど明るかった。

*4 かじまたつぞう 1880-1954 鹿島岩蔵の子。鹿島精一組長の下で理事として経営に携わる。明治45(1912)年イギリス・グラスゴー大学造船科卒業。八重洲の鹿島本社ビルの設計者。
*5 かとりまさひこ 1899-1988 鋳金作家。香取秀真(鋳金作家。鹿島八重洲本社ビル正面玄関レリーフの作家)の長男。東京美術学校鋳金科卒業。戦争で罹災・供出した梵鐘の復興に努める。重要無形文化財保持者。

9月1日 小田原の現場

松井真吾(*6)は2か月前に丹那トンネルの現場から異動し、大雄山鉄道工事(*7)に携わっていた。9月1日、現場にいた松井は突然、2m近くも投げ出された。関東大震災の震源は小田原市の北約10km、松田付近の直下、マグニチュードは7.9だったといわれる。小田原の木造家屋全潰率は61%にものぼり、震度7相当だった。余震の続く中、松井は自転車に飛び乗って6kmあまりを疾走、井細田の足柄派出所に戻った。事務所は倒壊していたが、組員家族に死傷者はなかったため、松井はその足で作業員十数名を連れて鉄道省熱海線建設事務所に向かう。途中倒壊家屋に塞がれた道路を歩き、橋が落ちた川の中を歩き、午後2時40分到着。所員家族の避難(許可を得て小田原構内の貨車に収容)、家財の引き出し運搬、倒壊家屋の片付けを手伝った。後に松井は運搬保護など救護警衛に努力したことにより鉄道省より感謝状を授与されている。

*6 まついしんご 1892-1962 明治42(1909)年鹿島組店童。のちに満州鹿島大連出張所長、奉天支店長、初代名古屋支店長などを歴任。昭和21(1946)年取締役、昭和26(1951)年監査役、昭和29(1954)年退任。
*7 現在の伊豆箱根鉄道大雄山線。大正14(1925)年開業。小田原・大雄山間9.6kmを結ぶ曹洞宗大雄山最澄寺への参詣電車。

9月1日夕刻 深川鹿島邸

精一と卯女、薫の親子は家の長屋門の前の橋の上で、対岸の火事を見ていた。風向きが急に変わり、北風に乗った火の粉が滝のように吹き付けてくる。急いで門から砂利道を玄関へ駆け込み、糸子を連れ出すのが精一杯だった。糸子はバスケットを2つ持ち出したが、その一方には猫が2匹、もう一方には硼酸水と脱脂綿が入っていた。精一を先頭に家族4人、一気に鹿島邸の前の橋を渡り、臭い油カスの積まれた倉庫横を通り抜け、洲崎の埋立地(現・江東区木場1丁目)まで逃げる。埋立地は布団や箪笥を持ち込んで避難してきた人でごった返していた。彼らはここで運転手の家族らと一睡もできずに一晩過ごすことになる。

深川鹿島邸長屋門 深川鹿島邸長屋門 クリックすると拡大します

9月2日 鹿島龍蔵

翌日は快晴。午前9時、龍蔵は長男次郎を連れて災害地観察に向かう。根津から池之端に進むに従って避難者が増加、岩崎邸前から湯島天神下に出ると、焼け跡になっていて避難者もいない。煙が太陽の光を覆って薄暮れのような町に、電車や車が焼け溶けている。神田明神や湯島聖堂が跡形もなく焼け落ちたため、ニコライ堂の残骸が遠くからでも見える。鉄道のガード下から須田町に出ると、焼けた遺体も多くなる。三越も残骸となり、まだ中で火がくすぶっている。焦げ臭い風と頭を垂れて黙々と歩く人の静寂の中、日本橋を渡り木挽町へ急ぐ。丸善も高島屋も焼け落ち、銀座は瓦礫の町になっていた。銀座四丁目を左折して三原橋の橋上から眺めると、鹿島組そばの農商務省は壁だけ残して焼け崩れ、岩蔵や龍蔵が通った精養軒は跡形もない。鹿島組も絶望であろうと心を決め、龍蔵は足を踏み出す。全焼した焼け跡に一歩踏み込んでみると、金庫が大小5,6個残っているのみ。地面はまだ熱く、立っていることができない。田端の家を出てから2時間半が過ぎていた。他に人影もなく、深川本宅の安否も気になったが、永代橋も他の橋も渡れず諦める。まさかあの深川の家は大丈夫だと思っていた。 握り飯を持って行ったが食べる気にはなれず、そのまま持って帰る。帰ってみると、家も庭も人だらけ。200人はいたのではないかと思われる。

9月2日朝、出発前の龍蔵 9月2日朝、出発前の龍蔵 クリックすると拡大します

木挽町鹿島組本店焼け跡

龍蔵が立ち去った後、本店跡を訪れたのが菅野宇一である。焼け野原に金庫6つが残って立っていたのを呆然と見ていると、店童8人と、賄婦2人が集まって来た。相談して、本店裏の東京市の砂利山を掘り下げ、その上に焼けトタンをかぶせて屋根にして交代に金庫番をする。

3日には幹部も集まってきたため、相談してバラックを建てることにしてその工事に着手する。 田端でも木挽町でもいまだ連絡の取れない精一一家の安否を憂え、決死隊を深川へ派遣することにした。地震直後に深川へ本店無事の報を届けた菅野宇一と小森盛栄がその任に当たり、道なき道と橋の残骸を伝って深川に向かう。焼け跡に精一の直筆で「砂町より舟で芝浦に行き、第一に栃内大将(*8)宅へ行く」と書いてある立て札を発見する。

*8 栃内曾次郎(とちないそうじろう) 鹿島精一の従兄。1866-1932 大正9(1920)年8月~大正10(1921)年10月連合艦隊司令長官、震災当時は軍事参議官、昭和7(1932)年3月貴族院議員

三田栃内大将邸

翌9月4日、栃内邸で精一一家の無事を確認、夕刻には田端の鹿島龍蔵へも精一一家無事の知らせが入った。地方から田端へ集まってきていた鹿島組員たちは吉報に沸き立った。精一たちは、洲崎の南端の塵埃の上で津波と火焔に怯えながら二晩を過ごし、舟で芝浦に上陸、足を引きずりながら三田の栃内大将邸にたどり着いたという。栃内家の人々は、普段身奇麗にしている糸子があまりにひどい格好をしていたため、彼らの命からがらの逃避行を思い、涙をこぼして迎えた。「命に別状なく一家そろって逃げたのは全く少ないそうです、まず幸福なのです」(*9)。「皆、父がはきはきときめて私共はただついて行くだけでした」(*10)。
精一たちは、すぐに栃内家の庭にテントを張って仮設の鹿島組事務所を作る。

5日、龍蔵は数人の組員らと木挽町本店に向かう。11時に本店焼け跡に到着すると幹部らが金庫を開き、中の無事を確認していたところだった。中身は即刻栃内邸の仮設事務所へ届けられた。残った者たちは皆で金庫番をしたトタン板の屋根を日よけにビールを飲んで今後について語り合ったという。

*9 鹿島糸子「新倉次子宛書簡」面影編纂委員会『面影 -鹿島精一・糸子抄』鹿島研究所出版会(1969年) P156
*10 鹿島卯女「関東大震災のおもいで」鹿島婦人会誌『ながれ』VOL.10(1972年) P23

各地の鉄道現場

東武線北千住駅構内は地震で上家が約40m倒壊し、上り線を塞いでいた。鹿島組千住出張所の萩原二郎は直ちに作業員65人を招集、午後12時30分着手、同日午後6時開通。2日には北千住・亀有間の軌道傾斜修復工事に作業員100人を動員、4日朝開通。煉瓦構造の橋脚中央部に8cmほどの亀裂ができた南千住・北千住駅間隅田川橋橋梁には、鳶作業員約40人を招集。3連桁橋の2連が川下に曲がって支承の上に乗り上げ、著しく湾曲した東武線荒川放水路橋梁では、24tジャッキ4台、10tジャッキ2台で元の位置に戻し、異常個所の修理を行う。20日間で大工、作業員延べ約800人を動員した。

千駄ヶ谷出張所(千駄ヶ谷附近改良工事)の松沼豊三は1日午後3時、新宿保線区の命を受け、四ツ谷・市ヶ谷間隧道坑口の崩壊及び各所土留石垣崩壊復旧工事に着手。同じ頃、地震で水道の水路が破裂、鉄道線路桁下に堆積した水が民家に及ぶ恐れが出たため、松沼は作業員を召集し、二昼夜かけて堆積物の除去を行い、被害を最小限に食い止めた。6日には御茶ノ水・水道橋間石垣崩壊修理、仮防工施設の命を受け、同夜土留材料を調達、7日朝から11日まで昼夜兼行工事を行った。

上野派出所の井上賢児は作業員150人を引率、焼失した有楽町、新橋、汐留、浜松町の各駅舎の片付けと工事材料の運搬を、陸軍工兵隊と呼応して協力。作業員の数は20日までで延べ2000人に達した。

9月13日、中央線応急工事を終えた松沼は新橋保線事務所に赴き、復旧応援を申し出る。14日から高島駅貨物上屋破損後片付け、線路手直し、高島・鶴見間、東神奈川・小机間焼跡片付保線手伝いを行った。このあたりは被害甚大で寝る場所もなかったが、鉄道省の厚意で鉄道貨車に寝泊りし、官給の玄米を食して飢餓を免れた。30日間で作業員延べ4000人、石工延べ1100人を動員、10月14日には浜川崎支線築堤復旧仮橋建設の命を受け、11月12日に工事は完成する。

後に鹿島新吉は、「鉄道の修理を全力を尽くしてやりました。やがて汽車が走って汽笛が鳴った時は、非常に愉快でしたねえ。鉄道復旧はたいしたものでした。東京の人で汽笛を聞いて喜ばなかった人はいなかった」(*11)と述べている。

*11 東京建設業協会『建設業の五十年』(1953年) P65
かじましんきち 1880-1952 鹿島岩吉の孫で、鹿島の分家を継ぐ。慶応義塾卒業後鹿島組に入り、昭和7(1932)年専務取締役、昭和16(1941)年副社長。

デマと混乱の中で

地震直後から朝鮮人暴動のデマから朝鮮人を探して突き出す動きがあったが、多くの朝鮮人作業員を使っていた現場では、デマが収まるまで一か月ほど彼らを守って飯場内で過ごさせた。千住出張所では常用の朝鮮人作業員13名が亀有附近で作業中突然自警団の包囲を受け、引渡しを求められた。萩原は、作業仲間で不逞の徒ではないと言葉を尽くすが、自警団は萩原のことまでも竹槍で突こうとする勢いだったため、警察に保護を求め20日まで安全地帯で保護をしてもらった。また、小田原でも朝鮮人労働者約20名を守るため、彼らに鹿島組の腕章を付けて作業をさせ、松井自身日本刀をぶら下げて現場を回り、自警団から朝鮮人労働者を守ったという。

復旧から復興へ

被災後1か月足らずで栃内邸庭のテント張り仮設事務所から丸ノ内郵船ビルディングに移る。3室を借りて、そこに本店を置き、本店機能は九分どおり復活した。事務所、店舗、倉庫、住宅などの注文が殺到する。

地震の翌年1月、木挽町の焼け跡に2階建ての仮設本店が建てられた。昭和4(1929)年3月に八重洲本店へ移転するまでの6年間、この建物が東京復興のための鹿島組拠点となる。 精一一家は、栃内家にしばらく世話になった後、9月17日に笹塚の福沢家(*12)別荘、青山南町の新築借家、牛込若宮町と移り、大正15(1926)年12月、小石川区関口町(現・文京区関口)に和洋折衷の新居を建て、移り住んだ。
鹿島組は八重洲移転と同時に株式会社となり、新たな一歩を踏み出した。

*12 電力王 福沢桃介(1868-1938)のことと思われる。

見舞い御礼広告(9月19日) 見舞い御礼広告(9月19日) クリックすると拡大します

本店移転広告(10月2日) 本店移転広告(10月2日) クリックすると拡大します

震災後に建てられた木挽町の鹿島組本店 震災後に建てられた木挽町の鹿島組本店 クリックすると拡大します

参考図書
「震災復旧応急工事に対する我が組の活動」『鹿島組月報』大正13年4月号
鹿島龍蔵「天災日記」『鹿島組月報』大正13年4月号
鹿島精一追懐録編纂委員会『鹿島精一追懐録』(1950年)
鹿島卯女『深川の家』鹿島出版会(1976年)
武村雅之『関東大震災 大東京圏の揺れを知る』鹿島出版会(2003年)
武村雅之『手記で読む関東大震災』古今書院(2005年)
武村雅之『天災日記 鹿島龍蔵と関東大震災』鹿島出版会(2008年)

(2008年8月28日公開)

ページの先頭へ